北の果てで増えた仲間 ― 貫富貴内のレタㇻク
富内を発った少弐たちは、ポラールの先行偵察で得られた情報を頼りに、樺太沿岸をさらに北へ進んだ。
まだ春は浅い。
海には冬の名残があり、風も刺すように冷たい。
それでもポラールなら進める。
危険な場所では速度を落とし、沿岸と海図を見比べながら、少弐たちは前回の北方探索で到達したコタンへ戻ってきた。
上陸すると、以前会った長が迎えてくれた。
少弐はまず、持ってきた強い酒を差し出した。
「約束通り、また持ってきた」
エカシロが訳す。
長は嬉しそうに受け取った。
さっそく器へ注ぎ、一口飲む。
一瞬、動きが止まった。
それから大きく息を吐く。
「強い」
エカシロが訳すと、少弐は笑った。
「北は寒いからな」
長は何か言い返す。
エカシロも笑う。
「寒くても、これは強すぎるそうだ」
「そう言いながらもう一杯飲んでいるじゃないか」
酒が入ると、話は早かった。
前回の訪問ですでに顔を合わせている。
少弐たちが何者なのか、長もある程度は知っていた。
少弐も以前より気楽に話せる。
そこで、少弐はふと思い出した。
「そういえば、前に聞いていなかった」
「何を?」
「ここの名前だ」
前回は北へ進むことばかり考え、コタンそのものの名前をきちんと記録していなかった。
富内で大掾が地名を確認したことで、少弐もその重要さを改めて感じていた。
「いつまでも『樺太の北のコタン』では困る」
エカシロが長へ尋ねる。
長は少し不思議そうな顔をしてから答えた。
「ヌプキナイ」
少弐が繰り返す。
「ヌプキナイ?」
もう一度聞く。
「ヌプキナイ」
少弐は帳面を取り出した。
「よし」
少し考えてから筆を走らせる。
貫富貴内。
エカシロが覗き込んだ。
「それでヌプキナイなのか?」
「そう読ませる」
「ずいぶん難しい字だな」
「音が難しいんだから仕方ない」
少弐は長にも説明した。
これはコタンの名前を変えるものではない。
ヌプキナイという名前を、自分たち坂東の者が海図や帳面に記録するために文字を当てるだけだ。
長は意味を聞き、しばらく文字を眺めてから頷いた。
こうして坂東側の記録には、
貫富貴内――ヌプキナイ。
という名前が残されることになった。
少弐は満足して帳面を閉じた。
そして酒をもう一口飲んだところで、さらに大事なことを思い出した。
「そうだ」
長を見る。
「案内人」
前回来たとき、少弐は頼んでいた。
次に来るときには、ここからさらに北へ行きたい。
そのため、北の沿岸や海を知る者がいれば探しておいてほしい。
長も思い出した。
「ああ」
そう言って、一人の男を呼んだ。
少弐は男を見る。
年齢は少弐より若く見える。
北の暮らしに慣れた、引き締まった身体をしていた。
少弐はエカシロに尋ねる。
「この男が?」
「ああ」
長と男が話す。
エカシロも加わる。
やがてエカシロが説明した。
「この辺りより北へ行ったことがある」
「どこまで?」
「何度か場所を変えている。北の海岸も知っているそうだ」
船を寄せられる場所。
危険な海岸。
人のいる土地。
季節によって変わる海。
狩り。
海獣。
完全に知り尽くしているわけではない。
だが少弐たちだけで進むより、はるかに頼りになる。
少弐は男へ向き直った。
「頼めるか?」
エカシロが訳す。
男は少弐を見た。
だが、すぐには返事をしなかった。
逆に何かを尋ねてきた。
「何だって?」
「お前たちは何をしに北へ行くのか、と」
「それか」
少弐は少し考えた。
隠す理由はない。
「一本角の海獣を探している」
男が首を傾げる。
エカシロが説明する。
イッカク。
白く長い、螺旋状の牙を持つ海獣。
少弐たちは、その存在を確かめるためにはるばる北へ来た。
「でも、それだけじゃない」
少弐は続けた。
北の海を見る。
海岸を測る。
地図を作る。
そこに暮らす人々と話す。
動物を見る。
植物を見る。
交易できる品があれば調べる。
知らないものがあれば記録する。
男はさらに聞く。
「どこまで行く?」
少弐は即答できなかった。
そして笑った。
「分からん」
男が少し驚く。
エカシロも苦笑する。
少弐は北を指した。
「行ったことがないからな」
「だから案内人がいるんだ」
それを聞いて長が笑った。
男も少し笑った。
それから質問が増えた。
少弐たちはどこから来たのか。
室蘭とはどんな場所か。
富内では何をしてきたのか。
ポラールとはどんな船なのか。
坂東とはどこにあるのか。
少弐は答えられる範囲ですべて答えた。
話しているうちに、エカシロが余計なことまで話し始めた。
「室蘭では熊を追った」
少弐がすぐ止める。
「それはいらん」
だが男は興味を持った。
何か尋ねる。
エカシロが笑う。
「熊と戦ったのか、と」
「戦ってはいない」
「杖を持って熊の前に立った」
シレトクまで口を挟む。
「お前も黙れ」
「大声で吠えた」
「そこまで説明する必要はないだろう」
長は大笑いしていた。
男も笑っている。
酒がもう一巡した。
話題は北の海へ戻った。
そして男はポラールについて詳しく聞き始めた。
船を見たいとも言う。
マリアがどんな海図を作っているのかにも興味を示した。
イネスが動植物や伝承を記録していると聞けば、それについても尋ねる。
少弐は途中から妙なことに気づいた。
――こいつ、案内の話より旅そのものに興味を持っていないか。
やがて男が長へ何か言った。
長の表情が変わった。
「どうした?」
少弐が尋ねる。
エカシロも意外そうだった。
「案内を頼むんだったよな?」
「ああ」
「こいつ、話を聞いていたら面白そうになったそうだ」
「……何が?」
エカシロが笑う。
「お前たちの旅が」
男は自分でも少弐へ話しかける。
エカシロが訳した。
「北へ行く。知らない海を見る。知らない人間に会う。海獣を探す。地図を作る」
男は少弐を見る。
「案内して、ここへ帰ってくるだけではつまらない」
少弐は思わず笑った。
「では、どうしたい?」
答えは簡単だった。
「連れていってほしい」
少弐の表情が変わる。
「どこまで?」
男は肩をすくめた。
「お前たちが行くところまで」
今度は少弐が長を見る。
「いいのか?」
長は男へ何か尋ねた。
男は迷わず答える。
長はしばらく考えた。
そして少弐を見る。
エカシロが訳した。
「本人が行きたいなら止めないそうだ」
少弐は頷いた。
「もちろん面倒は見る」
すると男が何か言う。
「何だ?」
エカシロが少し笑った。
「案内人として雇われるだけでは嫌だそうだ」
少弐が男を見る。
「では?」
男は答えた。
「仲間として行きたい」
少弐は黙った。
シレトクが横で笑っている。
「また増えるな」
エカシロも男を見る。
ライラは腕を組み、少弐がどう答えるか待っていた。
少弐は酒の器を置いた。
「分かった」
男を見る。
「なら、案内人としてではなく仲間として来い」
エカシロが訳す。
男は笑った。
少弐も笑う。
そして、そこで気づいた。
「そういえば――」
男を指す。
「名前を聞いていなかった」
男が自分の胸へ手を当てた。
「レタㇻク」
少弐が聞き返す。
「レタㇻク?」
「レタㇻク」
少弐は覚えるように、もう一度繰り返した。
「レタㇻク」
そして笑う。
「よし。覚えた」
少弐は酒の器を持ち上げた。
「レタㇻクに」
エカシロが訳す。
シレトクも器を上げる。
ライラも続く。
長も強い酒の入った器を持ち上げた。
レタㇻクも笑いながら自分の器を上げる。
少弐は言った。
「新しい仲間に」
器が触れ合った。
少弐が酒を飲む。
強烈な酒が喉を焼く。
「……やっぱり強すぎるな、これ」
長が大声で笑った。
貫富貴内へ来たとき、少弐たちは北への案内人を一人探していただけだった。
だが、得たものは案内人ではなかった。
レタㇻク。
貫富貴内から、自らの意思で未知の北へ向かう男。
こうして少弐たちの旅に、また一人、新しい仲間が加わった。
そして翌日から彼らが向かうのは――
前回の旅では到達しなかった、そのさらに北だった。




