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九月の室蘭――北へ残る者、戦場へ帰る者

――元亀二年(一五七一年)九月、室蘭。


見慣れた湾が見えてきたころ、少弐冬明はまだ寝台から自由に起き上がれる状態ではなかった。


熱は峠を越えていた。


しかし長旅の疲労は深く、宗谷を過ぎたところで痛めた腰と膝も、船が揺れるたびに鈍く痛んだ。


イネスからは、


「歩くのは必要なときだけ」


と厳命されている。


そのため、室蘭の湾へ入っていくポラールを少弐が見ることはなかった。


代わりにライラが窓から外を見ていた。


「見えてきた」


「室蘭か」


「うん」


少弐は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


長かった。


あまりにも長かった。


北方航路を調べるという任務から始まり、宗谷を越え、樺太を越え、大陸へ渡り、チョルガル、綾部、大穂田まで行った。


探していた一本角も手に入った。


帰りには、沈没船からイッカクの頭骨まで拾った。


もう十分だった。


「帰ってきたな」


少弐が言った。


ライラは少弐を見る。


「まだ坂東じゃない」


「私にとっては、ここまで来れば帰ったようなものだ」


やがて錨が下ろされた。


港は騒ぎになった。


帰ってきたポラール。


坂東北方艦隊。


そして、長く消息を追われていた少弐一行。


だが今回の室蘭は、以前の室蘭とは違っていた。


商館がある。


蔵がある。


人が行き交っている。


大掾が連れてきた医師一家もすでに仕事を始めていた。


少弐たちが旅をしている間にも、この場所は少しずつ坂東と北方世界をつなぐ港へ変わっていた。


そして湾には、大きな船が待っていた。


エスペランサ。


マリアが室蘭へ残していた大型修理母艦だった。


ポラールがその傍らへ寄せられる。


マリアは久しぶりに自分の船を見上げた。


「やっぱり大きいわね」


シレトクが言った。


「ポラールをどうする?」


「連れて帰る」


「船を船で?」


「そう」


ポラールはエスペランサに収容されることになった。


長い北方探索を走り抜いた高速船を、そのまま外洋航海させる必要はない。


船体を点検し、必要な修理を施したうえで母艦に収める。


マリアは今度こそ南へ帰る準備を始めた。


一方。


イネスは室蘭に残ることを決めた。


「本当に残るのか」


少弐が尋ねた。


このころには杖を使えば短時間なら歩けるようになっていた。


イネスは自分の大量の画帳を指した。


「これを整理しないと」


そこには何年分もの記録があった。


人。


動物。


薬草。


病気。


食べ物。


衣服。


宗教。


海獣。


北方の人々の身体的特徴。


旅の途中で診察した患者。


そしてイッカク。


「それに医者がいるでしょう」


大掾が招いた医師一家だった。


室蘭商館を中心に、和人だけでなく周辺の人々も診ることになる。


「話してみたいの。こちらの薬も知りたいし、私が知っていることも教えられる」


少弐はうなずいた。


「分かった」


イネスは笑う。


「あなたはしばらく患者だけどね」


「もう治った」


「治ってない」


即答だった。


少弐の横でライラが深くうなずいた。


少弐は二対一になったので黙った。


レタㇻクにも新しい仕事が決まった。


大掾が手放さなかったのである。


理由は明白だった。


言葉だった。


樺太から大陸へ渡り、チョルガルからさらに北へ進むにつれ、言葉の壁は急激に厚くなった。


レタㇻクは万能の通訳ではない。


それでも複数の文化圏をつなぎ、知らない言葉でも単語を拾い、交易の場を成立させる能力を持っていた。


大掾にとっては、船一隻より貴重な人材だった。


任務は明確だった。


チョルガル。


綾部――アヤン。


大穂田――オホタ。


少弐が関係を作った三つの土地を、本当に交易拠点として機能させる。


虎紋。


鹿紋。


鯨紋。


それぞれの坂東サーベルを持つ長たちと交渉し、次に来る坂東船が「少弐の仲間」であることを伝える。


レタㇻクは北方艦隊へ正式に加わることになった。


「また北か」


少弐が言った。


レタㇻクは笑った。


「お前より北へ行ってやる」


「好きにしろ。私はもう行かん」


ライラが横から言った。


「本当に?」


少弐は少し黙った。


「……しばらくは」


皆が笑った。


エカシロは別の道を選んだ。


富内へ戻る。


家族のいる土地へ帰り、そこで商館長になる。


だが、それは旅から降りるという意味ではなかった。


大掾が進めている千島列島ルート整備の、西側ではなく東側の重要な支点となる。


商館。


補給。


現地との交渉。


水と薪。


食料。


越冬準備。


船員の救護。


少弐が人との関係を作り、大掾が海図を作る。


その二つを実際の港として機能させるのが、これからのエカシロの仕事だった。


大掾は彼を自分の右腕として使うつもりだった。


そして。


最後まで何の配属も告げられなかった男が一人いた。


シレトクだった。


出航準備が進むある日。


少弐は杖をつきながら、港を歩いていた。


隣には当然のようにライラがいる。


少し離れてシレトクも歩いていた。


しばらく黙っていたシレトクが、突然言った。


「俺は?」


少弐が振り返る。


「何が」


「何が、じゃない」


シレトクは指を折った。


「イネスはここに残る」


一本。


「レタㇻクは大掾についていく」


二本。


「エカシロは富内」


三本。


「マリアは船」


四本。


そして自分を指した。


「俺は何も聞いてない」


少弐は少し考えた。


「そうだったか」


「そうだったか、じゃない」


シレトクは少弐を見る。


それから港を見た。


室蘭は彼にとって見知らぬ土地ではない。


妹婿の一族もいる。


ここに残ったとしても、生きていける。


だからこそ聞いた。


「俺は室蘭でお別れか?」


少弐が足を止めた。


ライラも止まる。


少弐は少しだけ驚いたようにシレトクを見た。


「何を言ってる」


「だから――」


「お前は俺の右腕だろ」


シレトクが黙った。


少弐は当然のことを説明するように続けた。


「一緒に坂東へ行く」


「坂東?」


「ああ」


「俺も?」


「氏治様に会わせる」


シレトクは目を丸くした。


小田氏治。


少弐が仕える主君。


北方まで船を送り、商館を建て、見たこともない品を買い集めている、その中心にいる男。


「その後は?」


「分からん」


少弐は正直だった。


「氏治様と相談して決める。私についてくるかもしれないし、別の仕事を頼むかもしれない」


少弐はそこで少し表情を変えた。


「ただし」


シレトクを見る。


「ここから先は、今までとは違う」


「何が?」


「冒険じゃない」


港を風が抜けた。


「私は本来、堺の担当だ」


少弐は続けた。


「北方航路の探索を命じられたから、ここまで来た。だが任務は終わった」


一本角は見つかった。


北方交易路も作った。


少弐は本来の場所へ戻る。


「これから私が戻るところには、戦がある」


シレトクは黙って聞いていた。


「知らない土地で長と酒を飲む仕事じゃない」


少弐は少し笑った。


「まあ、それもやるかもしれんが」


ライラもわずかに笑う。


しかし少弐はすぐ真顔に戻った。


「人が殺しに来る」


「……そうか」


「私も戦う」


少弐は杖を持つ自分の手を見る。


「お前にも戦ってもらうことになる」


シレトクは答えない。


少弐は最後まで言った。


「死ぬかもしれない」


その言葉だけは冗談にしなかった。


「それでも来るか?」


シレトクは少弐を見た。


北方でずっと見てきた男だった。


熊を追った。


知らない海を渡った。


言葉の通じない土地へ平然と入った。


虎皮を欲しがった。


一本角を追って、とうとう大穂田まで行った。


そして熱を出して倒れた。


面倒な男だった。


シレトクは笑った。


「望むところだろ?」


少弐も笑った。


「そう言うと思った」


「じゃあ最初から聞くな」


「確認だ」


「面倒くさいな、お前」


「よく言われる」


ライラが横から、


「本当にね」


と言った。


少弐が振り返った。


「ライラまで言うのか」


「私はずっと思ってた」


三人はそのまま港を歩いた。


少弐はまだ杖をついている。


ライラは少弐が転ばないよう、自然にその横を歩いていた。


シレトクは反対側にいた。


北方へ来たとき、この三人がこうなるとは誰も思っていなかった。


やがて出航の日が来た。


イネスは室蘭に残った。


レタㇻクは北へ。


エカシロは富内へ。


大掾の北方艦隊は、再び海図の空白へ向かう。


そしてエスペランサには、ポラールが収められた。


マリアが船を預かる。


少弐。


ライラ。


シレトク。


三人は南へ帰る。


船倉には、一本角。


イッカクの頭骨。


銀貨。


北方の毛皮。


海図。


そして何冊もの報告書。


室蘭の岸が離れていく。


少弐は甲板へ出ようとした。


すぐライラに止められた。


「どこへ行くの」


「出航くらい見ても――」


「寝てて」


「もう熱はない」


「腰は?」


少弐は黙った。


「膝は?」


さらに黙った。


ライラは船室を指した。


少弐は諦めて戻った。


シレトクが笑う。


「戦より強いな」


「何がだ」


「ライラ」


少弐は何も答えなかった。


ライラだけが少し笑った。


エスペランサは南へ向かった。


一五七一年九月。


北方を目指して集まった一行は、室蘭でそれぞれの道へ分かれた。


だが別れではない。


北に残った者たちは、少弐が作った道を広げていく。


そして南へ帰る者たちは、別の戦場へ向かう。


少弐冬明の北方探索は終わった。


次に彼を待っているのは、未知の海ではない。


人と人とが争う――畿内だった。

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