春を待つ室蘭 ― 行きたいような、残りたいような
室蘭での仕事は、少しずつ動き始めていた。
商館を建てる土地は認められた。
大掾幹康には十貫を元手として渡し、室蘭とペナウシの人々を雇いながら、まず医務室を優先して建設を進めることになった。
だが、建物ができるまでにも時間はかかる。
そこで少弐は、大掾幹康の祖父である幹家について長に頼み込んだ。
「しばらく、ここに置いてもらえないだろうか」
長が幹家を見る。
「この爺さんを?」
「爺さんとは何だ」
幹家がすぐ反応した。
長は笑った。
「元気だな」
「だから連れてきた」
少弐も笑う。
これから室蘭商館を任せるつもりなら、幹家自身がこの土地の暮らしを知らなければならない。
商館だけ完成させて、その中に坂東から来た人間だけで閉じこもっていては意味がない。
「できれば長の家に居候させてほしい」
「俺の家にか?」
「ああ」
長はしばらく幹家を見る。
幹家も長を見る。
やがて長が笑った。
「酒は飲めるか?」
「飲める」
「魚は?」
「食える」
「寒いぞ」
「まだ死ぬつもりはない」
「ならいい」
あっさり決まった。
こうして前下総守護・大掾幹家は、室蘭商館ができるまで、長の家に居候することになった。
少弐としては、これが一番よかった。
食事。
挨拶。
贈り物。
炉を囲む位置。
山や海についての考え方。
そしてカムイ。
書物を読んだだけでは分からないものを、幹家には生活そのものから覚えてもらう。
商館の初代責任者になるなら、何より先に室蘭の人間を知ってほしかった。
そのころ、イネスにも新しい仕事ができていた。
もちろん本業は医者である。
怪我人を診る。
熱を出した子供を診る。
古傷を診る。
薬草について聞かれれば、自分の知識と照らし合わせる。
だが診療の合間には、別のことを始めていた。
カムイについての整理である。
「山のカムイ」
「海のカムイ」
「火にもいる」
「病にも?」
「いる」
イネスは聞いたことを片端から書き留めていった。
熊騒動を経験したことで、彼女にも一つ分かったことがある。
外から見れば同じ「神」に見えても、彼らがカムイと呼ぶものは実に多様だった。
良いもの。
恐ろしいもの。
人を助けるもの。
近づいてはいけないもの。
生活のすぐそばにいるもの。
そして、悪いカムイになってしまうもの。
「これは分類するだけでも大仕事ね」
イネスは楽しそうだった。
薬草の記録の横に、いつの間にかカムイについての覚書が増えていった。
マリアはマリアで、別のものに夢中になっていた。
言葉である。
「シレトク、もう一回」
「またか?」
「同じ意味なのに、長が言った言葉とあなたが言った言葉が少し違う」
「そういうものだ」
「だから知りたいの」
マリアはアイヌの言葉を書き集め始めていた。
単語だけではない。
挨拶。
親族の呼び方。
山や川の名前。
船。
魚。
天候。
方角。
交易で使う言い回し。
それぞれを自分たちの言葉と対応させていく。
目標は、簡単な翻訳書を作ることだった。
「これがあれば、次に来る人は最初からシレトクを捕まえなくて済むでしょう?」
「俺は捕まえられていたのか」
「少弐にはね」
「それは否定できないな」
そんなやり取りまで書き留めようとして、シレトクに止められていた。
大掾幹康だけは、室蘭にじっとしていなかった。
フリガッタ艦隊を可能な範囲で散開させていた。
まだ冬の海である。
無理はさせない。
氷や風の状態を見ながら、出られる日は出る。
湾。
岬。
河口。
岩礁。
水深。
船を避難させられる場所。
可能な限り測る。
少しずつ海図を埋めていく。
「全部調べる必要はない」
大掾は艦隊へ命じていた。
「危ないと思ったら戻れ。春になったらまた行けばいい」
北方探索を続けるなら、何度も使える海図が必要になる。
今年だけの仕事ではなかった。
そして少弐は――。
意外なことに、鷹の世話をしていた。
本来、ハビービの扱いはライラに任せたはずだった。
ライラは多少なりとも鷹を扱った経験がある。
シレトクにも覚えてもらっている。
だから少弐自身が世話をする必要はない。
――ないのだが。
「おいで」
腕を差し出す。
ハビービが乗る。
少弐は嬉しそうだった。
それを見ていたライラが呆れる。
「私に任せたのではなかったのか?」
「任せた」
「では、なぜあなたが世話をしている」
「気になった」
「昨日もそう言っていた」
「今日は昨日とは違う」
「何が?」
「今日は羽の具合が気になった」
ライラは少弐の腰のあたりを見る。
熊騒動では、また無茶をした。
本人は平気な顔をしているが、腰にも膝にも古傷がある。
「少弐」
「なんだ?」
「無理をするな」
「鷹の世話くらいで?」
「鷹の話だけではない」
少弐は何も答えなかった。
ハビービの胸を指先で軽く撫でる。
ライラはそれ以上強く言わなかった。
ただ、
「北へ行けば、今より休めなくなる」
とだけ言った。
少弐にも分かっていた。
だからこそ、今くらいは休めということなのだろう。
そんなある日のことだった。
シレトクが妙に得意そうな顔でやって来た。
「少弐」
「なんだ?」
「来い」
「どこへ?」
「川だ」
少弐は嫌な顔をした。
つい先日まで熊を追って川沿いを歩き回っていた。
「今度は何が出た」
「何も出ない」
「本当か?」
「たぶんな」
「たぶん?」
シレトクが笑った。
「風呂を作った」
「……風呂?」
少弐の表情が変わった。
川湯だった。
温かい湯が湧く場所を利用し、シレトクたちが少し手を入れて、人が浸かれるようにしたという。
「お前、腰が悪いだろう」
シレトクは当然のように言った。
「入れ」
少弐はしばらく黙った。
そしてライラを見る。
ライラは笑っていた。
「行ってこい」
「ハビービは?」
「だから私に任せろと言っている」
少弐は素直に従うことにした。
川湯に身体を沈めると、思わず長い息が漏れた。
「……これはいいな」
「だろう」
シレトクが満足そうに言った。
雪の残る山。
冷たい川。
その傍らから湧く温かな湯。
少弐は肩まで浸かりながら、ぼんやり空を眺めた。
もうすぐ春になる。
ポラールも整備される。
フリガッタ艦隊の測量も進んでいる。
海が許せば宗谷へ向かい、さらに樺太へ渡る。
その先には、まだ見たことのない北の海がある。
イッカクもいるかもしれない。
ずっと追いかけてきたものだった。
早く行きたい。
その気持ちは変わっていない。
だが――。
少弐は室蘭の方角を見る。
長がいる。
幹家がいる。
イネスは人を診ながらカムイについて調べている。
マリアは言葉を集めている。
大掾は海図を作っている。
ペナウシには、これから芋を植え、牛や馬を預けることになる。
そしてライラは、ハビービの世話をしながら自分が戻るのを待っているだろう。
「シレトク」
「なんだ?」
「いつごろ出られると思う?」
シレトクは空を見た。
それから川を見る。
「海に聞け」
「それが分からないから聞いている」
「俺にも分からん」
少弐は笑った。
「役に立たんな」
「山のカムイを探す場所を外した男に言われたくない」
「まだ言うか」
二人の笑い声が川辺に響いた。
少弐はもう一度、湯の中へ深く身体を沈めた。
早く北へ行きたい。
けれど、もう少しここにいてもいいような気もする。
旅の途中に立ち寄っただけだったはずの室蘭が、いつの間にか帰ってくる場所になり始めていた。
春を待つ時間は、不思議だった。
出航の日が待ち遠しいのに、その日が来てしまうことを、ほんの少し惜しいとも思う。
少弐はそんな自分の気持ちを、まだうまく言葉にはできなかった。




