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川へ下りた悪いカムイ

翌朝、出発しようとする少弐たちを、長が呼び止めた。


その傍らには一頭の犬がいる。アイヌの猟に慣れた犬で、少弐たちを見ると鼻を鳴らした。


「連れていけ」


「犬を?」


「お前たちは川を見ると言った。なら人間の目より、この者の鼻の方が役に立つ」


少弐は犬の前にしゃがんだ。


「借りてもよいのか」


「だから連れてきた」


長はぶっきらぼうに答えたが、明らかに少弐たちを心配していた。


昨日、少弐があえて本隊から外れて川筋を引き受けたことも分かっている。


「無理に追わせるな。見つけたら戻れ。山のカムイと犬を戦わせるために貸すのではないぞ」


「承知した」


今日はエカシロも加わった。


少弐、ライラ、シレトク、エカシロ。


そして犬。


出発前、少弐は荷から二挺の単筒を取り出した。


銃身こそ短いが、近距離なら熊にも十分な威力を期待できる。その握りには、少弐家の門が入っていた。


「シレトク」


「なんだ?」


少弐は一挺を差し出した。


「持っていろ」


シレトクが目を丸くする。


「俺が?」


「使い方は教えただろう。遠くを撃つものではない。もし出会ってしまったときの最後の備えだ」


もう一挺をエカシロへ渡す。


「お前もだ」


エカシロはしばらく家紋を眺めてから、慎重に受け取った。


「これはお前の家の印だろう」


「だからどうした」


「大事なものではないのか?」


「大事だから渡している」


少弐は当然のように答えた。


そしてもう一挺をライラへ差し出したところで、彼女は腰を軽く叩いた。


「持っている」


「……いつからだ?」


「前から」


見ると本当にある。


少弐は少し考え、自分の腰にある単筒を外した。


「なら、これも使え」


「二挺?」


「俺は杖がある」


少弐は普段使っている丈夫な杖を持ち上げた。


「こいつを槍みたいに使う。だから俺の分もお前が持て」


ライラは露骨に嫌そうな顔をした。


「熊に杖で向かうつもりか?」


「向かうつもりはない」


「出たら?」


「逃げる」


「追ってきたら?」


「そのときはお前が撃て」


ライラはしばらく少弐を睨んでいたが、結局単筒を受け取った。


「私より先に前へ出るな」


「分かった」


「絶対だぞ」


「……努力する」


「分かったと言え」


エカシロが吹き出した。


こうして四人と一頭の探索が始まった。


昨日の予想どおり、山へは向かわない。


沢を拾いながら、少しずつ海の方角へ下っていく。


春とはいえ、室蘭の水はまだ冬の冷たさを残していた。雪解け水が混じった川は手を浸せば刺すように冷たい。


犬は時折立ち止まり、鼻を地面へ近づけた。


最初のうちは何もない。


シレトクも半信半疑だった。


「やっぱり山じゃないか?」


「かもしれん」


少弐はあっさり答える。


「なら今日は無駄足だ」


「それで済めば一番いい」


その言葉から、さらにしばらく歩いたときだった。


犬が止まった。


耳が立つ。


低く鼻を鳴らし、川岸の泥へ向かう。


「どうした?」


エカシロが先に気づいた。


「待て」


しゃがみ込む。


そして動かなくなった。


「……あるぞ」


全員が集まった。


湿った川岸に、大きな窪みがある。


一つではない。


二つ。


三つ。


川に沿って、海の方角へ続いている。


シレトクが手を当てた。


「山のカムイだ」


少弐は何も言わなかった。


ライラが横から彼を見る。


「当たったな」


「喜べる当たり方ではないな」


しかも古い跡ではなかった。


シレトクとエカシロが相談する。


「昨日か?」


「いや……もっと新しいかもしれん」


少弐はすぐに決めた。


「エカシロ」


「うん?」


「長へ知らせてくれ」


エカシロが顔を上げる。


「いまか?」


「いまだからだ。見つけた以上、四人だけで追う理由がない。山の組にも知らせてもらえ」


少弐は足跡を指した。


「ここから先は、捜索ではなく追跡になる」


エカシロも異論はなかった。


「分かった。ここを動くなよ」


「周辺だけ見る」


「それを動くと言うんだ」


そう言い残して、エカシロは長のもとへ走った。


残った三人は、熊そのものを追わず、足跡の周囲を調べた。


すると少弐は妙な跡を見つける。


川岸の浅瀬。


石が動いている。


さらに少し離れたところには、前脚で掻いたような跡が残っていた。


シレトクがしゃがみ込んだ。


「魚だ」


「やはり?」


「ああ。魚を探したんだろう」


だが食べた形跡がない。


魚の骨もない。


食い散らかした跡もない。


川を探って――やめている。


少弐は水へ手を入れた。


「――っ」


思わずすぐに引き抜いた。


ライラが呆れた。


「何をしている」


「確認した」


「何を?」


「冷たい」


「見れば分かる」


それでも少弐は川を見つめた。


春とは名ばかりである。


雪解け水の入った室蘭の川は、まだひどく冷たい。


「魚を探しに来た。だが、うまく取れなかった」


シレトクも考え込む。


「腹を減らしているな」


その一言で空気が変わった。


冬眠から目覚め、食料を求めている。


人を襲った。


肩には矢が刺さっている。


山を下り、川まで来た。


そして魚まで探したのに、腹を満たせていない。


ライラが静かに言った。


「では、まだ食べ物を探している」


「そうなる」


少弐は立ち上がった。


海の方角を見る。


ここまで来れば、人の暮らす場所にも近くなっていく。


「まずいな」


シレトクも同じことを考えたらしい。


「コタンへ向かうかもしれない」


少弐は首を横に振った。


「分からない。だから決めつけない」


昨日、自分たちは「熊なら山にいる」という決めつけを外したから、この足跡を見つけられた。


ここでも同じだった。


「熊が何を考えているかではなく、何をしたかを見る」


少弐は川岸を杖で示した。


「山を下りた。水辺へ来た。魚を探した。しかし食えていない。そして海の方角へ歩いている」


そこまでは事実である。


その先は推測だった。


少弐は杖を握り直した。


「エカシロが皆を連れてくるまで、追わない」


ライラが少し意外そうに見る。


「追わないのか?」


「四人で見つけたのに、いまは三人だぞ」


「まともな判断もできるんだな」


「俺をなんだと思っている」


シレトクが答えた。


「損な役目をわざわざ選ぶ余所者」


「……否定しづらいな」


だが、そのときだった。


犬が海とは少し違う方向へ顔を向けた。


鼻を高く上げる。


先ほどまでとは違う。


全身が硬直していた。


やがて――低く唸った。


三人から笑みが消えた。


少弐は杖を両手で握る。


ライラの手が単筒へ伸びる。


シレトクも少弐から渡された家紋入りの単筒を抜いた。


足跡を見つけたのではない。


犬は風の中に、何かの臭いを嗅ぎ取っていた。

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