冬海を駆けるポラール――春を待つのではなく
「急がなくていい。春になる前に室蘭へ来てくれ」
大掾幹康にそう言い残すと、少弐冬明は早々に港へ向かった。
大掾には大掾の仕事がある。
金五十貫を用意し、十分な医薬品を揃え、室蘭と南樺太へ移住してもよいという医師を二人、それも可能なら家族ごと探してもらわなければならない。
だから急がせなかった。
ただし、春になる前には来てもらう。
そして大掾本人が来なければならない。
そこだけは念を押した。
少弐が次に急いだのは、自分自身だった。
港には二隻の船が停泊している。
高速外洋船――ポラール。
大型修理母艦――エスペランザ。
少弐は迷わずポラールへ向かった。
甲板ではライラが出航準備を確認していた。
「ライラ」
呼ばれて振り返ったライラは、少弐の表情を見るなり眉を寄せた。
「……また急ぐ顔をしているな」
「分かるか」
「分かるようになった」
少弐は笑った。
「室蘭まで、できるだけ飛ばしてくれ」
ライラは即答しなかった。
代わりに空を見て、それから海を見た。
「冬だぞ」
「承知している」
「風が悪ければ待つ」
「もちろん」
「荒れれば港へ逃げる」
「それも任せる」
「船や人間を壊してまで急ぐつもりはないぞ」
「そこまで頼んでいない」
少弐が欲しいのは無謀な航海ではない。
安全を確保したうえで、不要な寄港をできるだけ省くことだった。
「寄らなくてもいい港なら飛ばしてくれ。それだけだ」
「理由は?」
「冬の室蘭を見たい」
ライラは少し意外そうな顔をした。
「そんなに冬が好きだったか?」
「まさか」
少弐は首を振った。
「だが、人を住まわせるなら一番厳しい季節を見ておかなければならない」
今度の室蘭行きは、これまでとは意味が違う。
シレトクの親類を頼り、商館を置く。
蔵を建てる。
船が入れば荷を預かれるようにする。
そして大掾が連れてくる医師一家のうち、一家族には実際にそこで暮らしてもらう。
「夏に来て『良い土地だ』と言うのは簡単だ」
少弐は言った。
「冬に水が取れるのか。薪はどれだけ要るのか。どこなら風を避けられるのか。雪はどう積もるのか。船はどこへ置けばいいのか。それを知らずに家族を連れてくるわけにはいかない」
ライラは腕を組んだまま聞いていた。
少弐はさらに続ける。
「できれば、俺たち自身で少し暮らしてみたい」
「なるほど」
ようやくライラが頷いた。
だが、少弐がこれほど急ぐ理由はもう一つあった。
「それと――北へ行ける日を知りたい」
「北?」
「春になったら、また出るだろう」
「それは分かっている」
「だが、俺は『春になったら』という言葉が嫌いなんだ」
ライラが怪訝そうな顔をする。
少弐は笑った。
「二月なのか、三月なのか、もっと後なのか。暦ではなく、実際の海を見て決めたい」
毎朝、海を見る。
風を見る。
雪を見る。
シレトクたちがどう判断するのかを聞く。
北へ向かう船がいつ動き始めるのかも見る。
そして、
「今日なら行ける」
という最初の日を逃さない。
ライラはようやく少弐の意図を完全に理解した。
「お前……春を待ちに行くのではないのだな」
「ああ」
「春が来る瞬間を見張りに行くのか」
少弐は少し考えた。
「その言い方はいいな」
「褒めてない」
それでもライラは笑った。
「分かった。ポラールならエスペランザより速い。海が許す限り走らせる」
「頼む」
「ただし」
ライラが少弐を指差した。
「船の上では私が決める。お前が『行け』と言っても危険なら行かない」
「もちろんです、船長」
その返事を聞いて、ライラは満足そうに頷いた。
一方、エスペランザはまだ出航できる状態ではなかった。
評定で決まった交易品をはじめ、食料、資材、予備の船具などが次々と運び込まれている。
少弐はそちらへ移ると、荷積みを指揮していたマリアを探した。
「マリア」
「どうしたの?」
「俺たちは先に行く」
マリアが作業の手を止めた。
「ポラールで?」
「ああ」
「ライラに飛ばしてもらうのね」
「なぜ皆すぐ分かるんだ」
「あなたが分かりやすいからよ」
少弐は苦笑した。
「エスペランザは急がなくていい」
「本当に?」
「本当に」
大型母艦であるエスペランザには、これから北へ運ぶ物資をきちんと積んでもらう必要がある。
中途半端な状態で少弐についてくる意味はない。
「全部積み終わってから来てくれ」
「途中も?」
「ゆっくりで構わない。冬の海なんだから無理をするな」
マリアは少弐をじっと見た。
「自分だけ急いでおいて?」
「ポラールとエスペランザでは役割が違う」
「便利な言葉ね」
それでもマリアは納得した。
少弐たちが先に室蘭へ入り、土地を調べる。
商館候補地を探す。
住居と蔵をどこへ置くかシレトクたちと相談する。
そうしている間にエスペランザが大量の物資を積んで到着すればよい。
さらにその後から大掾が来る。
金五十貫。
医薬品。
二組の医師一家。
そして何より、小田の海軍を預かる大掾本人。
段階を踏んで室蘭へ人と物が集まってくる。
「分かったわ」
マリアは頷いた。
「荷積みが終わったら追いかける」
「急がなくていいからな」
「はいはい」
そして少し笑って付け加えた。
「でも私が着いたとき、ポラールが壊れていたら怒るから」
「それはライラに――」
「聞こえているぞ!」
ポラールの甲板から声が飛んできた。
マリアが笑った。
少弐も笑いながらポラールへ戻った。
間もなく帆が上がった。
冬の風を受け、ポラールがゆっくりと岸を離れていく。
エスペランザはまだ港に残っている。
甲板からマリアが手を振った。
少弐も手を上げて応える。
やがて港が遠ざかった。
少弐は船首へ向かった。
目指すは室蘭。
冬だろうが構わない。
むしろ冬だからこそ、今行かなければならなかった。
この土地に本当に人を住まわせられるのか。
北方航路の拠点として一年を通して機能するのか。
そして――海はいつ、自分たちをさらに北へ通してくれるのか。
それを人から聞くだけではなく、自分の目で確かめる。
ライラが舵の近くから声を上げた。
「少弐!」
「なんだ!」
「言ったからな。危なくなったら止まるぞ!」
「任せる!」
「なら室蘭まで――」
ライラは前方の冬海を見た。
「走れるだけ走る!」
帆が大きく膨らんだ。
高速船ポラールが速度を上げていく。
少弐は冷たい風に外套を押さえながら、北を見つめた。
彼らは春を待つために急いでいるのではない。
北の海に春が訪れる、その最初の日を捕まえるために急いでいた。




