春を呼ぶ輪 ― 少弐を囲う宴
それから少弐は、シレトクに教えてもらった川湯へ何度も通うようになった。
最初は腰をいたわるためだった。
熊騒動ではまた無茶をしたし、もともと腰には古傷がある。
シレトクからも、
「北へ行く前に治せるところは治しておけ」
と言われていた。
少弐も今回は素直だった。
朝から身体が重い日は川湯へ行く。
温かな湯に腰まで浸かり、ゆっくり身体を伸ばす。
最初のころは何もしない時間が落ち着かなかったが、何度も通っているうちに慣れてきた。
そして不思議なことに、少弐が少し立ち止まっている間にも、周囲は勝手に動いていった。
イネスは診療を続けながらカムイの伝承を集めている。
マリアは言葉を書き留め、アイヌ語と自分たちの言葉を結ぶ翻訳書を作ろうとしている。
大掾幹康はフリガッタ艦隊を動かし、無理のない範囲で蝦夷地沿岸の測量を続けている。
商館の準備も進み始めていた。
長の家に居候することになった大掾幹家も、最初こそ勝手の違いに戸惑っていたが、次第にこの土地の暮らしに馴染んでいった。
少弐はようやく、
――自分が全部やらなくてもいい。
と思えるようになっていた。
だから時間が空けば、ハビービのところへ行った。
「また来たのか」
ライラが言う。
「俺の鷹でもあるだろう」
「私に任せると言った」
「世話をしないとは言っていない」
「屁理屈だ」
そう言いながらも、ライラは少弐を追い払わなかった。
少弐が腕を差し出す。
ハビービが飛び移る。
そのたびに少弐は妙に満足そうな顔をした。
別の日には、シレトクとエカシロを連れ出した。
「今日は馬だ」
「またか」
シレトクは嫌そうな顔をした。
エカシロも馬を見る。
「俺までやるのか?」
「牛を扱うようになれば必要になる。室蘭とペナウシの間を行き来するにも便利だ」
「歩けばいい」
「乗れるようになってから言え」
二人を馬へ乗せる。
最初のころは、馬が少し動くだけで身体が固くなった。
だが何度も繰り返すうちに、少しずつ様になってくる。
シレトクは器用だった。
エカシロも慣れ始めれば飲み込みが早い。
「そうだ。手でしがみつくな。脚も使え」
少弐が横から教える。
「お前は簡単そうに言うな」
「俺も最初は落ちた」
「何回?」
「それは言わない」
馬上からシレトクが笑った。
何もすることがない夜には、長の家へ行った。
そこには幹家もいる。
酒を飲む。
キセルを回す。
時には何時間も話す。
坂東のこと。
海のこと。
山のこと。
戦のこと。
長は少弐たちの南の話を面白がり、幹家は長からこの土地の昔話を聞く。
少弐はその間で、キセルをふかしている。
仕事の相談をする日もあれば、何の役にも立たない話だけで夜が終わる日もあった。
そんな時間が、少弐はだんだん好きになっていた。
季節も少しずつ動いた。
雪の様子が変わる。
風の匂いが変わる。
日が長くなる。
まだ寒い。
それでも、春が近づいていることは誰にでも分かった。
そんなある日。
ペナウシコタンから人がやって来た。
一人や二人ではなかった。
熊騒動で顔を合わせた戦士たちだけでなく、何人もの男女が室蘭へ来た。
少弐が驚いて尋ねる。
「何かあったのか?」
「何もない」
「では、なぜこんなに?」
ペナウシの男が笑った。
「春になるだろう」
「ああ」
「春になったら忙しい」
山へ行く者もいる。
漁もある。
畑の準備も始まる。
少弐から預かる牛馬のこともある。
それぞれの家の仕事が動き出せば、今のように大勢で集まることも難しくなる。
だから――。
「その前に、お前を囲う」
「俺を?」
「そうだ」
少弐は少し困った顔をした。
「何をするんだ?」
「食う」
別の者が答えた。
「飲む」
さらに別の者が言った。
「話す」
「それだけか?」
「それ以外に何がいる」
少弐が笑った。
「なら行こう」
返事は早かった。
その日のうちに話が広がった。
室蘭からも参加する者が出た。
大掾幹家も行くと言い出した。
イネスは人が集まるなら話を聞けると喜び、マリアは言葉を集める絶好の機会だと帳面を用意した。
シレトクとエカシロは当然のように参加する。
そしてライラもいた。
ライラは、そんな光景を少し離れたところから眺めていた。
少弐の周りに人がいる。
誰かが話しかける。
少弐が答える。
別の誰かが笑う。
子供まで近寄ってくる。
また別の男が少弐の肩を叩く。
少弐も笑って何か言い返す。
いつの間にか、小さな人の輪ができていた。
ライラはぼんやりとそれを見ていた。
不思議な男だと思う。
少弐は剣の達人ではない。
ライラなら、それはよく分かる。
剣を取って自分と戦えば、勝負にならない。
槍はかなり使える。
それでも本当の達人と比べれば、遠く及ばない。
身体だって特別ではない。
腰を痛めて川湯に通っているくらいだ。
熊を前にして杖を振り回したと聞いたときには、本気で呆れた。
戦士として見れば――
ごく普通の男だ。
それなのに。
気がつけば、人が少弐の周りにいる。
坂東でもそうだった。
船の上でもそうだった。
室蘭へ来てもそうなった。
そして今度はペナウシの人々まで、春になる前に少弐と酒を飲みたいと言ってわざわざ迎えに来た。
少弐自身は、人を集めようとしているようには見えない。
偉そうに命令するわけでもない。
強さを見せつけるわけでもない。
ただ、自分ができないことをできないと言う。
山を知らなければ山を知る者に聞く。
働いてもらえば金を払う。
助けられれば礼を言う。
危険な役目が残れば、自分からそちらへ行く。
そして人と一緒に食べ、一緒に飲み、一緒に笑う。
それだけだった。
――生き方なのか。
ライラはふと思った。
少弐が強いのは、剣でも槍でもない。
この男は、生き方だけで人の輪の中へ入っていく。
気づけば誰かが隣にいる。
そして、その誰かがまた別の誰かを連れてくる。
少弐はその真ん中で、相変わらず何でもないような顔をしていた。
「ライラ!」
呼ばれた。
少弐だった。
「何をぼーっとしている」
「……見ていた」
「何を?」
ライラは少弐の周囲を見る。
ペナウシの者たち。
室蘭の者たち。
シレトク。
エカシロ。
幹家。
そして少弐。
少しだけ笑った。
「なんでもない」
「変なやつだな」
少弐はそう言って、また人の輪へ戻っていった。
ライラはその背中を見送る。
そして、今度は自分からその輪へ歩いていった。
春は、もうすぐそこまで来ていた。




