[相殺禁止]現場編 殴って帳消しにはできません
借金というものは、ときどき人の頭を悪くします。
貸した側は、
「返せ」
と思う。
借りた側は、
「もうちょっと待って」
と思う。
ここまでは、まあ普通です。
問題は、ごく一部の人が、その間にものすごく危険な発想を挟むことです。
――返さないなら、痛い目を見せればいい。
はい。
駄目です。
ものすごく駄目です。
しかも、そのあとで、
「お互い金を払う立場になったんだから、相殺でチャラな」
まで言い出したら、もう駄目の満漢全席です。
昭和六十三年、六月。
梅雨の湿気で伝票までふにゃふにゃになる午後、大槻不動産の扉が勢いよく開きました。
「た、助けてください!」
飛び込んできたのは、三十代半ばくらいの男性でした。
白いシャツの袖が汚れ、頬には赤黒い腫れがある。
口元も少し切れていました。
私は持っていた湯飲みを、危うく落としかけました。
「えっ」
真壁さんが椅子から立ち上がる。
「どうした」
「……殴られました」
男性は震える声で言いました。
「河原さんに」
その名前を聞いた瞬間、真壁さんの顔が露骨に険しくなりました。
「河原金融か」
「はい……」
金融。
嫌な予感しかしません。
大槻所長が奥の机から静かに立ち上がりました。
「座ってください。まず事情を聞きましょう」
男の人は、佐伯隆さん。
小さな電器店を営んでいて、店の改装資金として以前、河原という男から百万円を借りていました。
そのうち六十万円は返した。
残り四十万円。
ところが商売が少し傾いて、返済が二か月ほど遅れていたらしい。
「今日、倉庫を見に来いって呼び出されまして」
佐伯さんは俯いた。
「そこで、返せ返せって……。来月まで待ってくれって言ったら、急に胸ぐらを掴まれて」
拳を握る手が震えている。
私は黙って新しい濡れタオルを差し出しました。
「ありがとうございます……」
「病院には?」
所長が聞く。
「まだです」
「先に行くべきです」
私は反射的に言いました。
「怪我してるなら、診てもらってください。診断書も……」
真壁さんが、ちらりと私を見た。
「お前、今日はやけに早いな」
「殴られてる人に、お茶より先に必要なものがあります」
「そりゃそうだ」
いや、本当にそうです。
不動産屋の事務見習いが言うことではない気もしますけど。
でも、この話には続きがありました。
しかも、嫌な続きです。
「それで……河原さんが」
佐伯さんが唇を噛みました。
「こう言ったんです」
嫌な予感が、さらに嫌な形になります。
「『お前、俺に四十万借りてるだろ』って」
「はい」
「『今ので怪我したなら、俺に慰謝料でも請求すりゃいい。でもどうせ俺には、お前への貸金がある』って」
真壁さんの眉間に皺が寄る。
佐伯さんは震える声で続けました。
「『だったら相殺すりゃ同じだろ』って」
私は、一瞬だけ言葉を失いました。
なるほど。
そう来たか。
つまり河原という男は、
自分が佐伯さんを殴った。
佐伯さんには、その暴力による損害賠償請求権が発生する。
一方、河原さんには、佐伯さんに対する貸金債権が残っている。
だから、
――お互い金を払う立場だから相殺。
そう言っているわけです。
「……それ、本気で言ったんですか?」
私が聞くと、佐伯さんは頷きました。
「はい」
私は天井を見ました。
世の中には、法学部の試験問題みたいなことを現実でやる人がいます。
やめてほしい。
受験生的には助かるけれど、人類的には困ります。
「それで、明日うちに来いって……」
「何しにです?」
「残りの借金と、怪我の賠償を相殺したっていう書面に判を押せって」
「押したら駄目です」
私は即答しました。
あまりにも即答したので、真壁さんがこっちを見た。
「栞」
「はい」
「理由、分かって言ってるな?」
「分かってます」
私は佐伯さんを見ました。
「少なくとも、河原さんの側から『自分が殴ったことで生じた賠償金と貸金を相殺する』なんて主張は、そのまま通りません」
「……え?」
佐伯さんが顔を上げました。
その目に、ほんの少しだけ光が戻る。
「でも河原さんは、法律上、相殺できるって……」
「できる相殺と、できない相殺があります」
私は言いました。
前世で何度も引っかかったところです。
相殺というのは、一見すると単純です。
AさんがBさんに十万円払う。
BさんもAさんに十万円払う。
それなら、お互い払う手間を省いてゼロにしましょう。
合理的です。
とても便利です。
でも。
便利だからといって、人を殴る自由までセット販売されてはいません。
「人の身体を傷つけて生じた損害賠償まで、加害者の都合で『相殺な』って消せたら、おかしなことになるんです」
私は自分でも、声が少し強くなったのが分かりました。
「どういうことだ?」
真壁さんが聞く。
「たとえば真壁さんが、私に百万円貸してるとします」
「なんで俺がお前に貸すんだ」
「例です」
「返せよ」
「まだ借りてません」
話を進めさせてください。
「で、私が返さない。すると真壁さんが腹を立てて、私を殴る」
「殴らねえよ」
「例です!」
所長が少しだけ口元を緩めた。
私は続けます。
「それで私に百万円分の損害賠償請求権が発生したとします」
「極端だな」
「分かりやすくするためです」
「うん」
「もし真壁さんが、その百万円と、自分の貸金百万円を相殺できたら?」
真壁さんが黙った。
数秒後。
「ああ」
低い声が出た。
「殴った方が早くなるな」
「そういうことです」
私は頷きました。
「金を返さない人がいたら、わざと怪我をさせて、自分に対する損害賠償債権を作らせる。それで元の貸金と相殺する。そんなことを許したら」
「暴力で債権回収できる」
「はい」
佐伯さんの顔色が変わりました。
ようやく、河原の理屈のおかしさが一本の線になったのだと思います。
「だから、そんな相殺は駄目なんです」
私は言いました。
「殴った側が、殴られた側の損害賠償請求権を勝手に相殺の材料にすることはできません」
「……じゃあ」
佐伯さんの声が震えた。
「怪我の治療費とか、慰謝料とかは……ちゃんと請求できるんですか」
「できます」
答えたのは所長でした。
静かな声。
でも、事務所の空気が一段締まる。
「借金があることと、暴力を受けたことは別です」
所長は佐伯さんをまっすぐ見た。
「あなたが借りた四十万円を返す義務があるとしても、それは河原氏があなたを殴っていい理由にはならない」
「……はい」
「貸金は貸金」
所長が続ける。
「損害賠償は損害賠償です」
真壁さんが腕を組みました。
「つまり河原は、貸金四十万を請求する権利はある。でも、自分が殴って発生させた賠償金を使って、その四十万を消すことはできねえ」
「そういうことです」
私が答える。
「ただし」
所長が私を見る。
来ました。
実務の人の「ただし」。
法律の説明で一番怖い接続詞です。
「佐伯さんの側から、相殺を持ち出すことまで禁止されるわけじゃない」
私は頷きました。
「はい」
佐伯さんが混乱した顔をする。
「え?」
「向こうからは駄目。でも、あなたの側からなら、場合によっては相殺を主張できます」
「どうして……?」
「守られる側が違うからです」
私は少し考えて、できるだけ噛み砕いて言いました。
「このルールは、怪我をさせられた人を守るためにあるんです」
「はい」
「加害者から『どうせ相殺だから払わない』と言わせないためのものです。でも、被害者自身が『私は現金で払ってもらわなくていいから、その分は私の借金から引いてほしい』と選ぶなら」
「それは……俺が選んでる」
「そうです」
佐伯さんは、しばらく黙っていました。
それから、顔を両手で覆いました。
「……よかった」
小さな声でした。
「俺、借金返してないから……殴られても仕方ないのかと思ってました」
その言葉に、私は胸が少し詰まりました。
こういうのが一番嫌です。
借金がある。
約束を守れていない。
だから、自分が悪い。
そこまでは分かる。
でも人は、ときどきそこから、
――だから何をされても仕方ない。
に飛んでしまう。
そんなわけない。
悪いことを一つしたからといって、相手に全部の権利を渡すわけじゃない。
「借金を返していないことは、返していないことです」
私は言いました。
「そこは整理しないといけません」
「はい……」
「でも、殴られていいこととは別です」
「……はい」
「そこまでセットで自己責任にしなくていいです」
真壁さんが、私の頭をぽんと叩きました。
「いいこと言うじゃねえか」
「髪崩れます」
「そこかよ」
私は真壁さんの手を払いました。
所長は電話を取りました。
「佐伯さん。まず病院へ。診断書を取ってください。それから警察にも相談しましょう」
「警察……」
「暴力は不動産屋の仕事じゃありません」
「当たり前です」
私が言うと、真壁さんが苦笑した。
「でもよ、河原の奴、明日来いって言ってるんだろ」
「はい……」
「なら、俺も行きます」
「真壁さん?」
「一人で行かせるわけにいかんだろ」
所長が真壁さんを見る。
「喧嘩するなよ」
「しませんよ」
「顔が喧嘩なんだ」
「生まれつきです」
そこはちょっと可哀想。
翌日の午後。
私たちは佐伯さんと一緒に、河原金融の事務所を訪れました。
雑居ビルの二階。
煙草の匂い。
壁には景気のいい標語。
「信用第一」
昨日、人を殴った事務所の壁に掲げる言葉としては、なかなか攻めています。
河原は、四十代後半の大柄な男でした。
机の向こうに座ったまま、私たちを見るなり鼻で笑います。
「なんだ、大槻んとこの連中まで来たのか」
「付き添いです」
真壁さんが答える。
「佐伯さん、一人じゃ話しづらいそうなんで」
「話も何もねえよ」
河原は書類を机に放りました。
「こいつは俺に四十万借りてる。昨日ちょっと揉めて怪我した。なら賠償が仮に四十万でも、相殺でゼロだ。簡単な話だろ」
私は書類を見ました。
合意書。
貸金残額と損害賠償債権を相殺し、双方債権債務なし。
なるほど。
ずいぶん手際がいい。
暴力より書類作りの方が早い人は、別方向に怖い。
「簡単じゃありません」
私が言うと、河原の視線がこちらに向いた。
「誰だ、お前」
「大槻不動産の藤崎です」
「事務の小娘だろ」
「はい。なので、小娘でも分かる話をします」
真壁さんが横で咳き込んだ。
たぶん笑っています。
河原の眉が動いた。
「何だと」
「昨日、佐伯さんを殴ったのは事実ですね?」
「殴ったってほどじゃねえ。ちょっと胸ぐら掴んだだけだ」
「頬が腫れて、口も切れていました」
「転んだんじゃねえの」
「診断書があります」
河原が黙った。
佐伯さんの手には、病院でもらった封筒がある。
さらに警察にも相談済みでした。
所長の指示通りです。
法律は、理屈だけだと弱い時があります。
証拠が入ると、急に筋肉質になります。
「それで」
私は机の上の合意書を指しました。
「河原さんは、自分が佐伯さんに対して持っている貸金債権と、佐伯さんがあなたに対して持っている損害賠償請求権を相殺する、と」
「そうだよ」
「できません」
河原が笑った。
「は?」
「少なくとも、あなたの側からはできません」
「何言ってんだ。互いに金を払うんだぞ? 相殺だろうが」
「何でも相殺できるなら、人を殴って借金を回収できます」
「……」
「四十万円返してくれない。じゃあ四十万円分の怪我をさせる。賠償金四十万円。はい相殺」
私は一拍置きました。
「そんな仕組み、法律が認めると思います?」
河原の顔から笑みが消えた。
「極端な話してんじゃねえ」
「昨日、ほぼそれをやったのは河原さんです」
空気が止まった。
真壁さんが横で、ぼそりと言いました。
「栞。今日は切れるな」
「昨日、人が殴られてますから」
「まあな」
河原が机を叩いた。
「借金返さねえ方が悪いだろうが!」
佐伯さんがびくっと肩を震わせた。
私は、その動きを見ました。
だから、今度は少しだけゆっくり言いました。
「はい」
河原が一瞬、目を見開く。
「借金を返していない点は、佐伯さんにも責任があります」
「ほら見ろ!」
「でも」
私は続けました。
「だから殴っていい、にはなりません」
河原が黙る。
「借金を返してもらう方法はあります。請求する。話し合う。必要なら裁判する。財産を差し押さえる手続きを取る」
机の合意書を指で軽く叩く。
「でも、人の身体を使って精算する方法はありません」
真壁さんが小さく笑った。
「なるほどな」
私は河原を見ました。
「貸金は貸金として請求してください」
「……」
「賠償は賠償として払ってください」
「……」
「少なくとも、あなたが勝手に『相殺したから終わり』にはできません」
河原はしばらく私を睨みました。
でも、昨日までと違うものが机の上にはありました。
診断書。
警察への相談記録。
そして、誰も一人ではないという事実。
結局、河原は合意書を引っ込めました。
「……分かったよ」
吐き捨てるように言う。
「弁護士通せばいいんだろ」
所長が静かに答えました。
「それが一番でしょう」
「貸した四十万まで踏み倒させる気じゃねえだろうな」
「それは別問題です」
所長の声は淡々としていました。
「佐伯さんには、借りた金を返す義務があります」
佐伯さんが深く頭を下げました。
「返します。分割でも、必ず」
河原は何も言いませんでした。
ただ、その瞬間。
昨日までぐちゃぐちゃだったものが、ようやく一つずつ分かれた気がしました。
借金。
暴力。
治療費。
慰謝料。
貸した側の権利。
殴られた側の権利。
混ぜるから、おかしくなる。
分ければ、見える。
それが法律の仕事なのかもしれません。
帰り道。
佐伯さんは、事務所の階段を下りたところで立ち止まりました。
「藤崎さん」
「はい?」
「さっきの話なんですけど」
「何でしょう」
「俺からなら……相殺を言ってもいいんですよね?」
「はい」
「じゃあ、河原さんに払う四十万円と、向こうからもらう賠償の一部を、俺の方から相殺するっていうのは」
「できます」
「そうした方がいいでしょうか」
私は少し考えました。
ここは法律の問題ではなく、本人が何を望むかです。
「佐伯さんが決めていいと思います」
「俺が?」
「はい」
「現金でもらって、借金は別に返してもいい」
「はい」
「自分から相殺して、借金を減らしてもいい」
「そうです」
「……俺が選べるんですね」
「それが大事なんだと思います」
佐伯さんは、しばらく黙っていました。
それから、少し笑いました。
「じゃあ、ちゃんと計算してから考えます」
「その方がいいです」
「今度は殴られない場所で?」
真壁さんが言う。
「もちろんです」
「うちの事務所貸すぞ」
「真壁さん、勝手に貸さないでください」
「所長、いいですよね」
「茶菓子持参ならな」
「そこなんですか」
所長、意外と現金です。
数日後。
佐伯さんが、菓子折りを持って大槻不動産にやってきました。
河原とは第三者を交えて話し合い、治療費などを含む賠償額を決めることになったらしい。
貸金についても、残額を分割で返す話がついた。
「結局、相殺はしないことにしました」
佐伯さんが言いました。
「そうなんですか?」
「はい」
少し照れくさそうに笑う。
「治療費とかはちゃんと受け取って、借金は借金で返そうと思って」
「どうしてです?」
「なんていうか……」
佐伯さんは頭を掻きました。
「混ぜたくなくなったんです」
私は、その言葉に少し驚きました。
「俺が返してなかったことは、俺の責任です」
「はい」
「でも、殴られたことは、俺の責任じゃない」
「……はい」
「だから、別々に終わらせたいなって」
すごく、いい答えだと思いました。
法律の教科書には、
自働債権。
受働債権。
相殺適状。
相殺禁止。
そういう言葉が並びます。
でも、目の前の人にとっては、もっと簡単な話なのかもしれません。
自分の責任は、自分で引き受ける。
相手の責任まで、自分のせいにはしない。
それだけです。
佐伯さんが帰ったあと、真壁さんが菓子折りを開けました。
「お、羊羹だ」
「早いですね」
「菓子は鮮度が命だ」
「羊羹、かなり保ちますよ」
「細かい女だな」
「法律より細かくありません」
所長が新聞をめくりながら言いました。
「栞」
「はい」
「今日の件、覚えたか」
「もちろんです」
「じゃあ一言で言ってみろ」
私は少し考えました。
「殴って借金を帳消しにはできません」
真壁さんが吹き出した。
「雑だなあ」
「でも覚えやすいでしょう?」
「まあな」
所長も、ほんの少し笑いました。
「それでいい」
私は羊羹を一切れもらって、自分の机に戻りました。
窓の外では、梅雨の雨が静かに降っています。
前世で宅建を勉強していた頃。
私は相殺禁止のところを見て、
――そんなわざと殴って相殺する奴なんかいる?
と思っていました。
いました。
昭和六十三年にいました。
試験問題というものは、時々、現実より良識があります。
私は古いノートを開き、端に一行だけ書きました。
人の生命や身体を傷つけて生じた賠償債務は、加害者の都合で相殺して消せない。
その下に、もう一行。
ただし、被害者から相殺するのは構わない。
そして最後に、小さく書き足しました。
――法律は、借金を帳消しにするために人を殴るような近道を、ちゃんと塞いでいる。
羊羹を一口食べる。
甘い。
「真壁さん」
「ん?」
「もう一個いいですか」
「駄目だ」
「どうしてです」
「俺の羊羹だからだ」
「所長」
「当事者間で解決しろ」
「そんな」
法律で人間関係を整理した直後なのに、羊羹の分配だけは無法地帯でした。
昭和六十三年。
まだ私は、事務見習いです。
でも少なくとも今日、一つだけは胸を張って言えます。
借金があっても、人は殴られていいわけじゃない。
そして。
殴った側が、
「これでチャラな」
なんて笑えるほど、法律は甘くありません。
羊羹ほどには。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




