[代位弁済]現場編 借金は消えたんじゃなくて「引っ越し」たんです。自然消滅説を信じる男
借金というものは、不思議です。
お金を借りた本人より、周りの人間のほうが胃を痛めることがあります。
本人は案外けろっとしている。
「まあ、なんとかなるでしょう」
なんともならないから、保証人という制度が存在するんですが。
――そして、その日。
大槻不動産の事務所にやってきた男も、見事なくらい、けろっとしていました。
「だからねえ、もう終わった話なんですよ」
三十代半ばくらい。茶色いジャケット。妙に大きな腕時計。ソファに深く腰掛け、出したお茶にも手をつけず、男はそう言いました。
名前は野口邦彦さん。
郊外にある小さなアパートを一棟持っている大家さんです。
正確に言えば、
――持っている、というより、
現在、持っていかれかけている大家さんでした。
「終わってませんよ」
向かいに座る真壁さんが、低い声で言いました。
顔が怖い。
今日はいつにも増して怖い。
でも仕方ありません。
話を聞いている私ですら、ちょっと額に青筋が浮きそうなんですから。
「銀行への借金は、もう払われたんでしょう?」
野口さんが言う。
「叔父さんが全部払ってくれた。だったら銀行への借金はゼロ。終わりじゃないですか」
私は湯飲みを置きながら、心の中で頭を抱えました。
――借金、自然消滅説。
たまにいます。
誰かが払ったら、宇宙から借金そのものが消滅したと思う人。
違います。
宇宙はそんなに優しくありません。
「野口さん」
大槻所長が静かに口を開きました。
「叔父さんは、なぜ払ったんです」
「保証人だったからですよ」
「いくらです」
「残り……八百万円くらいだったかな」
八百万円を「くらい」で処理するな。
私の中の家計簿担当大臣が暴動を起こしそうです。
真壁さんが眉間を揉みました。
「で、叔父さんは今、その八百万円を返せって言ってるんだな?」
「そうなんですよ!」
野口さんは身を乗り出しました。
「おかしいでしょう? 銀行にはもう借金ないんですよ?」
「おかしくありません」
私、思わず即答してしまいました。
三人がこちらを見る。
しまった。
事務見習い、また前に出た。
でもこれは無理です。
宅建受験生の前で「保証人が払ったから借金消えました」は、火災報知器の前で焚き火するようなものです。
「栞」
真壁さんが横目で見ました。
「分かるのか」
「はい」
「どれくらい」
「かなり嫌になるくらい」
「お前の勉強の思い出は全部嫌なんだな」
「民法はだいたいそうです」
私は野口さんに向き直りました。
「叔父さんが払ったことで、銀行に対する債務は確かに消えています」
「ほら!」
「でも」
私は続けました。
「それで野口さんが八百万円分得したまま終わるわけじゃありません」
笑顔が止まりました。
「……は?」
「保証人が本人の代わりに払った場合、その保証人は、本人に『立て替えた分を返してください』と言えます」
「いやいや」
野口さんが手を振る。
「叔父が勝手に払ったんですよ?」
「保証人ですよね」
「そうですけど」
「保証人なら、払う義務がある場合があります」
「でも、払ったのは叔父です」
「はい」
「だったら叔父と銀行の問題でしょう?」
私は一瞬だけ黙りました。
どう説明しよう。
こういう時、民法用語をそのまま投げると事故ります。
「弁済による代位」
「求償権」
初見の人にとっては、漢字が強い。
強すぎる。
なので私は、机の上にあった伝票を三枚引っ張り出しました。
「ちょっと、これで説明していいですか」
「はあ」
一枚目に、A。
二枚目に、B。
三枚目に、C。
私は並べました。
「野口さんがAです」
「はい」
「銀行がB」
「はい」
「叔父さんがC」
「……はい」
「最初、Bの銀行がAの野口さんに八百万円請求できた」
「ええ」
「でも、Cの叔父さんが代わりに八百万円払った」
「そうです」
私は、Bの紙を横にずらしました。
「すると」
Cの紙を、Bがいた場所に置く。
「請求する側が、銀行から叔父さんに入れ替わるんです」
野口さんが、紙を見つめました。
「……入れ替わる?」
「はい」
「借金が消えるんじゃなく?」
「銀行に対しては消えます。でも、その分、払った叔父さんがあなたに返してと言える」
真壁さんが腕を組みながら口を挟みました。
「借金が死んだんじゃなくて、持ち主が変わったってことか」
「そうです」
「引っ越しか」
「それです」
私は思わず指を差しました。
「借金は消えたんじゃなくて、引っ越したんです」
所長が小さく笑いました。
「ずいぶん雑な説明だな」
「でも伝わります」
「まあ、伝わる」
野口さんは、まだ納得していない顔でした。
「でもですよ」
声が少し低くなる。
「叔父は銀行じゃないでしょう」
「はい」
「金貸しでもない」
「はい」
「それなのに、銀行みたいに俺に請求できるんですか?」
「できます」
「なんで」
私は伝票を指先で押さえました。
「払ったからです」
短く答えました。
「野口さんが本来払うべきお金を、叔父さんが代わりに払った。だったら叔父さんから見れば、八百万円を立て替えたことになります」
「……」
「それを本人に返してもらえないなら、保証人だけ損をします」
「保証人なんだから仕方ないでしょう」
その一言で。
事務所の空気が、ほんの少し冷えました。
真壁さんの眉が動く。
所長は動かない。
私は。
……ちょっと腹が立ちました。
保証人なんだから仕方ない。
それは、払わせた側が言っていい言葉じゃありません。
「野口さん」
「はい?」
「叔父さんは、どうして保証人になったんですか」
「昔、アパート買うときに頼んだんですよ」
「すぐ引き受けてくれたんですか」
「まあ……」
少し視線が泳ぐ。
「親父が死んだ後、叔父には世話になってましたから」
なるほど。
話が見えてきました。
「その叔父さんが八百万円払った」
「そうです」
「今、返せと言っている」
「そうです」
「でも野口さんは、払うつもりがない」
「だって、もう銀行には借りてないんだから」
ああ。
理屈が一周して戻ってきた。
民法迷路のスタート地点です。
真壁さんが机を指で叩きました。
「で、今日うちに来た理由は?」
「叔父がですね」
野口さんは少し言いにくそうにしました。
「アパートを売れって言い出したんですよ」
「売って返せと?」
「そうです。でも、あれは俺の財産です」
「担保は?」
所長が聞きました。
「え?」
「そのアパート、銀行の抵当に入っていたんじゃないですか」
「ああ……はい」
私は顔を上げました。
そこか。
今日の本当の問題。
単なる八百万円の求償だけじゃない。
「登記簿、ありますか」
所長が聞くと、野口さんは鞄から折り畳まれた書類を出しました。
真壁さんが広げる。
「抵当権……銀行。まだ抹消してないな」
「叔父さんが銀行に弁済したのは、いつですか?」
私は聞きました。
「先月です」
「で、叔父さんは今、何を言ってるんです?」
「自分が銀行の立場になったから、払わないならアパートを処分するって」
私は、ふっと息を吐きました。
叔父さん。
ちゃんと分かってる。
たぶん弁護士か司法書士に相談したんでしょう。
真壁さんが低く唸りました。
「なるほどな。だから売却相談か」
「そうなんです」
野口さんが急に身を乗り出しました。
「だから先に、もっと高く売って現金だけ確保できないかと思って」
「現金だけ確保?」
「ええ。叔父には、まあ後で考えれば」
……。
うわあ。
人間、追い詰められると、急に言葉の倫理観が薄くなりますね。
私は所長を見ました。
所長の顔は無表情でした。
怖い。
真壁さんより怖い。
「野口さん」
所長が言いました。
「うちでは、その目的の売却は受けません」
「え?」
「叔父さんへの返済を免れるために財産を処分する話なら、手伝えない」
「いや、免れるっていうか……」
「同じです」
静かな声でした。
でも、部屋の空気が押されるような圧がありました。
「まず事実関係を整理しましょう」
私は思わず背筋を伸ばしました。
所長が続けます。
「銀行への債務は、叔父さんの弁済で消えた」
「はい」
「しかし叔父さんは保証人として弁済した。なら、あなたに対する求償の問題が残る」
「……」
「さらに、弁済による代位によって、銀行が持っていた担保権を一定の範囲で行使できる場合もある」
野口さんの顔から、ようやく余裕が消えました。
「……抵当権も?」
「そういうことです」
所長は登記簿を指で軽く叩きました。
「保証人が八百万円払ったのに、『銀行じゃないから請求できない』では制度が成り立たないでしょう」
「……」
「保証人が払えば、債務者は助かる。だが、その負担を保証人に押しつけたままにはしない。それが求償です」
私は横から付け足しました。
「そして、銀行が持っていた権利も、弁済した人を守るために移っていくことがある。それが弁済による代位です」
野口さんは、紙の上のA、B、Cを見ました。
さっきまで意味のなかった三枚の伝票。
でも今は、
自分。
銀行。
叔父。
三人の顔になっている。
「……じゃあ」
しばらくして、野口さんが聞きました。
「叔父が払ってくれた八百万円は……」
「なくなったわけじゃありません」
私は答えました。
「叔父さんが背負ったんです」
その言葉で。
野口さんの肩が、ほんの少し落ちました。
「……そうか」
初めてでした。
今日初めて、この人が本当に意味を理解した顔をしたのは。
「俺、助かったと思ってた」
小さく言う。
「銀行から電話来なくなったから」
「それは助かったんです」
私は言いました。
「叔父さんが助けてくれたから」
野口さんが顔を上げる。
「でも、助けてもらったことと、払わなくていいことは別です」
しばらく誰も話しませんでした。
外で電話が鳴りました。
昭和の黒電話は、こういう時だけ妙に音が大きい。
真壁さんが立ち上がって受話器を取る。
「はい、大槻不動産……はい……ええ、います」
そして、野口さんを見る。
「叔父さんだ」
「えっ」
「今日ここに来るって話、してたのか?」
「……してません」
「じゃあ、向こうから探してきたんだろ」
真壁さんが受話器を押さえました。
「どうする」
野口さんは黙っていました。
十秒くらい。
それから。
「……出ます」
受話器を受け取ります。
「もしもし」
私たちは聞かないふりをしました。
でも、小さな事務所なので、全部聞こえます。
「叔父さん……」
長い沈黙。
「うん」
「……分かった」
「いや」
「違う」
「そうじゃなくて」
野口さんの声が、少し震えました。
「ありがとう」
真壁さんが私を見る。
私は何も言わず、少しだけ笑いました。
「俺、勘違いしてた」
電話の向こうに向かって、野口さんが言う。
「払ってくれたら、それで終わりだと思ってた」
また沈黙。
「分割で返す」
「アパートは……」
野口さんは一度、登記簿を見ました。
「すぐ売るんじゃなくて、家賃から返す方法、考えたい」
所長が、そこで初めて少し頷きました。
電話を切った後。
野口さんはさっきより、ずっと小さく見えました。
でも、不思議と。
来た時よりちゃんとした顔にも見えました。
「……叔父、怒ってました?」
真壁さんが聞く。
「いや」
「じゃあ何て?」
「『やっと話が通じたか、馬鹿』って」
私は吹き出しました。
真壁さんも笑う。
所長だけは、口元を少し動かしただけでした。
「良い叔父さんですね」
私が言うと、野口さんは苦笑しました。
「昔から口悪いんですよ」
「真壁さんと似てます」
「おい」
「面倒見がいいところです」
「先にそっち言え」
野口さんまで笑いました。
その後。
私たちは、アパートをすぐ売るのではなく、家賃収入を確認して、叔父さんへの返済計画を立てる方向で話を進めました。
もちろん、法律関係の細かいところは専門家にも確認する。
大槻所長は、そこだけはいつも慎重です。
「不動産屋が法律を知ってることと、法律家になることは違う」
これが所長の口癖でした。
夕方。
野口さんが帰った後、私は机の上に残った三枚の伝票を見つめました。
A。
B。
C。
債務者。
債権者。
保証人。
文字だけなら、過去問によく出てくる関係です。
でも今日。
Cには、甥の借金八百万円を払った叔父さんがいた。
Aには、それを「消えた」と勘違いしていた甥がいた。
そしてBの銀行は、払ってもらったから静かに退場した。
借金は消えたんじゃない。
請求する人が入れ替わった。
でも。
それだけじゃない気がしました。
保証人が弁済するということは。
数字が移るだけじゃない。
誰かの負担を、一度その人が背負うということなんだ。
「何しみじみしてんだ」
真壁さんが缶コーヒーを私の机に置きました。
「今日、一本多くないですか」
「頭使っただろ」
「またそれですか」
「民法の日は糖分いるんだろ?」
「いつからそんな設定に」
「お前が勝手に作った」
所長が奥から言いました。
「栞」
「はい」
「今日の件、覚えておけ」
「代位弁済ですか」
「それもだ」
所長は書類から目を上げました。
「保証人を、ただの名前だと思うな」
私は黙りました。
「判子一つで、他人の借金を背負うことがある。だから実務では、法律以上に重い」
「……はい」
「試験ではA、B、Cでも」
真壁さんが横から言う。
「現場じゃ、全部人間だからな」
私は頷きました。
そして、三枚の伝票を重ねました。
今日の結論。
誰かが代わりに借金を払ったからといって。
借金が煙みたいに消えるわけじゃない。
それはただ、
「返してください」と言う人が変わっただけ。
だけど、その裏側には。
誰かが一度、あなたの重さを引き受けてくれたという事実がある。
だったら。
法律を覚えるより先に、
「ありがとう」を言える人間でいたほうがいい。
昭和六十三年。
今日も大槻不動産では、
八百万円の借金より先に、
一人分の勘違いが、きれいに整理されました。
……民法って。
たまに、人間関係の掃除までしてくれるんですね。
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