熱の夜――言えなかったこと
宗谷を過ぎたころから、少弐冬明の様子は明らかにおかしかった。
北方艦隊との合流を果たし、千島列島を抜け、ようやく帰路が見えた。
その安心が、逆に張りつめていたものを一気に緩めたのかもしれない。
少弐は何日も前から疲れていた。
それでも甲板へ出た。
海図を見た。
船員の報告を聞いた。
大穂田から持ち帰った品の確認まで自分でやった。
ライラが何度休めと言っても、
「室蘭までだ」
と答えるだけだった。
そして、その日は海が荒れた。
ポラールが大きく持ち上がり、次の瞬間、甲板が落ちるように沈んだ。
少弐の足が滑った。
身体が横へ流れる。
膝が折れ、腰から甲板へ落ちた。
「少弐!」
ライラが駆け寄った。
少弐は起き上がろうとした。
しかし腰に力が入らない。
膝にも鋭い痛みが走った。
それでも、
「大丈夫だ」
と言った。
ライラは怒った。
「どこが!」
そして少弐の顔に触れた瞬間、表情が変わった。
熱い。
「イネス!」
少弐はそのまま急務室へ運ばれた。
熱を測るまでもなかった。
高熱だった。
長旅。
寒さ。
睡眠不足。
疲労。
古傷。
そこへ転倒。
身体が限界を迎えていた。
イネスは手際よく診察した。
腰と膝に大きな損傷がないか確認し、腫れを抑え、身体を冷やし、水分を取らせた。
少弐は半分眠ったまま処置を受けていた。
ライラはずっとそばにいた。
しばらくして、イネスが少弐の額へ手を当てた。
「熱はまだあるけど、今すぐ危険という感じじゃない」
ライラが聞く。
「腰は?」
「ひどく打ったけど、たぶん大丈夫。膝も同じ」
イネスは少弐を見る。
「問題は、この人が全然休んでないこと」
眠っているはずの少弐が、
「休んでいた」
と小さく言った。
イネスが呆れた。
「いつ?」
返事はなかった。
もう寝ている。
イネスは毛布を掛け直した。
「あとは寝るだけね」
そう言って立ち上がる。
「ライラも休んでいいわよ」
「うん」
ライラは答えた。
だが動かなかった。
イネスは一度だけライラを見る。
何も言わなかった。
そのまま急務室を出た。
船の音だけが残った。
木が軋む。
波が船腹を叩く。
少弐の呼吸が聞こえる。
ライラは椅子を引き寄せ、寝台の横へ座った。
別に何かすることがあるわけではない。
薬はもう使った。
水も置いてある。
包帯も巻かれている。
寝かせておけばいい。
それでも立てなかった。
少弐の顔を見る。
いつもよりずっと弱々しく見えた。
普段は何が起きても考えている。
知らない土地へ行けば長と酒を飲み、知らない言葉なら絵を描き、熊が出れば追い、虎の話を聞けば翌日には虎皮を手に入れている。
馬鹿みたいに動き続ける男だった。
ライラは思い返した。
最初はただの仕事だった。
護衛。
それだけ。
変わった日本人だと思った。
言葉を覚えるのが早い。
甘いものが好き。
槍が得意なくせに腰を痛めている。
危険な場所へ行くくせに、人を殺すことには妙に慎重だった。
旅が続いた。
朝鮮。
琉球。
奈良。
奥州。
蝦夷。
樺太。
北の海。
いつの間にか、少弐が隣にいることが当たり前になっていた。
少弐が笑えば安心した。
少弐が怪我をすれば腹が立った。
少弐が知らない女と長く話していると、理由もなく面白くなかった。
それでも全部、
「護衛だから」
で済ませてきた。
ライラは少弐の手を見る。
少し迷ってから、そっと触れた。
熱かった。
そのまま手を離さなかった。
何時間経ったのか。
少弐がゆっくり目を開いた。
焦点が合うまで少しかかった。
天井。
毛布。
そして横にいるライラ。
少弐はかすれた声で言った。
「……まだいたのか」
ライラは少しむっとした。
「悪い?」
「いや」
少弐は目を閉じた。
「ありがとう」
それだけだった。
ライラは返事をしなかった。
少弐は再び目を開ける。
「寝てないだろ」
「少し寝た」
「嘘だな」
「あなたに言われたくない」
少弐は弱く笑った。
だが笑っただけで腰が痛むらしく、顔をしかめた。
ライラがすぐに身体を支える。
「動かないで」
「分かった」
珍しく素直だった。
しばらく沈黙した。
少弐が天井を見ながら言う。
「迷惑をかけた」
「迷惑じゃない」
ライラは即答した。
その速さに、自分で驚いた。
少弐も少しだけ顔を向けた。
ライラは目を逸らさなかった。
「迷惑じゃない」
もう一度言った。
「少弐が倒れたから残ったんじゃない」
少弐は黙っている。
ライラは一度息を吐いた。
ここまで言ったなら、もう逃げたくなかった。
「私はずっと、護衛だから気にしてるんだと思ってた」
少弐の目がわずかに動いた。
「仲間だから。旅をしてきたから。そういうものだと思ってた」
ライラは少弐の手を握った。
「でも違った」
少弐は何も言わない。
「あなたが危ないと嫌なの」
「それは仲間でも――」
「違う」
ライラは少弐の言葉を遮った。
珍しいことだった。
「他の人とは違う」
静かになった。
波の音だけが聞こえる。
ライラは少弐を見た。
「ずっと違った」
少弐はしばらく目を閉じた。
熱のせいなのか。
それとも考えているのか。
やがて言った。
「……ハビービの意味」
ライラの表情が変わった。
少弐が以前、鷹につけた名前。
モロッコの言葉で。
愛しき人。
ライラしか意味を知らないと思っていた名前。
「知っていたの?」
少弐は目を開けた。
「知っていた」
ライラは何も言えなかった。
少弐は少し笑った。
「語学を勉強していると言っただろ」
「じゃあ……」
そこから先をライラは言わなかった。
言えなかった。
少弐も答えなかった。
しかし否定もしなかった。
それで十分だった。
ライラは下を向いた。
笑っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。
「ずるい」
「何が」
「知ってて、あんな名前つけたこと」
少弐はまた目を閉じた。
「そうかもしれない」
ライラは少弐の手を握ったまま、しばらく黙っていた。
やがて少弐が言った。
「ライラ」
「なに」
「室蘭に着いたら」
少弐はそこで止まった。
熱のせいか、眠気が戻ってきている。
ライラが待つ。
少弐は少しだけ首を振った。
「……いや。今はやめておく」
「最後まで言って」
「熱が下がってから言う」
ライラはしばらく少弐を睨んだ。
「絶対?」
「絶対」
「忘れたら?」
「覚えている」
少弐はそう答えたあと、すぐに眠りへ落ちた。
ライラはその顔を見ていた。
もう、以前と同じには戻れない。
それが分かった。
でも嫌ではなかった。
むしろ長い旅の途中で、ずっと名前をつけられなかったものに、ようやく名前がついたような気がした。
ライラは少弐の手を握ったまま、椅子にもたれた。
窓の向こうでは、ポラールが南へ進んでいる。
宗谷を越えた。
室蘭はもう遠くない。
長い北方遠征の終わりが近づいていた。
そして同時に。
少弐とライラにとっては、別の旅が始まろうとしていた。




