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息子なら、また帰ってくる ― 室蘭出航前夜

四月九日。


ついに、室蘭を発つ日が決まった。


出航は翌十日。


まだ北へ向かうには少し早い。


だが、大掾幹康が散開させていたフリガッタ艦隊から集まる報告と、ポラールの状態、沿岸の海況を合わせて判断し、少弐たちは進めるところまで進むことにした。


無理はしない。


氷に阻まれれば退く。


風が悪ければ港へ戻る。


だが、条件が許すなら南樺太まで進む。


午前中、一行は最後の会議を開いた。


海図が広げられる。


少弐、大掾幹康、マリア、イネス、ライラ。


シレトクとエカシロもいる。


少弐は南樺太を指した。


「まず、ここへ直接行く」


以前訪れた南樺太のコタンだった。


今回は単なる探索ではない。


目的の一つは、坂東の商館を置く場所を借り受けることだった。


大掾が尋ねる。


「金で土地を借りるのか?」


「いや」


少弐は首を振った。


「室蘭と同じには考えない方がいい」


室蘭では、すでに長との間に強い縁ができている。


シレトクの縁者がいる。


熊騒動もあった。


酒を飲み、同じ家で過ごし、何度も話した。


だから長は土地の利用を認めてくれた。


だが南樺太は違う。


エカシロという仲間はいる。


それでも、南樺太のコタンそのものと少弐たちの間には、室蘭ほどの関係はない。


「向こうから見れば、俺たちはまだ海の向こうから来る連中だ」


少弐は言った。


「だから、まず利益を見せる」


酒。


鉄器。


布。


食料。


珍しい品。


南から安定して持ってこられる交易品を長へ献上する。


そして説明する。


坂東と付き合えば何が手に入るのか。


代わりに、こちらが何を求めるのか。


「土地そのものを買うつもりはない」


少弐は続けた。


「商館と蔵を置ける場所を使わせてもらう」


大掾が頷く。


「その代わり、交易を続ける」


「ああ」


一度金を払って終わりではない。


毎年船が来る。


品物が来る。


人が来る。


樺太の品物を南へ運ぶ。


南の品物を樺太へ運ぶ。


「向こうとは、まず利でつながるしかない」


少弐はそう言い切った。


冷たい言い方にも聞こえる。


だが少弐は、それを悪いことだとは考えていなかった。


最初から友人である必要はない。


互いに得をする。


約束を守る。


翌年も来る。


その翌年も来る。


そうして初めて、室蘭でできたような関係へ変わっていく。


「そこから先は幹康」


少弐が大掾を見る。


「お前の仕事だ」


「また俺か」


「十貫渡しただろう」


「十貫で樺太まで仕事が増えるとは聞いていないぞ」


少弐は海図の上を指でなぞった。


南樺太。


室蘭。


函館。


そして津軽。


「ここをつなげ」


大掾がその指先を見る。


「交易路か」


「そうだ」


一度船が通っただけでは道ではない。


毎年通る。


荷が動く。


商人が覚える。


港に蔵ができる。


船を直せる。


次の船が来る。


それを繰り返して初めて、海の道になる。


「樺太から室蘭。室蘭から函館。函館から津軽」


少弐は指を南へ動かした。


「細い線でいい。まずつなげろ」


そして大掾を見る。


「その後は、太く、太くしてくれ」


大掾は少し黙ってから笑った。


「簡単に言うな」


「簡単なら俺がやっている」


「お前はその先へ行くからだろう」


「そういうことだ」


会議は昼前に終わった。


もう決めることは決めた。


午後は荷物をまとめ、船を確認し、それぞれが世話になった者へ挨拶をする時間になった。


出航が決まったことは、すぐにコタン中へ伝わった。


「もう行くのか」


何度もそう聞かれた。


「行く」


少弐はそのたびに答えた。


「北へ行くために来たからな」


だが以前なら、それだけで終わったはずだった。


今は少し違う。


子供たちまでハビービを見に来た。


馬を見に来る者もいる。


イネスには診てもらった者たちが礼を言いに来た。


マリアには、また言葉を教えてやると言う者がいた。


大掾幹家には、


「お前は残るんだろう?」


と長が当然のように確認していた。


室蘭はもう、単なる寄港地ではなくなっていた。


そして夕方。


少弐は長と二人で話した。


長はしばらく何も言わなかった。


やがて、


「また帰ってくる」


と言った。


少弐は笑う。


「帰ってくるつもりだ」


「つもりではない」


長は少弐を見る。


「帰ってくる」


妙に断定的だった。


少弐が何か言おうとすると、長は奥から一振りの小太刀を持ってきた。


アイヌの拵えを持つ小太刀だった。


少弐は黙った。


鞘には文様が刻まれている。


長の家に伝わる印も入っていた。


「これは?」


「お前にやる」


少弐はすぐには手を伸ばさなかった。


「こんなものを貰っていいのか?」


長は答えない。


代わりに小太刀を少弐の前へ差し出した。


「来たときから作っていた」


少弐が顔を上げる。


「最初から?」


「ああ」


少弐は思わず笑った。


「俺がどんな人間かも分からなかっただろう」


「分からなかった」


長も笑った。


「だから作りながら見ていた」


少弐は言葉を失った。


長は小太刀を差し出したまま言う。


「山へ行った」


「行ったな」


「馬を連れてきた」


「ああ」


「芋も持ってきた」


「それもな」


「熊にも向かっていった」


「あれは忘れてくれ」


「無理だ」


長が笑った。


そして少弐の目を見る。


「お前は息子だ」


少弐の表情が止まった。


「……息子?」


「ああ」


長にとって、それ以上の説明は必要ないらしかった。


「だから持っていけ」


少弐はようやく両手を出した。


小太刀を受け取る。


思っていたより重かった。


刃の重さではないように感じた。


少弐はしばらくそれを見ていた。


やがて、自分の腰に差していた小太刀を外した。


長が怪訝そうな顔をする。


「何をする」


少弐は自分の小太刀を差し出した。


「では、これは預かっていてくれ」


「なぜだ?」


「帰ってくるからだ」


今度は少弐が言った。


長が黙る。


「俺の小太刀をここへ置いていく」


少弐は長の手へ押しつけた。


「取りに帰ってくる」


長は小太刀を見る。


そして少弐を見る。


「俺が死んだらどうする」


「縁起でもないことを言うな」


「年は俺の方が上だ」


「なら長生きしろ。俺が困る」


長は声を上げて笑った。


そして少弐の小太刀を受け取った。


「預かる」


「ああ」


「だが返さないかもしれんぞ」


「そのときは取り返しに来る」


「なら、なおさら帰ってこなければならんな」


二人は笑った。


翌朝。


四月十日。


室蘭の海には、出航準備を終えたポラールとフリガッタが浮かんでいた。


まだ春の海とは呼びにくい。


北には氷が残っているかもしれない。


樺太まで順調に行ける保証など、どこにもない。


それでも船は北を向いていた。


少弐は乗船する前に一度振り返った。


長がいる。


室蘭の人々がいる。


幹家も残る。


建設途中の商館もある。


まだ何も完成していない。


だからこそ、また来る理由があった。


少弐の腰には、昨日までなかった小太刀がある。


室蘭の長の印が入った小太刀だった。


そして長の家には、少弐自身の小太刀が残されている。


長が遠くから声を上げた。


「少弐!」


少弐が振り返る。


「帰ってこい!」


少弐は笑った。


「だから俺の刀を預けただろう!」


それだけ答えて船へ乗った。


碇が上がる。


帆が開く。


室蘭の岸が少しずつ遠ざかっていく。


少弐は甲板から長い間、その岸を見ていた。


北へ行きたいと思っていた。


ずっとそう思っていた。


なのに、いざ船が動き出すと胸のどこかが妙に重かった。


ライラが隣へ来る。


「寂しいのか?」


「少しな」


少弐は素直に答えた。


そして腰の小太刀へ触れる。


「まあ、いい」


「なぜ?」


少弐は遠ざかる室蘭を見ながら笑った。


「帰ってくる場所ができた」


ポラールは北へ船首を向けた。


その先には南樺太がある。


さらに、その向こうにはまだ知らない北の海がある。


だが少弐の旅は、この日から少しだけ変わった。


北へ進む旅であると同時に――


室蘭へ帰ってくる旅にもなった。

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