[強迫]現場編 「判を押してますよね?」 脅されて押した判を、自由意思とは呼びません
人は、騙されるより、脅される方が、あとに残る。
詐欺は、あとから腹が立つ。「あの時、うまく乗せられた」と思い返して、じわじわ熱が上がる。自分の浅さにも、相手のずるさにも。
でも強迫は違います。
その場で怖い。
理屈が入る前に、身体が縮こまる。頭の中で「おかしい」と思っていても、喉が固まる。
後で契約書を見返して、「なんでこんな条件で判を押したの」と自分を責めても、押した瞬間にはもう、理屈より先に“逃げたい”が勝っている。
だから法律は、このへんだけは少し露骨です。
――それ、脅されて決めたなら、取り消していいです。
しかも、かなり強めに守る。
詐欺みたいに「善意無過失の第三者がいたらそっち保護ね」とか、そんな悠長なことを言わない。
脅されて売った人を、まず守る。
えらい。
民法、たまにこういう男前なところがある。
そして昭和六十三年の大槻不動産にも、その日“怖くて判を押した人”がやってきました。
午前中の事務所は、わりと平和でした。
電話が3本。賃貸の問い合わせが1件。所長が固定資産税の話を延々として、真壁さんが「その説明、客には3分に縮めてください」と心底うんざりした顔で返す。いつもの光景です。
そんな平和が壊れたのは、11時すぎ。
ガラス戸の前で、誰かが2回、ためらうように立ち止まった後、ようやく入ってきました。
痩せた女性でした。四十代後半くらい。紺色のカーディガンに、少し古びた鞄。姿勢はきちんとしているのに、顔色が悪い。というか、悪いを通り越して、ここ数日ちゃんと眠れていない人の顔です。
「……すみません」
声も小さい。
「いらっしゃいませ」
私が立ち上がると、その女性は一瞬、逃げるみたいに入口を振り返りました。誰かに見られていないか、確かめるように。
――あ、これはちょっと普通じゃない。
「ご相談ですか?」
「はい……でも、その……」
女性は事務所の中を見回しました。
所長、真壁さん、私。三人ともいる。別に変な状況ではない。でも彼女にとっては、人が多いだけで緊張するらしい。
所長が空気を読んで、奥の小さめの打合せスペースを指しました。
「こちらへどうぞ。静かな方がいいでしょう」
女性は、ようやく少しだけほっとした顔になりました。
席に着いてお茶を出すと、その人は湯飲みに手も伸ばさず、鞄から封筒を取り出しました。手が震えている。
「私……吉村と申します」
吉村和枝さん。
名字には見覚えがありました。たしか町外れに古い家と畑を持っている家。息子さんが東京へ出ていて、今は一人暮らし。地元の噂話レベルですが、そのくらいは知っています。
「実は……土地を、売る契約をしてしまって」
その“してしまって”に、全部乗っていました。
したかったんじゃない。でもした。そして今、それを持て余している。
私は封筒の中身を受け取りました。売買契約書。買主は白川産業。価格は――安い。
相場より、かなり安い。
私は思わず眉を寄せそうになって、慌てて顔を平らに戻しました。相談者の前で露骨な顔はよくない。分かってはいるんですが、安すぎるものを見ると表情筋が勝手に動きます。
所長が静かに尋ねました。
「何があったんです」
吉村さんは、ぎゅっと膝の上で手を握りしめました。
「……脅されたんです」
その一言で、空気が変わりました。
真壁さんが腕を組む角度を少し変える。所長の視線が鋭くなる。私の頭の中では、ノートの新しいページが開きました。
強迫。
「どなたに、ですか」
所長の声は落ち着いていました。強い話をされても、こちらが慌てないことは大事です。相手がもう十分怖がっているので。
「白川産業の……営業の人に」
「名前は」
「阿久津、という人です」
……名前からして少し強そうですね。偏見ですが。
「どんなふうに?」
私ができるだけ柔らかく聞くと、吉村さんは何度か言葉を飲み込んでから、ぽつぽつと話し始めました。
「最初は、普通だったんです。家の周りで道路の話が出てるとか、このあたりは今後動くとか……。でも私、別に売るつもりはなくて。主人が残した土地ですし、畑も少しだけやってますし」
「はい」
「だから断ったんです。何度も」
うん。ここまでは、しつこい営業。
問題はここから。
「そうしたら……ある日、夜に来て」
「夜?」
「ええ。8時すぎくらいでした」
真壁さんの眉がぴくりと動きます。昭和でも令和でも、夜の訪問営業はだいたいろくなことがありません。
「“息子さん、東京で働いてるんですよね”って言われたんです」
その瞬間、私の背中がひやっとしました。
嫌な線だ。
「それで?」
所長の声が低くなる。
「“都会は物騒だし、何があるか分からないですよね”って。笑いながら。あと、“この辺でうちに逆らうと、工事車両の出入りで困る家もあるんですよ”とか……」
私は無意識に、ペンを握る手に力を入れていました。
完全にアウトです。
いや法律的にはもう少し丁寧に詰めないとですが、気持ちとしては完全にアウトです。
「その場で契約を?」
「その日はまだです。でも次の日も来て、その次も来て……。電話も何度もかかってきて……」
「怖かった」
私がそう言うと、吉村さんは、やっと少しだけ顔を上げました。
「……はい」
「判を押さないと、何かされると思った」
「はい……」
小さな声でした。でもそこにある怯えは、本物です。
強迫って、殴られたり刃物を突きつけられたりするだけじゃありません。人を畏怖させること。怖がらせて、自由な判断を曲げること。そしてこの人は今、その時の怖さごと事務所に持ち込んでいます。
「契約は、いつですか」
「4日前です」
早い。よかった。
「契約の場には、誰が?」
「阿久津さんと、会社の上の方だという人と……あと、司法書士さんみたいな人もいました」
「そこでも断れなかった?」
真壁さんの言い方は少し直球でしたが、悪意ではありません。事実の確認です。
「……はい。もう、早く終わってほしくて」
分かる。
脅され続けると、人は“正しく拒否する”より“早く終わらせる”を選びます。これは弱さじゃなくて、防御です。
所長が契約書を見ながら言いました。
「手付は受け取りましたか」
「ええ……少しだけ」
「残代金は?」
「来週です」
「登記はまだだな」
所長の目が、少しだけ鋭く光りました。
私は頭の中で整理します。
・強迫による意思表示は取り消せる
・第三者が強迫しても取り消せる
・しかも、相手方が善意でも悪意でも関係ない
・さらに、取消し前の第三者が出ても、強迫を受けた者は保護される
・ただし、取消し後に第三者が出た場合は別論点になる
今回の段階なら、まずは契約の取消しを相手にぶつけることが最優先です。残代金前、登記前、4日前。まだ十分間に合う。
「吉村さん」
私はゆっくり言いました。
「その契約、取り消せる可能性が高いです」
吉村さんの目が、見開かれました。
「本当に……?」
「はい」
「でも私、判を押してしまって」
「押したこと自体は事実です。でも、自由に押したんじゃない」
「……」
「脅されて、怖くて、逃げたくて押したなら、それは強迫の問題です」
吉村さんは唇を震わせ、今にも泣きそうな顔になりました。たぶん、“自分が悪い”と思い詰めてここまで来たのだと思います。
そういう人に、法律が「いや、その怖さは考える」と言ってくれる瞬間は、わりと救いになります。
真壁さんが、珍しくかなりはっきりした口調で言いました。
「所長。相手、白川産業ですよね」
「ああ」
「だったら、早く通知打った方がいい。あそこ、下手すると別名義で回す」
「そうだな」
吉村さんが不安げに首を振ります。
「別名義……?」
「つまり」
私はノートに簡単な図を書きました。
吉村さん → 白川産業 → 第三者
「白川産業が、吉村さんから買ったことにして、別の人に売ることです」
「そ、そんな」
「ただ」
私はすぐ続けました。
「強迫は、そこが詐欺より強いです。」
「え?」
「詐欺だと、善意無過失の第三者が出ると、そこがすごく厄介になります。でも強迫は、取消し前に出てきた第三者にも対抗できます」
吉村さんは、半分も分かっていない顔でした。無理もないです。
真壁さんが横からざっくり言いました。
「要するに、“怖がらせて売らせた土地は、他に回しても逃げ切りにくい”ってことです」
「そうです」
私は頷きました。
「だから今、すぐ動く意味があります」
所長が立ち上がりました。
「通知を作る。内容証明で、強迫を理由に売買契約を取り消す旨を送る」
「はい」
私はすぐに便箋と下書き用紙を引き寄せました。
最近、通知文作成の手が無駄に速くなってきた気がします。嬉しくない成長です。
『 通知書
貴社との間で締結した令和――じゃない、昭和六十三年九月五日付売買契約については、貴社担当者の強迫により意思表示をしたものであるため、民法九十六条一項に基づき、これを取り消します―― 』
真壁さんがのぞき込みます。
「元号に令和って書きかけたか?」
「気のせいです」
「絶対書きかけただろ」
「集中してください」
所長は吉村さんに細かい事情を確認し始めました。
「夜に来た日は何日ですか」
「契約の三日前と、二日前と……前日にも」
「録音は?」
「ありません……」
「近所の人に見られてる可能性は」
「向かいのお宅が、車は見たかもしれません」
「息子さんへの言及、工事車両の話、その場の状況、全部時系列で出してください」
私は別紙に整理表を作り始めました。
こういう時、やっぱり記録は強い。怖い思いをした人ほど、出来事が頭の中でぐちゃぐちゃになります。だから、こちらが並べる。
何日に
誰が
何を言って
どう怖かったか
その後どう契約に至ったか
強迫は感情の問題に見えるけれど、立証の入口は地味です。時間、場所、言葉、行動。怖さを、出来事の列に落としていく。
吉村さんは話すうちに、少しずつ呼吸が整ってきました。人って、怖かったことを“順番に言葉にする”だけでも少し戻ってくるんですね。
その日の夕方、白川産業に電話を入れると、担当の阿久津は最初から不機嫌でした。
『何ですか急に。契約は済んでるでしょう』
所長が受話器を取り、極めて平坦に言います。
「吉村さんは、御社担当者の強迫により契約したとして、取り消しを主張します。内容証明も発送します」
『強迫? 大げさだなあ』
「息子さんの安全をほのめかす発言をしたそうですね」
電話の向こうで、一拍。
『雑談ですよ』
――雑談で息子の身を匂わせるな。
私は横でメモを取りながら、心の中で毒づきました。
「“この辺で逆らうと工事車両の出入りで困る家もある”という発言は?」
『現実の話です』
「現実であれ何であれ、それを材料に畏怖させて契約を迫ったなら問題です」
『はあ。で? 判は押してますよね?』
「押しています」
『じゃあ自由意思でしょう』
その瞬間、私は顔を上げました。
それを言うか。
所長の声が、一段低くなります。
「脅されて押した判を、自由意思とは言いません」
受話器越しにも、少し空気が変わったのが分かりました。
『……こちらも法務に回します』
「どうぞ。こちらもそうします」
電話はそこで切れました。
真壁さんが、吐き捨てるように言いました。
「“判を押してますよね”って、強迫案件でいちばん言っちゃいけないことだろ」
「むしろ典型的すぎますね」
私はメモを閉じました。
「本人は押してるんですよ。だからこそ厄介なんです。押したけど、自由じゃなかった。それが強迫です」
所長が頷く。
「詐欺とそこは似てる。意思と表示は一致している。ただ、その意思が歪められている」
「はい」
「だが詐欺より、法は強く被害者を守る」
「そこ大事です」
私は思わず強めに言いました。だってここ、試験でも実務でも、ごちゃつきやすいところなので。
翌日、予想通り白川産業はすんなり引きませんでした。
むしろ動きが早かった。
「所長」
午前の電話を切った真壁さんが言いました。
「白川、吉村さんの土地、別の業者に話回し始めてる」
「早いな」
「相当焦ってますね」
私は即座に言いました。
焦ってるから、逃がしたくない。逃がしたくないから、第三者を絡めたい。
でも今回は、そこまで怯えなくていい。
「もし取消し前に第三者が出ても、強迫なら吉村さんが対抗できます」
真壁さんがにやりとしました。
「今日は言い切るな」
「今日は条文がこっちに優しいので」
ただし、ここで一つ気をつけることがあります。
強迫はたしかに被害者保護が強い。でも、取消し後の第三者となると、話が少し変わる。
この点は、試験でも嫌らしい。取消し前なら強い。
取消し後なら、登記の対抗問題っぽく考える場面がある。
私はノートの端に小さく書きました。
・取消し前の第三者:強迫された側が保護
・取消し後の第三者:別論点、登記注意
頭の中が少しずつ意思表示テーマで埋まっていきます。民法って、本当に覚えるというより“整理し続ける”科目ですね。
昼過ぎ、白川産業の事務所へ、所長・真壁さん・私で出向くことになりました。
「私もですか?」
「記録係」
所長、最近それで全部済ませますね。
白川産業の事務所は、外見だけは立派でした。トラックが数台。プレハブと倉庫。入口の看板だけやたら大きい。こういう“勢い”で押してくる会社、昭和の終わりには多かったんだろうなと思います。
応接に出てきた阿久津は、四十前後、がっしり体型、笑っていないのに笑っているみたいな顔の男でした。怖がらせに来る人って、たいていこういう“露骨すぎない圧”を身につけています。
「ご足労どうも」
声も低い。
私は内心で評価しました。
あ、これは普通に怖い人だ。
でも怖いからといって、こちらが引くと相手の土俵です。所長が真っ直ぐ言いました。
「吉村さんに対する契約は、強迫を理由に取り消されています」
「こちらはそんな認識ありません」
「息子さんへの言及、夜間訪問、工事車両の話」
「世間話です」
「夜に繰り返し訪ねて?」
「営業努力です」
強い。
強いというか、図々しい。
真壁さんが低く言いました。
「阿久津さん。人が一番嫌がる線を毎回“世間話”で済ませるの、苦しいですよ」
「何の証拠が?」
「逆に聞きますけど」
私は初めて口を挟みました。
「売る気のなかった一人暮らしの女性が、なぜ相場よりかなり安い金額で、数日のうちに契約まで進んだんですか」
阿久津がこちらを見る。
「営業の結果でしょう」
「その“結果”を作る過程で、何も威圧がなかったと?」
「なかったですね」
「では夜の訪問は何回ですか」
「覚えてません」
「息子さんの話は?」
「覚えてません」
「工事車両の話は?」
「一般論です」
はい。記憶が弱い。
私は淡々とメモを取りました。こういう時、相手に喋らせれば喋らせるほど、“まともな説明がない”こと自体が残ります。
所長が言います。
「こちらとしては、これ以上の処分や転売はやめてもらいたい」
「契約は有効です」
「取り消しています」
「一方的ですね」
「強迫の取消しは一方的で足ります」
阿久津の顔がわずかに硬くなった。
そこなんですよね。取消しって、相手の同意を待たない。だからこそ強い。
私はふと、吉村さんが“本当に取り消せるんですか”と聞いた時の顔を思い出しました。怖さで押した判に、あとから別の意思を乗せ直せる。それが取消しの力なんだなと思います。
阿久津はしばらく黙ってから、吐き捨てるように言いました。
「第三者に回したらどうします」
「強迫なら、そちらがいつ誰に回そうと、こちらは対抗できます」
私が言うと、阿久津が初めて露骨に嫌そうな顔をしました。
「お嬢ちゃん、詳しいね」
「勉強中なので」
「宅建か」
「まあ、そのあたりです」
「へえ」
その“へえ”は褒めてませんね。知ってます。
所長が席を立ちました。
「こちらの意思は伝えました。以後は書面でやり取りします」
帰り際、阿久津が背中に向かって言いました。
「世の中、そんなに綺麗じゃないですよ」
最近よく聞くな、その台詞。
私は振り返って言いました。
「だから綺麗じゃないやり方は、残しておくんです」
阿久津は少し笑っていましたが、目は笑っていませんでした。
……うん。普通に怖い。
でも言い返せたので、個人的には合格です。
三日後。
白川産業は折れました。完全に非を認めたわけではありません。「今後の関係性も踏まえ」「誤解を避けるため」「双方穏便に」みたいな、いかにも責任をぼかした文言を並べた上で、契約の白紙撤回、手付返還、以後の請求放棄。
でも結果としては、吉村さんの土地は守られた。
事務所でその知らせを聞いた時、吉村さんはその場で泣いてしまいました。
「もう、あの人たちが来ないなら……」
「来たらまた相談してください」
私が言うと、吉村さんは何度も頷きました。
「私、自分が情けなくて……。あんなに怖がって、判まで押してしまって」
「情けなくないです」
私は、わりとはっきり言いました。
「脅された時に固まるのは普通です」
吉村さんが目を丸くする。
「でも……断れなかった」
「断れなかったからこそ、強迫なんです」
そこ、大事なんですよね。
もし本当に平気で、自分の判断で、好きで押したなら、強迫は問題になりにくい。怖くて、自分の自由が曲がった。だから救う。
所長も静かに言いました。
「怖い相手に、正しく戦えないことはあります。法はそこまで要求していません」
吉村さんは、ようやく少しだけ肩の力を抜きました。
その様子を見て、私はちょっと思いました。強迫って、契約を壊す話である前に、怖がった自分を責めすぎなくていいと教える制度でもあるのかもしれないな、と。
閉店後、私はいつものようにノートをまとめていました。
強迫。
人を脅して畏怖させること。
意思と表示は一致している。
でも自由な決定ではない。
だから、取り消すことができる。
ここまでは詐欺と似ています。
でも違うのは、その後。
第三者が強迫しても、相手方が善意でも悪意でも取消しできる
取消し前の第三者が出ても、善意悪意を問わず、強迫された者が保護される
だから詐欺より、ずっと被害者寄り
私はノートの上に、小さく二本線を引きました。
詐欺:第三者に弱い
強迫:第三者にも強い
うん。これ、比較で覚えるとかなり整理しやすい。
「何書いてる」
また来ました。
もう出現タイミングが定期イベントです。
「今日のまとめです」
「見せろ」
「どうぞ。今日は比較メモもあるので」
真壁さんは珍しく素直にノートを受け取り、数秒見てから言いました。
「“怖がらせて取った契約は、他人に流しても逃げにくい”」
「雑だけど本質ですね」
「最近お前の“雑だけど本質”がうつってきた」
「不本意です」
所長が新聞をたたんで言いました。
「最後に一行足せ」
「何ですか」
「“怖い時ほど、一人で判を押すな”」
私は、その一文を書きながら、ちょっとだけ手を止めました。
そうなんですよね。法律の知識も大事ですが、もっと手前で、人に相談できるかが大きい。
でも強迫される場面って、だいたい相手がそれをさせないように持っていく。夜に来る。急がせる。孤立させる。家族を匂わせる。
つまり、相談できないようにしてから押させる。
だからこそ、取り消しの制度が要る。
私はノートに書き足しました。
怖い時ほど、一人で決めない。決めてしまっても、あとで取り消せることがある。
窓の外は、少し雨が降り始めていました。
道路に街灯が滲んで、事務所の古いガラスが薄く光ります。
第一話で知ったのは、冗談の怖さ。
第二話で知ったのは、共犯の嘘。
第三話で知ったのは、大事な勘違い。
第四話で知ったのは、騙されて生まれた意思。
そして第五話で知ったのは、
民法、やっぱり面倒です。でも、ときどきすごくまともです。
人が一番弱る瞬間に、「そこは自己責任です」だけで切らない。怖がって押した判は、その怖さごと法が見てくれるということ。
それだけで、少し信じたくなる。
……まあ、その条文を試験でひねって出されると、途端に腹立たしくなるんですけどね。
たぶん明日もまた、誰かが困った顔で入ってくるのでしょう。
土地が絡むと、人は本当にいろんな顔をする。欲しい顔、焦る顔、騙す顔、そして怖がる顔。
そのたび私は、古い机の上でノートを開いて、少しずつ整理するのです。
――さて。次はどの“言ったつもり”“言わされたつもり”が、事務所の扉を開けてくるんでしょうか。
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