[異議をとどめない承諾]法理編 栞とお勉強
田所さんが帰ったあと。
私は、いつものノートを開きました。
今日の事件を、もう一度整理してみる。
北村さんは、田所さんに対して三百万円の貸金債権を持っていた。
一方、田所さんも北村さんに二百二十万円を貸していた。
つまり、
北村さん → 田所さん 三百万円の債権
田所さん → 北村さん 二百二十万円の反対債権
という関係です。
ここまではいい。
普通なら田所さんは、
「じゃあ二百二十万円分は相殺します」
と言える。
三百万円と二百二十万円をぶつけて、残り八十万円。
話としては、それほど難しくありません。
ところが。
北村さんが三百万円の債権を三栄金融へ譲渡した。
ここで、一気にややこしくなります。
「……債権譲渡って、登場人物が一人増えただけで急に難しくなるんだよなあ」
「誰が増えた?」
後ろから声がしました。
振り返らなくても分かります。
「真壁さんです」
「俺じゃねえよ」
「じゃなくて譲受人です」
私はノートを指差しました。
「登場人物をA、B、Cにします」
A――債務者・田所さん
B――元の債権者・北村さん
C――譲受人・三栄金融
「今回なら、Bが持っていたAに対する三百万円の債権を、Cに譲った」
「うん」
「でもAは、Bに対して二百二十万円の反対債権を持っている」
「だから相殺したい」
「そうです」
私は赤鉛筆を持ちました。
そして大きく書きます。
【問題】
BからCへ債権が譲渡されたあと、
Aが、
「分かりました」
「その債権が譲渡されたことを承知しました」
と、何の異議も言わずに承諾したらどうなるのか。
「今日の話だな」
「はい」
「昔はまずかったんだろ?」
「……そうなんですよ」
私は少し遠い目をしました。
「なんだ、その顔」
「法律の歴史を背負っています」
「十八歳が背負うな」
でも、本当にそこが今日の最大のポイントです。
まず。
異議をとどめない承諾とは何か。
異議をとどめない承諾
=
債権譲渡を承諾するときに、
自分が持っている反論や権利について、
何も異議を述べずに承諾すること。
今回なら。
三栄金融から、
「北村さんから三百万円の債権を譲り受けました」
と言われた田所さんが、
「分かりました」
と答える。
本当なら田所さんには、
「でも私は北村さんに二百二十万円貸しています。相殺しますよ」
と言いたい事情があります。
それを言わずに、
「はい、分かりました」
と承諾する。
これが、いわゆる――
異議をとどめない承諾。
「名前が大げさだな」
真壁さんが言いました。
「私もそう思います」
「もっと簡単に言えんのか」
「“文句を言わずに、はいと言う”」
「急に軽くなったな」
「でも試験では、それくらいで覚えた方が早いです」
私はノートに書き足しました。
異議をとどめない承諾
=「言いたいことはあるけど、とりあえず『はい』と言った」
「……で?」
真壁さんが椅子を持ってきました。
「それの何がそんなに怖いんだ?」
「昔は、その“はい”が重かったんです」
「昔?」
「ええと……」
まずい。
また未来人発言です。
「法律の勉強として、昔の制度も整理しておこうかな、と」
「お前、十八のくせに妙に昔話が好きだな」
「趣味です」
「変な趣味だな」
ほっといてください。
旧民法では。
債務者が、
異議をとどめないで債権譲渡を承諾すると――
それまで譲渡人に対して主張できた事情を、
原則として譲受人に対して主張できなくなりました。
「……待て」
真壁さんが眉を寄せます。
「つまり田所さんの場合?」
「北村さんへの二百二十万円の反対債権を使って、三栄金融に相殺を主張するのが難しくなる」
「たった“はい”で?」
「そこなんです」
私はノートを指で叩きました。
旧民法のイメージ
A「Bには二百二十万円貸してるから、相殺できるぞ」
↓
B「Aに対する三百万円の債権をCに譲渡します」
↓
A「はい、分かりました」
※異議をとどめない承諾
↓
A「じゃあ二百二十万円は相殺――」
C「それ、もう私には主張できません」
A「えっ」
「えっ、だな」
「えっ、です」
「ひどくないか?」
「だから後に改正されるんです」
「……?」
「あ」
しまった。
真壁さんがこちらを見ています。
「改正?」
「いや、その……」
「されるのか?」
「…………されるといいですね」
「願望かよ」
危ない危ない。
でも。
ここは、未来の宅建受験生にとって非常に重要です。
現在の民法では、
この、
「異議をとどめない承諾をしたから抗弁が切断される」
というルールは、
なくなっています。
私はノートに大きく書きました。
【超重要】
改正民法では、
「異議をとどめない承諾」による抗弁切断の制度は廃止。
「抗弁切断?」
「簡単に言えば、自分が持っていた反論を、譲受人に言えなくなることです」
「じゃあ今後は――」
「異議を言わずに承諾しただけで、当然に相殺できなくなるわけではありません」
「なるほど」
そう。
ここが一番大事。
たとえば。
AはBから百万円借りています。
その後、AはBに六十万円貸しました。
つまりAはBに六十万円の反対債権を持っています。
その後、
Bが、
Aに対する百万円の債権をCに譲渡した。
図にすると。
B ――百万円→ A
A ――六十万円→ B
そして、
B ――債権譲渡→ C
CがAに言います。
「Bさんから百万円の債権を譲り受けました」
Aが答える。
「はい、分かりました」
ここで。
Aが、
「Bに六十万円貸してるんですよ」
と言わなかった。
異議をとどめずに承諾した。
それでも――
現在の民法では、
それだけを理由として、
Aの相殺が封じられるわけではありません。
「じゃあ何を見るんだ?」
真壁さんが聞きました。
「そこです!」
私は赤鉛筆を持ち直しました。
「現在の民法では、“異議を言ったかどうか”より、反対債権をいつ取得したかを見るんです」
「いつ?」
「はい」
超重要。
債権譲渡の対抗要件を備えるより前に、
債務者が反対債権を取得していたか。
「対抗要件?」
「債権譲渡の通知とか、債務者の承諾です」
「なるほど」
「ざっくり試験対策としては、“債権譲渡が債務者との関係で表に出てくる前か後か”を見る感じです」
私は時系列を書きました。
①AがBに対する反対債権を取得
↓
②BがCへ債権譲渡
↓
③通知・承諾などにより対抗要件具備
この場合。
Aの反対債権は、
③より前に取得されています。
だから原則として、
AはCに対しても相殺を主張できます。
「たとえAが、異議を言わずに債権譲渡を承諾しても?」
「そうです」
「そこ大事だな」
「ものすごく大事です」
私は二重丸をつけました。
改正民法
異議をとどめない承諾をした
↓
だから相殺できない
×
そうではない。
「つまり昔の問題を覚えてる人ほど間違えそうだな」
「それなんですよ!」
私は机を叩きました。
「法律改正問題の恐ろしいところです!」
「机を叩くな」
「昔の知識がある人ほど引っかかる!」
「落ち着け」
「“知っている”が罠になるんですよ!」
「お前、何か嫌な思い出でもあるのか」
「あります」
前世の宅建過去問です。
言えませんけど。
私はノートを整理しました。
【旧民法】
異議をとどめない承諾をした
↓
原則として、
譲渡人に対抗できた事由を、
譲受人に対抗できなくなる。
これに対して。
【改正民法】
そのルールを廃止。
つまり。
「異議を言わなかった」
というだけで、
債務者が自分の権利を失うわけではない。
「なんで変えたんだ?」
真壁さんが聞きました。
「そもそも、重すぎたんです」
「何が?」
「承諾の意味です」
私は少し考えてから答えました。
「債権譲渡を承諾することって、普通に考えれば――」
「債権者が変わったのを分かった、ってことだな」
「そうです」
私は頷きました。
「なのに、それだけで『じゃあ今まで持っていた反論も捨てましたね』となるのは、飛躍が大きい」
「確かにな」
「債権者が変わるのを認めることと、自分の権利を放棄することは別です」
今日、所長が言っていた言葉を思い出します。
それとこれとは別。
本当に法律では、この感覚が大切なのかもしれません。
「例えばですよ」
私は言いました。
「真壁さんが私に一万円貸しているとします」
「貸してない」
「例です」
「嫌な例だな」
「その一万円の債権を、所長に譲ったとします」
「なんで所長に」
「例ですから」
「はいはい」
「所長が私に、『真壁から一万円の債権を譲り受けたぞ』と言う」
「うん」
「私が『分かりました』と答える」
「うん」
「その瞬間に、私が真壁さんに対して持っていた別の権利まで全部捨てたことになるのは変でしょう?」
「確かに」
「“債権者が変わったことを知りました”と、“反論全部捨てます”は、全然違います」
「なるほどな」
私はノートに書きました。
承諾
≠
抗弁の放棄
「これでいい」
真壁さんが言います。
「何がです?」
「俺でも分かる」
「基準そこなんですね」
「重要な基準だ」
まあ。
確かに読者にも分かるなら、それでいいか。
ただし。
ここで注意。
改正民法になったからといって、
いつ取得した反対債権でも自由に相殺できる、
というわけではありません。
「また出たな。“ただし”」
真壁さんが嫌そうな顔をしました。
「法律は“ただし”でできています」
「嫌な建築物だな」
「私も住みたくありません」
でも試験では、ここを飛ばせません。
一番基本的なパターンは、こうです。
AはBに対する反対債権を持っていた。
↓
その後、
BからCへの債権譲渡について対抗要件が備わった。
この場合、
Aは、その反対債権による相殺をCに対して主張できます。
簡単に覚えるなら。
先に反対債権
↓
後から債権譲渡の対抗要件
↓
相殺できる。
「先に持ってたなら守られる、と」
「まずはそう覚えてください」
私は大きく書きました。
【宅建の基本】
対抗要件具備前に取得した反対債権
↓
譲受人に対して相殺できる。
「じゃあ対抗要件を備えた後に取得した反対債権は、絶対駄目なのか?」
「おっ」
「なんだよ」
「いい質問です」
「その顔やめろ。先生みたいで腹立つ」
「実は、そこには例外があります」
「やっぱりあるのか」
「法律ですから」
「もう驚かんぞ」
改正民法では、
対抗要件を備えた後に取得した反対債権でも、
一定の場合には相殺できることがあります。
代表的には、
対抗要件を備える前の原因に基づいて生じた債権などです。
「原因?」
「例えば、元になる契約関係がすでに存在していたような場合ですね」
「……急に難しくなったな」
「宅建なら、まず基本形を押さえれば大丈夫です」
私は赤で囲みました。
まず覚える。
対抗要件具備前に取得した反対債権
→ 相殺できる。
「試験では?」
「時系列を書きます」
「またか」
「債権譲渡は、とにかく時系列です」
私はノートに横線を一本引きました。
反対債権取得
↓
債権譲渡
↓
通知・承諾など
↓
相殺の主張
「問題文に日付が出てきたら?」
「並べる」
「誰が誰に貸したか分からなくなったら?」
「矢印を書く」
「異議をとどめない承諾が出てきたら?」
「改正民法では、それだけで相殺不可とは考えない」
「お」
私は真壁さんを見ました。
「完璧じゃないですか」
「俺を誰だと思ってる」
「顔の怖い営業」
「帰れ」
「まだ勤務時間です」
そこへ所長が、湯飲みを持ってやって来ました。
「何を騒いでる」
「栞先生の講義です」
「誰が先生ですか」
所長がノートを覗き込みました。
「債権譲渡か」
「はい」
「相殺までやってるのか」
「はい」
所長は少し眺めてから言いました。
「じゃあ栞。一番大事なところを一行で言ってみろ」
また来た。
所長の、
最後に全部削ぎ落とせ問題。
私は考えました。
異議をとどめない承諾。
旧民法。
改正民法。
相殺。
反対債権。
対抗要件。
全部大事。
でも、今日のテーマを一行にするなら――。
「改正民法では――」
私は言いました。
「債権譲渡を異議なく承諾したというだけでは、相殺する権利は失わない」
所長が頷きました。
「その次は?」
「相殺できるかどうかは、特に反対債権を取得した時期を見る」
「よし」
私はノートに書きました。
【今日の結論】
旧民法では、
異議をとどめない承諾
→ 抗弁が切断される。
しかし改正民法では、
この制度は廃止。
したがって、
異議をとどめない承諾をした
=
相殺できない
ではない。
そして、
譲受人が対抗要件を備える前に、
債務者が反対債権を取得していたなら、
その反対債権による相殺を譲受人に主張できる。
「……こうですね」
「分かりやすい」
所長が言いました。
「ありがとうございます」
「字も今日は読める」
「そこまで褒めてください」
「昨日がひどかった」
「真壁さん」
「俺を見るな」
所長は湯飲みを持ったまま続けました。
「しかし、不思議な制度だな」
「何がです?」
「債権を譲るのは、債権者側の都合だろ」
「はい」
「それなのに、そのせいで債務者が今まで持っていた立場まで簡単に悪くなるってのは、確かに変な話だ」
私は少し驚きました。
まさに。
未来の民法改正が向き合うことになる問題です。
「所長」
「なんだ」
「いつか法律が変わるとしたら、そういうところなんでしょうね」
「かもしれんな」
所長は窓の外を見ました。
「法律は、人間が暮らすためにある。人間が法律に合わせて暮らしてるわけじゃない」
真壁さんが口を挟みます。
「所長、今日は難しいこと言いますね」
「今日は、とは何だ」
「栞と同じこと言ってる」
「私はそんなこと言ってません」
「顔に書いてある」
私は笑いました。
それからもう一度、ノートを見直します。
最後に試験用。
【栞式・瞬殺整理】
①「異議をとどめない承諾」と出た
↓
まず、
旧民法の知識に引っ張られない。
②改正民法では?
↓
異議をとどめない承諾による抗弁切断制度は廃止。
③相殺できるか聞かれた
↓
反対債権をいつ取得したか確認。
④対抗要件具備前に取得
↓
相殺できる。
私はさらに、その横へ大きく書きました。
旧
「黙って承諾したなら、あとから言うな」
新
「黙って承諾したことと、相殺できるかは別問題」
「……雑だな」
「真壁さん」
「でも分かりやすい」
「でしょう?」
これでいい。
宅建は学問の論文を書く試験じゃありません。
問題を見た瞬間に、
どのルールを使うか判断できること。
それがまず大事です。
私はノートの最後に、今日の事件を書きました。
田所さんは、
三百万円の借金そのものを否定していたわけではない。
でも。
二百二十万円の反対債権まで捨てたつもりもなかった。
「借金があります」
と、
「相殺しません」
は違う。
「債権譲渡を知りました」
と、
「今まで持っていた反論を全部捨てます」
も違う。
法律では、
似ている言葉を、
同じ意味にしてはいけない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが、机に小さな紙袋を置きました。
「田所さんから」
「何です?」
「饅頭」
「!」
「店の向かいの和菓子屋で買ってきたらしい」
私は袋を開けました。
六個。
つやつやの温泉饅頭みたいな茶色いやつです。
「真壁さん」
「なんだ」
「三個ずつですね」
「所長がいるだろ」
「……」
三人。
六個。
つまり二個ずつ。
「相殺できませんか?」
「何と何をだ」
「私の今日の労働債権と、所長の饅頭二個を」
「できるわけあるか」
所長が呆れた顔をしました。
「第一、俺の饅頭を勝手に反対債権にするな」
「じゃあ真壁さんの分で」
「もっと駄目だ」
結局、二個ずつになりました。
法律は公平です。
こういうところだけ。
私は饅頭を一つ持って、ノートを閉じました。
昭和六十三年。
この時代ではまだ、
「異議をとどめない承諾」
には重い意味があります。
けれど私は知っています。
いつか法律が変わることを。
ただ、
「はい」
と言った。
それだけで。
持っていたはずの権利まで失わせるのは、少し酷じゃないか。
そんな疑問を何十年もかけて拾い上げて、
法律は少しずつ形を変えていく。
前世で私は、
法改正という言葉が嫌いでした。
「試験範囲増やすな」
「去年のテキスト使えないじゃん」
「数字変えるな」
そんなことばかり思っていました。
でも今は少し違います。
法律が変わるということは。
誰かが困ったということ。
古い仕組みでは、うまく守れない人がいたということ。
そして、その困りごとを、
社会が長い時間をかけて拾ったということでもある。
私は最後に一行だけ書きました。
異議をとどめない承諾――
現在は、
「何も言わなかったから、全部失う」
という制度ではない。
そしてその下に、赤鉛筆で。
【最重要】
相殺問題では、
「承諾したか」だけを見るな。
「反対債権をいつ取得したか」を見ろ。
「栞、帰るぞ」
「はい」
真壁さんの声に、私はノートを鞄へしまいました。
そして。
入口まで行ってから、ふと振り返ります。
「真壁さん」
「なんだ」
「今の“はい”ですけど」
「うん」
「異議はとどめてません」
「だから何だ」
「でも未来では、それだけで私の抗弁は切断されません」
「何の話してんだお前」
「こっちの話です」
所長が店の灯りを消しました。
暗くなった事務所を出る。
田所金物店には、まだ灯りがついていました。
あの店を何年も続けて貯めた二百二十万円。
それが、
たった一度の「はい」で消えそうになった。
条文だけ読めば、
異議をとどめない承諾。
ただ、それだけの難しい言葉です。
でもその向こうには、
いつだって。
誰かのお金と、
誰かの暮らしと、
誰かの「そんなつもりじゃなかった」がある。
だから法律は、
変わっていく。
私はそう思いながら、
真壁さんと所長の後ろを追いました。
そして心の中でもう一度だけ復唱します。
旧民法――
異議をとどめない承諾で、抗弁切断。
改正民法――
その制度は廃止。
対抗要件具備前に取得した反対債権なら、
原則として譲受人にも相殺を主張できる。
よし。
これはもう、忘れない。
……たぶん。
宅建受験生の「絶対覚えた」は、
翌朝には三割くらい蒸発しますから。
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