[債権者代位]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
今日の事件を、もう一度整理する。
長谷川さんは、坂井さんに二千万円を貸していた。
坂井さんは、木村さんに一千万円を貸していた。
でも坂井さんは、長谷川さんに二千万円を返さない。
しかも、自分が木村さんから返してもらえる一千万円も取り立てない。
そのせいで、長谷川さんは回収できない。
そこで。
長谷川さんが、坂井さんに代わって、木村さんへの一千万円の請求権を行使する。
これが――。
「債権者代位権」
私はノートに大きく書きました。
「またABCか」
背後から声がして振り返ると、真壁さんが缶コーヒーを片手に立っていました。
「今回は顔があります」
「顔?」
「長谷川さん、坂井さん、木村さんです」
「いや、試験ではABCだろ」
「だから嫌なんですよ」
「何がだ」
「全員アルファベットになると、急に人間関係が崩壊するんです」
「お前だけだろ」
「全国の受験生の三割くらいは同意してくれると思います」
たぶん。
私はノートに書きます。
A=債権者 長谷川さん
B=債務者 坂井さん
C=第三債務者 木村さん
「第三債務者って何だ?」
真壁さんが聞きました。
「Bから見た債務者です」
「分かりにくい」
「ですよね」
私は矢印を書きました。
A → B → C
長谷川さん → 二千万円貸した → 坂井さん
坂井さん → 一千万円貸した → 木村さん
「つまり、AはBに金を返してほしい」
「うん」
「BはCから金を返してもらえる」
「うん」
「でもBがCに請求しない」
「そう」
「だからAが代わりにCへ請求する」
「そうです」
真壁さんが少し考えてから言いました。
「……やっぱり怖い制度だな」
「名前だけ見るとそうですね」
「他人の権利を勝手に使うんだろ?」
「でも、勝手に何でも使えるわけじゃないです」
「そこが条件か」
「はい」
私はノートの次のページを開きました。
債権者代位権を使うには、いくつか重要な要件があります。
一つずつ整理します。
まず一つ目。
債務者が無資力であること。
「無資力?」
「簡単に言えば、Bに十分な財産がないことです」
「今回の坂井だな」
「はい」
坂井さんは、長谷川さんに二千万円を返せるだけの財産を持っていなかった。
だからこそ、木村さんに対する一千万円の債権を回収する必要があった。
「じゃあ坂井に金が山ほどあったら?」
「普通は代位できません」
「なんで?」
「長谷川さんは、坂井さん本人から回収すればいいからです」
「なるほど」
私はノートに書きました。
債権者代位権は、債権者を守るための制度。
でも、債務者に十分な財産があるなら、わざわざ他人の権利を代わりに使わせる必要はない。
「つまり」
「うん」
「Aが困っているだけじゃ駄目なんです」
「Bも金がない」
「そうです」
ここ、大事。
AがBに「返せ」と言っている。
でもBには十分な財産がない。
そしてBはCに対する債権を持っている。
この状態だからこそ、債権者代位の出番になる。
「じゃあ、無資力って絶対必要なんだな」
「原則としては重要です」
私は頷きました。
試験では、
「Bが十分な資産を持っているのに、AがCへの債権を代位行使した」
なんて問題が出たら要注意です。
B本人から取れるなら、まずそっちで取れ。
法律はそう考える。
「筋は通ってるな」
「ですよね」
二つ目。
債権者Aの債権が、履行期に達していること。
「履行期?」
「返してもらえる時期が来ていることです」
「今回なら?」
「長谷川さんの二千万円は、先月末が返済期限でした」
「来てるな」
「はい」
ここも重要です。
まだ返済期限が来ていないのに、
「将来返してもらえないかもしれないから、今のうちにBの権利を使わせろ」
では、普通は早すぎる。
「そりゃそうだ」
「ですよね」
私は書きました。
原則。
AのBに対する債権の履行期が到来していることが必要。
ただし。
保存行為の場合は、履行期前でも可能。
「保存行為って何だ?」
真壁さんが聞きました。
「権利を消えないように守る行為です」
「例えば?」
「時効が完成しそうだから、それを防ぐために動くとか」
「なるほど」
「期限前でも、放っておいたら権利そのものがなくなるなら、待っていられないですから」
「そこだけ例外か」
「はい」
私は赤鉛筆で囲みました。
超重要。
履行期到来が原則。
保存行為なら履行期前でもよい。
「試験に出そうだな」
「出ます」
「断言するな」
「過去問に殴られた経験則です」
「また前世か」
私は無視しました。
三つ目。
債務者Bの権利が、一身専属権ではないこと。
「今日も出たやつだな」
「はい」
「本人だけが使うべき権利」
「そうです」
私はノートに書きます。
一身専属権。
その人自身の意思や人格と強く結びついているため、他人が代わりに行使すべきではない権利。
「例えば?」
「離婚に関係する財産分与請求権とか」
「それを債権者が代わりにやるのは、確かに嫌だな」
「嫌というか、怖すぎます」
「借金返せないなら離婚して財産もらえ、って?」
「地獄です」
「それは駄目だな」
「はい」
さらに。
遺留分侵害額請求権のように、本人が行使するかどうかを決めるべき権利も、一身専属的な性質があります。
「つまり」
「うん」
「Bが持ってる権利なら何でもAが使えるわけじゃない」
「その通りです」
ここは、試験でかなり狙われます。
債権者代位権とは。
債務者の権利を代わりに行使する制度。
でも。
債務者本人だけが決めるべき権利まで、債権者が口を出せる制度ではない。
「じゃあ今回の木村への貸金請求権は?」
「普通の金銭債権です」
「本人だけの権利じゃない」
「はい」
「だから代位できる」
「そういうことです」
四つ目。
差押えを禁止された権利ではないこと。
「差押え禁止?」
「法律上、生活保障などのために差押えを禁止している権利です」
「そういうのも勝手に使えない?」
「はい」
差押禁止債権は、債務者本人の生活を守るために特別に保護されている。
なのに債権者が、
「差押えはできません。でも代位して使います」
では、保護の意味がなくなる。
「なるほど」
「なので、差押え禁止の権利も代位行使できません」
ここまで書いたところで、真壁さんが腕を組みました。
「整理すると四つか」
「重要なところはそうですね」
「言ってみろ」
私は指を一本ずつ立てました。
一。
Bが無資力。
二。
Aの債権の履行期が来ている。
三。
Bの権利が一身専属権ではない。
四。
Bの権利が差押禁止ではない。
「なるほどな」
「これを押さえておけば、かなり見やすくなります」
「でもさ」
「はい」
「そもそも、なんでAがCに直接請求できるんだ?」
私は少し考えました。
ここが一番大事かもしれない。
「Bの財産を守るためです」
「Bの?」
「はい」
「Aを守る制度じゃないのか?」
「結果的にはAを守るんですけど」
私はノートに矢印を書きました。
Cから一千万円を回収できれば。
その一千万円は、もともとBの財産になるはずだったもの。
Bが自分で回収しないから、Bの財産が増えない。
Bの財産が増えないから、Aも回収できない。
「だからAが代わりに動く」
「そうです」
「Bの財産を増やして、その結果Aも回収できる」
「まさにそれです」
債権者代位権の本質は。
債務者の責任財産を保全すること。
「責任財産?」
「債権者が、いざという時に回収の対象にできる債務者の財産です」
「難しく言うな」
「じゃあ」
私は書き直しました。
責任財産=借金返済のあてになる財産。
「それなら分かる」
「ですよね」
つまり。
坂井さんが木村さんから一千万円を回収すれば。
坂井さんの財産が一千万円増える。
その財産から、長谷川さんも回収できる。
でも坂井さんが何もしない。
だから長谷川さんが代わりに動く。
「そう考えると、勝手に人の権利を使う制度って感じじゃないな」
「はい」
「財産を腐らせるな、って制度だ」
私は思わず真壁さんを見ました。
「それ、すごく分かりやすいです」
「だろ」
「悔しい」
「なんでだよ」
私はノートの端に書きました。
債権者代位権=債務者が放置している財産上の権利を、債権者が代わりに使って責任財産を守る制度。
「これなら覚えられそうです」
「俺の表現だぞ」
「採用します」
「使用料」
「一身専属権です」
「違う」
そこへ所長がやって来ました。
「何をやってる」
「債権者代位をまとめてました」
「そうか」
所長は私のノートを見て、しばらく黙りました。
「……悪くない」
「珍しく褒められた」
「ただし」
来た。
所長の「ただし」は、だいたい追加問題です。
「一番大事なことがまだ弱い」
「何ですか?」
「誰の権利を使うのか、だ」
私は首をかしげました。
「Bの権利ですよね?」
「そうだ」
所長はペンを取ると、大きく書きました。
Aは、自分の権利をCに行使するのではない。
Bの権利を、Bに代わって行使する。
「……あ」
確かに。
ここ、混同しやすい。
長谷川さんが木村さんに請求できると聞くと、
長谷川さんが木村さんに対して何か独自の債権を持っているように感じる。
でも違う。
木村さんに対する一千万円の債権を持っているのは、あくまで坂井さん。
長谷川さんは、その坂井さんの権利を代わりに行使しているだけ。
「だから」
所長が続けます。
「まず図を書け」
A → B → C
「AがBの債権者」
「はい」
「BがCの債権者」
「はい」
「AがBの立場に代わって、Cに請求する」
「はい」
「これを崩すな」
私は大きく丸をつけました。
試験対策。
債権者代位が出たら、まずA・B・Cを書く。
A=債権者
B=債務者
C=第三債務者
そして。
Aが使うのは、BのCに対する権利。
「これだけでかなり違いますね」
「法律は人間関係を整理した者が勝つ」
「心裡留保の時も言ってましたね」
「毎回同じだ」
「じゃあ宅建って、結局人物相関図の試験ですか」
「半分くらいはそうかもな」
真壁さんが笑いました。
「余計なことを教えるな」
所長が言いました。
私は最後に、今日の内容を一枚にまとめました。
――債権者代位権まとめ――
AがBに対して債権を持っている。
BがCに対して権利を持っている。
Bがその権利を行使しない。
その結果、Aの債権回収が危うくなる。
そこでAが、Bに代わってCに対して権利を行使する。
主な要件。
① Bが無資力であること。
② AのBに対する債権が履行期にあること。
ただし、保存行為なら履行期前でもよい。
③ Bの権利が一身専属権でないこと。
④ Bの権利が差押禁止の権利でないこと。
そして、超重要。
Aが行使するのは、A自身の権利ではない。
BがCに対して持っている権利。
「……よし」
私はペンを置きました。
「分かったか?」
真壁さんが聞きます。
「たぶん」
「たぶん?」
「試験会場では人間は急に馬鹿になるんです」
「お前だけだ」
「全国の受験生に謝ってください」
所長が机の上に羊羹を置きました。
「まだ残ってたんですか」
「昨日のだ」
「食べていいんですか?」
「勉強したならな」
「やった」
私は一切れ取ります。
甘い。
昨日と同じ味なのに。
今日は少し違って感じました。
昨日まで、債権者代位権は。
AがBに。
BがCに。
AがCに。
矢印が増えるたびに、頭が痛くなる制度でした。
でも今は違う。
長谷川さんがいる。
坂井さんがいる。
木村さんがいる。
顔が見える。
事情が見える。
そして。
なぜ法律が、そんな回りくどい制度を作ったのかも少し分かる。
人は、自分の権利を必ずしも使うとは限らない。
面倒だから。
付き合いがあるから。
嫌われたくないから。
先延ばしにしたいから。
理由はいくらでもある。
でも、その「何もしない」が、別の誰かの財産まで危うくすることがある。
だから法律は。
動かない人の代わりに、別の人が動ける道を残している。
債権者代位権。
他人の権利を奪う制度ではない。
止まっている財産関係を、必要な範囲で動かす制度。
私はノートの一番下に書きました。
債権者代位――
「あなたが何もしないなら、私が代わりに動く」
ただし。
いつでも。
何でも。
誰の権利でも。
というわけではない。
無資力。
履行期。
一身専属権。
差押禁止。
条件を一つずつ確認する。
「栞」
「はい?」
真壁さんが私のノートを指しました。
「最後、一個足せ」
「何です?」
「人の金で人情するな」
「法律じゃないです」
「でも今日一番大事だったろ」
「……まあ」
私は少し考えて。
余白に小さく書きました。
実務上の注意。
人の財布で人情をやらない。
「おい、本当に書くなよ」
「真壁さんが言ったんじゃないですか」
「所長、こいつ消してください」
「残しておけ」
「所長!」
三人で笑いました。
昭和六十三年。
今日もまた。
前世で嫌いだった法律用語が一つ、少しだけ好きになりました。
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