[債権譲渡と相殺]現場編 借金を売っても、反対の借金までは消えません
借金には、足がありません。
なのに、ときどき勝手に知らない人のところへ行きます。
正確に言えば――。
債権は、譲渡できます。
AさんがBさんに「百万円払ってください」と言える権利を持っていたとして、その権利をCさんに売ったり、渡したりする。
すると翌日には、昨日まで赤の他人だったCさんが、
「はい、私に百万円払ってください」
と現れる。
債務者からすれば、なかなかホラーです。
しかも今回のホラーには、続きがありました。
「だから! 私は払わないって言ってるんじゃないんです!」
朝九時十五分。
大槻不動産の応接机を、ばん、と叩いたのは、町の建具屋を営む佐伯隆三さんでした。
五十代半ば。日に焼けた顔。太い指。いかにも職人という人なのに、その指先がわずかに震えている。
「払う金がないわけでもない。借りた金を踏み倒すつもりもない。ただ――なんで俺が二百万円まるまる払わなきゃならないんだ!」
お茶を運んできた私は、その数字に眉を上げました。
二百万円。
昭和六十三年の二百万円。
十八歳の事務見習いにとっては、聞くだけで背筋が伸びる金額です。
というか今の私、月給いくらなんだろう。
怖くてまだ給与明細をちゃんと見ていません。
「順番に聞きましょう」
所長の大槻さんが静かに言いました。
声は穏やか。
でも、この人の「順番に」は、だいたい逃げ道を塞ぐ時の声です。
「佐伯さんは、三和材木から二百万円分の木材を買った」
「はい」
「代金はまだ払っていない」
「それもそうです」
「一方で、三和材木は、あなたから店舗の建具工事を頼んでいた」
「そうです。去年の暮れに納めました」
「その工事代金が?」
「百五十万円です」
私は、盆を持ったまま止まりました。
あ。
見えた。
だいぶ見えた。
「つまり」
真壁さんが腕を組みます。
「佐伯さんは三和材木に二百万円払う義務がある。でも逆に、三和材木から百五十万円もらう権利もある」
「そうですよ!」
佐伯さんが身を乗り出した。
「だから昔から話はついてたんです。差し引き五十万だけ払えばいいって!」
――相殺。
頭の中で、前世の宅建テキストが勢いよく開きました。
相手に払う金が百万円。
相手からもらう金も百万円。
だったら互いに打ち消してゼロにする。
あれです。
法律界の「おあいこ」です。
現金を行ったり来たりさせないぶん、非常に合理的。
人類はもっと早く思いついていてもよかった制度だと思います。
「ところが昨日、妙な男が来ましてね」
佐伯さんが封筒を机に放り出した。
「三和材木から債権を譲り受けたって」
私は封筒から紙を取り出しました。
債権譲渡通知書。
譲渡人、三和材木株式会社。
譲受人、東亜債権管理株式会社。
譲渡対象。
佐伯隆三に対する売買代金債権、金二百万円。
通知日は――。
「……一昨日」
私は呟きました。
「そうです。それで昨日、その東亜とかいう会社が来て、『今後はうちが債権者だから二百万円全額払え』って」
「佐伯さんは、百五十万円の工事代金があると伝えたんですね?」
「言いましたよ!」
佐伯さんの顔が赤くなる。
「そしたらなんて言ったと思います?」
嫌な予感しかしません。
「『それは三和材木との話です。うちは関係ありません』って!」
……ああ。
出ました。
法律を半分だけ知っている人が使いがちな魔法の言葉。
――うちは関係ありません。
関係あるから揉めてるんです。
「さらにですよ」
佐伯さんは続けた。
「『債権はもううちに移ってます。三和材木への請求は三和材木にしてください』って」
「三和材木は?」
真壁さんが聞く。
「昨日から電話がつながりません」
事務所の空気が冷えました。
なるほど。
会社の資金繰りが苦しくなった。
回収できそうな売掛金を第三者へ譲渡した。
一方、自分が払うべき工事代金は放置。
そして譲受人は、債務者に満額請求。
もしそのまま通るなら――。
佐伯さんは二百万円を払う。
でも百五十万円は回収できないかもしれない。
実質、三百五十万円ぶんの負担を一人で背負う。
いやいやいや。
そんな馬鹿な話がありますか。
「所長」
私は通知書を持ったまま言いました。
「工事代金の百五十万円って、いつ発生したんですか?」
大槻さんではなく、佐伯さんが答えた。
「去年ですよ。十二月二十日に引き渡してます。請求書も出してる」
「支払期限は?」
「一月末です」
「じゃあ、とっくに来てる」
「来てる?」
佐伯さんが首を傾げる。
「いえ、こっちの話です」
来ている。
弁済期が。
ということは、通知前どころか、とっくの昔に反対債権を取得している。
しかも相殺できる状態にまでなっている。
私は通知書の日付を、指でとん、と叩きました。
「佐伯さん」
「はい」
「これ、二百万円まるまる払わなくていい可能性が高いです」
一瞬。
佐伯さんの顔が止まりました。
「……え?」
真壁さんが私を見る。
「栞」
「はい」
「その顔は、また何か知ってる顔だな」
「私、普段どんな顔してるんですか」
「知らん顔」
「失礼ですね」
「で?」
私は通知書を机に置きました。
「ポイントは、百五十万円の工事代金債権を、佐伯さんがいつから持っていたかです」
「去年からだよ」
「ですよね」
「それが何なんだ?」
「債権が東亜に譲渡されたのは、一昨日です」
「うん」
「その通知を受けるよりずっと前から、佐伯さんは三和材木に対して百五十万円の債権を持っていた」
私は二本の指を立てました。
「つまり、向こうから二百万円請求されても、こちらの百五十万円をぶつけられます」
「……ぶつける?」
「相殺です」
佐伯さんの目が大きくなった。
「差し引き……できるってことですか?」
「はい」
私は頷きました。
「少なくとも今回のように、通知を受ける前から反対債権を持っていたなら、債権が別の人に譲渡されたからといって、その相殺まで消えるわけじゃありません」
佐伯さんは何度か瞬きをした。
「じゃあ……」
「二百万円と百五十万円を相殺できれば、残るのは五十万円です」
沈黙。
そして。
「……五十万でいいのか」
佐伯さんが、ゆっくり椅子の背にもたれました。
「もちろん、書類をきちんと確認して、相殺の意思表示も必要です。ただ、向こうの『うちは関係ありませんから二百万円全額払え』が、そのまま通る話ではないです」
「……よかった」
その一言が。
ものすごく小さかった。
怒鳴る人ほど、安心した時の声は小さくなるらしい。
私は初めて知りました。
真壁さんが通知書を取り上げる。
「なるほどな。債権だけ買ったからって、元の関係を全部無視できるわけじゃないと」
「そうです」
「でも、東亜ってところは知らなかったのか?」
「知ってて言ってる可能性もあります」
「悪いな」
「法律知識って、時々、持ってるだけじゃ善人になりませんから」
「十八の台詞じゃねえな」
「私もそう思います」
前世込みなら、もう少し上ですけど。
言えませんけど。
*
午後二時。
問題の東亜債権管理から、男が二人やって来ました。
一人は三十代。
銀縁眼鏡。茶色い革鞄。
もう一人は四十代くらいで、妙に立派な背広を着ている。
不動産屋に来る人間は、なぜ威圧したい時ほどネクタイが派手になるのでしょう。
「佐伯さんの件ですよね?」
銀縁眼鏡の男――松岡と名乗った――は、座るなり言いました。
「こちらとしては、すでに適法に債権譲渡を受けていますので」
「それは承知しています」
大槻所長が答えた。
「では二百万円、今週中に」
「その前に確認があります」
所長は一枚の請求書を机に置いた。
佐伯建具店から三和材木への工事代金請求書。
金百五十万円。
発行日は去年十二月。
支払期限、一月三十一日。
「佐伯さんは、債権譲渡通知を受ける前から、三和材木に対してこの債権を持っています」
松岡さんはちらりと紙を見た。
「それは弊社とは関係のない債権です」
来た。
テンプレート。
私は横で、危うく「二回目ですね」と言いそうになりました。
「関係あります」
私が口を挟むと、松岡さんがこちらを見た。
「……失礼ですが?」
「大槻不動産の藤崎です」
「事務員さん?」
「見習いです」
「では専門的な話は――」
「専門的じゃない話なら、二百万円くださいで済むんでしょうけど」
真壁さんが咳き込んだ。
笑ったな。
絶対笑った。
松岡さんの眉間に皺が寄ります。
「何がおっしゃりたいんですか?」
私は、二枚の紙を並べました。
一枚目。
佐伯さんの工事代金請求書。
去年十二月。
二枚目。
債権譲渡通知。
一昨日。
「日付です」
「日付?」
「佐伯さんの反対債権は、あなた方から譲渡通知を受けるずっと前から存在しています」
「それが?」
「その債権を使って、譲渡された二百万円の債権と相殺できます」
松岡さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。
ほんの少し。
でも、不動産屋に三週間もいると分かります。
これは「知らなかった顔」ではありません。
「そこ突いてきたか」の顔です。
「……相殺の意思表示は、通知前にはされていませんよね?」
なるほど。
そこを突く。
でも。
「通知前に相殺の意思表示まで済ませている必要はありません」
私は即答しました。
「佐伯さんが通知を受けるまでに、三和材木に対する反対債権を持っていたことが重要です」
松岡さんは黙りました。
私は続けます。
「つまり、三和材木が自分の持っている二百万円の債権をあなた方へ譲渡したからといって、佐伯さんが元から持っていた百五十万円の債権までなかったことにはできません」
「……」
「債権を買ったなら」
私は通知書を指で押さえました。
「その債権が、どんな状態で存在していたかも引き受けることになります」
隣の男が、初めて口を開いた。
「お嬢さん、ずいぶん詳しいね」
「受験生なので」
「何の?」
「それは秘密です」
宅建です。
でも今年受けるのか来年受けるのか、まだこの世界の時間軸が自分でもよく分かっていません。
大槻所長が静かに言った。
「こちらとしては、百五十万円について相殺の意思表示をします。残額五十万円については、正当な請求であれば支払うよう佐伯さんにも話します」
「……五十万円しか払わない、と?」
「違います」
所長の声が一段低くなった。
「払うべき額を払う、と言っています」
おお。
圧。
静かな圧。
大槻所長のいちばん怖いやつです。
「御社は債権譲渡を受けた。それ自体を争っているわけではない。しかし、それによって佐伯さんが従前から持っていた相殺の利益まで奪えるわけではない」
松岡さんは腕を組みました。
「三和材木に確認します」
「どうぞ」
「ただ、弊社としては――」
「確認してください」
所長がもう一度言った。
「請求書だけではなく、納品書、工事完了確認書、支払期限も揃っています」
真壁さんが封筒を置く。
準備がいい。
怖い顔して、仕事が細かい。
こういう先輩は強い。
「そして」
真壁さんが続けた。
「この工事代金については、三和材木の経理担当者が電話で『未払いなのは間違いない』と認めてます」
「えっ」
私は思わず真壁さんを見た。
「いつ確認したんですか?」
「お前が午前中、ノートに矢印書いてる間」
「実務が速い」
「褒めろ」
「怖い顔以外は尊敬してます」
「一言余計だ」
松岡さんたちは、しばらく小声で話し合いました。
そして十五分後。
「……分かりました」
松岡さんが言った。
「百五十万円については相殺の主張があるものとして、社内で処理します。残額五十万円について改めてご連絡します」
佐伯さんが、目を丸くした。
「本当に……五十万で?」
松岡さんは少し苦い顔をした。
「相殺が認められる限りは」
「最初は二百万全部払えって言ったじゃないか」
「……弊社としても、反対債権の詳細を把握していませんでしたので」
私は心の中で首を傾げました。
把握していなかった。
便利な日本語です。
知っていたとも、知らなかったとも言っていません。
大人ってすごい。
そして怖い。
でも、もう勝負はついていました。
債権が動いた。
だから何だ。
その前から存在していた事情まで、消しゴムで消したようにはなくならない。
二百万円という数字に押し潰されそうだった佐伯さんの顔に、ようやく血色が戻っていました。
*
「いやあ……助かった」
東亜の二人が帰ったあと。
佐伯さんは何度目か分からないため息をつきました。
「昨日は本気で、家内に定期預金を崩してくれって頼んだんですよ」
「崩さなくて済みそうですね」
「ええ」
「よかったです」
佐伯さんは少し黙って、それから笑いました。
「でも、不思議なもんだな」
「何がですか?」
「同じ二百万円なのに、昨日は怪物みたいに見えた」
私は首を傾げる。
「今日は?」
「五十万になった」
「算数ですね」
「ははは!」
初めて笑った。
豪快な人でした。
「お嬢ちゃん」
「栞です」
「栞ちゃん」
「はい」
「ありがとう」
今度は、声が震えていませんでした。
「どういたしまして」
私は笑いました。
その時、佐伯さんは玄関に置いてあった細長い包みを持ち上げた。
「これ、置いてくよ」
「なんですか?」
「余った木で作った本立て」
「えっ」
「請求書とか本とか、机に山積みにしてんだろ」
全員が私の机を見る。
そこには宅建の本。
ノート。
契約書の控え。
電話帳。
そしてなぜか昨日もらった煎餅。
雪崩寸前です。
「……見ましたね」
「見えるだろ」
真壁さんが言った。
「机が地層になってるぞ」
「歴史を刻んでるんです」
「片づけろ」
佐伯さんは笑いながら、本立てを私に渡しました。
杉の木でできた、素朴な本立てでした。
表面が丁寧に磨かれていて、触るとすべすべしている。
「売り物じゃないからな」
「いいんですか?」
「百五十万守ってもらった礼にしちゃ安いけどな」
「守ったのは法律ですよ」
「その法律を見つけてくれたのは栞ちゃんだろ」
そう言われると。
少しだけ、照れました。
*
夕方。
私は机に本立てを置きました。
当然、いちばん最初に入れたのは宅建のテキストです。
「似合うじゃねえか」
真壁さんが缶コーヒーを飲みながら言いました。
「でしょう?」
「その前に机片づけろ」
「今やってます」
「十分前から同じ紙持ってるぞ」
「整理にも熟考が必要なんです」
「捨てるか残すかだけだろ」
そこへ所長が戻ってきました。
「佐伯さん、奥さんに電話したそうだ」
「何て?」
「定期預金、解約しなくていいって」
私は手を止めました。
「……そうですか」
「ああ」
所長は自分の机に腰を下ろしました。
「電話口で奥さんが泣いてたらしい」
事務所が少し静かになりました。
二百万円。
紙の上ではただの数字です。
でも、その数字の向こうには、定期預金がある。
老後がある。
家族がいる。
積み上げてきた仕事がある。
そして、百五十万円の未払いを「別の話です」と切り離された瞬間、それら全部が揺れる。
私はテキストを開きました。
債権譲渡。
相殺。
昨日までなら、矢印だらけの面倒な論点でした。
AからB。
AからC。
BからA。
図にすると、もはや法律というより地下鉄路線図です。
でも今日、少しだけ違って見えました。
債権は、人から人へ移る。
だけど。
移ったからといって、その債権だけが真っ白な新品になるわけじゃない。
その前に積み重なっていた関係。
すでに持っていた反対債権。
払うはずだった金。
もらうはずだった金。
そういうものまで、勝手に消していいわけではない。
「栞」
「はい?」
所長が言いました。
「今日の件、何が一番大事だった?」
私は少し考えました。
「日付です」
「ほう」
「いつ債権譲渡の通知を受けたのか」
一本指を立てる。
「それより前に、佐伯さんが三和材木への債権を持っていた」
二本目。
「だから、その反対債権で相殺を主張できた」
「よし」
所長は頷きました。
「不動産でも債権でも、揉めたらまず時系列を作れ」
「時系列」
「人間はな、話すと自分に都合のいい順番で説明する」
「……身も蓋もないですね」
「だから日付は嘘をつきにくい」
なるほど。
私はノートの端に書きました。
――困ったら、誰が・誰に・いくら・いつ。
真壁さんが後ろから覗き込みます。
「なんだそれ」
「今日の教訓です」
「子供の作文みたいだな」
「じゃあ真壁さん、今日の教訓は?」
「請求書は捨てるな」
「実務的すぎる」
「大事だぞ」
「……それは本当にそう」
三人で笑いました。
外は、もう夕暮れでした。
昭和六十三年の町に、商店街の明かりが一つずつ灯っていく。
私は佐伯さんにもらった杉の本立てを撫でました。
百五十万円の建具工事。
その代金はまだ払われていない。
でも、その未払いの債権が今日、佐伯さんの家計を守った。
なんだか不思議です。
「払ってもらえていない権利」が。
別の「払わなければならない義務」とぶつかって。
人を救った。
法律は、ときどき変な算数をします。
二百万円から百五十万円を引いて、五十万円。
でも今日、その引き算で残ったのは、五十万円だけじゃなかった。
佐伯さんの定期預金も。
奥さんの安心も。
職人として働いてきた時間も。
ちゃんと残った。
私は本立てに、もう一冊テキストを差し込みました。
債権譲渡と相殺。
昨日まで、嫌いな論点でした。
矢印が多いから。
でも、今日からは覚えられる気がします。
債権は譲れる。
けれど――。
人がそれまで持っていた権利まで、都合よく消して持っていくことはできない。
「栞」
「はい?」
「お前、その本立ていっぱいになったらどうする?」
真壁さんが聞きました。
「もう一個、佐伯さんに頼みます」
「金払えよ」
「相殺で」
「何とだよ」
「……そこは今後考えます」
「覚えたての法律を乱用するな」
所長が吹き出した。
私も笑いました。
昭和六十三年。
借金すら売買される時代で。
私は今日ひとつだけ、安心できることを覚えました。
権利が誰かの手に渡っても。
それまでの全部が、なかったことになるわけじゃない。
法律は案外、そういうところだけは律儀なのです。
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