[使用者責任]現場編 「勝手にやった」で会社まで逃げるな
会社というものは、都合が悪くなると急に従業員を他人扱いすることがあります。
「うちの社員が勝手にやったことです」
「会社は指示してません」
「本人に請求してください」
便利ですね。
給料を払っている時は「うちの社員」。
契約を取ってきた時も「うちの社員」。
売上を上げれば「我が社の功績」。
事故を起こした瞬間だけ、
「知らない人です」
――いや、野良猫じゃないんだから。
昭和六十三年、六月。
大槻不動産に転生してからしばらく経った私は、その朝もコピー機の前で格闘していました。
「……また紙詰まり」
「機械に嫌われてるな、栞」
背後から真壁さんが言いました。
「違います。機械が昭和なんです」
「昭和の人間が何言ってんだ」
「私の魂はもうちょっと新しいんです」
「朝から意味分からんこと言うな」
はい。
私にも全部説明できません。
私は藤崎栞、十八歳。
大槻不動産の事務見習いです。
そして前世では、宅建試験の民法に何度も殴られた女でした。
今ではその知識が、なぜか昭和の不動産屋で実戦投入されています。
人生、何が役に立つか分かりません。
コピー機の腹を開けて紙を引っ張っていると、事務所の電話が鳴りました。
「はい、大槻不動産でございます」
私が受話器を取る。
電話の向こうから聞こえてきたのは、震えた女性の声でした。
『あの……真壁さん、いらっしゃいますか』
「少々お待ちください」
私は受話器を手で押さえました。
「真壁さん。女性です」
「その言い方やめろ。誤解を招く」
「声が震えてます」
真壁さんの顔が変わりました。
受話器を取って、数秒。
「……事故?」
さらに数秒。
「分かりました。すぐ行きます」
電話を置いた真壁さんは、机の上の車の鍵をつかみました。
「栞、来い」
「はい?」
「昨日案内した客だ。事故に巻き込まれた」
「不動産屋が?」
「不動産屋の車に、だ」
嫌な予感がしました。
しかも宅建試験的に、ものすごく嫌な予感です。
◇
事故現場は、駅から十五分ほど離れた住宅街でした。
曲がり角の先に、人だかりができています。
一台の白いライトバンが、民家のブロック塀に斜めから突っ込んでいました。
フロント部分が潰れ、塀の一部が崩れている。
道路脇には救急車。
少し離れた場所で、三十代くらいの女性が座り込み、腕を押さえていました。
「川瀬さん!」
真壁さんが駆け寄ります。
昨日、賃貸物件の案内をしたお客様だそうです。
「大丈夫ですか」
「ええ……腕を少し打っただけで……」
それでも顔は青ざめています。
そして事故を起こした車の側面には、でかでかと社名が入っていました。
――東亜住宅販売。
「……同業ですね」
「そういうとこだけ目ざといな」
「職業病です」
車のそばには、若い男がいました。
二十五歳前後。
ワイシャツ姿で、何度も頭を下げています。
「すみません……本当にすみません……」
警察官に聞かれるまま答えている。
「会社の車?」
「はい」
「仕事中?」
その質問で、男の動きが止まりました。
「……いえ」
「違うの?」
「今日は、会社には……得意先へ行くって言って……」
「言って?」
「途中で、ちょっと私用があって……」
真壁さんが小さく舌打ちしました。
「面倒なやつだな」
「ですね」
私は事故車を見ました。
会社名入り。
営業時間中。
本人は営業社員。
会社所有の営業車。
得意先に向かう予定だった。
ただし、途中で私用。
――教科書なら、問題文の後半に「この場合、使用者は責任を負わない」とか書いて受験生を殺しに来るやつです。
「藤崎さん……」
川瀬さんが私を見上げました。
「はい」
「あの人の会社から今、電話が来たんです」
「何て?」
「社員が勝手に車を使った事故だから、会社には責任がないって……」
来ました。
私は思わず空を見上げました。
六月の青空。
雲ひとつない。
なのに目の前には、民法七百十五条。
「栞」
「はい」
「今、変な顔したぞ」
「法律が降ってきました」
「病院行くか?」
「正常です」
たぶん。
◇
川瀬さんは軽傷でした。
ただ、持っていた鞄が道路に投げ出され、中の眼鏡や腕時計が壊れていました。
さらに問題なのは、壊された塀です。
塀の所有者である老夫婦が、困り果てていました。
「修理代、誰が払うんですかねえ……」
おじいさんが言う。
「運転した本人でしょう」
そこへ、妙に早く現れた男が答えました。
三十代後半。
濃紺のスーツ。
整髪料でぴしっと固めた髪。
東亜住宅販売の営業課長、三島と名乗りました。
「社員の村上が、会社の指示に反して私用で車を使ったんです」
三島課長は開口一番そう言いました。
「ですから、会社としては責任を負えません」
ああ。
この人、「ですから」の前に重要な三段くらい飛ばしましたね。
真壁さんが眉をひそめます。
「でも会社の車ですよね」
「無断使用です」
「営業時間中ですよね」
「しかし私用です」
「営業途中でしょう」
「途中で私用に逸脱したんです」
三島課長は、ぴしゃりと言いました。
「要するに、本人が勝手にやったんです」
私は心の中で赤鉛筆を持ちました。
――本人が勝手にやった。
宅建受験生を引っかける魔法の言葉。
問題文に出てきたら、まず疑った方がいいです。
大槻所長が到着したのは、その十分後でした。
現場を一目見て、川瀬さんに声を掛け、警察官から状況を聞く。
そして三島課長の説明を黙って聞きました。
「会社として責任はない、と?」
「はい」
三島課長が答える。
「就業規則でも私用運転は禁止しております」
「なるほど」
所長はそれだけ言いました。
怖い。
大槻所長が「なるほど」と言う時は、だいたい何も納得していません。
「栞」
「はい」
「どう思う」
急に振られました。
やめてください。
十八歳事務見習いを、同業他社の課長の前で法務担当みたいに召喚しないでください。
でも。
ここは、分かる。
「会社が決めた内部ルールだけでは、被害者には関係ないと思います」
三島課長が私を見ました。
「……何?」
「社員さんが会社の指示に違反したかどうかと、第三者から見て会社の仕事に見えるかどうかは、別問題です」
「学生さんか何か?」
「事務見習いです」
「だったら――」
「事務見習いでも民法は読めます」
真壁さんが横で口元を隠しました。
笑うな。
「使用者責任は」
私は続けました。
「従業員が『事業の執行について』他人に損害を与えた時に、使用者にも責任を負わせる制度ですよね」
「だから今回は私用だと言ってるだろう」
「本人の頭の中だけで決まりません」
三島課長の眉が動きました。
「外から見てどう見えるか、です」
私は事故車を指しました。
「営業時間中です」
一つ。
「御社所有の営業車です」
二つ。
「車には大きく御社の社名が書かれてます」
三つ。
「運転していたのは営業社員」
四つ。
「しかも、もともとは得意先へ向かう途中だった」
私は手を下ろしました。
「これ、道を歩いていた川瀬さんから見て、『この人は会社と無関係な私用をしています』って分かりますか?」
三島課長は黙りました。
答えは、分かるわけがない。
「でも本人は勝手に――」
「それは御社と社員さんの内部事情です」
私は言いました。
「被害者に見えるのは、御社の看板を背負った営業車だけです」
少し離れたところで、事故を起こした村上さんが顔を上げました。
「それに」
私は続けました。
「使用者責任が成立したからって、運転した本人の責任が消えるわけじゃありません」
川瀬さんがこちらを見る。
「え……?」
「村上さん本人にも請求できますし、会社にも請求できる可能性があります」
「会社が代わりに全部かぶるって意味じゃないのか」
真壁さんが聞く。
「違います」
私は首を振りました。
「被害者から見れば、責任を負う相手が増えるんです」
「ほう」
「本人が責任を免れる制度じゃありません」
所長が、静かに笑いました。
「その通りだ」
三島課長の顔から、少しずつ余裕が消えていきました。
◇
話は、大槻不動産の応接室に移りました。
本来なら他社の事故です。
うちが処理する筋ではありません。
でも川瀬さんは昨日からのお客様で、事故の衝撃で一人では話しにくそうでした。
塀の所有者である老夫婦も一緒です。
東亜住宅販売からは、三島課長と、支店長の榊という人が来ました。
榊支店長は三島課長より年上で、ずっと落ち着いていました。
所長の説明を聞いた後、腕を組みます。
「外形上、職務行為と見られる場合も使用者責任の対象になる、と」
「そういうことです」
大槻所長が答えました。
「少なくとも、単に『無断使用だった』『社内規則違反だった』というだけで、直ちに責任を免れる話ではありません」
「しかし」
三島課長が割り込みます。
「会社がどれだけ監督しても、勝手に持ち出されたら――」
「それなら」
所長が静かに返しました。
「選任と監督について相当の注意を尽くしていたことを、御社が主張立証なさればよろしい」
部屋が静かになりました。
圧。
声は低いのに、圧だけで机が少し沈んだ気がします。
「ただ」
所長は続けました。
「営業社員に営業車を日常的に使用させ、鍵も本人が管理し、得意先訪問を任せていた。そして今回も得意先訪問を名目に会社を出ている」
榊支店長が、三島課長を見る。
「鍵、本人管理なのか」
「……はい」
「走行日報は?」
「帰社後提出です」
「途中確認は?」
「してません」
空気が変わりました。
会社が「勝手にやった」と言えば言うほど、
――じゃあ普段どう管理してたんですか?
という話になります。
法律って、こういうところが容赦ない。
言い訳を一個出すと、次の扉が開くんです。
しかもその扉の向こうに、だいたい書類があります。
「分かりました」
榊支店長がため息をつきました。
「会社として、責任を否定する前提では話しません」
三島課長が振り向く。
「支店長!」
「三島」
榊支店長の声が低くなる。
「怪我をされた方の前で、最初にする話が責任逃れか」
三島課長が口を閉じました。
榊支店長は川瀬さんと老夫婦に、深く頭を下げました。
「まず、治療費と物損について確認させてください。保険会社にも連絡します。ご迷惑をおかけしました」
川瀬さんの肩から、目に見えて力が抜けました。
たぶん彼女が欲しかったのは、法律論だけではなかった。
怪我をした。
物が壊れた。
怖い思いをした。
その直後に、
「うちは関係ありません」
と言われた。
それが、一番こたえたんだと思います。
◇
その時。
「待ってください」
扉のところから声がしました。
村上さんでした。
事故を起こした本人です。
警察での確認を終えた後、会社からこちらへ来たらしい。
「俺が払います」
村上さんは言いました。
「全部、俺が払います」
「村上」
榊支店長が止める。
「会社の責任まで――」
「俺が勝手に寄り道したんです!」
村上さんの声が震えました。
「母親が入院してて……病院から電話があって。得意先へ行く途中、顔だけ見ようと思って……それで焦って……」
なるほど。
私用。
そういう事情だったのか。
「会社には言えませんでした。最近営業成績も悪くて、途中で病院に寄りたいなんて言ったら怒られると思って……」
村上さんは頭を下げました。
「だから俺が全部――」
「それは違います」
気づけば、私は口を挟んでいました。
またです。
私の口は時々、脳の許可を取りません。
「もちろん、事故を起こした責任はあります」
私は言いました。
「でも、だからって、全部を一人で背負えば公平とも限らないです」
村上さんが、顔を上げる。
「会社が被害者に賠償したら、会社からあなたに求償することはあります」
「だったら同じじゃ――」
「全部とは限りません」
私ははっきり言いました。
「仕事で車を使わせていたこと。会社がその仕事から利益を得ていたこと。どう管理していたか。事故の原因。あなたの落ち度。その全部を見て、負担を考えるんです」
三島課長が眉をしかめます。
「会社が払ったら、本人に全額請求できるんじゃないのか?」
「できるとは限りません」
「本人が起こした事故だぞ」
「会社は普段、本人が運転して営業することで利益を得てますよね」
私は返しました。
「利益は会社、事故だけ本人に全部、ではバランスが悪いでしょう」
真壁さんが、小さく頷きました。
「逆も同じです」
私は続けます。
「もし村上さんが先に被害者へ全部支払ったとしても、会社に対して、相当な範囲で負担を求められる場合があります」
「……俺から、会社に?」
村上さんが驚きます。
「はい」
所長が私を見ました。
その目が、
そこまでにしておけ。
後編で説明しろ。
と言っている気がしました。
私は口を閉じました。
危ない。
物語の途中で民法講義を始めるところだった。
◇
結局、東亜住宅販売は保険会社を通じ、川瀬さんの治療費や壊れた持ち物、老夫婦の塀の修理について対応することになりました。
村上さん個人の責任については、会社内でも改めて事情を確認する。
そして榊支店長は、最後にもう一度頭を下げました。
「川瀬さん。本当に申し訳ありませんでした」
「……はい」
川瀬さんは少し迷ってから言いました。
「事故は怖かったです。でも」
榊支店長を見る。
「会社の人に、『うちは知りません』って言われた時の方が、もっと怖かったです」
三島課長の肩が少し下がりました。
「誰に言えばいいのか、分からなくなったから」
その言葉に、誰もすぐには返事をしませんでした。
私は、なんとなく分かる気がしました。
法律が責任の所在を決める意味って、たぶんそこにもあります。
被害を受けた人に、
「自分で犯人を探して、自分で払わせてください」
と丸投げしないため。
会社の看板。
会社の車。
会社の仕事。
そういう仕組みを使って社会に利益を出しているなら、その仕組みが他人を傷つけた時にも、一定の責任を引き受ける。
それが、使用者責任なんだ。
◇
夕方。
事務所に戻ると、真壁さんが缶コーヒーを二本買ってきました。
一本を私の机に置きます。
「今日はよくしゃべったな」
「普段は無口みたいに言わないでください」
「普段からうるさい」
「評価が悪化しました」
プルタブを開ける。
甘い。
昭和の缶コーヒー、砂糖で殴ってくる。
「でもさ」
真壁さんが椅子を逆向きにして座りました。
「会社って大変だな」
「何がです?」
「社員が勝手なことしても責任負うんだろ」
「場合によります」
「でも理不尽じゃないか?」
「ちょっとは」
私は答えました。
「でも被害者からしたら、社員個人しか請求できない方がもっと理不尽なことがあります」
真壁さんは缶をくるくる回しました。
「本人に金がなかったら終わり、ってことか」
「そうです」
「会社は仕事をさせて利益を得てる」
「はい」
「だから、その仕事から出た危険もある程度は引き受けろ、と」
「だいたいそんな感じです」
「……栞」
「はい」
「お前、説明がだんだん所長に似てきたな」
「やめてください」
「なぜだ」
「圧まで移ったら十八歳じゃなくなります」
「もう十分あるぞ」
失礼な。
そこへ所長が戻ってきました。
「藤崎」
「はい」
「今日の件、勉強になったか」
「かなり」
「なら一つ覚えておけ」
所長は自分の机に鞄を置きながら言いました。
「会社というのはな、社員の行動全部を見張れるわけじゃない」
「はい」
「だから使用者責任は、会社に何でもかんでも押しつける制度じゃない」
私は頷きました。
「だが同時に」
所長は続ける。
「会社が社員を使って利益を得るなら、『都合が悪い時だけ他人です』も通らん」
真壁さんが笑いました。
「栞と同じこと言ってますよ」
「私が所長に似たんじゃなくて、所長が私に似た説」
「十八歳が何言ってる」
「冗談です」
私は笑いました。
窓の外では、夕方の商店街を営業車が何台も走っていました。
会社名の入った車。
会社の制服を着た人。
会社の名刺を持った営業マン。
世の中は、そういう「看板」を信用して回っています。
その看板を掲げて商売するなら。
何かあった瞬間だけ、看板を外してはいけない。
今日の使用者責任は、私にはそんな制度に見えました。
私は机の上のノートを開き、まだ白いページに一行だけ書きました。
使用者責任。
「勝手にやった」は、会社にとって万能の逃げ道ではない。
その横から、真壁さんが覗き込む。
「お前またノート書いてんのか」
「復習です」
「真面目だな」
「前世で真面目にやらなくて苦労したんです」
「また前世か」
「聞き流してください」
私はページの隅に、もう一つ書き足しました。
会社の責任を考える時は、
本人が「何のつもりだったか」だけでなく、
外から「何をしているように見えたか」を見る。
そこまで書いて、ペンを置きました。
「栞」
「はい?」
「明日は内見二件だ」
「事故らないでくださいね」
「縁起でもないこと言うな!」
「じゃあ安全運転で」
「最初からそう言え!」
所長が新聞の向こうで笑いました。
夕方の事務所には、コピー機の音と、黒電話のベルと、少し古い缶コーヒーの甘い匂い。
事故そのものは、なかったことにはならない。
怪我も、壊れた塀も、村上さんの失敗も。
でも少なくとも、
「誰も責任を取りません」
という場所には落ちなかった。
それだけで、今日という日は少しだけまともな終わり方をした気がしました。
昭和六十三年。
会社の看板が、今よりずっと大きく見えた時代。
私はその看板の裏側にある責任を、また一つ覚えました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




