[相殺禁止]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
今日の事件を、もう一度整理する。
佐伯さんは、熊田さんから八十万円を借りていた。
だから熊田さんは、佐伯さんに対して八十万円の貸金債権を持っている。
一方。
熊田さんは、佐伯さんを殴って怪我をさせた。
だから今度は佐伯さんが、熊田さんに対して、治療費や慰謝料などの損害賠償請求権を持つことになる。
つまり――。
お互いが、お互いに対して債権を持っている。
「ここだけ見れば、相殺できそうなんだよなあ」
私が呟くと、向かいの机で伝票を見ていた真壁さんが顔を上げました。
「できねえんだろ?」
「はい」
「今日、お前が散々言ってたからな」
「珍しく覚えてますね」
「珍しくってなんだ」
私はノートに二人の名前を書きました。
熊田 → 佐伯 貸金債権 八十万円
佐伯 → 熊田 損害賠償債権 八十万円
「ほら」
真壁さんが指を差す。
「八十万と八十万だ」
「そうですね」
「普通なら差し引きゼロ」
「普通なら」
「でも今回は駄目」
「はい」
「……なんでだ?」
「そこまで覚えてくださいよ」
「答えは覚えた。理由は忘れた」
「試験で一番危ないタイプですね」
私は赤鉛筆を取りました。
今日のテーマ。
――相殺できない債権。
◇
まず。
相殺そのものは、とても便利な制度です。
たとえば。
AさんがBさんに百万円を貸している。
ところがBさんも、Aさんに七十万円を貸している。
だったら、
AからBへ百万円。
BからAへ七十万円。
と、わざわざ現金を行ったり来たりさせる必要はありません。
差し引けばいい。
百万円-七十万円=三十万円。
結果として、Aさんの債権三十万円だけが残る。
「合理的だな」
真壁さんが言います。
「はい。相殺の大きなメリットです」
「金を二回動かさなくていい」
「そうです」
「じゃあ、今日も同じじゃねえか」
「そこなんですよ」
私はノートを指で叩きました。
「相殺って、何でもかんでも差し引ける制度じゃないんです」
「ほう」
「法律が、これは勝手に相殺させちゃ駄目だ、と決めている債権があります」
「今日の怪我の賠償金とか」
「その代表例です」
私は大きく書きました。
民法509条
一定の損害賠償債権は、受動債権として相殺できない。
「……じゅどう?」
「受動債権です」
「急に法律が嫌になってきた」
「まだ始まったばかりですよ」
「もっと普通の日本語で頼む」
仕方ない。
ここは非常に大事です。
私は二本の矢印を書きました。
自働債権
=相殺をする側が持っている債権
受働債権
=相殺によって消される側の債権
「漢字が逆に見えるな」
「分かります」
「自分が動かすから自働?」
「そう覚えると分かりやすいです」
今日の事件なら。
熊田さんが、
「俺には佐伯への八十万円の貸金債権がある!」
と言って相殺を主張する。
このとき、
熊田さんの貸金債権が――自働債権。
相殺によって消そうとしている佐伯さんの損害賠償債権が――受働債権。
「なるほど」
真壁さんが頷きました。
「熊田が武器として使うのが自働債権」
「表現は物騒ですけど、分かりやすいですね」
「で、消される側が受働」
「はい」
私は赤鉛筆で囲みました。
超重要!
「不法行為の債権は相殺できない」
ではなく、
「一定の損害賠償債権を受働債権として、加害者側から相殺することができない」。
「そこ違うのか?」
「ものすごく違います」
「同じに聞こえるぞ」
「宅建では、そこを狙ってきます」
私は指を一本立てました。
「相殺禁止は、被害者を守るためのルールです」
二本目。
「だから、加害者が『俺の債権で、お前の損害賠償請求権を消す』と言うことを禁止する」
三本目。
「でも、被害者自身が『私の損害賠償請求権を使って相殺します』と言うのまで禁止する必要はないんです」
「……あ」
真壁さんが眉を上げました。
「向きがあるのか」
「そうです!」
そこです。
今回の重要ポイント。
◇
私は、ノートに今日の事件を書き直しました。
熊田 → 佐伯 八十万円の貸金債権
佐伯 → 熊田 八十万円の身体侵害による損害賠償債権
まず熊田さんから。
「佐伯、お前の損害賠償八十万円と、俺の貸金八十万円を相殺だ!」
これは――。
できない。
「今日のやつだな」
「はい」
「じゃあ逆は?」
「そこです」
今度は佐伯さんが、
「熊田さん。あなたに八十万円返す義務があります。でも私は、あなたに対して八十万円の損害賠償請求権を持っています。これを相殺します」
と主張する。
「……それは?」
「できます」
「えっ」
真壁さんが止まりました。
「同じ八十万同士だぞ?」
「はい」
「同じ二人だぞ?」
「はい」
「向きを逆にしただけで?」
「結論が変わります」
「法律、面倒くせえ!」
「気持ちは分かります」
でも。
これはちゃんと理由があります。
私はノートに大きく書きました。
加害者からの相殺 ×
被害者からの相殺 ○
「なんで被害者ならいいんだ?」
「相殺禁止が誰のためにあるか考えるんです」
「被害者」
「そうです」
被害者に、
「損害賠償金を現実に受け取るか」
それとも、
「自分の借金と相殺してしまうか」
を選ばせることには問題がありません。
被害者本人が望んでいるからです。
禁止したいのは、その逆。
加害者側が勝手に、
「お前に払う賠償金? 俺の債権と相殺するから払わないよ」
とできてしまうことです。
「なるほどな」
真壁さんが腕を組みました。
「被害者を守る制度だから、被害者まで縛る必要はない」
「そのとおりです」
「今日は俺、冴えてるな」
「今のは私が九割説明しました」
「細けえこと言うな」
私はノートに追記しました。
覚え方
相殺禁止は、
「相殺そのものが悪い」のではない。
「加害者側から、被害者の賠償請求権を勝手に消すこと」が駄目。
◇
「ところで」
真壁さんが言いました。
「殴った時だけなのか?」
「いい質問ですね」
「お」
「珍しく」
「一言余計なんだよ」
ここからが、少し上級者向けです。
現行民法では、相殺禁止になる損害賠償債権には、大きく二つの系統があります。
私は番号を書きました。
① 悪意による不法行為に基づく損害賠償債権
② 人の生命または身体の侵害による損害賠償債権
「……悪意?」
「ここでいう悪意は、単に『事情を知っていた』という意味とは少し違う点に注意です」
「心裡留保の時にも悪意って出てきたな」
「はい。でも民法509条の『悪意による不法行為』は、わざと相手に損害を与えるような不法行為をイメージすると分かりやすいです」
たとえば。
腹を立てて、相手の高級な壺をわざと叩き割った。
車に傷をつけてやろうと思って、鍵でボディーを引っかいた。
「昭和なら車傷つけられたら戦争になるぞ」
「バブル怖いですね」
「そういう意味じゃねえ」
こうした、わざと損害を与える不法行為。
その加害者が、
「でも俺はお前に百万円貸してるから、壺の百万円と相殺な」
などと主張することは認めない。
なぜなら。
それを認めたら、
「債権を持っている相手になら、わざと損害を与えても相殺できる」
という危険な動機を作ってしまうからです。
「今日の熊田と同じ理屈だな」
「そうです」
私はノートに書きました。
①の理由
わざと不法行為を起こして相殺することを防ぐ。
=不法行為の誘発防止。
「じゃあ二番は?」
「生命・身体の侵害です」
「今日の佐伯さんか」
「はい」
殴って怪我をさせた。
交通事故で怪我をさせた。
生命を奪った。
こうした生命・身体の侵害について生じる損害賠償債権は、被害者に現実に賠償を受けさせる必要性が高い。
「治療費とかいるもんな」
「そうなんです」
怪我をした被害者には、
治療費。
入院費。
仕事を休んだことによる損害。
場合によっては将来の生活費にも関わる賠償。
そういうものが必要になる。
そこで法律は、加害者側から勝手に相殺して、被害者が現実にお金を受け取れなくなることを防いでいます。
②の理由
生命・身体を侵害された被害者に、
現実に損害賠償を受けさせる。
「じゃあ」
真壁さんが首を傾げました。
「交通事故はわざとじゃなくても駄目なのか?」
「はい」
「過失でも?」
「生命・身体の侵害なら、そうです」
「ほう」
ここは重要です。
たとえば。
よそ見運転をしていたBが、Aをはねて怪我をさせた。
BはわざとAをはねたわけではない。
故意ではありません。
でも。
Aには身体侵害による損害賠償請求権が発生します。
BがたまたまAに貸金債権を持っていたからといって、
「事故の賠償金と貸金を相殺する」
とは言えない。
「わざとかどうかは関係ない?」
「生命・身体の侵害については、相殺禁止の対象になります」
私は赤鉛筆で二重丸をつけました。
試験ポイント!
生命・身体の侵害による損害賠償債権
→故意でなくても相殺禁止の対象になり得る。
◇
「じゃあさ」
真壁さんが、机の上の消しゴムを持ちました。
「俺がうっかりお前の消しゴム壊したら?」
「十円くらいですかね」
「値段の話じゃねえ」
「過失で物を壊したケースですね」
「そう」
私は少し笑いました。
「ここが改正民法の大事なところです」
昔のルールでは、不法行為によって生じた損害賠償債権を広く相殺禁止としていました。
でも現在の民法では、相殺禁止の範囲が整理されています。
そのため――。
単なる過失による物損まで、すべて一律に相殺禁止になるわけではありません。
「お」
「例えば、不注意で物を壊したようなケースなら、それだけで当然に民法509条による相殺禁止になるわけではない、ということです」
「じゃあ、わざと壊したら?」
「①の悪意による不法行為に入ります」
「相殺禁止」
「はい」
「うっかり壊しただけなら?」
「生命・身体の侵害ではなく、悪意による不法行為でもなければ、509条の相殺禁止には原則として入りません」
私は表にしました。
わざと車を壊した
↓
悪意による不法行為
↓
加害者からの相殺 ×
不注意で人を怪我させた
↓
生命・身体の侵害
↓
加害者からの相殺 ×
不注意で物だけを壊した
↓
悪意なし
生命・身体侵害なし
↓
509条による相殺禁止とはならない
「なるほどな」
真壁さんが表を眺めます。
「『不法行為なら全部駄目』って覚えると間違えるのか」
「今の民法では、そこが危険です」
「宅建、いやらしいな」
「問題作る人が聞いたら喜びそうな感想ですね」
私はさらに、星印をつけました。
要注意!
旧民法のイメージ
「不法行為による損害賠償債権」
↓
広く相殺禁止
現行民法
①悪意による不法行為
②生命・身体の侵害による損害賠償
について相殺禁止。
◇
「ちょっと待て」
真壁さんが言いました。
「二番の書き方、変じゃないか」
「どこです?」
「一番は“不法行為”って書いてある」
「はい」
「二番は“生命・身体の侵害による損害賠償”だけだ」
私は、にやりとしました。
「真壁さん」
「なんだ」
「今日は本当に冴えてますね」
「だろ?」
「そこ、上級者ポイントです」
生命・身体の侵害による損害賠償債権は、
必ずしも不法行為に基づくものだけとは限りません。
「……どういうことだ?」
「例えば医療事故を考えてください」
「医者が患者を怪我させた」
「はい。その場合、事案によっては不法行為責任だけでなく、契約上の債務不履行に基づく損害賠償責任が問題になることがあります」
「ほう」
「もし“不法行為で請求した時だけ相殺禁止、債務不履行で請求したら相殺できる”なんてことになったら変でしょう?」
「同じ怪我なのにな」
「そういうことです」
だから現行民法では、
「人の生命又は身体の侵害による損害賠償債権」
という形で保護しています。
発生原因を不法行為だけに限定していない。
「なるほど……」
真壁さんが感心したように頷きました。
私はそこに大きな星を三つ付けます。
★★★超重要★★★
生命・身体侵害による損害賠償債権は、
「不法行為によるものだけ」と覚えない。
生命・身体を侵害した結果生じる損害賠償債権について、
被害者に現実の給付を受けさせることが重要。
「これ試験に出たら嫌だな」
「出題者が好きそうですよね」
「お前、問題作る側の気持ちが分かってきたな」
「宅建に苦しめられると、人は敵の思考を読むようになります」
「戦争みてえだな」
「毎年十月に決戦がありますから」
前世の記憶がちくりと痛みました。
いや、今年こそは。
今年こそ。
◇
そこへ、奥から大槻所長が出てきました。
「まだやってるのか」
「はい。相殺禁止です」
「真壁に教えてるのか?」
「そうです」
「俺が生徒みたいに言うな」
「生徒でしょう」
所長が私のノートを覗き込みました。
しばらく読んでから言います。
「一つ、忘れるな」
「何です?」
「この規定には例外もある」
「……あ」
そうでした。
所長、やっぱり抜け目がない。
「例外?」
真壁さんが嫌そうな顔をします。
「まだあるのか」
「あります」
「法律って絶対、後出しするよな」
「条文に最初から書いてあります」
「読む側から見れば後出しだ」
私は苦笑して、ノートに書き足しました。
例外
相殺禁止の対象となる債権でも、
その債権を「他人から譲り受けた」場合には、
509条による相殺禁止は適用されない。
「……なんで?」
「ここは趣旨から考えると分かりやすいです」
たとえば。
AがBを殴った。
その結果、BはAに対して損害賠償請求権を取得する。
この段階では、Aは自分の債権を使って相殺できない。
でも。
Bがその損害賠償債権をCに譲渡した。
すると、その債権を持っているのはCです。
「被害者本人じゃなくなる」
「そうです」
「なるほど」
被害者本人に現実の給付を受けさせる、という必要性が薄れる。
そこで、他人から譲り受けた場合については例外が置かれています。
「ここまで出るのか?」
「上級者向けなら覚えておいて損はありません」
「俺、宅建受けるって言ってねえぞ」
「もうここまで勉強したんです。受けましょう」
「勝手に受験させるな」
所長が小さく笑いました。
◇
「じゃあ最後に問題です」
私はノートを閉じかけて、やめました。
「まだやるのか」
「確認問題です」
「給料出る?」
「出ません」
「やらん」
「所長」
「真壁、答えろ」
「横暴だ!」
では問題。
AはBに百万円を貸している。
ところがAは、金を返さないBに腹を立てて、Bを殴り怪我をさせた。
BはAに対し、百万円の損害賠償請求権を取得した。
Aは、
「俺の貸金百万円と、お前の損害賠償百万円を相殺する」
と主張できるか。
「できない」
「理由は?」
「身体の侵害による損害賠償債権を、加害者側から受働債権として相殺できないから」
「正解!」
「おお」
真壁さんが少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ逆」
Bが、
「自分の損害賠償請求権百万円を使って、Aへの借金百万円と相殺する」
と主張した。
「これは……」
真壁さんが腕を組む。
「できる」
「正解です」
「被害者を守る規定だから、被害者自身からの相殺まで禁止してない」
「完璧です」
「俺、受かるんじゃねえか?」
「一問で人生変えないでください」
もう一問。
Aが不注意でBの車を壊した。
人は怪我をしていない。
Aに、Bへ損害を与える意図もなかった。
Bは修理代の損害賠償債権を取得した。
この債権は、民法509条によって当然に相殺禁止になるか。
「……ならない」
「理由は?」
「生命・身体の侵害じゃない」
「はい」
「しかも、わざとやった不法行為じゃない」
「正解!」
私は机を叩きました。
「真壁さん、すごい!」
「なんか腹立つ褒められ方だな」
「最後です」
「まだあるのか」
Aの過失でBが怪我をした。
わざとではない。
「これは相殺禁止」
即答。
「まだ問題文の途中です!」
「身体を怪我させたんだろ」
「……正解です」
「勝った」
「何にですか」
所長が、呆れたように新聞を広げました。
◇
私は改めて、今日のまとめをノートに書きました。
【相殺禁止・最重要まとめ】
一、相殺では二つの言葉を区別する。
自働債権
=相殺する側が使う債権。
受働債権
=相殺によって消される債権。
二、次のような損害賠償債権は、原則として債務者側から受働債権として相殺できない。
①悪意による不法行為に基づく損害賠償債権
②人の生命または身体の侵害による損害賠償債権
三、禁止されるのは加害者側からの相殺。
加害者
「俺の債権とお前の損害賠償債権を相殺する」
→×
被害者
「私の損害賠償債権を使って、私の債務と相殺する」
→○
四、生命・身体の侵害は、故意に限られない。
過失による交通事故などでも対象になる。
五、生命・身体の侵害による損害賠償債権は、不法行為によるものだけとは限らない。
六、単なる過失による物損は、509条によって当然に相殺禁止となるわけではない。
七、相殺禁止の理由。
①不法行為をわざと起こして相殺することを防ぐ。
②生命・身体を侵害された被害者に、現実の賠償を受けさせる。
八、ただし、対象となる債権を他人から譲り受けた場合には例外がある。
「多いな」
真壁さんが言いました。
「多いですね」
「最重要まとめが八個あるぞ」
「法律あるあるです」
「一個にまとめろ」
「無茶言いますね」
「お前、今日現場で言ってただろ」
「何をです?」
真壁さんは私のノートから鉛筆を取りました。
そして一番下に書く。
借金は返す。
怪我は償う。
加害者から勝手に混ぜるな。
「……」
私はその三行を見ました。
「真壁さん」
「なんだ」
「それ、めちゃくちゃ分かりやすいです」
「だろ?」
「悔しい」
「なんでだよ」
所長が新聞の向こうから言いました。
「試験なら、もう一言加えろ」
「何です?」
「誰が相殺を主張しているかを見る」
私は、はっとしました。
そうだ。
今日の論点で、いちばん間違えやすいところ。
同じ二つの債権でも。
どちらから相殺を主張するかによって結論が変わる。
私は最後に、大きく四角で囲みました。
★試験問題を見たら最初に確認★
誰が相殺を主張している?
加害者から?
→相殺禁止を疑う。
被害者から?
→相殺できる可能性がある。
「これですね」
「ああ」
所長が頷いた。
「『不法行為』という言葉を見ただけで反射的に×をつけるな」
「はい」
「まず、誰が誰に何の債権を持っているか整理する」
「自働債権と受働債権」
「そういうことだ」
法律問題は。
難しい言葉が並んでいると、つい条文を丸ごと暗記したくなる。
でも。
AとBを書いて。
矢印を書いて。
どちらが金を払う人で。
どちらが金をもらう人で。
どちらが相殺すると言っているのか。
そこまで整理すれば、急に見えることがある。
今日だってそうだった。
熊田さん。
佐伯さん。
八十万円。
八十万円。
数字だけなら、綺麗に消える。
けれど。
法律は、それを消させなかった。
人を殴って、
「どうせ俺にも債権があるから」
と言える社会にしないために。
そして。
怪我をした人が、
「自分にも借金があるから、殴られても仕方がない」
と思わなくて済むように。
私はノートの最後に書きました。
相殺禁止――。
同じ金額だからといって、
同じ価値とは限らない。
その時。
机の横に、缶コーヒーが置かれました。
真壁さんです。
「はい」
「ありがとうございます」
「今日の授業料」
「安っ」
「嫌なら返せ」
「いただきます」
すぐに確保しました。
所長が新聞をめくりながら言う。
「栞」
「はい?」
「一つ覚えたな」
「はい」
「じゃあ明日は二つ忘れるなよ」
「縁起でもないこと言わないでください!」
真壁さんが笑う。
所長も笑った。
私は甘い缶コーヒーを両手で包みながら、ノートを閉じました。
――自働債権。
――受働債権。
――相殺禁止。
前世では、何度読んでも頭から滑り落ちていった言葉です。
でも今は。
その向こうに、佐伯さんの腫れた頬が見える。
熊田さんの、
「相殺すればチャラだ」
という声も聞こえる。
そして私は答えられる。
――駄目です。
借金は、借金として返す。
怪我は、怪我として償う。
法律がわざわざ二つを分けるのには、ちゃんと理由がある。
私はノートを鞄にしまいました。
昭和六十三年。
どうやら宅建の勉強というものは。
暗記するより先に、
「そんなこと認めたら世の中どうなる?」
と考えたほうが、ずっと覚えやすいらしい。
というわけで今日の結論。
――人を殴って、借金を取り立てようとしてはいけません。
「栞」
「はい?」
「それは宅建以前の常識だ」
「……ですよね」
本当に。
試験に出る前に、人生で覚えておいてほしい話でした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




