[不法行為]法理編 栞とお勉強
夕方。
私は、今日壊された塀の写真を机の横に置いて、ノートを開きました。
灰色のブロック塀。
道路にはみ出していた植木鉢。
そして、トラック。
試験問題なら、
AがB所有の塀に衝突し――
なんて一行で終わる話です。
でも現実では、その一行の中に、
「俺は悪くない」
「私は被害者よ」
「契約してない」
「でも壊したでしょう」
という人間の感情が、ぎゅうぎゅうに詰まっています。
「……不法行為って、思ったより人間くさいな」
「法律なんて、だいたい人間が揉めるからあるんだろ」
後ろから声がして、私は振り向きました。
真壁さんでした。
「勝手に人のノートを覗かないでください」
「見える場所で広げてるお前が悪い」
「過失相殺しますよ」
「便利に使うな」
今日覚えたばかりの言葉を使いたくなる。
宅建受験生あるあるです。
◇
私は、まず一番上に大きく書きました。
不法行為とは何か。
「そこからか?」
「そこからです」
私はペンを走らせます。
不法行為とは、
何の権利もなく、
故意または過失によって、
他人の権利または法律上保護される利益を侵害し、
損害を発生させた場合に、
その損害を賠償する責任を負う制度。
「長いな」
「法律ですから」
「もっと簡単に」
私は少し考えました。
そして、その下に書き直します。
不法行為
=わざと、または不注意で、他人に損害を与えたら賠償する。
「それでいい」
「雑じゃないですか?」
「試験前に覚えられないほうが困る」
それはそう。
私は頷きました。
◇
「今日の森田さんなら?」
真壁さんが聞きます。
「トラックで塀を壊した」
「わざとじゃない」
「はい」
「じゃあ不法行為じゃない?」
「なります」
私は即答しました。
「不法行為は、故意だけじゃなくて過失でも成立します」
「過失って?」
「不注意です」
「たとえば?」
「バックするときに十分な後方確認をしなかった、とか」
「ああ」
私は今日の現場を思い出しながら書きます。
故意
=わざと。
過失
=注意すべきなのに、注意しなかったこと。
「つまり」
真壁さんが言う。
「『わざとじゃないから責任なし』は通らない」
「はい」
「事故だから仕方ない、も駄目」
「過失があれば駄目です」
「厳しいな」
「逆に、事故で家を壊されて『わざとじゃないから我慢してください』って言われたら嫌でしょう?」
「絶対嫌だな」
「そういうことです」
法律って、こうして逆側から考えると急に分かりやすくなる。
◇
私は次に、
過失相殺
と書きました。
「今日の鉢植えだな」
「そうです」
私は丸で囲みます。
被害者にも過失がある場合、
裁判所は、その事情を考慮して損害賠償額を減額することができる。
「できる?」
真壁さんが引っかかりました。
「はい」
「しなきゃいけない、じゃないのか?」
「違います」
ここは宅建で地味に狙われるところです。
「不法行為の過失相殺は、裁判所がすることができる。任意です」
「必ずではない」
「はい」
私は赤鉛筆で書きました。
超重要
不法行為の過失相殺
→裁判所は考慮することができる。
必ず過失相殺しなければならないわけではない。
「今日の山下さんみたいに、被害者側にも原因があった場合だな」
「そうです」
「でも、山下さんにも落ち度があったから森田さんの責任が全部消えるわけじゃない」
「はい」
「割合を調整する」
「そういうイメージです」
私は少し考えて、ノートの隅に書きました。
過失相殺
=責任ゼロの魔法ではない。
損害を公平に分担するための調整。
「お前、今日それ気に入ってるな」
「覚えやすいでしょう?」
「まあな」
◇
そこへ、所長が奥から出てきました。
「まだやってるのか」
「不法行為をまとめてます」
「どこまで?」
「過失相殺まで」
「なら、その次が大事だ」
「時効ですか?」
所長が頷きました。
来ました。
不法行為の時効。
宅建受験生が、
三年。
五年。
二十年。
を頭の中で混線させる場所です。
私は深呼吸して、新しい見出しを書きました。
不法行為による損害賠償請求権の消滅時効。
「嫌そうな顔してるな」
「数字が増えると嫌なんです」
「宅建向いてないな」
「前世から知ってます」
「前世?」
「なんでもありません」
◇
まず、物損。
今日の塀のような場合です。
私は書きました。
物損の場合
①被害者またはその法定代理人が、
「損害」および「加害者」を知った時から3年間。
または、
②不法行為の時から20年間。
「どっちか長い方まで待てるのか?」
「そういう意味じゃありません」
私は首を振りました。
「どちらかの期間が完成すれば、時効になります」
「なるほど」
「だから二本立てです」
私は図を書きました。
知った時から →3年
不法行為の時から→20年
「重要なのは、『損害』と『加害者』の両方を知ることです」
「両方?」
「はい」
「損害を知っただけじゃ駄目?」
「駄目です」
私はそこを強く囲みました。
損害を知った。
でも誰がやったか分からない。
→3年の時効はまだ進まない。
「へえ」
真壁さんが感心した顔をします。
「じゃあ、夜中に塀壊されて、犯人が十年後に分かったら?」
「知った時から3年という期間が問題になります」
「ただし?」
「不法行為から20年という上限があります」
「なるほど」
所長が横から言いました。
「問題文で『損害を知った』だけ書いてあったら、飛びつくな」
「加害者を知ったかも確認する」
「そういうことだ」
私はノートに大きく書きました。
物損の時効は、
「損害+加害者」を知った時から3年。
◇
「じゃあ、人が怪我した場合も三年?」
真壁さんが聞きます。
「そこが違います」
私は新しい欄を作りました。
生命・身体を害された場合。
「人損ですね」
「人損?」
「人の生命や身体の侵害です」
私は書きます。
生命・身体の侵害の場合
①権利を行使することができることを知った時から5年間。
または、
②権利を行使することができる時から20年間。
「五年」
「はい」
「物損は三年」
「はい」
「人損は五年」
「そうです」
真壁さんが眉間に皺を寄せました。
「覚え方ないのか」
「あります」
「お」
「人の身体のほうが大事だから長い」
「雑だな」
「でも忘れません」
私は赤鉛筆で書きました。
物損 3年
生命・身体 5年
長期は20年
「これだけでもかなり整理できます」
「三、五、二十か」
「はい」
「麻雀みたいだな」
「全然違います」
◇
私は、さらにその下に注意書きを付けました。
重要
不法行為の時効では、
物損と生命・身体の侵害で短期の期間が違う。
物損
→3年
生命・身体
→5年
「試験だと、ここを入れ替えて出してきそうだな」
「出しますね」
「嫌な奴だな、試験作る人」
「問題としては良問なんですよ」
「受験生の発言じゃないぞ」
前世で何百問も解いていると、出題者の気持ちまで少し分かるようになります。
末期症状です。
◇
「ところで」
真壁さんがノートを指差しました。
「損害賠償って、いつから遅れてることになるんだ?」
「はい?」
「普通の借金なら、支払期限が来て、それでも払わなかったら履行遅滞だろ」
「そうですね」
「不法行為は?」
私は一瞬、口元が緩みました。
「そこ、宅建で大事です」
新しい見出し。
不法行為に基づく損害賠償債務の履行遅滞。
「結論から言うと」
私はペン先を止めました。
「不法行為が発生した時点です」
「え?」
「請求されてからじゃありません」
「催告もいらない?」
「はい」
私は書きます。
不法行為による損害賠償債務は、
不法行為の時から当然に履行遅滞になる。
「今日なら、塀を壊した瞬間?」
「そうです」
「山下さんが『払え』と言った時じゃない」
「違います」
「請求書を送った時でもない」
「違います」
「事故が起きた瞬間」
「はい」
真壁さんが唸りました。
「被害者保護が強いんだな」
「そういう考え方です」
私は赤で大きく囲みました。
不法行為
→催告不要。
発生した時から履行遅滞。
「これは覚えやすいですね」
「なんで?」
「壊した瞬間から責任開始」
「雑だけど強いな」
「試験は覚えた者勝ちです」
◇
「じゃあ」
所長が静かに言いました。
「被害者が死んだらどうなる」
空気が少し変わりました。
私はペンを止めます。
「損害賠償請求権、なくなるんですか?」
真壁さんが聞く。
「なくなりません」
私は答えました。
「相続されます」
そして書きます。
被害者が死亡した場合
被害者が取得した損害賠償請求権は、
相続人が相続する。
「慰謝料も?」
「はい」
「即死でも?」
「はい」
私はそこを強く囲みました。
即死の場合でも、
被害者本人に慰謝料請求権が発生し、
それが相続される。
「即死なのに?」
真壁さんが少し不思議そうに言います。
「そこ、引っかかりますよね」
「本人が請求する暇ないだろ」
「でも、請求権そのものは発生すると考えるんです」
私はゆっくり言いました。
「亡くなった瞬間に、その人の権利が全部消えてしまったら、加害者が得することになりますから」
真壁さんが黙りました。
所長が静かに頷きます。
「法律は、死亡したから責任まで軽くなるとは考えない」
「……そういうことですね」
私はノートに書き足しました。
死亡=請求権消滅
ではない。
◇
「相続人って、誰でも?」
「法定相続人ですね」
「子供とか配偶者」
「はい」
「じゃあ、まだ生まれてない子供は?」
その質問に、私は一瞬だけ止まりました。
「胎児ですか?」
「そう」
「含まれます」
「え?」
真壁さんが本気で驚きました。
私は少し得意げに書きます。
胎児は、
不法行為による損害賠償請求については、
すでに生まれたものとみなされる。
「まだ生まれてないのに?」
「この場面では特別に保護されます」
「法律、急に優しいな」
「胎児に冷たかったら嫌でしょう」
「それはそうだ」
「ちなみに、相続でも胎児は大事です」
「お前、話広げる気だろ」
「今日はやめます」
所長が咳払いをしました。
「正解だ」
止められました。
◇
私は、一度ノートを最初から見直しました。
不法行為。
過失相殺。
時効。
履行遅滞。
死亡した場合の相続。
胎児。
「……結構あるな」
真壁さんが呟きます。
「ありますね」
「今日、塀一枚壊れただけなのにな」
「法律は一枚の塀からでも枝分かれします」
「怖いな」
「試験範囲のほうが怖いです」
◇
所長が私のノートを覗き込みました。
「栞」
「はい」
「最後に、試験用に整理してみろ」
「分かりました」
私は新しいページを開きました。
そして、大きく書きます。
不法行為 重要ポイント整理
①成立
故意または過失で、
他人に損害を与えた場合、
損害賠償責任を負う。
②過失相殺
被害者にも過失があれば、
裁判所は損害賠償額を減額することができる。
※任意。必ずではない。
③物損の消滅時効
損害および加害者を知った時から3年。
または、
不法行為の時から20年。
④生命・身体侵害の消滅時効
権利を行使できることを知った時から5年。
または、
権利を行使できる時から20年。
⑤履行遅滞
不法行為の時から当然に遅滞。
催告不要。
⑥被害者死亡
損害賠償請求権・慰謝料請求権は相続される。
即死でも同じ。
⑦胎児
不法行為による損害賠償請求について、
すでに生まれたものとみなされる。
「……多いな」
真壁さんが言う。
「でも、一本の流れで覚えると楽です」
「どうやって?」
私は今日の事件を指で追いました。
「まず、塀を壊した」
「不法行為」
「山下さんにも鉢植えの落ち度があった」
「過失相殺」
「請求を放っておいたら」
「時効」
「いつから支払いが遅れてる?」
「壊した時から」
「被害者が亡くなったら?」
「相続人へ」
「まだ生まれてない子供がいたら?」
「胎児も保護」
真壁さんが目を丸くしました。
「……一つの事件で全部いけるな」
「そうなんです」
「試験問題って、こうやって覚えればいいのか」
「私は前世でそれに気づくのが遅かったです」
「だから前世って何だよ」
「気にしないでください」
◇
所長が、最後に私のノートの下へ一行だけ書きました。
誰が、いつ、どんな損害を受けたかを整理する。
「これだけですか?」
「これだけだ」
「でも数字とかいっぱいありますよ」
「数字の前に、人間関係だ」
所長は言いました。
「誰が被害者で、誰が加害者か」
「はい」
「物損か、人損か」
「はい」
「被害者にも落ち度があるか」
「はい」
「いつ知ったか」
「……なるほど」
私は頷きました。
確かに。
不法行為は、条文だけ見ると数字だらけです。
三年。
五年。
二十年。
でも、問題文に出てくる人物を整理すれば、その数字を置く場所が見えてくる。
◇
私は最後に、自分用の覚え書きを書きました。
不法行為は、
「契約があるか」ではなく、
「他人に損害を与えたか」から考える。
そして、もう一行。
物は3年。
人は5年。
どちらも長期は20年。
壊した瞬間から履行遅滞。
死亡しても権利は消えない。
「おお」
真壁さんが感心します。
「それなら俺でも覚えられそうだ」
「試験受けます?」
「嫌だ」
「即答ですね」
「俺は現場で十分だ」
「逃げましたね」
「適材適所と言え」
そこへ、所長が紙袋を持ってきました。
昨日の梨です。
「まだ残ってたんですか」
「三個ある」
真壁さんが一個取ろうとする。
私はすぐに手を押さえました。
「待ってください」
「なんだよ」
「所有者の確認」
「昨日の続きかよ」
「不法行為を防止しています」
「梨一個でそこまでやるな」
所長が静かに言いました。
「その梨は事務所に対する贈与だ」
「じゃあ共有ですか?」
「そこまで考えるな」
「でも――」
「栞」
「はい」
「今日はもう法律を閉じろ」
私は少し考えて。
「……はい」
素直にノートを閉じました。
窓の外は、もう夕暮れでした。
今日、私は一つ覚えました。
不法行為という制度は、
誰かを罰するためだけのものではない。
壊れた物を直すため。
傷ついた人を救うため。
そして、起きてしまった損害を、できるだけ公平に引き受けるためにある。
条文は冷たい数字でできています。
三年。
五年。
二十年。
でも、その数字の向こう側には、
壊れた塀があり、
怪我をした人がいて、
亡くなった人の家族がいて、
まだ生まれていない子供までいる。
そう思うと。
ただの暗記事項だった数字が、少しだけ重く見えました。
「栞」
「はい?」
「梨、切るぞ」
「三等分ですか?」
「四等分」
「なんでです?」
「山下さんがまた来た」
入口を見ると、
「私の梨、残ってる?」
ハルさんが笑っていました。
私は思わず吹き出しました。
どうやら今日の法律問題は、まだ完全には終わっていないらしい。
でも。
こういう続きなら。
悪くありません。
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