[代物弁済]現場編 土地を渡すと言っただけでは、借金は消えない
借金というものは、基本的には、借りたものと同じ種類のもので返します。
百万円借りたなら、百万円。
お米を借りたなら、お米。
まあ、そこは分かりやすい。
ところが人間というものは、返すお金がなくなると、急に発想が柔軟になります。
「金はないが、土地ならある」
――柔軟すぎる。
そして不動産屋に勤めていると、その柔軟な発想に、かなりの頻度で巻き込まれます。
「所長! 助けてください!」
午後一番。
大槻不動産のガラス戸が、割れるんじゃないかという勢いで開きました。
飛び込んできたのは、町工場を営む五十代の男性――荒川さんです。
顔色が悪い。
手には茶封筒。
そして、その後ろから奥さんが、泣きそうな顔でついてきました。
「荒川さん。まず座ってください」
大槻所長が静かに椅子を勧めます。
こういう時の所長はすごい。
相手がどれだけ慌てていても、声量が一ミリも変わらない。
たぶん火事場でも、
「まず火元を確認しましょう」
とか言う。
怖いけど頼もしい。
私はお茶を出しながら、荒川さんの前に置かれた書類を見ました。
金銭消費貸借契約書。
借入額、一千二百万円。
債権者――黒崎商事。
「設備を入れ替える時に借りた金なんです」
荒川さんが額の汗を拭いました。
「仕事が減って、返せなくなって……それで先月、黒崎さんに相談したんです。そしたら、うちが持ってる資材置場の土地を渡せば、借金は全部なしにしてやるって」
真壁さんが眉を上げました。
「土地で借金を返す?」
「はい」
「代物弁済か」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、前世の宅建テキストが立ち上がりました。
来た。
代物弁済。
本来の給付とは別のものを渡して、債務を消してもらうやつ。
お金の代わりに土地。
牛の代わりに米。
借金の代わりにロレックス。
最後だけ急に質屋みたいになったけれど、理屈は同じです。
「それなら、何が問題なんです?」
真壁さんが尋ねる。
荒川さんは、茶封筒から一枚の紙を出しました。
「今朝、これが届いたんです」
督促状。
一千二百万円を直ちに支払え。
私は二度見しました。
「……借金、全部?」
「そうなんです!」
荒川さんが机を叩きます。
「土地を渡すって話になったのに! なのに、まだ一円も減ってないって!」
「土地はもう黒崎さんのものになったんですか?」
私が聞くと、荒川さんは一瞬、言葉に詰まりました。
「いや……」
「登記は?」
「まだです」
あ。
嫌な予感がした。
「権利証は?」
「黒崎さんに預けました」
「印鑑証明は?」
「それも」
「登記の申請は?」
「来週すると聞いてます」
私は黙りました。
真壁さんが私を見る。
「栞?」
「……まだ終わってないです」
「何が」
「代物弁済です」
荒川さん夫妻が、同時に私を見ました。
「え?」
私は書類をもう一度確認しました。
「土地を代わりに渡すっていう話そのものはできています。でも、不動産の場合、“渡します”って約束しただけで、すぐ元の借金が消えるわけじゃありません」
「じゃ、じゃあ黒崎さんの言う通りなんですか?」
荒川さんの顔から血の気が引きました。
「現時点では、少なくとも“もう全部済んだ”とは言い切れません」
「そんな……!」
「ただし」
私は督促状を指で押さえました。
「黒崎さんが土地を受け取って、それでも一千二百万円を丸ごと取ろうとしているなら、それは別の話です」
真壁さんが低く言う。
「二重取りか」
「はい」
荒川さんは首を振りました。
「黒崎さんは昨日、こう言ったんです。『あの土地はせいぜい七百万円だ。だから登記しても、残り五百万円は払え』って」
「……は?」
思わず声が出ました。
「最初に“一千二百万円の借金全部と引き換え”って合意したんですよね?」
「はい。間違いありません。家内も聞いてます」
奥さんが強く頷きました。
「『土地をもらえば、これで貸し借りなしだ』って、はっきり」
私は真壁さんを見ました。
真壁さんも私を見る。
そして二人で、ほぼ同時にため息をつきました。
なるほど。
相手のやりたいことが見えた。
七百万円くらいの土地を受け取る。
なのに一千二百万円の債権は、一部しか消えていないと言い張る。
五百万円を追加で請求する。
土地も取る。
金も取る。
――欲張りセットにもほどがある。
「その土地が七百万円かどうかは、今は置いておきましょう」
私は言いました。
「置いていいのか?」
真壁さんが聞く。
「むしろ、そこが罠です」
「罠?」
「代物弁済って、交換するもの同士が同じ価値じゃなきゃいけない制度じゃないんです」
荒川さんが目を瞬きます。
「え……?」
「一千二百万円の借金を、七百万円の土地で全部消す。双方がそれでいいと合意して、ちゃんと代物の給付まで済めば、それはあり得ます」
「五百万円足りなくても?」
「足りない、という考え方をしないんです」
私は指を一本立てました。
「土地の値段を借金から引き算するんじゃない」
二本目。
「“この土地を渡したら、一千二百万円の債務全部を消します”という約束なら」
三本目。
「約束どおり土地を給付したところで、元の債務全部が消える」
真壁さんが口の端を上げました。
「なるほどな。土地を七百万で買ったんじゃない。千二百万の借金を消す代わりに土地を受け取るって契約か」
「そういうことです」
「じゃあ黒崎の『土地が七百万だから五百万残る』って理屈は?」
「最初からそういう合意なら別です。でも、“これで全部チャラ”と言っていたなら、あとから勝手に算数を始められても困ります」
所長がそこで、初めて口を開きました。
「証拠は?」
空気が締まりました。
そう。
法律は、正しいだけでは勝てない。
証明できない正義は、時々ものすごく弱い。
荒川さんの奥さんが、おずおずと鞄から手帳を出しました。
「私……商売の話は、あとで主人と確認できるように、いつも書いてるんです」
「見せてもらえますか」
ページを開く。
日付。
場所。
黒崎氏来訪。
そして、その下。
――資材置場の土地を渡せば、一千二百万円の借入金は全額精算。これ以上請求しない。
私は思わず奥さんを見ました。
「奥さん」
「はい」
「ものすごくいい癖です」
「え?」
「今後も一生続けてください」
真壁さんが吹き出しました。
「お前、褒め方が事務員だな」
「事務員ですから」
しかも転生事務員です。
証拠保全にはうるさい。
さらに調べると、黒崎商事側から荒川さん宛てに送られたファクスまで出てきました。
そこには、
《下記土地の所有権移転をもって、貸付金一千二百万円について完済扱いとする》
と書かれていた。
「……所長」
真壁さんが言いました。
「これ、決まりじゃないですか」
所長は静かに頷きました。
「ああ。あとは登記だ」
私はその一言に反応しました。
「そこです」
荒川さんが不安そうにこちらを見る。
「やっぱり、登記が終わってないから駄目なんですか」
「逆です」
「逆?」
「ここを曖昧にしたまま進めたら駄目です」
私はファクスを机に置きました。
「黒崎さんに、はっきり確認してから登記するんです」
「何を?」
「この土地の所有権移転登記が完了したら、一千二百万円の債務は全部消滅する。それ以上は請求しない」
私は一字ずつ区切るように言いました。
「それを書面で確認します」
真壁さんがにやりとしました。
「逃げ道を塞ぐわけか」
「穴がある契約は、あとで必ず誰かが覗き込みます」
「お前、十八歳の台詞じゃないな」
「人生二周目みたいなものなので」
「ん?」
「なんでもありません」
その日の夕方。
黒崎商事の社長、黒崎さんが大槻不動産にやってきました。
五十代後半。
高そうなスーツ。
金色の腕時計。
そして座った瞬間から、
「忙しいんだけどねえ」
という顔をしている。
こういう人は、本当に忙しいのではありません。
“私の時間のほうがあなたの時間より高いですよ”という顔を、わざわざ持参しています。
「で?」
黒崎さんは脚を組みました。
「何の話?」
所長が例のファクスを机に置く。
「荒川さんの代物弁済についてです」
「ああ」
黒崎さんは薄く笑いました。
「土地をもらう件ね」
「貸付金は一千二百万円」
「そう」
「このファクスには、所有権移転をもって完済扱いにするとある」
「ああ、それね」
黒崎さんは鼻で笑いました。
「でもさ、あとで査定したら七百万くらいしかないんだよ、その土地」
来た。
「だから差額五百万は払ってもらう。当然でしょ?」
私は心の中で思いました。
当然ではありません。
あなたの中の当然さん、だいぶ自由に育ってますよ。
所長は黙ったまま。
真壁さんも黙っている。
どうやら私にやれ、ということらしい。
新人事務員に前衛を任せる会社。
人材育成が実戦形式すぎる。
「黒崎さん」
「ん?」
「確認してもいいですか」
私はファクスを指差しました。
「この文書を作ったのは、黒崎商事さんですよね」
「ああ」
「『所有権移転をもって、貸付金一千二百万円について完済扱いとする』」
「書いてあるね」
「“七百万円を弁済したことにする”とは書いてありませんよね」
黒崎さんの眉がわずかに動きました。
「いや、だから土地の価値が――」
「価値が違うことと、何の債務を消す約束をしたかは別です」
「は?」
「一千二百万円の現金を、一千二百万円相当の物に交換する契約じゃないんです」
私はゆっくり言いました。
「もともとの一千二百万円の支払いに代えて、この土地を給付する。それによって貸付金を全部精算する」
「……」
「そういう合意ですよね」
黒崎さんがこちらを睨みました。
「嬢ちゃん、法律知ってるみたいな口を利くね」
「みたい、じゃなくて勉強中です」
「勉強中かよ」
「伸びしろがあります」
真壁さんが横で咳をした。
笑うのを隠している。
仕事してください。
黒崎さんは腕を組みました。
「でもねえ。七百万のもの受け取って、千二百万消すなんて、おかしいでしょう」
「なら、最初に承諾しなければよかったんです」
私が答えると、事務所が静かになりました。
「……何?」
「代物弁済は、債権者が承諾して初めてできるものです」
黒崎さんが黙る。
「荒川さんが勝手に『土地で払います』と言っただけなら、黒崎さんは拒めた」
「……」
「でも、あなたは承諾した」
私はファクスを指先で軽く叩きました。
「しかも、ご自分で“これで完済扱い”と書いた」
黒崎さんの顔から、少しずつ余裕が消えていきます。
「あとになって査定額が気に入らないから、土地ももらう、差額も払え――では、合意した内容と違います」
「だが、まだ登記は終わってない」
「はい」
私は頷きました。
「だから、今なら整理できます」
「整理?」
「登記をするなら、当初の約束どおりです」
私は用意しておいた確認書を差し出しました。
《本件土地について所有権移転登記手続が完了したときは、荒川氏の黒崎商事に対する貸付金債務一千二百万円は全額消滅し、黒崎商事は残額その他の名目で何ら請求しない》
黒崎さんの目が、その一文で止まりました。
「これに署名してください」
「……署名しなかったら?」
所長が、そこで静かに言いました。
「登記手続を進めません」
「なに?」
「完済扱いにしないというなら、土地を渡す前提そのものを改めて協議する必要があります」
声は穏やかでした。
でも圧がすごい。
大槻所長、たぶん怒鳴るという機能が搭載されていません。
必要ないから。
「土地だけ先に取ることはさせません」
黒崎さんが黙りました。
一分。
二分。
壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
やがて黒崎さんは、苛立ったようにペンを取りました。
「……分かったよ」
さらさらと署名する。
「最初からそのつもりだった」
心の中で、全力で突っ込みました。
絶対嘘だ。
数日後。
所有権移転登記の手続が完了しました。
黒崎商事は土地を取得。
荒川さんの一千二百万円の借金は、約束どおり全額精算。
追加の五百万円請求もなし。
事務所へ報告に来た荒川さんは、椅子に座った途端、長い長い息を吐きました。
「……終わった」
「終わりましたね」
私が言うと、荒川さんはしばらく黙っていました。
「土地、親父から継いだものでした」
ぽつりと言った。
「本当は、手放したくなかったんです」
私は返す言葉を探しました。
「でも工場を残したかった。従業員もいるし……息子も、継ぎたいって言ってくれてる」
奥さんが隣で、静かに笑いました。
「土地はなくなっちゃったけど、工場は残りました」
その言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなりました。
代物弁済。
教科書なら、ほんの数行です。
債権者の承諾を得て、本来の給付に代えて別の給付をする。
でも現実では、その“別の給付”にも、たいてい人の時間が染み込んでいる。
親からもらった土地。
長年乗った車。
家族で守った建物。
物を渡して借金を消すというのは、数字を入れ替えるだけではない。
何かを手放して、何かを残すことでもあるのだ。
「栞ちゃん」
荒川さんが立ち上がりました。
「本当にありがとう」
「いえ。私は確認しただけです」
「その確認をしてくれる人がいなかったら、土地も取られて、五百万も払うところだった」
「……それは困ります」
「困るどころじゃねえよ」
真壁さんが言いました。
「工場ひとつ吹っ飛ぶぞ」
「真壁さん、縁起でもないです」
「吹っ飛ばなかったから言えるんだ」
そう言って、真壁さんは荒川さんの肩をぽんと叩きました。
「仕事、立て直してください」
「はい」
荒川さんは深く頭を下げました。
夫妻が帰ったあと。
私は机の上に残った書類を整理していました。
真壁さんが、缶コーヒーを一本置く。
「ほら」
「ありがとうございます」
「今日も過去問女が役に立ったな」
「誰が過去問女ですか」
「お前」
「もっと知的な呼び方にしてください」
「民法娘」
「悪化してます」
所長が新聞から目を上げました。
「栞」
「はい?」
「今日の一件、何が一番大事だった?」
私は少し考えました。
「……土地が七百万円でも、一千二百万円の債務全部を消す代物弁済はできること?」
「それもある」
「債権者の承諾が必要なこと?」
「それもだ」
「じゃあ……」
所長は短く言いました。
「終わる時を間違えるな」
私は瞬きをしました。
「終わる時?」
「土地を渡すと約束した時点で、全部終わった気になるなということだ」
ああ。
私は今日の荒川さんの顔を思い出しました。
土地をやると言った。
相手もいいと言った。
だから借金はなくなった。
そう思っていた。
でも実際には、土地という給付をきちんと完了させるところまで見なければならない。
「……なるほど」
「不動産は特にな」
所長は新聞へ目を戻しました。
「口約束から登記までが長い。その間に、人間はよく心変わりする」
深い。
そして嫌な意味で不動産屋らしい。
「所長」
「なんだ」
「今の、ノートに書いていいですか」
「好きにしろ」
「著作権料は?」
「缶コーヒー一本でいい」
「安いですね」
「お前の先輩よりはな」
「俺を何だと思ってる」
「顔の怖い無料相談員です」
「帰れ」
「まだ勤務時間です」
所長が新聞の向こうで笑いました。
夕方。
窓から差し込む西日が、事務所の机を橙色に染めていました。
私は受験用のノートを開き、今日の出来事を一行だけ書きます。
――借金の代わりに何かを渡すなら、「何を渡せば、どこまで借金が消えるのか」を最後まで確認する。
数字だけ見れば、一千二百万円と七百万円。
五百万円も違う。
でも契約は、算数ではありません。
人と人が、
「これを渡す」
「それでいい」
と決めたなら、その約束には意味がある。
そして約束したなら、最後まできちんと終わらせる。
土地なら、登記まで。
そこを曖昧にした瞬間、誰かが都合のいい引き算を始める。
私はノートを閉じました。
昭和六十三年。
土地の値段が毎日のように話題になる時代。
高い土地。
安い土地。
上がる土地。
下がる土地。
みんな値段ばかり気にしている。
でも今日、一つ分かったことがあります。
土地の値段と、約束の重さは、同じではない。
「栞、帰るぞ」
真壁さんが事務所の電気を消しました。
「はい」
「あ、そうだ。荒川さんからこれ」
「何ですか?」
差し出された紙袋を開ける。
中には、工場の近所で評判らしい大福がぎっしり詰まっていました。
「……多くないですか?」
「十二個」
「借金一千二百万円に合わせたんでしょうか」
「一個百万円か」
「重すぎる大福ですね」
「食え」
「いただきます」
私は一個だけ取り出しました。
まだ少し温かい。
土地を一つ手放して。
借金を一つ終わらせて。
工場が一つ残った。
そして、なぜか大福が十二個来た。
世の中の清算というものは、帳簿ほどきれいには終わらないらしい。
でも――。
こういう終わり方なら、悪くない。
私は大福をひと口かじりました。
甘かった。
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