北から来た一本角――大穂田への海
――元亀二年(一五七一年)夏。
綾部を離れたポラールは、オホーツク海西岸をさらに北へ進んだ。
鹿紋の坂東サーベルを腰にした長の姿は、すぐに海岸の影へ溶けていった。
少弐冬明は船尾に立ち、しばらくその方角を眺めていた。
綾部で得たものは、トナカイの皮でも角でもない。
道だった。
海岸の向こうに、海からは見えない人の流れがある。
トナカイとともに移動する者がいる。
彼らが内陸から毛皮や角を運んでくる。
それを綾部で受け取り、船に載せる。
船は次の港へ運ぶ。
室蘭まで一隻の船が往復する必要はない。
人から人へ。
港から港へ。
そうやって品を渡していけばいい。
少弐はすでに、帰国後に大掾へ提出する報告書の内容を頭の中で組み立て始めていた。
「また考えてる」
背後から声がした。
ライラだった。
「何をだ」
「仕事」
「仕事中だ」
「船に乗っているときくらい海を見れば?」
少弐は海を指した。
「見ている」
「海を見ながら仕事のことを考えているでしょう」
図星だった。
少弐は答えなかった。
ライラは隣へ来た。
北の海は静かだった。
しかし静かな海ほど油断できないことを、一行はもう知っている。
霧。
突然の風。
浅瀬。
見えない岩。
そして寒さ。
夏だというのに、夜になると吐く息が白くなる日さえあった。
「あと、どこまで行くの?」
ライラが尋ねた。
「分からない」
「まだ?」
「一本角を見つけるまでだ」
「本当に世界の果てまで行くつもり?」
少弐は少し考えた。
「いや」
意外な答えだったのか、ライラが少弐を見る。
「見つけたら帰る」
「それだけ?」
「それだけだ」
少弐は北を見た。
「私は世界の果てを見たいわけじゃない。あれが本当にいるのか知りたいだけだ」
宗谷で聞いた昔話。
樺太で聞いた噂。
北へ行くほど具体的になった目撃談。
そして綾部では、北から来た者が長い牙を持っていたという。
もう、伝説を追っている感覚ではなかった。
何かがいる。
それだけは確信し始めていた。
数日後。
海岸沿いに進んでいたポラールは、大きな川の河口近くで停船した。
人がいる。
今回は遠くからでも分かった。
舟が何艘もある。
魚が干されている。
煙が複数上がっている。
小さな集落ではなかった。
マリアが望遠鏡を下ろした。
「ここ、いいわね」
少弐も同意した。
「湾がある。水も取れそうだ」
「風も避けられる」
「船を置けるな」
マリアが横目で少弐を見る。
「もう商館のこと考えてるでしょう」
「まだ考えていない」
「嘘」
「まだ、だ」
少弐は強調した。
まず人を見る。
それから決める。
いつもの順番だった。
小舟を降ろした。
今回はシレトクとレタㇻクが先に行った。
エカシロも同行する。
しかししばらくすると、三人そろって戻ってきた。
少弐は嫌な予感がした。
「どうした」
シレトクが言った。
「分からん」
「何が」
「言葉だ」
レタㇻクも困った顔をしている。
「少し拾える。でもチョルガルより難しい」
少弐は笑った。
「とうとう全員役に立たなくなったか」
「お前もだろ」
「私は最初から役に立っていない」
エカシロが吹き出した。
結局、品物を見せながら話すしかなかった。
酒。
干した魚。
布。
針。
鉄。
煙草。
身振り手振り。
そして絵。
こういうとき、イネスの画帳ほど便利なものはなかった。
人。
船。
鹿。
鯨。
地図。
絵なら言葉が違ってもある程度通じる。
何日か滞在するうちに、少弐たちは少しずつ相手の言葉を覚え、向こうも坂東側の言葉をいくつか覚えた。
やがて長とも酒を飲めるようになった。
少弐はこの土地の名前を聞いた。
何度も発音してもらう。
少弐にはどうしてもうまく聞き取れない。
そこで海図には、聞こえた音をもとに仮の字を当てた。
大穂田。
――大穂田。
後に坂東の北方海図で、そう記される土地である。
少弐はまず、いつもの質問を始めた。
北には何がある。
人はいるか。
冬はどうなる。
海はいつ凍る。
どんな魚が獲れる。
どんな獣がいる。
内陸から何が来る。
トナカイは来るか。
毛皮は。
角は。
そして。
少弐はイネスに例の絵を出してもらった。
一本の長い牙を持つ鯨。
長は絵を見た。
少弐を見る。
もう一度、絵を見る。
何か言った。
レタㇻクが首を傾げる。
「……たぶん、知っている」
少弐の表情が変わった。
「もう一度聞いてくれ」
長は立ち上がった。
少弐たちに待つよう身振りで示す。
そして家を出ていった。
ライラが少弐を見る。
「どうしたの?」
「分からない」
少弐はそう答えたが、立ち上がっていた。
落ち着いて座っていられなかった。
しばらくして、長が二人の男と戻ってきた。
何かを運んでいる。
布に包まれていた。
細長い。
少弐の喉が鳴った。
長が布を取った。
白い。
長い。
そして螺旋を描いている。
誰も声を出さなかった。
少弐は動かなかった。
何年も追ってきた形だった。
ヨーロッパで「ユニコーンの角」と呼ばれるもの。
朝鮮の書物で調べた。
奈良でも調べた。
法隆寺の古い牙も見た。
宗谷で老人の昔話を聞いた。
樺太で尋ねた。
アムールでも尋ねた。
そして北へ来た。
その答えが、目の前にあった。
イネスが最初に動いた。
「触っていいか聞いて」
少弐は我に返った。
長に尋ねる。
許可が出た。
イネスが慎重に調べる。
少弐も触れた。
冷たい。
硬い。
象牙とも違う。
鹿の角とも違う。
ライラが小さく言った。
「本当にあった」
少弐は答えなかった。
牙の螺旋を指でなぞっていた。
マリアも船から呼ばれた。
現物を見るなり、顔色が変わった。
「これ……」
「知っているか」
少弐が聞く。
マリアはしばらく牙を見ていた。
「ヨーロッパで見たことがある」
少弐が顔を上げる。
「どこで?」
「同じようなものを。王侯や教会の宝物として」
「何と呼ばれていた」
マリアは少弐を見た。
答えは分かっていた。
「ユニコーンの角」
静かになった。
少弐はもう一度、牙を見る。
それから突然笑った。
大声ではなかった。
長い間胸につかえていたものが、ようやく落ちたような笑いだった。
「いた」
ライラが言う。
「まだ動物そのものは見てないでしょう」
「いい」
「いいの?」
「これで十分だ」
少弐は牙を指した。
「少なくとも、角は伝説じゃない」
問題はここからだった。
少弐は長に聞いた。
どこで獲った。
この近くにいるのか。
答えは違った。
ここで普通に獲れるわけではない。
北東。
さらに遠い海。
そちらから来る人々が持ってくることがある。
漂着したものが拾われることもある。
極めて珍しい。
少弐は何度も確認した。
「毎年ある?」
ない。
「十本?」
そんなにない。
「一つでも珍しい?」
そうだ。
少弐は納得した。
大穂田はイッカクの海ではない。
だが――
イッカクが存在する世界につながっている。
宗谷とは違う。
宗谷では伝承だった。
樺太では噂だった。
綾部では交易者の話だった。
ここでは現物がある。
少弐にとって、それで十分だった。
「買えるか」
交渉が始まった。
酒。
布。
鉄製品。
その他の品々。
少弐は惜しまなかった。
しかし、相手が大切にしているものを力ずくで値切ることもしなかった。
数日かけて話し合い、ついに一本の牙を譲ってもらえることになった。
さらに運がよければ、骨や頭骨などが手に入ることもあるという。
少弐は頼んだ。
「次に坂東の船が来たとき、もし死骸が漂着したり、北から運ばれてきたりしたら残しておいてほしい」
肉は無理でもいい。
頭。
骨。
皮。
牙。
できる限り欲しい。
イネスは横で猛烈な勢いで記録していた。
マリアも牙の寸法を測る。
少弐は長と話しながら、別のことも考えていた。
トナカイ。
毛皮。
海獣。
そしてイッカク。
北東から来る品が、ここへ集まる。
ならば。
「ここも残す」
夜、ポラールで少弐は言った。
マリアは予想していたようだった。
「やっぱり」
「綾部より重要になるかもしれない」
海図が広げられる。
少弐は指で線を引いた。
室蘭。
チョルガル。
綾部。
大穂田。
「ここまでつなぐ」
一つの船が全部を走る必要はない。
室蘭からチョルガル。
チョルガルから綾部。
綾部から大穂田。
そして大穂田には、さらに北東から品が来るようにする。
「トナカイの皮も角も、ここへ集められる」
「イッカクも?」
ライラが聞いた。
「毎年は無理だろう」
少弐は現実的だった。
「十年待って一本でも構わない」
「ずいぶん気が長いのね」
「伝説を何年も追ってここまで来たんだ。それに比べれば短い」
翌日。
少弐は長のところへ一本のサーベルを持っていった。
今度の鞘に刻まれていたのは鹿ではない。
鯨だった。
海面から身体を出す鯨。
鯨紋の坂東サーベル。
少弐は長に説明した。
坂東の船がまた来る。
自分でない者も来る。
そのとき、この剣を見せてほしい。
酒も鉄も布も持ってくる。
代わりに北から来る珍しいものを残しておいてほしい。
トナカイ。
毛皮。
海獣の牙。
そして――
少弐は白い螺旋の牙を指した。
これ。
長は笑った。
少弐がこれをどれほど欲しがっているか、もう十分理解していた。
鯨紋の剣を受け取る。
これで四つ。
室蘭――鷹。
チョルガル――虎。
綾部――鹿。
大穂田――鯨。
少弐はその夜、久しぶりに海図を北へ広げなかった。
ライラが気づいた。
「今日は北を見ないの?」
「見ない」
「どうして?」
少弐は少し考えてから答えた。
「終わったからだ」
「旅が?」
「今回の目的が」
北にはまだ世界が続いている。
さらに北東へ行けば、この牙の持ち主が実際に泳ぐ海があるのだろう。
行ってみたい。
当然そう思う。
しかし少弐は海図を畳んだ。
「行けるから行く、ではきりがない」
ライラが少し驚いた顔をした。
「あなたでもそんなこと言うのね」
「私を何だと思っている」
「世界の端まで歩いていく人」
「外交官だ」
少弐は笑った。
「それに、本来の仕事場は堺だ」
長い寄り道だった。
朝鮮。
琉球。
奈良。
東北。
蝦夷。
樺太。
アムール。
そしてオホーツク。
一本角を追って、ずいぶん遠くまで来た。
少弐は船室に置かれた白い牙を見る。
伝説だったものが、今はそこにある。
「帰ろう」
その一言に、ライラは笑った。
翌朝。
ポラールは帆を上げた。
大穂田の浜では、鯨紋の坂東サーベルを持つ長が見送っていた。
少弐は甲板から北を一度だけ見た。
その向こうには、まだ知らない海がある。
だが、それは次に来る者の仕事だ。
大掾のフリガッタが来る。
坂東の商人が来る。
測量船が来る。
やがて大穂田には北東からトナカイの皮が集まり、珍しい海獣の骨が集まり、運がよければ一本角の牙も届く。
自分が全部見に行く必要はない。
道だけ作ればいい。
「マリア」
「なに?」
「南だ」
マリアが笑った。
「ようやくね」
ポラールが向きを変える。
北へ北へと進み続けた船が、初めて明確に南へ船首を向けた。
船倉には白い螺旋の牙。
海図には四つの重要な点。
鷹。
虎。
鹿。
鯨。
少弐冬明の長い北方探索は、ようやく帰路へ入った。




