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富内の名 ― 北へ向かう最初の一歩

富内の交易が一段落すると、大掾幹康は改めてエカシロを呼んだ。


「一つ、聞いておきたい」


「なんだ?」


大掾は周囲の家々を見回した。


「このコタンの名だ」


これから何度も船を通わせる。


商館を置く話も進める。


ならば「南樺太のコタン」では困る。


海図にも交易帳にも、正式に名前を記しておきたかった。


エカシロが長へ尋ねた。


しばらく言葉を交わしてから、大掾へ答える。


「トンナイだ」


「トンナイ」


大掾はゆっくり繰り返した。


そして帳面を開く。


少し考えてから、二文字を書いた。


富内。


大掾はそれを長へ見せる。


「俺たち坂東の者は、文字を使って土地の名前を記録する」


エカシロが訳す。


「トンナイという音は変えない。ただ、俺たちの記録では――」


大掾は二文字を指した。


「富内と書いて、トンナイと読むことにしたい。構わないか?」


長は文字そのものを興味深そうに眺めた。


エカシロから意味も説明される。


「富む、という意味が入っているそうだ」


長は大掾を見る。


そして笑った。


何か答える。


エカシロも笑った。


「いいそうだ」


「本当か?」


「ここが富むなら悪くない、と」


大掾も笑った。


「では決まりだ」


帳面へ記す。


富内――トンナイ。


ただし、その下には現地でトンナイと呼ばれていることも書き添えた。


「津軽、函館、室蘭にも知らせる」


大掾が言う。


「これから坂東側の海図と交易帳では富内で統一する」


こうして南樺太の交易拠点は、坂東側の記録にも正式な名を持った。


一方、そのころ少弐は別のことを考えていた。


北だった。


富内まで来ることはできた。


問題はここから先である。


まだ春は浅い。


沿岸の氷がどこまで退いているのか分からない。


少弐は海を見ながらマリアへ言った。


「ポラールを先に出そう」


「偵察?」


「ああ」


船団全体を動かす前に、高速のポラールだけを先行させる。


海氷。


風。


潮。


安全に入れる湾。


どこまで北上できるのかを確認して戻らせる。


「無理はするな。行けるところまででいい」


少弐は念を押した。


「氷が多ければ戻れ。今回の目的は北へ行くことじゃない」


マリアが少し意外そうな顔をする。


「あなたがそれを言うの?」


「俺を何だと思っている」


「北へ行きたくて仕方がない人」


少弐は否定できなかった。


「……だから先に船だけ見に行かせるんだ」


マリアは笑った。


ポラールの出航準備が始まる。


その間、少弐は富内で交易されている品々を見て回った。


毛皮。


魚。


骨角器。


海獣から得られた品。


そこで少弐の足が止まった。


「ライラ」


「どうした?」


少弐は並べられた品を指した。


海獣の牙を加工した品がある。


「セイウチの牙か?」


エカシロにも確認してもらう。


北から交易によって運ばれてきたものらしい。


少弐はしばらく眺めてから言った。


「小刀はないか聞いてくれ」


「牙の刃物?」


「いや。刃まで牙である必要はない」


鉄の小刀に、セイウチ牙を柄や鞘の装飾として使ったもの。


あるいは牙製の柄を持つ実用品。


そうしたものがあれば欲しかった。


エカシロが尋ねて回る。


やがて一本の小刀が持ってこられた。


刃は鉄。


だが柄には白い牙材が使われていた。


少弐が受け取る。


「面白いな」


ライラも覗き込んだ。


「買うのか?」


「ああ」


「研究用?」


少弐は首を振った。


「お前が使え」


ライラが少弐を見る。


「私が?」


「護身刀にしろ」


「私は剣を持っている」


「知っている」


「短筒もある」


「それも知っている」


「なら、なぜ?」


少弐は小刀をライラへ差し出した。


「北へ行けば、いつも剣を持って歩けるとは限らんだろう」


船の中。


コタンの家。


狭い場所。


眠るとき。


長剣を置かなければならない場面はいくらでもある。


小刀なら身につけておける。


「それに――」


少弐は白い柄を見る。


「北へ来た記念にもなる」


ライラは少弐を見た。


少弐は何でもないことのように小刀を差し出している。


「……あなたは?」


「俺には室蘭でもらったものがある」


少弐は腰の小太刀を軽く叩いた。


長から贈られた、室蘭の印が入った小太刀だった。


「だから、これはお前が持て」


ライラは少し迷ってから受け取った。


白い牙の柄を握る。


「悪くない」


「だろう?」


「でも護身なら、あなたの方が必要なのでは?」


「俺には杖がある」


ライラは呆れた顔をした。


「熊にもそれで向かったな」


「あれは忘れろ」


「室蘭中が覚えている」


少弐は黙った。


ライラは小刀を腰へ収めた。


そのころ海では、ポラールがゆっくり富内を離れ始めていた。


目的地は決めていない。


北へ行けるところまで。


少弐は海岸から、その船影を見送った。


富内では大掾が交易路を作る。


そしてポラールは、その先にまだ道があるかを確かめに行く。


南では交易の道がつながり始め、


北では未知の海への道を探し始めていた。

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