北海の商館 ― 大掾三代、それぞれの北方
熊騒動が決着した翌日、室蘭に新たな船影が現れた。
ポラールと、坂東フリガッタの一部である。
二月中から三月いっぱいまで、ポラールとフリガッタ艦隊には別の仕事が与えられていた。
蝦夷地沿岸の測量である。
樺太へ渡るにはまだ早い。
ならば待っている時間を無駄にはしない。
大掾幹康は艦隊を使って蝦夷地沿岸を巡らせ、岬、湾、河口、浅瀬、岩礁、停泊可能な場所を一つずつ記録させていた。
マリアも航海術と測量の面からこれに協力していた。
目標は、これまで和人やアイヌの案内に頼っていた蝦夷地の輪郭を、実際に船を走らせて確かめること。
すなわち――
蝦夷地外周地図の作製。
「三月いっぱいはこれを続ける」
室蘭へ上陸した大掾は、少弐に海図を見せながら言った。
「春になれば北へ行くのだろう?」
「ああ」
「なら、その前に帰ってくるための地図を作っておく」
少弐は笑った。
「相変わらず堅実だな」
「お前が堅実ではないからだ」
熊に杖を持って向かっていった話は、すでにマリアから聞かれていた。
マリアまで呆れた顔をしている。
「ライラから聞いた」
「もう聞いたのか」
「とても詳しく」
少弐は話題を変えることにした。
「……長のところへ行こう」
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長の家では、少弐が大掾を紹介した。
「大掾幹康。坂東から来た私の仲間だ」
大掾は長へ頭を下げた。
そして単刀直入に本題へ入った。
「ここに商館を建てさせてもらいたい」
長は少弐を見る。
以前から聞いていた話だった。
「商人が使う蔵も造りたい。それから医者を住まわせる」
大掾は持参した贈り物を出させた。
金二十貫。
酒。
そして、鷹を意匠とした坂東の紋章が入ったサーベル。
長はサーベルを手に取り、鷹の意匠を面白そうに眺めた。
しかし、すぐに返した。
「いらん」
大掾が一瞬固まった。
「……少ないか?」
「違う」
長は笑った。
そして少弐を指した。
「こいつの友なのだろう?」
「ああ」
「なら建てればいい」
今度は少弐が困った。
「長。それではこちらが困る」
「なぜだ?」
「土地を使わせてもらう。蔵まで建てる。こちらだけが得をしてはいけない」
「お前にはいろいろ貰った」
「それとこれは別だ」
長は面倒そうな顔をした。
「いらんものはいらん」
少弐も引かなかった。
「なら、友からの贈り物だと思って受け取ってくれ」
「お前はしつこいな」
「よく言われる」
長はしばらく少弐を睨んでいた。
やがて諦めたように酒へ手を伸ばす。
「……カムイに好かれる者がそこまで言うなら、仕方ない」
「そうしてくれ」
「だが、これを貰ったから商館を認めるのではないぞ」
長は大掾へ言った。
「少弐の友だから認める」
大掾は深く頭を下げた。
「それで十分だ」
こうして室蘭商館建設は正式に認められた。
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そして今回、大掾が室蘭へ連れてきた人々の中に、少弐も予想していなかった老人がいた。
「……誰だ?」
少弐が尋ねる。
大掾は平然と答えた。
「祖父だ」
「祖父?」
大掾幹家。
かつて下総守護を務めた人物である。
すでに政治と軍事の第一線からは退いている。
――のだが。
「全然隠居に見えんぞ」
少弐は率直に言った。
背筋はまだ伸びている。
声も大きい。
何より目が生きていた。
幹家が笑った。
「隠居したからといって死んだわけではない」
「それはそうですが」
大掾が横から言った。
「だから連れてきた」
少弐は嫌な予感がした。
「何をさせるつもりだ?」
「室蘭商館の初代所長」
「隠居とは?」
「役職を退いたという意味だ」
「また役職につけているじゃないか」
幹康には幹康なりの理由があった。
祖父はまだ元気である。
だからといって坂東に置いておけば、再び政治や戦争に巻き込まれる可能性がある。
戦乱から遠い土地で暮らしてほしい。
しかし完全に仕事を取り上げれば、それはそれで老け込むかもしれない。
「安全なところで働いてもらう」
大掾は堂々と言った。
「頭も使う。人とも会う。商人とも話す。だが戦には出ない」
少弐は妙に納得してしまった。
しかも室蘭商館には医者の一家も常駐する。
高齢の幹家を置く場所として考えれば、確かによくできていた。
幹家本人も気に入っている。
「面白いではないか」
「何がです?」
「この歳になって、蝦夷地で商館を任されるとは思わなかった」
少弐は笑った。
「では、よろしくお願いいたします。初代所長殿」
「任せておけ」
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だが大掾幹康の人事は、それだけではなかった。
函館にも重要人物を配置していた。
父・大掾幹重。
少弐はそれを聞いて、さすがに言った。
「お前、大掾家を北へ移住させるつもりか?」
「違う」
「祖父を室蘭、父を函館に置いておいて?」
「適材適所だ」
幹康は真面目だった。
函館は室蘭とは性格が違う。
和人社会との接点であり、津軽海峡を押さえる場所でもある。
南には津軽。
さらに南部。
何か起きれば、政治問題になる可能性もある。
だから幹康は父を置いた。
「父なら津軽と南部に何かあっても判断できる」
さらに函館には艦隊の一部を利用できる態勢を整える。
「必要なら父に艦隊を率いてもらう」
少弐が呆れる。
「祖父には安全な場所で働いてほしいと言っておいて、父には艦隊を率いさせるのか」
「父はまだ働ける」
「人使いが荒いな」
「よく言われる」
今度は大掾が同じ言葉を返した。
マリアが横で笑っていた。
こうして大掾家三代は、奇妙な形で北方経営に組み込まれることになった。
祖父・幹家――室蘭。
アイヌとの交易と交流を担う商館初代所長。
父・幹重――函館。
津軽海峡と和人社会を見張り、有事には艦隊を動かせる北方の軍事・外交責任者。
孫・幹康――海上。
ポラールと坂東フリガッタを使い、蝦夷地そのものを測る。
そして少弐たちは、そのさらに先――宗谷、樺太、そしてイッカクのいる北の海を目指す。
二月末。
まだ北へ渡る季節ではない。
だが室蘭ではすでに、春から始まる北方遠征を支える最初の恒久的な足場が形になり始めていた。




