一五七一年一月二十二日――冬の室蘭、家族になるための商館
一五七一年一月二十二日。
冬の海を急いだポラールは、ついに室蘭へ帰り着いた。
甲板から見える景色は、以前ここを訪れたときとはまるで違っていた。
山肌には雪が残り、海から吹き込む風は肌を刺すように冷たい。吐いた息はすぐ白くなり、波打ち際にも冬の色が濃い。
少弐冬明は外套の襟を立てながら、その景色をじっと眺めた。
「……間に合ったな」
隣に立ったライラが呆れる。
「何にだ?」
「冬に」
「普通は間に合いたくないものだと思うが」
「だからこそ見に来たんだよ」
これから人を住まわせようという土地である。
春になって暖かくなってから訪れて、「ここなら暮らせる」と判断するのでは意味がない。
少弐は、この土地がもっとも厳しい姿を見せる季節に自分で暮らしてみたかった。
そしてもう一つ。
ここからさらに北へ向かえる最初の日を、自分の目で見極めたかった。
だが、それは明日からでいい。
今日はまず、帰ってきたことを知らせなければならない。
ポラールには少量ながら医薬品も積んできていた。
大掾が後から大量の薬と二組の医師一家を連れてくる予定だが、それまで何もしないわけではない。イネスが診療できるだけの薬、布、酒などは先行して持ってきている。
そして、もう一つ。
少弐が土浦を発つ直前、わざわざ自分で選んだ荷があった。
酒だった。
以前訪れた際、室蘭の長が濁り酒をずいぶん気に入っていた。
ならば今度は、もっと色々飲んでもらおう。
日本酒。
葡萄から造ったワイン。
そして馬乳酒。
造り方も原料もまるで違う三種類を選んだ。
少弐には少しした悪戯心もあった。
世界にはこんな酒もあるのだと、長と飲み比べてみたかったのである。
さらに酒器も用意した。
最初は異国のガラス器を考えた。
だが店先でいくつか眺めているうちに、少弐は首を振った。
「……違うな」
長がガラスの杯を持つ姿を想像したが、どうもしっくりこない。
そこで選んだのが、坂東の笠間焼だった。
土の色と手触りを残した、少し厚手の酒器である。
華美ではない。
だが火と土から生まれた素朴な器は、室蘭の長が手にしている姿を想像すると妙に似合った。
少弐はそれをいくつか買い求め、ポラールへ積んでいた。
上陸すると、一行はシレトクの縁を頼ってコタンへ向かった。
前回顔を合わせた者たちは、少弐たちの姿を見るとすぐに気づいた。
何よりシレトクが一緒なのだから話が早い。
ほどなくして、長のところへ通された。
少弐はまず頭を下げた。
「また来ました」
長は笑った。
「早かったな」
「俺もそう思います」
「しかも一番寒いときに来た」
「それはわざとです」
長は怪訝そうにしたが、少弐はまだ説明しなかった。
まずは贈り物である。
持ってきた酒を並べる。
「前に濁り酒を気に入ってくれたでしょう」
長の顔が明らかに明るくなった。
少弐は一本ずつ示した。
「これは日本の酒。こっちは葡萄の酒。そしてこれは馬の乳から造る酒です」
「馬の乳?」
さすがに長もそこへ食いついた。
「俺が造ったわけではありませんよ」
少弐が笑う。
「世界には色々な酒があります。あとで一緒に飲みましょう」
そして笠間焼の酒器を取り出した。
長は手に取ると、表面を指でなぞった。
「土か」
「ええ」
少弐は少し嬉しそうに言った。
「ガラスもあったんですが、あなたにはこっちのほうが似合うと思って」
長は器を眺め、それから少弐を見る。
「お前が選んだのか」
「俺が選びました」
「なら使おう」
それだけで少弐は満足だった。
挨拶が済むと、少弐は少し姿勢を正した。
「それで――さっそくなんですが」
シレトクが横から少弐を見る。
もう仕事の話か、という顔だった。
少弐は構わず続けた。
「ここに、俺たちの商館を建てたいんです」
長は黙って聞いた。
「蔵を建てて、北と南を行き来する品を預けられるようにする。船が来れば休める場所も作る。でも、商人だけを置くつもりではありません」
少弐はポラールから運んできた薬箱へ目を向けた。
「今はイネスがやっているようなことを、ここで続けられるようにしたい」
イネスも長の前へ出た。
これまでの旅でも、怪我人や病人がいれば可能な範囲で診てきた。
だがイネスは少弐たちとともにさらに北へ行く。
ずっと室蘭にいることはできない。
「だから医者を呼びます」
少弐は言った。
「一人じゃありません。家族ごとここへ移り住んでもいいという者を探してもらっています」
長が少し驚いた。
「家族も?」
「そのつもりです」
商館で働く者が病気になったときだけ診る医者ではない。
この土地で暮らす。
必要なら近くの者も診る。
そして北方の薬草や治療法については、逆にシレトクたちから学ぶ。
少弐はそう説明した。
「商売だけをしたいわけじゃないんです」
そこで少弐は少し言葉を探した。
外交官なら、もっと上手な言い方があった。
交易による相互利益。
恒久的友好関係。
航路の安定。
いくらでも立派な言葉を並べられる。
だが、このときはそういう言葉を使いたくなかった。
「……これからも、家族みたいに付き合っていきたいんです」
ライラが少弐を見る。
イネスも少しだけ微笑んだ。
これは外交官として用意した台詞ではなかった。
長い北方の旅で、少弐自身が本当にそう思うようになっていた。
北へ来れば助けてもらう。
知らないことを教えてもらう。
南から来た品を渡す。
病人がいれば診る。
一緒に食べる。
一緒に酒を飲む。
また旅立つ。
そして帰ってくる。
少弐にとって室蘭は、いつの間にか地図上の中継地点ではなくなっていた。
長はしばらく少弐を見ていた。
やがて笑った。
「少弐がそう言うなら、いい」
あまりにもあっさりしていたので、少弐のほうが驚いた。
「……いいんですか?」
「お前はカムイに好かれている」
以前から言われている言葉だった。
「そのお前が連れてくる仲間なら、問題ない」
少弐は思わずシレトクを見る。
シレトクは肩をすくめただけだった。
条件について細かい話は出なかった。
どれほどの土地を使うのか。
どこへ蔵を置くのか。
何を毎年渡すのか。
それらはまだ決めなくていい。
少弐も今日すべてを決めるつもりはなかった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げてから、付け加える。
「ただ、後から坂東の使者が正式に来ます」
「使者?」
「大掾という男です」
少弐は少し笑った。
「俺よりずっと偉そうな船乗りが来ます」
「偉いのか?」
「実際、偉いです」
ライラが横から、
「少弐よりはな」
と付け加えた。
「余計なことを言うな」
笑いが起こった。
少弐は改めて長へ向き直る。
「その大掾が、正式に金や薬、それから医者たちを連れてきます。そのときに商館の場所や、こちらから何を渡すべきか、改めて話したい」
長は頷いた。
「分かった。考えておく」
これで今日の仕事は終わりだった。
少弐はそこで表情を崩した。
「では――」
先ほど渡した笠間焼の酒器を指差す。
「仕事の話は、もう抜きにしましょう」
長も意味を察した。
少弐は日本酒を持ち上げる。
その隣にはワイン。
さらに馬乳酒。
「どれが一番うまいか、一緒に酒比べをしませんか」
長が声を上げて笑った。
「全部飲むのか?」
「そのために持ってきたんです」
「お前は強いのか?」
少弐は一瞬黙った。
ライラとイネスが同時に少弐を見る。
シレトクまで見た。
「……まあ」
少弐は少し視線を逸らした。
「そこは飲んでみれば分かります」
また笑いが起こった。
外では冬の室蘭の風が吹いていた。
少弐はその風の中へ、これから商館を建てようとしている。
だが、この日の少弐にとって重要だったのは、土地を何間借りるかでも、五十貫をどう配るかでもなかった。
まず一緒に酒を飲むことだった。
交易相手になる前に、隣人になる。
隣人になる前に、友になる。
そして少弐自身が言ったように――いつか本当に、家族のようになる。
笠間焼の器へ最初の酒が注がれた。
室蘭商館の始まりは、契約書ではなく、冬の夜の酒比べから始まったのである。




