西へ、そしてそれぞれの道――伊丹の再会
元亀三年――一五七二年。
坂東での評定を終えた少弐冬明は、再び畿内へ向かった。
ただし、今度の帰還はこれまでとは意味が違う。
小田氏治から与えられた新たな任は、堺担当ではなかった。
摂津・兵庫津。
畿内と瀬戸内を結ぶ海の入口を少弐に預け、
「堺から朝鮮まで道を通せ」
それが氏治の命令だった。
城が必要なら築いてよい。既存のものを使えるなら使ってもよい。
外交特使という肩書は変わらない。
しかし今度の少弐は、自らの拠点と兵を持って西国経営の最前線へ立つことになる。
その兵庫津へ向かう途中、少弐はライラ、エカシロとともに伊丹へ立ち寄った。
そこには、懐かしい二人がいた。
マリアとイネスである。
北方の海をともに越えた仲間たちが、久しぶりに四人そろった。
もっとも、再会を喜んでばかりはいられなかった。
今度は四人が、それぞれ別の道へ進むことになっていた。
最初に話したのはマリアだった。
「私は一度、ポルトガルへ帰る」
少弐は驚かなかった。
マリアの傍らには、北方から運ばれてきた大切な研究資料があった。
イッカクの頭蓋である。
北へ向かった旅の始まりには、ただの仮説だった。
ヨーロッパでユニコーンの角として珍重される長大な角は、本当は北方の海に棲むイッカクの牙なのではないか。
少弐たちはついに生きたイッカクまで確認し、その頭蓋と牙を研究資料として手に入れた。
「これをポルトガルへ持って帰る。それから、できればデンマークまで行く」
「デンマークか」
「向こうに残っている『ユニコーンの角』と比べたい。牙だけじゃない。頭蓋ごと持っていけば、もう誤魔化しようがないでしょう?」
少弐は笑った。
「とうとう最後までやるか」
「もちろん。そのために北の果てまで行ったんだから」
だが、マリアにはもう一つ仕事があった。
氏治から直接頼まれたのである。
かつて坂東からヨーロッパへ送り出した留学生の一人が、長い滞在の末、現在はフランス王家のもとで客将として軍務に就いているという。
イタリア戦争以来、実戦を経験し続けた人物だった。
氏治はその者を強制的に召還するつもりはなかった。
ただ一つ。
本人に聞いてほしい。
――坂東へ戻る意思はあるか。
「帰りたいと言えば?」
少弐が尋ねた。
「連れて帰れるなら連れて帰る」
「帰らないと言えば?」
「それもその人の答えとして氏治公に伝える」
「なるほど」
少弐は頷いた。
「氏治公らしい」
マリアも笑った。
「私もそう思う」
自然誌研究者としてイッカクを追い、外交使節として一人の坂東武者を探す。
マリアには再び、長い西への旅が待っていた。
一方、イネスは船へ戻らないことを決めていた。
「私は伊丹に残る」
「空蝉のところか?」
「うん」
少弐には少し意外だった。
だがイネスにとっては、畿内を巡ったころから考えていたことだった。
船医としてのイネスは外傷の処置を得意としていた。
航海中の事故。
戦闘後の刀傷や矢傷。
骨折。
火傷。
限られた器具しかない船上でも、傷を洗い、縫い、固定し、必要なら外科的な処置を行う。
北方航海でも、その技術は何度も役立った。
しかし長い航海を重ねるほど、イネスは別のことに気づいていた。
「戦っている時間なんて、旅の中ではほんの少しなの」
人間は戦傷だけで病むわけではない。
腹を壊す。
熱を出す。
咳が止まらない。
食欲がなくなる。
眠れない。
長旅で疲れが抜けなくなる。
身体が冷える。
原因がはっきりしないまま、少しずつ弱っていく者もいる。
「切ったり縫ったりすることはできる。でも、船で毎日必要なのは、むしろそっちだった」
その答えを探していたイネスが畿内で出会ったのが、東洋の医学だった。
漢方。
鍼。
灸。
按摩や指圧。
脈を診て、顔色を見て、食事や睡眠まで含めて身体を考える医術。
そして――気。
「気も学ぶのか?」
少弐が少し面白そうに聞いた。
イネスは真面目に頷いた。
「学ぶ」
「信じているのか?」
「分からない」
即答だった。
「だから学ぶの。分からないものを、分からないまま否定したくない」
西洋医学で説明できる現象なのかもしれない。
経験的に有効な治療を、東洋では別の言葉で説明しているだけなのかもしれない。
あるいは自分が知らない考え方なのかもしれない。
だから空蝉に弟子入りする。
室蘭についても心残りはなかった。
すでに招かれた医師家族への引き継ぎを終えている。
自分がいなければ診療が止まる状態ではなくなった。
だからこそ、今度は自分が学ぶ番だった。
そして伊丹に滞在する理由が、もう一つ増えていた。
佐野家から使者が来たのである。
千陽姫が、第二子を懐妊していた。
佐野家にとっては大きな慶事である。
同時に、出産が母子ともに危険を伴うことも知っていた。
伊丹に西洋医学を修めた女医がいる。
ならばぜひ、姫のそばにいてほしい。
そう求められた。
イネスも引き受けた。
日本の産婆から出産について学び、空蝉にも相談する。
そのうえで、自分の持つ西洋医学の知識を加える。
学ぶだけではない。
患者を診ながら、西洋と東洋の医術を自分の中で結びつけていく。
「いつまで伊丹にいる?」
少弐が聞いた。
「分からない」
「半年?」
「もっとかも」
イネスは少し笑った。
「あなたたちは海の道を作ったでしょう?」
「ああ」
「今度は私が、医術の道をつなげたい」
少弐はそれ以上、何も言わなかった。
そこへ、新たな来客が二人やってきた。
少弐にとっては懐かしい顔だった。
「殿」
深く頭を下げたのは松浦鎮興。
その隣で、少弐の姿を上から下まで眺めていたのが渡辺満だった。
二人とも少弐の古参家臣である。
北方航路開拓のため少弐が長期間畿内を離れていた間、二人が代わって堺をまとめていた。
「鎮興。満。久しぶりだな」
「まことに」
松浦が答える。
一方の渡辺は腕を組んだ。
「思ったよりお元気そうで」
「どういう意味だ」
「樺太より先へ行ったと聞いたときは、今度こそ帰ってこないと思いました」
「勝手に殺すな」
ライラが横で笑った。
二人の役割は対照的だった。
松浦鎮興は祐筆。
少弐の言葉を文書にし、書状を整え、約定を書き残し、帳簿や報告を整理する。
少弐が思いつくままに話したことを、
「それでは相手に伝わりませぬ」
と言いながら、外交文書へ仕立てる男だった。
北方から少弐が持ち帰った膨大な記録についても、氏治や評定衆が読める形へ整理する仕事の多くを松浦が担っている。
対する渡辺満は、根っからの武闘派だった。
堺に残された少弐直属の兵をまとめ、護衛、警備、軍事を担当する。
細かな書状は松浦。
刀槍が必要になれば渡辺。
それが長年の役割分担だった。
そして今回、二人は初めてエカシロと顔を合わせた。
少弐が紹介する。
「エカシロだ。北でずいぶん助けてもらった」
エカシロは覚えたばかりの日本式の礼をした。
「エカシロだ」
松浦も丁寧に頭を下げる。
「松浦鎮興と申します。殿の祐筆を務めております」
エカシロが少し考えた。
「字を書く人か」
一瞬、沈黙した。
「……まあ、おおむね間違ってはおりませぬ」
渡辺が吹き出した。
「では俺は分かりやすいぞ。渡辺満だ。兵を預かっている」
「戦う人か?」
「そうだ」
「分かった」
今度はエカシロも笑った。
最初の挨拶は穏やかなものだった。
ただ、松浦と渡辺には少し不思議なことがあった。
少弐がエカシロを客人として扱っていない。
普通に隣へ座らせる。
地図を見れば意見を聞く。
北方について分からないことがあれば、
「エカシロ、どうだった?」
と尋ねる。
ライラともすっかり気心が知れている。
松浦と渡辺が堺を守っている間に、見知らぬ北方の男が主君のすぐ近くへ入っていた。
まだ、それを不満に思うほどではない。
ただ二人には、エカシロが少弐にとってどんな存在なのか、まだ分かっていなかった。
やがて少弐は、二人に坂東評定の結果を伝えた。
「堺を離れる」
松浦の顔から笑みが消えた。
「どちらへ?」
「兵庫津」
渡辺が先に反応した。
「ほう」
「氏治公から兵庫津を預かった。城が必要なら造ってもいい。使えるものがあれば使ってもいいそうだ」
今度は松浦も驚いた。
単なる赴任ではない。
少弐が初めて、自らの本拠を持つのである。
「それで、何を命じられたのでございます?」
少弐は簡単に答えた。
「堺から朝鮮まで道を通せ」
松浦は黙った。
渡辺は笑い出した。
「これはまた、殿らしい仕事を与えられましたな」
「俺が決めたわけではないぞ」
松浦は額を押さえた。
「北方からお戻りになれば、少しは腰を据えられるものと思っておりました」
「俺もそう思っていた」
「嘘をおっしゃい」
マリアが笑い、イネスも笑った。
ライラだけは当然という顔をしていた。
「だから私も行く」
少弐が振り向く。
「ライラは兵庫へ来るのか?」
「行くよ」
「マリアはポルトガルへ戻る。イネスも伊丹に残るぞ」
「知ってる」
「お前も何かやりたいことがあるなら――」
「あるよ」
ライラが少弐を指差した。
「あなた」
「……俺?」
「少弐は私がいないと無茶するから」
マリアが声を上げて笑った。
イネスまで深く頷いている。
「なぜ二人とも納得する」
「北で何度見たと思ってるの?」
マリアが言う。
イネスも続けた。
「怪我しても動くし」
「仕事だからだ」
「だから私が行くの」
ライラはそれで話を終えた。
妻であり、剣士でもある。
少弐が最前線へ行くなら、自分も行く。
彼女にはそれ以上の理由は必要なかった。
その夜。
久しぶりに仲間たちは同じ卓を囲んだ。
マリアはヨーロッパへ。
イネスは伊丹に残る。
少弐とライラは兵庫津へ。
松浦と渡辺も主君とともに新たな本拠へ移る。
エカシロも当然のようにそこへ加わっていた。
北方航路をともに進んだ者。
少弐が旅へ出る前から家を支えてきた者。
その二つが、初めて一つの卓についた夜だった。
マリアが杯を掲げる。
「次に会うときには、ユニコーンの正体を証明してくる」
イネスも続く。
「私はもっといい医者になってる」
ライラも杯を上げた。
「私は少弐を生かしておく」
「だから俺だけおかしいだろう」
笑い声が広がった。
そして少弐も杯を掲げる。
「なら俺は――」
少し考えた。
「海を通しておく」
翌朝から、それぞれが動き始める。
マリアはイッカクの頭蓋とともに西へ。
イネスは空蝉の門を叩き、同時に千陽姫の懐妊を見守る西洋医として佐野家に残る。
そして少弐は、ライラ、エカシロ、松浦鎮興、渡辺満とともに兵庫津へ向かう。
このときはまだ誰も知らない。
古参の松浦と渡辺、北から来たエカシロの間に、やがて小さな亀裂が生まれることを。
そして一度去ったエカシロが半年後、室蘭をはじめ北方各地から、
――少弐のそばで戦いたい。
ただそれだけを理由に海を渡ってきた戦士たちを率いて、再び兵庫津へ現れることを。
後に「虎」と呼ばれる少弐直属の親衛隊は、まだ存在していなかった。
この日の少弐家は、ようやく新しい家臣たちが同じ道を歩き始めたばかりだった。




