[異議をとどめない承諾]現場編 「はい」と言ったからって、全部捨てたことにはならない
人間、「はい」と言ってしまったあとで、
「あ、今の“はい”って、そこまでの意味じゃないんですけど」
と言いたくなることがあります。
美容院で、
「前髪、もう少し切ります?」
「はい」
と言った結果、眉毛がこんにちはした時とか。
飲み会で、
「もう一軒行く?」
「はい」
と言った三十分後に、布団が恋しくなった時とか。
まあ、たいていは自業自得です。
でも。
その「はい」が、数百万円の債務に関わるとなると話が違います。
そして法律というものは時々、
「昔はその“はい”でアウトでした。でも今は違います」
みたいなことを平然と言ってきます。
受験生を殺す気でしょうか。
少なくとも前世の私は、何度か殺されました。
昭和六十三年、十一月。
大槻不動産の事務所には、石油ストーブの上でやかんが鳴いていました。
電話は黒電話。
机には灰皿。
コピー機は、コピーするたびに「俺はいま大仕事をしている」と主張するような音を立てます。
そして私は、今日も帳簿と格闘していました。
「栞」
「はい」
「この計算、合わんぞ」
真壁さんが伝票を一枚、私の机に滑らせてきました。
「え?」
「八万二千円の仲介料が、なんで八百二十円になってんだ」
「……」
私は伝票を見ました。
電卓を見ました。
もう一度伝票を見ました。
「ゼロが二人、逃亡しました」
「連れ戻せ」
「捜索願い出してきます」
「お前が書き直せ」
そんな平和な午前中でした。
入口のガラス戸が、かなり乱暴に開くまでは。
「大槻さん!」
飛び込んできたのは、五十代くらいの男性でした。
顔は真っ青。
額には汗。
十一月なのに、完全に夏です。
「助けてください!」
その人――田所孝雄さんは、近所で小さな金物店を営んでいました。
昔ながらの店で、鍋、釘、鎌、南京錠、ほうきまで売っている。
私は何度かお使いで行ったことがあります。
「田所さん、どうしました」
所長が椅子を勧める。
田所さんは座るなり、封筒から一枚の紙を取り出しました。
「金を払えって言われてるんです」
真壁さんが紙を受け取ります。
「……債権譲渡通知?」
「はい」
その言葉に、私は顔を上げました。
債権譲渡。
あ。
嫌な予感しかしません。
法律の勉強をしていると、普通の人なら見過ごす単語が、地雷原の看板みたいに見えるようになります。
真壁さんが続きを読み上げました。
「北村商事が有する田所孝雄さんに対する貸金債権三百万円を、三栄金融に譲渡した……」
「三百万円……」
私が呟くと、田所さんは両手で頭を抱えました。
「確かに借りました。北村から三百万円」
「じゃあ、払うしかないんじゃないですか?」
真壁さんが言う。
「それが違うんです!」
田所さんが顔を上げました。
「北村には、こっちも金を貸してるんです!」
「え?」
「二百二十万円!」
空気が止まりました。
私は無意識に、背筋を伸ばします。
来た。
反対債権。
田所さんは机の上に、今度は借用証書を置きました。
「北村が資金繰りに困って、半年前に俺から二百二十万円借りたんです。だから、向こうから三百万円請求されたら、相殺して八十万円だけ払えばいいと思ってた」
「なるほどな」
真壁さんが頷く。
確かに、それなら話は分かる。
ところが田所さんの表情は晴れません。
「でも昨日、三栄金融ってところの人が店に来ましてね」
「何て?」
「『北村から債権を譲り受けました。三百万円はあなたの借金ですね』って」
「それで?」
田所さんの顔が、さらに曇った。
「俺……言っちゃったんです」
「何を?」
「『はい、分かりました』って」
真壁さんが一拍置いた。
「……それだけ?」
「それだけです」
「じゃあ何が問題なんだ?」
「そのあと知り合いに相談したら……」
田所さんは唾を飲み込みました。
「債権譲渡を“異議を言わずに承諾”すると、元の債権者に対して持ってた相殺の権利を失うって言われたんです」
私は思わず瞬きをしました。
真壁さんも眉をひそめる。
「異議を言わずに承諾?」
「はい……。俺はその場で、『北村には二百二十万貸してるから相殺する』って言わなかった」
「で?」
「だから三栄金融に、三百万まるごと払わないといけないって……」
田所さんの声が震えました。
「そんな……ただ“分かりました”って言っただけなのに……二百二十万円が消えるんですか?」
私は黙りました。
――ああ。
これ。
知ってる。
知ってるどころか、前世で私がさんざん混乱したやつです。
異議をとどめない承諾。
旧民法。
そして改正民法。
ただし。
ここで私は、さらに重大な問題に気づきました。
壁のカレンダーを見る。
昭和六十三年。
……はい。
まだ旧民法です。
「栞?」
真壁さんが怪訝そうに私を見ました。
「顔がすごいぞ」
「今、時代に殴られました」
「は?」
「なんでもありません」
危ない。
ものすごく危ない。
私の頭の中には、令和の法律知識があります。
でも、この世界はいま昭和六十三年。
つまり、現時点では旧民法のルールが生きている。
私がうっかり、
「大丈夫です。今は異議をとどめない承諾なんて関係ありません」
なんて言ったら、それは未来の法律です。
タイムトラベル法律相談。
新ジャンルすぎる。
しかも依頼人が死ぬ。
「所長」
私は慎重に聞きました。
「田所さんが『はい、分かりました』と言ったのは、口頭だけですか?」
「そうらしいな」
「書面に署名とか、印鑑とかは?」
「何もしてません!」
田所さんが身を乗り出す。
「本当に、相手の話を聞いて、つい『はい』って返事しただけです」
私は息を吐きました。
まだいける。
いや、かなりいける。
真壁さんが不思議そうに私を見る。
「何かあるのか?」
「あります」
私は借用証書と譲渡通知を見比べました。
「まず、“はいと言った”ことと、“相殺できる権利を捨てた”ことは、同じとは限りません」
「でも異議をとどめない承諾なんだろ?」
「そこを確認しないといけません」
「何を?」
「田所さんが、何を承諾したのかです」
私は田所さんに向き直りました。
「その人、どういう言い方をしました?」
「え?」
「できるだけ正確に思い出してください」
田所さんは目を閉じました。
「確か……『北村商事から、あなたに対する三百万円の貸金債権を譲り受けました。この借金があることに間違いありませんね』って」
「それに?」
「『はい、借りたことは間違いありません』って言いました」
私は真壁さんを見ました。
「ほら」
「何がほらだ」
「債権譲渡そのものを無条件で認めたのか、それとも借金の存在を確認しただけなのか、全然違います」
真壁さんの表情が変わりました。
「……なるほど」
「しかも、相殺できる反対債権のことを隠していたわけじゃない。単に聞かれなかっただけです」
「おいおい」
真壁さんが唇の端を上げた。
「向こう、“はい”だけ切り取って押し切ろうとしてんのか?」
「可能性はあります」
田所さんが呆然と私を見ました。
「じゃ、じゃあ……」
「まだ二百二十万円が消えたと決まったわけじゃありません」
その瞬間。
田所さんの肩から、目に見えそうなくらい力が抜けました。
でも。
事件というものは、こちらがほっとした瞬間に次の面倒を連れてきます。
黒電話が鳴りました。
真壁さんが取る。
「はい、大槻不動産――」
数秒後。
顔が険しくなりました。
「……三栄金融?」
田所さんの肩が跳ねます。
真壁さんは受話器を手で塞いで、こちらを見ました。
「今日、田所さんがここに来てるの知ってる」
「早いですね」
「金融屋の耳は、地獄耳だ」
嫌な業界対決が始まりました。
所長が静かに手を差し出します。
「貸せ」
真壁さんが受話器を渡した。
「大槻です」
所長の声はいつも通り低い。
でも、事務所全体の空気が一段重くなりました。
熊が電話に出たみたいです。
「……ええ」
「……はい」
「田所さんは当方に相談に来ています」
しばらく相手の声を聞いて。
所長が眉をひそめる。
「三百万円全額?」
私は机の端を掴みました。
相手は完全に取りに来ている。
「田所さんは昨日、債務の存在を認めただけだと言っています」
受話器の向こうから、何か強い声が漏れます。
所長の目が細くなった。
「……なるほど。“異議をとどめず承諾した以上、抗弁は切断される”と」
田所さんの顔が真っ青になります。
やはり。
向こうは旧民法の理屈を真正面からぶつけてきた。
しかも、この時代では、それ自体は筋の通った主張になり得る。
私は歯を噛みました。
未来の知識がある。
でも、それをそのまま持ち出せない。
じゃあ、どうする?
今ある事実で勝つしかない。
「所長」
私は小声で呼びました。
所長がこちらを見る。
「承諾した内容を、向こうに言わせてください」
所長は一瞬だけ私を見て、すぐ意味を理解した。
「具体的に、田所さんが何を承諾したと?」
電話の向こうで、少し沈黙。
所長が続けます。
「いや。“異議をとどめない承諾”という結論ではなく、その時の言葉です」
さらに沈黙。
「御社の担当者は何と尋ね、田所さんは何と答えた?」
田所さんが息を止める。
真壁さんも黙った。
私は聞き耳を立てます。
所長が、ゆっくり言いました。
「……『北村から三百万円借りたことは間違いないですね』」
そして。
「田所さんは『はい、借りたことは間違いありません』と答えた」
所長の口元が、ほんの少しだけ上がりました。
「それだけですか」
勝った。
私はそう思いました。
いや、まだ勝負は終わってない。
でも、盤面が変わった。
所長の声が静かに落ちる。
「それをもって、相殺その他の抗弁を放棄したと解釈するのは、少々乱暴でしょう」
受話器の向こうから、大きな声。
「承諾かどうか以前に、“何を承諾したのか”が問題です」
所長は淡々と言います。
「債務の存在を認めることと、反対債権による相殺をしないと約束することは、別です」
私は心の中で拍手しました。
これです。
法律って、派手な必殺技じゃありません。
相手が一気にまとめてきた話を、
「一個ずつ分けましょうか」
と言って解体する作業です。
借金がある。
債権が譲渡された。
それを知った。
返事をした。
反対債権がある。
相殺する。
全部、別の話。
これを相手の都合で一つの「はい」に丸めさせない。
所長は最後に言いました。
「田所さんからは、改めて書面で回答します。それまで直接の取立ては控えていただきたい」
ガチャン。
電話を置く音が、妙に大きく響きました。
田所さんが、おそるおそる聞きます。
「……どう、なんでしょう」
所長は腕を組みました。
「少なくとも、昨日の返事だけで三百万円全額を払えと確定したわけじゃありません」
「……!」
「北村に対する二百二十万円の貸金について、証拠もある」
借用証書を指で叩く。
「これを前提に、相殺の主張をきちんと組み立てます」
田所さんの目が潤みました。
「二百二十万……消えないんですか」
「勝手に消されてたまるか」
真壁さんが言いました。
「こっちは金貸してんだぞ」
「真壁さん」
「なんだ」
「今日ちょっと格好いいですね」
「今日“は”って何だ」
「今日は、です」
「同じだろ」
所長が小さく笑いました。
ただ、私はまだ引っかかっていました。
この事件の本質。
異議をとどめない承諾。
旧民法では、確かに大きな意味を持っていた制度。
でも、未来では消える。
なぜ消える?
理由は単純です。
債務者がたった一度、不用意に「はい」と言っただけで、それまで持っていた抗弁や相殺の利益を失う。
それは、債務者に酷すぎる。
しかも債権譲渡は、債権者側の都合で起こることがあります。
債務者からすれば、知らない人が突然やって来て、
「今日から私に払ってください」
と言われる。
その時にうっかり承諾すると、それまでの権利関係まで吹き飛ぶ。
……なかなか豪快な仕様です。
令和の私なら、
「そこ、改正されますよ」
と言えます。
でも今は昭和六十三年。
言えません。
未来人、こういう時めちゃくちゃ不便です。
その日の午後。
三栄金融から、担当者が直接やって来ました。
四十代くらいの男。
灰色のスーツ。
革の鞄。
そして入ってくるなり、
「田所さん」
と本人を呼びました。
真壁さんが、その前に立つ。
「こっちに話してください」
「いや、本人が昨日認めてるんでね」
「何を?」
私が口を挟みました。
男の視線がこちらに落ちる。
「君は?」
「事務見習いです」
「じゃあ黙っててくれる?」
「嫌です」
即答。
真壁さんが吹き出しそうになって横を向きました。
男は不機嫌そうに鞄からメモを取り出す。
「昨日、田所さんは債務を承認した。異議は述べなかった。従って――」
「待ってください」
私は遮りました。
「債務を認めたことと、相殺しないことを認めたことは同じですか?」
「……」
「田所さんは、北村さんから三百万円を借りた。それは認めています」
「なら払ってもらえばいい」
「でも田所さんは北村さんに二百二十万円貸しています」
「それは北村と田所さんの話でしょう」
「もともとそういう話だったんです」
私は言いました。
「債権譲渡がなければ、田所さんは北村さんに相殺を主張するつもりだった」
男の眉が動く。
「それを、債権が譲渡されたというだけで、突然なかったことにするんですか?」
「昨日承諾している」
「ですから、何を?」
私は一歩も退きませんでした。
「昨日田所さんが言ったのは、『借金した事実は間違いない』です」
「同じことだ」
「違います」
私ははっきり言いました。
「借金が存在することと、その借金を満額現金で払わなければならないことは、同じじゃありません」
男が黙る。
「借金が三百万円存在する。でも反対債権が二百二十万円ある。だから相殺する」
私は机に指で線を引くように説明しました。
「この二つは両立します」
三百万円の債務を認めたからといって、
二百二十万円の債権を自分で燃やしたことにはならない。
真壁さんが横から言いました。
「それとも何か?」
顔が怖い人が低い声を出すと、それだけで説得力が三割増します。
「御社は、相殺の話をわざと聞かずに“はい”だけ取って、それで二百二十万飛ばそうって腹だったのか?」
「そんなことは言ってません」
「なら話は早い」
所長が口を開きました。
「田所さんの反対債権について、正面から検討しましょう」
男はしばらく黙っていました。
やがて田所さんの借用証書を見ます。
日付。
金額。
北村商事の印。
「……写しをもらえますか」
私はコピー機へ走りました。
ガコン。
ウィーン。
ガコン。
……昭和のコピー機、こんな緊迫した場面でも自己主張が強い。
コピーを渡す。
男はそれを鞄に入れました。
「社に持ち帰ります」
「お願いします」
所長が答える。
男は立ち上がり、入口まで歩いたところで、一度振り返りました。
「……お嬢さん」
「はい?」
「事務見習いにしては、ずいぶん口が立つね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「今日二回目です」
「何が?」
「その台詞です」
真壁さんが、とうとう吹き出しました。
三日後。
三栄金融から回答が来ました。
田所さんの北村商事に対する二百二十万円の債権について確認し、相殺の主張を前提に、残額八十万円について協議したい。
完全勝利――とまでは言えません。
でも。
三百万円払え。
昨日「はい」と言っただろ。
その一点張りだった話が、
八十万円をどう処理するか、
という本来の場所まで戻った。
それで十分でした。
法律で人を救うというのは、時々、ゼロから百を生み出すことじゃありません。
誰かが百まで膨らませた理不尽を、
「それ、八十じゃなくて?」
と正しい大きさに戻す仕事なのです。
「ほんとに……助かりました」
田所さんは、何度も頭を下げました。
「俺、あの時“はい”なんて言わなきゃよかった」
「まあ、それはそうですね」
「栞」
真壁さんが睨む。
「少しくらい慰めろ」
「じゃあ……」
私は田所さんに向き直りました。
「今度から、お金の話で“はい”と言う前に、一回お茶を飲んでください」
「お茶?」
「はい。三秒くらい稼げます」
田所さんが笑いました。
「じゃあ、そうするよ」
「できれば十秒くらい稼いでください」
「長いなあ」
「二百二十万円に比べれば安いです」
「違いない」
田所さんは、その帰りに店へ寄ってから、金物屋の商品をいくつか持って戻ってきました。
鍋。
包丁研ぎ。
なぜか洗濯ばさみ二十個。
「お礼です」
「多いです」
「遠慮するな」
「洗濯ばさみ二十個は遠慮以前に用途が」
「事務所で使え」
「何にですか」
真壁さんが一個つまみ上げました。
「栞の口でも挟むか」
「相殺しますよ」
「何とだよ」
「さっきゼロ二個逃げた件とです」
「それはお前の借りだ」
「くっ」
法律では勝てても、伝票では負けました。
夕方。
田所さんが帰ったあと、私は机でノートを開きました。
表紙の端には、
「宅地建物取引主任者試験」
と書いてあります。
今日の欄に、私は大きく一行。
異議をとどめない承諾。
その下に、小さく書きました。
――「何も言わずに認めること」。
真壁さんが後ろから覗き込んできます。
「また勉強か」
「はい」
「今日はもう終わっただろ」
「終わってないんです」
「何が?」
私は少し迷いました。
旧民法では、債務者が異議をとどめずに債権譲渡を承諾すると、譲渡人に対して主張できた事情を譲受人に対抗できなくなる、という扱いがありました。
でも未来では、そのルールはなくなる。
債務者が譲渡の対抗要件を備える前に取得していた反対債権などについては、一定の要件を満たせば、譲受人に対して相殺できる。
そんな未来を、真壁さんは知らない。
所長も知らない。
この時代の誰も知らない。
「……法律って」
私は呟きました。
「変わるんですね」
「そりゃ変わるだろ」
真壁さんはあっさり言いました。
「人間が作ってんだから」
私は振り返りました。
「不便なものがあれば直す。変なところがあれば直す。全部うまくはいかんだろうけどな」
「……そうですね」
「なんだ。珍しく素直だな」
「たまには」
「明日は雪か」
「相殺しますよ」
「だから何とだ」
私は笑いました。
そしてノートの端に、未来の自分だけが分かるように、小さく書いた。
いつか、このルールは変わる。
ただ「異議を言わずに承諾した」というだけで、債務者がそれまで持っていた権利を失う仕組みは、なくなる。
それはきっと。
法律が、少しだけ人間の暮らしに近づくということなのだと思います。
所長が帰り支度をしながら、私の机の横を通りました。
「栞」
「はい」
「今日の件、何が一番大事だった?」
私は考えました。
債権譲渡。
相殺。
異議をとどめない承諾。
いろいろある。
でも。
「“はい”の中身を確認することです」
所長が頷いた。
「そうだ」
そしてコートを羽織りながら言います。
「法律屋でも不動産屋でもな。人の言葉を、自分に都合よく大きく解釈する奴が一番危ない」
「……覚えておきます」
「それと」
「はい?」
「伝票も確認しろ」
「そこに戻ります?」
「八百二十円じゃ会社が潰れる」
真壁さんが笑いました。
「所長、こいつ今日、二百二十万守ったから帳消しでいいんじゃないですか」
「それとこれとは別だ」
私は机に突っ伏しました。
出ました。
今日さんざん人に言ったやつ。
それとこれとは別。
窓の外では、夕方の商店街に明かりがつき始めていました。
田所金物店の看板にも、橙色の電球が灯っている。
たぶん今頃、田所さんは店番をしながら、誰かに鍋でも売っているのでしょう。
二百二十万円は、数字にすればただの金額です。
でもその金額の向こうには、一人の人が何年も働いて貯めた時間がある。
誰かを信じて貸した気持ちがある。
だから、それをたった一言の「はい」で消していいのかと聞かれたら。
未来の法律は、やがて答えを変えることになる。
私はノートを閉じました。
昭和六十三年。
まだ私は、その未来を知っているだけです。
けれど。
法律が変わる前でも。
人の言葉を丁寧に拾って、何を認め、何を認めていないのかを一つずつ整理すれば。
救えるものは、ちゃんとある。
「栞、帰るぞ」
「はい」
私は立ち上がって――。
一歩歩いたところで振り返りました。
「……今の“はい”は、帰ることだけに対する承諾ですからね」
「誰も他の意味に取らんわ」
「異議をとどめておきます」
「何の異議だよ」
所長が先に店を出て、真壁さんが電気を消しました。
私は笑いながら二人のあとを追いました。
今日もまた一つ。
教科書の中の変な言葉が、人間の顔を持った気がしました。
異議をとどめない承諾。
名前は難しい。
けれど、要するに。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言っておけ」
という話なのかもしれません。
もっとも未来では――。
言わなかったからといって、何もかも失うわけではなくなるのですが。
それを私はまだ、誰にも言えません。
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