穴持たず――山から降りた悪いカムイ
室蘭での暮らしにも少し慣れ始めた、ある日のことだった。
長が珍しく険しい顔で少弐たちのところへやってきた。
普段ならまず挨拶を交わし、酒の一杯でも口にしてから話を始める男だったが、その日は違った。
「悪いカムイが出たぞ」
シレトクの表情がすぐに変わった。
長は集まった者たちを見渡した。
「しばらく、外にいるときは一人になるな。必ず何人かで動け。用もないのに山へ入るな。女や子どもは特にな」
そして少弐たちにも告げた。
「戦士は長の家に集まってくれ。話がある」
少弐は杖を取り、ライラとシレトクを伴って長の家へ向かった。
すでに何人もの男たちが集まっていた。弓や槍を手元に置いた者もいる。
長は皆が揃うのを待ってから口を開いた。
「穴持たずが出た」
少弐には意味が分からなかった。
「穴持たず?」
シレトクが小声で説明する。
「冬になっても穴に入らない熊だ」
長が続けた。
「近くのコタンが襲われた。人もやられた」
室内から話し声が消えた。
「熊は本来、山にいるカムイだ。人のところへ来れば、我々は礼を尽くして送り返す。だが――」
長の声が低くなる。
「人を恐れなくなった熊は違う。人の家へ来て、人を獲物にするようになったものは、もう放ってはおけない」
長は少し考えてから、少弐たちにも理解できる言葉を選んだ。
「カムイが、悪いカムイになってしまった。」
マリアもイネスも黙って聞いていた。
ライラだけは腰の剣へ一度目を落とした。
少弐は尋ねる。
「こちらのコタンにも来る可能性があるのか?」
「分からん。だから怖い」
長は即答した。
山へ戻ったのか。それとも海岸沿いに移動しているのか。再び人のいる場所を狙うのか。
分からないからこそ、狩りに出る者も薪を拾う者も、単独行動を禁じるという。
「見つけても追うな。まず知らせろ。足跡を見ても一人では辿るな」
長は戦士たちを見回した。
「こちらへ来ると分かったら、そのときは皆で仕留める」
少弐はそこで初めて、この話が単なる猛獣退治ではないのだと理解した。
彼らにとって熊は、ただ恐ろしい獣ではない。
本来なら敬意をもって迎え、送り返すべき存在。
だからこそ、それが人を襲うものへ変わってしまったことを、長は**「悪いカムイになった」**と表現したのだ。
少弐は静かにうなずいた。
「分かった。我々も勝手には動かない。ポラールやエスペランザの者にも伝える」
そして少し考える。
「ただ、もし本当にこちらへ来るなら――我々にもできることがある」
長が少弐を見る。
少弐が持ってきた短筒だけではない。
船には銃がある。
だが少弐は、それをすぐに持ち出すとは言わなかった。
ここには、この土地で熊と暮らしてきた者たちのやり方がある。
まずそれを聞くべきだ。
「穴持たずをどう仕留めるのか、教えてくれ」
その言葉に、長はゆっくりとうなずいた。
こうして室蘭のコタンでは、夜の火を絶やさず、外出する者は組を作ることになった。
そして少弐たちにとっても初めてとなる、北の山の「悪いカムイ」との対峙が始まろうとしていた。




