悪いカムイを追う者たち ― 山ではなく川へ
その日の午後、長の家には室蘭の戦士だけでなく、ペナウシコタンから追跡してきた戦士たちも集まっていた。
囲炉裏を囲む顔ぶれは、朝よりもずっと多い。
ペナウシコタンを襲った穴持たず――すでに彼らが「悪いカムイ」と言い切るようになった山のカムイは、老人ひとりを襲ったあと、室蘭の方角へ向かっていた。
追ってきた戦士のひとりが、床に広げられた簡単な地図を指でなぞった。
「ここだ。コタンを出て、こっちへ向かった。途中までははっきりしていた」
「それで、昼前に新しい足跡を見つけた」
別の男が続ける。
「室蘭との間の山だ。だから俺たちはそのまま追ってきた」
シレトクが尋ねた。
「肩の矢は?」
「ああ。まだ刺さっているはずだ」
ペナウシの戦士が苦々しく答える。
「襲われた直後に射た。小柄だが大人だ。すばしっこい。肩に一本入ったが、まるで気にしていなかった」
長が低く唸った。
「なら、見間違えることはないな」
「ない。矢をつけた山のカムイなど、そう何頭もいるものか」
少弐は黙って聞いていた。
だが、一つ気になった。
「ひとつ聞いてよいか」
皆の視線が向く。
少弐はシレトクを介しながら、ゆっくり尋ねた。
「この辺りの山のカムイは、普段ならどこにいる?」
「どこと言われてもな」
長は少し困った顔をした。
「季節で違う」
別の老人が口を挟む。
「秋なら小川沿いにもよく下りる。魚もあるし、木の実のあるところも歩く」
「では春は?」
「山だな」
今度は何人かが同時に答えた。
「冬眠から起きたばかりなら、山を歩く」
「雪の消えたところから新芽を探す」
「草の根も掘る。食えるものを探して歩き回る時期だ」
シレトクも頷いた。
「だから俺たちも山を探したんだ。今朝からずっとな」
少弐は腕を組んだ。
それならば――。
「……おかしくないか」
長が顔を上げる。
「何がだ?」
「山にいるはずなのだろう」
「ああ」
「だから皆、山を探した」
「ああ」
「だが、いなかった」
部屋が静かになった。
少弐は地図を見る。
自分は山を知らない。
この土地で生まれ育った者たちに比べれば、山のカムイについても、雪解けの沢についても、獣道についても何も知らない。
だからこそ、別の考え方をした。
「山にいるはずだから山を探す。それは正しいと思う」
少弐は言った。
「だが、その山にいないのなら――もう山を下りたのではないか?」
ペナウシの戦士たちが顔を見合わせた。
長も黙った。
「足跡は山へ向かっている」
「途中までは」
少弐は答えた。
「そこから先を見失ったのであろう?」
「……そうだ」
「ならば、山へ入ったところまでは分かる。山に居続けていることまでは分からない」
シレトクが少弐を見る。
その表情が少し変わった。
「冬明」
「なんだ」
「お前、何を考えている?」
少弐は地図の山から指を滑らせた。
谷。
沢。
そして川。
「水だ」
「水?」
「怪我をしている」
肩には矢が刺さっている。
冬眠明けで空腹でもある。
山の新芽を食べて回る普通の山のカムイならともかく、人を襲い、追われ、傷まで負った獣である。
少弐は言った。
「私は山のことを知らない。だから山は皆に任せる」
それを聞いた何人かが、意外そうな顔をした。
少弐はあっさり続けた。
「私は川を探す」
「川を?」
「沢から川へ下りる道を探す。水を飲むかもしれぬ。川沿いなら食えるものもあるだろう。それに――」
少弐は少し考えてから付け加えた。
「人のいるところにも近づく」
それが一番嫌な可能性だった。
ペナウシで人を襲った。
人間を恐れて山へ逃げる熊なら、まだ話は単純である。
だが一度人を獲物として認識した個体なら、山へ追い込まれたからといって、山に留まるとは限らない。
長はしばらく黙っていた。
やがて、
「……川は楽ではないぞ」
と言った。
少弐は苦笑した。
「知っている」
「いや、お前は知らん」
シレトクが即座に言った。
何人かが思わず笑った。
張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
「春の川沿いは歩きにくい。雪解けで水が増えている。藪もある。足跡も消える」
「なるほど」
「それに、もしお前の考えが当たっていたら」
シレトクは真顔に戻った。
「川を探す組が、最初に悪いカムイと会う」
少弐は少し黙った。
それは分かっていた。
山の捜索隊は人数を揃えられる。
地形を知る戦士も多い。
一方、川筋を探すのは少数になる。
しかも自分が言い出した以上、危険だから他人に任せるわけにもいかなかった。
「だから私が行く」
「お前は山を知らないと言ったばかりだろう」
「だからだ」
少弐は笑った。
「山を知らぬ者が山へ行っても足手まといになる。川ならまだ分かる。水は下へ流れるからな」
「それくらい俺たちも知ってるぞ」
また小さな笑いが起きた。
だが長だけは笑わなかった。
少弐の意図に気づいていた。
これは手柄を狙った提案ではない。
むしろ逆だった。
山には足跡という確かな手掛かりがある。
戦士の大半も、熊は山にいると考えている。
ならば山へ行った方が、獲物を仕留める可能性は高い。
少弐はそこから自ら身を引いた。
「山は皆に任せる」
そう言えば聞こえはいい。
実際には――誰も確信していない方を、自分が引き受けたのである。
長が尋ねる。
「誰と行く」
「私とライラ、それからシレトク」
即答だった。
シレトクが目を丸くする。
「俺も決まってるのか」
「山を知らぬ私だけで行けと言うのか?」
「……ずるい言い方をするな」
ライラが横で小さく笑った。
「私は?」
「君は――」
少弐が言いかけると、ライラは先に答えた。
「聞くだけ無駄だ。行く」
「そう言うと思った」
長は三人を順番に見た。
そして、太い指で地図の川筋をなぞった。
「なら、ここから入れ」
山から流れてくる一本の沢だった。
「水そのものだけを見るな。泥を見るんだ。川岸の柔らかいところなら足が残る。それから柳の藪だ。山のカムイが通れば枝が折れる」
ペナウシの戦士も身を乗り出した。
「肩に矢がある。狭い藪を通れば、矢が枝に当たるかもしれん」
「血も残るか」
「残ればな。ただ、あまり期待するな。あれだけ動いているなら傷は浅い」
少弐は頷いた。
こうして捜索隊は二つに分かれることになった。
本隊は、足跡が見つかった山へ。
少弐、ライラ、シレトクの三人は、そこから外れて川筋へ。
一見すれば、少弐が獲物を仕留める役目を土地の戦士たちへ譲り、自分は外れ仕事を引き受けた形だった。
そして少弐自身も、たぶんそれでいいと思っていた。
山のことは彼らの方が知っている。
自分は余所者なのだから。
ただ――。
長の家を出るとき、シレトクだけが振り返った。
山を見た。
次に川の方角を見る。
そして少弐に小声で言った。
「冬明」
「なんだ?」
「お前の考えが外れていれば、俺たちは一日川を歩いて終わりだ」
「ああ」
「当たっていたら?」
少弐は腰の短筒を確かめた。
ライラも無言で剣の位置を直している。
少弐は答えた。
「――三人で最初に会うことになるな」
シレトクは深いため息をついた。
「やっぱり損な方を選んでるじゃないか」
少弐は否定しなかった。
三人は山へ向かう戦士たちとは反対に、雪解け水の音がする谷へ歩き始めた。




