[不法行為]現場編 契約してないから払わない、は通りません
世の中には、契約書がないと責任まで消えると思っている人がいます。
不思議です。
契約書とは、たぶん彼らの中では魔除けの札なのでしょう。
書いてなければ責任なし。
判子を押してなければ責任なし。
約束してなければ責任なし。
その理屈でいくと、他人の家の塀を車でぶっ壊しても、
「いや、塀を壊さないという契約はしてませんから」
で帰れることになります。
そんな世界、怖すぎます。
◇
昭和六十三年、九月。
朝から事務所の黒電話が、火事でも知らせるみたいに鳴りました。
「はい、大槻不動産です」
『栞ちゃん!? 真壁さんいる!?』
受話器の向こうから響いた声に、私は反射的に耳を離しました。
山下ハルさん。
六十代半ば。
うちが管理している貸家の大家さんです。
「いますけど、どうされました?」
『塀が!』
「はい」
『うちの塀が死んでるのよ!』
「……塀はもともと生きてません」
『そういう話じゃないの!』
ですよね。
朝八時十二分。
本日最初のツッコミは、我ながら必要ありませんでした。
◇
二十分後。
私と真壁さんは、ハルさんの貸家の前に立っていました。
「……派手にいったな」
真壁さんが呟きます。
「ですね」
道路沿いにあったコンクリートブロック塀が、三メートルほど完全に崩れていました。
というより。
崩れたという表現では、塀に失礼です。
粉砕。
轢殺。
殉職。
そんな言葉のほうが近い。
その横には、小型トラックが斜めになって停まっていました。
荷台には材木。
フロント部分には、灰色の粉。
犯人が現場に証拠を全部置いていくタイプの事件でした。
「だから言ってるでしょう!」
ハルさんの声が響きます。
「全部直してくださいよ!」
その向かいには、四十代くらいの作業服姿の男。
額に汗。
でも態度は妙に大きい。
「だから、おばちゃん」
「おばちゃん言うな!」
「……山下さん。俺は払えないって言ってるんですよ」
「なんでよ!」
「うちは、この家と何の契約もしてないでしょう」
出ました。
契約魔除け理論。
私は思わず真壁さんを見ました。
真壁さんも私を見ました。
目だけで会話します。
――今の聞いた?
――聞いた。
――すごいですね。
――すごいな。
悪い意味で。
男は腕を組みました。
「俺は隣の新築現場に材料持ってきただけなんです。ここの家とは工事契約もない。山下さんとも取引ない。だから会社として払う義務なんかないですよ」
「でも、あんたがぶつけたんでしょう!」
「事故ですよ」
「事故なら壊していいの!?」
「そうは言ってません。でも契約してない以上――」
「ありますよ」
私は口を挟みました。
男がこちらを見る。
「……誰?」
「大槻不動産の藤崎です」
「不動産屋?」
「見習いです」
「じゃあ関係ないじゃん」
肩書きで殴ってきました。
残念。
私は肩書きは弱いですが、昨夜まで前世で宅建の問題集に殴られていた女です。
法律用語による反撃なら、わりと慣れています。
「契約がなくても、責任が生じる場合があります」
「は?」
「人の物を、故意か過失で壊した場合です」
私は壊れた塀を指差しました。
「これは契約責任じゃありません」
一拍置く。
「不法行為です」
男の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えました。
◇
「不法……何?」
「不法行為」
真壁さんが低い声で繰り返しました。
顔が怖い。
こういう時だけ顔面の圧が営業ツールとして非常に優秀です。
「簡単に言えばな」
真壁さんがトラックを顎で示します。
「あんたが不注意で他人の物を壊したなら、契約してようがしてまいが、損害を賠償する話になるってことだ」
「いや、でも」
「でも?」
「ブレーキ踏んだんですよ」
「止まってませんけど」
私が言う。
「だから事故だって!」
「事故かどうかと、過失があるかどうかは別です」
男がむっとしました。
「じゃあ何? 事故ったら全部俺が悪いって言うの?」
「言ってません」
「言ってるだろ!」
「言ってません」
私は即答しました。
「だから調べます」
こういうとき、勢いで殴り返したら負けです。
感情対感情になる。
法律の強いところは、声の大きさをいったん脇へ置けるところです。
◇
事故現場を見る。
道路は狭い。
貸家の塀の向かい側には電柱。
トラックはバックで隣の建築現場に入ろうとしたらしい。
タイヤ跡。
路肩。
塀。
私はしゃがみ込みました。
「真壁さん」
「ん?」
「ここ」
塀の道路側。
そこから、植木鉢が一つ転がっていました。
かなり大きい。
「これ、もともとどこに置いてありました?」
ハルさんが答えました。
「塀の前ですよ」
「道路にはみ出してました?」
「そんなに出してないわよ」
「そんなに?」
ハルさんの声が止まりました。
なるほど。
嫌な予感が当たりました。
「ハルさん」
「な、なによ」
「正直にお願いします」
「……ちょっとだけよ」
親指と人差し指で隙間を作る。
こういう「ちょっと」は、だいたい本人の主観です。
「鉢植えが道路側に出てたんですね?」
「だって日当たりがいいんだもの」
太陽は法律上の抗弁になりません。
私は心の中だけで突っ込みました。
男が勝ち誇ったように言います。
「ほら!」
いや、あなたも急に元気にならないでください。
「邪魔だったんですよ、その鉢! だから避けようとしてハンドル切ったんです!」
「じゃあ、鉢植えに当たりそうになって塀にぶつかった?」
「そうですよ!」
「バックするとき、誘導員は?」
「……いません」
「後方確認は?」
「ミラーで見てました」
「降りて確認しました?」
「そんなの毎回やってられないよ!」
はい。
今、過失が自分から歩いて出てきました。
◇
その時でした。
「何やってる」
後ろから、聞き慣れた低い声。
振り向くと、所長がいました。
大槻所長。
いつもの濃い色のスーツ。
夏だというのに崩れない姿勢。
そして、怒鳴っていないのに全員が一度黙る謎の圧。
この人、たぶん声帯の代わりに重力を持っています。
「所長」
「電話を受けた。状況は?」
真壁さんが簡潔に説明しました。
トラックがバック中、貸家の塀を破損。
運転手は「契約がないから払わない」。
一方、大家の植木鉢も道路側にはみ出していた可能性がある。
所長は一度だけ壊れた塀を見ました。
「なるほど」
そして運転手へ。
「あなたのお名前は?」
「森田です」
「会社は?」
「東海木材運送」
「会社に連絡しましたか」
「まだです」
「してください」
「いや、だから会社は関係ないでしょう」
所長の眉が、ほんの少し動きました。
怖い。
「勤務中でしょう」
「そうですけど」
「会社のトラックで」
「はい」
「会社の業務として資材を運んでいた」
「……はい」
「なら、少なくとも『関係ない』で切れる話ではありません」
森田さんが黙りました。
私は思わず所長を見ました。
使用者責任。
そこまで行くのか。
でも所長は、今日はそこを掘りませんでした。
「まず事故の事実関係を整理する」
落ち着いた声。
「森田さん。あなたは、鉢植えを避けるために進路を変えた」
「はい」
「しかし後方を十分確認せず、塀に衝突した」
「……まあ」
「山下さん」
「はい」
「鉢植えは道路にはみ出していた」
「……少し」
「双方に問題がある可能性があります」
「えっ」
ハルさんが不満そうな声を出しました。
「でも、塀を壊したのは向こうですよ!」
「そうです」
所長は否定しません。
「だから森田さん側の責任が消えるわけではありません」
そして、私を見ました。
「栞」
「はい」
「こういう場合、どう考える」
来た。
抜き打ち。
人生が宅建模試になっている。
私は一度、事故現場を見渡しました。
「損害を受けた側にも過失があれば……」
「うん」
「その事情を考慮して、賠償額を調整することがあります」
「名前は?」
「過失相殺です」
所長が静かに頷きました。
森田さんがすぐに食いつきます。
「ほら! じゃあ俺、払わなくていいんだ!」
「違います」
私と真壁さんと所長の声が重なりました。
三重奏。
妙に気持ちよかった。
「なんでだよ!」
森田さんが叫ぶ。
私は言いました。
「過失相殺は、責任ゼロにする魔法じゃありません」
「でも向こうも悪いんだろ!」
「はい」
「じゃあ!」
「だから、損害を公平に分ける話です」
私は指で地面を示しました。
「鉢植えが道路にはみ出していた事情は考えます。でも、それでバックするときの安全確認義務まで消えるわけじゃありません」
森田さんが言葉に詰まる。
「つまり」
真壁さんが続けました。
「『相手にも落ち度があった』と『俺には責任がない』は、同じ意味じゃない」
それです。
私は心の中で拍手しました。
今日の真壁さん、説明がうまい。
顔怖いのに。
◇
そこからは、話が早かった。
所長が会社へ電話。
東海木材運送の営業部長が、三十分後に飛んできました。
「申し訳ございません!」
来るなり深々と頭を下げる。
森田さんの態度が、一気に社員になりました。
社会人とは役職者が現れると急に背筋が伸びる生物です。
「事故状況は確認しました」
部長は壊れた塀を見て言いました。
「こちらの保険会社にも連絡します」
ハルさんは腕を組みました。
「全部直してもらいますからね」
「もちろん、こちらの責任部分については対応します。ただ……」
部長は植木鉢を見る。
ハルさんの顔が曇った。
「……あれも、関係あるの?」
「あります」
私は柔らかく言いました。
「ただし、それだけでハルさんが全部悪いことにはなりません」
「でも私は被害者よ」
「はい」
「なのに減らされるの?」
「可能性はあります」
ハルさんは納得できない顔をしました。
それはそうです。
塀は壊れた。
自分では車を運転していない。
なのに「あなたにも少し原因があります」と言われれば、腹は立つ。
だからこそ、ここをごまかしたら駄目だ。
「ハルさん」
「なによ」
「もし逆だったら、どうでしょう」
「逆?」
「ハルさんが車を運転していて、誰かが道路にはみ出して大きな荷物を置いていた。そのせいで事故が起きたのに、『運転していた人が全部悪い』と言われたら」
ハルさんは黙りました。
「……嫌ね」
「ですよね」
「でも、私の鉢はあんなに大きくないわよ」
「大きいです」
「栞ちゃん」
「かなり大きいです」
「味方してよ!」
「味方だから言ってるんです」
私が答えると、ハルさんはしばらくむっとして。
やがて。
「……そういうとこ、あんた真面目ねえ」
「損してます」
「自分で言うな」
真壁さんが横から突っ込んだ。
◇
最終的には。
塀の修理費を業者に見積もってもらい、事故状況を保険会社にも確認してもらった上で、双方の落ち度を考慮して処理することになりました。
その場で数字まで決めることはしない。
ここ、大事です。
法律ドラマだと主人公が、
「あなた八割!」
とか言って指差したら音楽が鳴りそうですが、現実の不動産屋が事故現場で勝手に過失割合を確定させたら別の問題が始まります。
私は見習いです。
神ではありません。
そして所長は、もっと慎重でした。
「写真を撮る」
パシャ。
「位置を測る」
メジャー。
「当事者の話を記録する」
メモ。
「修理見積りを取る」
電話。
地味。
めちゃくちゃ地味。
でも、この地味さが人を救います。
◇
一時間後。
森田さんは帰る前に、ハルさんの前へ来ました。
さっきまでとは別人みたいに、小さく頭を下げます。
「……すみませんでした」
ハルさんは少し驚きました。
「最初、契約してないから関係ないって言って」
「うん」
「正直、逃げたかったんです」
「……うん」
「事故起こしたら会社に怒られると思って」
まあ。
そうでしょうね。
人間、追い詰められると法律より先に言い訳を作ります。
「でも」
森田さんは壊れた塀を見る。
「俺がぶつけたのは事実なんで」
ハルさんはしばらく黙っていました。
それから、道路脇の大きな植木鉢を見ました。
「私も」
「え?」
「これ、もう道路側には置かないわ」
森田さんが顔を上げる。
「危ないものね」
「……はい」
「でも塀は直してよ」
「それはもちろん」
「立派なのにして」
「それは保険屋さんと相談してください」
「そこは逃げるのね」
初めて、二人とも少し笑いました。
なんだ。
話せるじゃないですか。
◇
事務所へ戻ったのは昼前でした。
私は机に座るなり、ぐったりしました。
「疲れた……」
「初めての事故処理だからな」
真壁さんが缶コーヒーを机に置く。
「ありがとうございます」
「お前、途中から楽しそうだったぞ」
「法律が現実に出てくると、ちょっとテンション上がるんです」
「嫌な十八歳だな」
「宅建受験生の成れの果てです」
「受験生ってそんな妖怪になるのか?」
「なります」
少なくとも私はなりました。
そこへ所長が戻ってきました。
「藤崎」
「はい」
「今日の件、何を覚えた」
私は少し考えました。
契約していなくても責任が生じる。
故意や過失で他人に損害を与えれば、不法行為になる。
被害者側にも落ち度があれば、その事情が考慮されることがある。
でも。
今日いちばん印象に残ったのは、それではなかった。
「責任って」
「うん」
「ゼロか百かじゃないんですね」
所長が私を見る。
「森田さんが悪い。ハルさんにも落ち度がある。それって両立するんだなって」
「そうだな」
「私、試験問題だと、どっちが悪いかばかり考えてました」
「試験は丸かバツだからな」
「はい」
所長は椅子に腰を下ろしました。
「だが、現場は丸とバツの間だらけだ」
真壁さんが笑う。
「所長、それ試験前に言われたら困りますよ」
「試験は丸かバツで答えろ」
「急に現実的だな」
「落ちたら困るからな」
私は吹き出しました。
そうだ。
法律は白黒を決めるためだけのものじゃない。
誰か一人を悪者にして終わるためのものでもない。
起きてしまった損害を、
誰が。
なぜ。
どこまで。
負担するのか。
その線を引くための道具でもある。
◇
夕方。
ハルさんが事務所にやって来ました。
両手に紙袋。
「はい、これ」
「なんですか?」
「梨」
「またですか」
昭和の人情は、本日も果物で来ました。
「森田さんの会社からも連絡あったわ。ちゃんと対応してくれるって」
「よかったです」
「それと」
「はい?」
「鉢、全部庭の中に入れた」
ちょっと得意げです。
「偉いです」
「子供扱いするんじゃないよ」
「でも、もう道路には出さないでくださいね」
「分かってるわよ」
ハルさんは紙袋を押しつけるように渡しました。
「……あの運転手もね」
「はい」
「最後にちゃんと謝ったから、もう怒るのやめた」
「そうですか」
「塀は直してもらうけどね」
「そこは別ですね」
「別よ」
二人で笑いました。
その背中を見送っていると、真壁さんが梨を一個取り出しました。
「いい話だったな」
「勝手に食べないでください」
「一個くらいいいだろ」
「ハルさん、私にくれたんです」
「事務所宛てだろ」
「私宛てです」
「名前書いてあるか?」
「心に」
「一番証拠能力が低そうだな」
この男。
私が梨を奪い返そうとしたところで、所長が言いました。
「半分に切れ」
「はい?」
「三人で食べれば揉めない」
真壁さんが梨を見ます。
「所長、一個を三人で?」
「あと五個ある」
「最初からそう言ってくださいよ」
「確認を怠るからそうなる」
「事故処理の教訓を梨に適用しないでください」
所長が、ほんの少し笑いました。
◇
その日の帰り。
私は事務所の机で、ノートの新しいページを開きました。
不法行為。
昨日までなら、
故意。
過失。
損害。
因果関係。
そんな単語を丸暗記するだけだった。
でも今は。
壊れた塀がある。
道路にはみ出した鉢植えがある。
逃げたくなって「契約してない」と言った運転手がいる。
自分は完全な被害者だと思っていた大家さんがいる。
そして最後には、二人とも自分の落ち度を少しだけ認めた。
私はノートの一番上に、大きく書きました。
――契約がなくても、人を傷つけたり、物を壊したりすれば、責任は生じる。
その下に、もう一行。
――でも、責任はいつも「全部あいつが悪い」で終わるとは限らない。
ペンを置く。
窓の外では、夕焼けが古い町並みを赤く染めていました。
昭和六十三年。
まだ私は、この時代のことをほとんど知らない。
携帯電話もない。
インターネットもない。
事故現場では、とにかく写真を撮って、測って、電話して、人の話を聞く。
便利じゃない。
だからこそ。
人と人が最後に向き合わないと、事件が終わらない時代なのかもしれません。
「栞」
帰り支度をしていた真壁さんが振り返りました。
「梨、二個持って帰るぞ」
「駄目です」
「なんでだよ」
「不法行為です」
「違うわ!」
「故意に私の梨を侵害しています」
「梨に対する権利侵害ってなんだよ!」
奥から所長の声が飛んできました。
「一個なら持っていけ」
「所長!」
「ほら、許可出たぞ」
「所有者は誰なんですか!」
今日一日かけて、不法行為を学んだはずなのに。
最後に発生した紛争は、梨の所有権でした。
法律って、本当に忙しい。
でも。
こういう忙しさなら――。
たぶん、嫌いじゃありません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




