北の海へ――虎の里を発つ
――元亀二年(一五七一年)六月、哲秀河・チョルガルコタン。
長の家の梁に掛けられた虎皮を、少弐冬明はもう一度見上げていた。
昨日まで、この土地について知りたかったことは山ほどあった。
虎はどこから来るのか。どのような姿をしているのか。皮だけでなく牙や爪は手に入るのか。川の向こうには何があるのか。そして、この大河をたどれば本当に朝鮮へ近づくことができるのか。
聞けば聞くほど、新しい疑問が生まれた。
そのせいで、チョルガルの長にはすっかり、
「この客人は虎という獣がよほど好きなのだ」
と思われてしまったらしい。
強い酒と引き換えに虎皮を譲ってくれるという申し出に、少弐は長の好意を察し、礼として虎を刻んだ坂東サーベルを残した。
室蘭で鷹。
そして、ここチョルガルでは虎。
ただ珍品を買った礼ではない。
いつの日か再び坂東の船がこの地へ来たとき、その剣を持つ者を訪ねればよい。
少弐はそのつもりだった。
「本当に行かないのか」
出立の朝、レタㇻクが川を指した。
巨大な水の流れが、遥かな内陸へ続いている。
少弐はしばらく川面を眺めた。
「行きたい」
即答だった。
レタㇻクが笑う。
「なら行けばいい」
「だから困っている」
少弐も笑った。
この川を調べれば、きっと何かがある。
南西へ人の多い土地があるという話も気になる。沿岸航路と組み合わせれば、あるいは朝鮮へ続く道が見つかるかもしれない。
しかし、それは今回の目的ではなかった。
「私は虎を探しに来たわけでも、川の果てを探しに来たわけでもない」
少弐は言った。
「一本角の鯨だ」
シレトクが横から、
「北へ行けば行くほど、その話は増えている」
と言った。
「だから北だ」
少弐はうなずいた。
アムール方面の調査は大掾に任せる。
坂東ではすでに、小型で高速なフリガッタを多数建造できる体制が整いつつある。
一人の外交官が何年もかけて川を一本調べるより、船を何隻も出して海岸線を測らせた方がいい。
少弐の役目は、その船が寄ることのできる場所を作ることだった。
長との最後の酒が始まった。
六月とはいえ、朝の空気には冷たさが残っている。
少弐は長に、これからさらに北へ向かうことを告げた。
通訳にはレタㇻクが立った。
長はしばらく黙って聞いていたが、やがて虎皮を指して何か言った。
レタㇻクが笑った。
「また虎が欲しくなったら来い、と言っている」
「……やはり虎好きだと思われているな」
少弐が苦笑すると、エカシロまで笑った。
シレトクが少弐の腰の短筒を見ながら言う。
「虎を見つけても追いかけるなよ」
「追わん」
「熊のときも似たようなことを言っていた」
「熊を追ったのは必要だったからだ」
そんな話をしているうちに、長が虎紋の坂東サーベルを手にした。
鞘を撫で、虎を指差す。
それから自分を指し、少弐を指し、最後に海を指した。
言葉が分からなくても意味は分かった。
また来い。
少弐は深く頭を下げた。
「必ず」
チョルガルを離れるころには、川辺に何人もの人々が集まっていた。
ポラールの帆が上がる。
少弐は甲板から小さくなっていく集落を眺めた。
あの場所はいずれ、坂東にとって重要になる。
虎皮だけではない。
大河の入口。
大陸沿岸航路の中継点。
そして、南へ行けば朝鮮、北へ行けば未知の海へ続く分岐点。
だが、それを完成させるのは自分でなくていい。
「少弐」
マリアが声をかけた。
「進路は?」
少弐は北を指した。
「沿岸を離れすぎない。次の人のいる場所を探しながら進む」
「川は?」
「大掾にくれてやる」
マリアが笑った。
「ずいぶん気前がいいのね」
「私はもう別の獲物を追っている」
「虎?」
後ろからライラが言った。
「違う」
少弐が振り返る。
ライラは明らかに笑いを堪えていた。
「一本角だ」
「昨日は虎の牙まで欲しがっていたでしょう」
「資料だ」
「虎皮も?」
「資料だ」
「虎の爪も?」
「……資料だ」
とうとう甲板に笑い声が広がった。
少弐はため息をついて北を向いた。
チョルガルの長だけではない。
仲間にまで虎好きと思われ始めている。
だが、海へ出れば気持ちは切り替わった。
これより北は、これまで以上に情報が乏しい。
レタㇻクでさえ知らない土地が増えていく。
シレトクもエカシロも同じだった。
樺太までなら、誰かの親族、誰かの知人、交易相手の名を頼りに進むことができた。
しかし大陸を北へ進むほど、その鎖は細くなっていく。
だから少弐は、一つの方針を決めた。
無理に遠くの案内人を雇わない。
一つ先の土地を知る者がいれば、その者に一つ先まで案内してもらう。
そこでまた新しい案内人を探す。
人から人へ。
集落から集落へ。
船から船へ。
それは後に北方交易そのものの基本となる、リレー方式の始まりでもあった。
数日をかけ、ポラールはオホーツク海西岸を北上した。
海岸には山が迫り、川の河口では必ず速度を落とした。
煙がないか。
舟がないか。
干された魚がないか。
人間の生活の痕跡を探す。
見つけても、いきなり上陸はしない。
沖に船を置き、小舟を出す。
まずレタㇻクや現地語を多少理解する者が話し、少弐が酒や食べ物を持って後から行く。
何度も繰り返した流れだった。
ライラはある日、甲板でその様子を眺めながら言った。
「あなた、本当にどこでも同じことをするのね」
「何がだ」
「最初は警戒されているのに、気づくと長の隣で酒を飲んでいる」
少弐は首を傾げた。
「酒を持っているからだろう」
「それだけなら商人はみんな外交官になれるわ」
近くにいたシレトクが大きくうなずいた。
少弐だけが納得していなかった。
やがて、海岸線の向こうに比較的大きな湾が現れた。
川が流れ込み、周辺には人の生活した跡がある。
ポラールは慎重に帆を絞った。
レタㇻクが陸を見つめる。
「ここから先は、俺もほとんど知らない」
少弐はうなずいた。
「なら、ここで聞けばいい」
小舟を降ろす。
酒。
乾物。
鉄製品。
針。
布。
煙草。
そして今回は、坂東サーベルを持っていかなかった。
あれは誰にでも渡す品ではない。
本当にこの土地を北方航路の要とすると決めたとき、その人物にだけ渡す。
少弐はライラ、シレトク、レタㇻクとともに浜へ向かった。
浜に立つ人々がこちらを見ている。
言葉が通じるかどうかさえ分からない。
それでも少弐は、小舟が砂に触れると先に降りた。
両手を見える位置に出す。
そして笑った。
何度目になるか分からない、未知の土地での最初の挨拶だった。
この先に何があるのか。
まだ誰も知らない。
だが少弐の頭の中には、一つだけはっきりした方向があった。
北。
宗谷で老人が指した北。
樺太で人々が指した北。
チョルガルでも、やはり人々が指した北。
一本角の海獣について尋ねるたび、答えは少しずつ現実味を帯びながら北へ逃げていった。
ならば追う。
ただし、どこまでもではない。
見つけたら帰る。
それが今回の旅だった。
少弐は浜に立つ男たちを見ながら、レタㇻクに小声で言った。
「まず、ここが何という場所なのか聞いてくれ」
レタㇻクが苦笑する。
「またそこからか」
「そこからだ」
こうして一行は、虎の土地を後にした。
そしてポラールは、さらに北――やがて坂東の海図に**「綾部」**と記される土地へ向かって進み始めた。




