[債権譲渡]現場編 借金の請求書が二通来た
借金というものは、普通、一人に返せば終わります。
借りた相手に返す。
以上。
小学生でも分かる、実に美しい仕組みです。
ところが大人の世界では、ときどき、
「その借金、今日から俺に返してください」
という知らない人が現れます。
さらに最悪の場合、
「いや、俺に返せ」
という二人目まで現れます。
こうなると、借金は金額より人間関係のほうが怖い。
――債権譲渡。
前世で宅建の問題集を開いていた頃の私は、この言葉を見るだけで眠くなっていました。
AがBに対して債権を有し、BがCに譲渡し――。
誰だよ。
全員、名前を名乗れ。
そう思っていたのですが。
まさか転生した昭和六十三年の不動産屋で、
「藤崎! AとBとCとDが本当に来たぞ!」
と真壁さんに叫ばれる日が来るとは思っていませんでした。
しかも、全員、ものすごく怒っています。
法律の教科書には顔写真がない。
それはたぶん、親切です。
◇
「だから俺は、どっちに払えばいいんですか!」
午前九時十二分。
大槻不動産の応接机を、分厚い手が叩きました。
湯飲みが跳ねました。
お願いだから机を叩かないでほしい。
昭和の事務所家具は頑丈ですが、私の心臓は昭和規格ではありません。
声の主は、松野精工の社長、松野一郎さん。
五十歳くらい。町外れで小さな金属加工工場を経営しています。
三か月前、その松野さんは工場の隣地と古い倉庫を、地主の川瀬さんから買いました。
売買代金は三千万円。
二千万円は決済時に支払い、残り一千万円は、古い倉庫の撤去が終わった時点で払う約束でした。
その撤去が、ようやく昨日終わった。
つまり松野さんには現在、
川瀬さんへ一千万円を支払う義務がある。
――はずでした。
「ところが昨日、この手紙が来た」
松野さんが一通目を机に置きました。
差出人。
東亜商事株式会社。
内容は簡潔です。
川瀬さんが松野さんに対して持っている一千万円の売買代金債権を、東亜商事が譲り受けた。
したがって、今後は東亜商事へ支払え。
「それだけなら、まだ分かるんです」
松野さんは二通目を置きました。
「今朝、こっちも来た」
差出人。
丸山建設。
内容。
同じ一千万円の債権を、川瀬さんから譲り受けた。
したがって丸山建設へ支払え。
「……なるほど」
真壁さんが腕を組みました。
「川瀬の親父、一個の債権を二人に売ったのか」
「たぶんな」
大槻所長が低く答えました。
私は二通の書類を見比べました。
来た。
債権の二重譲渡。
前世の問題集なら、ここでABCDが乱舞するところです。
現実では、
A=松野さん。
B=川瀬さん。
C=東亜商事。
D=丸山建設。
顔がつくと分かりやすい。
ただし、怖さは百倍になる。
「でな」
松野さんが声を落としました。
「さっき東亜商事から電話があったんです」
「何と?」
「今日払え、と」
真壁さんの眉が動いた。
「早いな」
「しかも、向こうはこう言いました」
松野さんは苦い顔をしました。
「丸山建設に払ったら、うちへの支払い義務は消えませんよ。あとで、もう一千万円払ってもらいますって」
「……」
うわあ。
借金一千万円。
支払先を間違えると、気分的には二千万円。
債務者からしたらホラーです。
「俺は川瀬さんに一千万円払う約束をした。それは分かってます。でも一千万円を二回払う約束なんかしてない!」
「当然です」
私は反射的に答えました。
松野さんがこちらを見ました。
「栞ちゃん、どうしたらいい?」
「まず――」
私は二通の紙を揃えました。
「絶対に、今日すぐ払わないでください」
「やっぱり?」
「はい。先に整理します」
真壁さんがちらりと私を見ます。
私は一枚目を持ち上げました。
「最初に確認したいんですけど、東亜商事から来たこの通知……」
「うん」
「川瀬さんからじゃないですね」
「……え?」
松野さんが瞬きをした。
手紙の差出人は、東亜商事。
文章にも、
――当社は川瀬氏から債権の譲渡を受けました。
とある。
つまり、
「債権をもらった側が、自分で『私が新しい債権者です』と言ってきてるんです」
「それじゃ駄目なのか?」
真壁さんが聞きました。
「それだけじゃ駄目です」
「なんで?」
「だって、それを認めたら――」
私は真壁さんを指しました。
「私が明日、真壁さんのお客さんのところへ行って、『真壁さんから一千万円の債権を譲ってもらいました。私に払ってください』って言えばいいことになります」
「お前ならやりそうで怖いな」
「やりませんよ!」
「例えばの話だろ」
「例えばでも信用してください!」
所長が小さく咳払いした。
松野さんが、少しだけ笑いました。
よかった。
さっきまで完全に青ざめていた顔に、ほんの少し血色が戻っています。
「つまり?」
「債権を譲渡したことを松野さんに主張するには、原則として、川瀬さん本人から通知が来るか、松野さん自身が承諾する必要があります」
「じゃあ、この東亜商事の手紙だけなら……」
「少なくとも、それだけ見て慌てて払う必要はありません」
「……助かった」
松野さんが、ふうっと長い息を吐きました。
でも。
私は二通目に目を落としました。
丸山建設のほうは違います。
こちらには、
川瀬さん本人の署名。
さらに、郵便局の印。
内容証明郵便。
確定日付のある証書です。
「こっちは?」
真壁さんが言いました。
「ちゃんとしてるように見えるな」
「はい」
「じゃあ丸山建設に払えば終わりか」
「……たぶん、そんな親切な事件じゃないと思います」
その瞬間でした。
事務所の黒電話が鳴りました。
ジリリリリリリリッ!
昭和の電話は、どうして毎回火災報知器みたいに鳴るんでしょう。
真壁さんが受話器を取ります。
「大槻不動産です。……ああ?」
眉間の皺が深くなる。
「川瀬さん? 今どこだ」
全員が真壁さんを見る。
「何? 駅?」
真壁さんは私たちを見回しました。
「分かった。動くな。こっちから行く」
受話器を置く。
「川瀬さん?」
所長が聞いた。
「ああ」
「何て?」
真壁さんは、ものすごく嫌そうな顔をしました。
「東亜商事にも、本人名義で通知を出したそうです」
やっぱり。
事件が親切ではなかった。
◇
川瀬さんは駅前の喫茶店にいました。
六十代後半。
細身で、いつもなら洒落た帽子をかぶっている人です。
今日は帽子すら忘れたらしい。
コーヒーにも手をつけず、椅子に沈んでいました。
「……馬鹿なことをしました」
第一声がそれでした。
真壁さんが向かいに座ります。
「どういう順番で何をした。全部話してください」
「はい……」
川瀬さんの話は、こうでした。
古い倉庫を壊す工事を、丸山建設に頼んだ。
しかし工事代金六百万円を払う余裕がなくなった。
そこで、
「松野さんから来月一千万円入る。その債権を渡すから、工事代と精算してくれ」
と丸山建設へ持ちかけた。
丸山建設は了承。
三日前に債権譲渡契約を結んだ。
「じゃあ、それで終わりじゃないですか」
松野さんが言う。
「それが……」
川瀬さんが縮こまった。
翌日。
川瀬さんには、別に八百万円の借金があることが判明します。
相手が東亜商事。
金融もやっている会社です。
「向こうに、松野さんから一千万円入ることを知られてしまいまして……」
「で?」
「その債権を渡せと」
真壁さんが額を押さえました。
「渡したのかよ」
「……はい」
「一個しかないんですよ、その一千万円」
「分かってます……」
「分かってて二人に渡したんですか」
「その時は、なんとかなるかと……」
ならない。
債権は羊羹ではありません。
二人に切り分ける契約ならともかく、一千万円全部を二人に「あげます」は、数学からして破綻しています。
「通知は?」
私は聞きました。
川瀬さんが鞄から控えを出しました。
「丸山建設のぶんを、一昨日、内容証明郵便で出しました」
「東亜商事は?」
「昨日です」
松野さんが勢いよく顔を上げた。
「じゃあ丸山建設が先じゃないか!」
「待ってください」
私は言いました。
「まだ決まりません」
「え?」
「大事なのは、出した日じゃありません」
川瀬さんの持ってきた控えを見る。
丸山建設への債権譲渡通知。
確定日付は一昨日。
東亜商事への譲渡通知。
確定日付は昨日。
日付だけ見れば丸山建設が一日早い。
でも。
前世の宅建問題集で、何度も私を引っかけた嫌な一文が頭に浮かびました。
確定日付の先後ではない。
「松野さん」
「はい」
「今日届いた丸山建設の通知、何時ごろでした?」
「朝九時前です」
「郵便受け?」
「いや、内容証明だから、事務員が受け取りました。八時五十分くらいかな」
「東亜商事の本人名義の通知は?」
「まだ見てません」
「会社に確認できますか」
「すぐ電話します」
松野さんが店の公衆電話へ走ります。
昭和。
携帯電話がない。
こういうとき本当に不便です。
三分後。
松野さんが戻ってきました。
「来てる」
顔が強張っている。
「何時です?」
「……八時四十分」
十分快い。
丸山建設より。
東亜商事への債権譲渡通知のほうが、十分快く松野精工へ到達している。
「でも!」
松野さんが言いました。
「東亜商事の通知は昨日出したんだろ? 丸山建設は一昨日だ」
「はい」
「丸山のほうが日付は先じゃないか」
「そこなんです」
私はテーブルの上に二本の指を置きました。
「二つとも確定日付のある通知なら、どっちの日付が古いかで競争するわけじゃありません」
「じゃあ?」
「債務者に、どちらが先に届いたかです」
松野さんが黙った。
川瀬さんも。
真壁さんも。
十秒くらいしてから、真壁さんが言いました。
「……郵便競走か」
「ものすごく雑に言えば」
「先にポストへ入れたほうじゃなく?」
「はい」
「先に郵便局へ持っていったほうでもなく?」
「はい」
「先に松野さんへ届いたほう?」
「そうです」
真壁さんは椅子の背にもたれた。
「債権って、足速いんだな」
「自分では一歩も動いてませんけどね」
「ややこしいな」
「法律ですから」
「便利な言葉だな、それ」
その時。
喫茶店の入口のベルが鳴りました。
振り返る。
紺色のスーツを着た男が二人。
片方は四十歳くらい。
髪を油できっちり撫でつけ、黒い鞄を抱えています。
「川瀬さん」
低い声。
川瀬さんの肩が跳ねました。
「東亜商事の相沢です」
うわ。
来た。
法律問題に出てくる「C」が、自力で喫茶店に入ってきた。
しかも強そう。
「松野社長もこちらでしたか。ちょうどいい」
相沢は私たちを一瞥すると、松野さんの前へ紙を置きました。
「一千万円、本日中にお願いします」
真壁さんが椅子から少し身を起こした。
「随分急ぐな」
「こちらは正式に債権を譲り受けています」
「通知は?」
「本日到達したはずです」
私は相沢を見ました。
この人、分かっている。
最初に東亜商事名義だけで請求してきたのは雑だった。
でも、その後に川瀬さん本人からの正式な通知を出させた。
しかも確定日付付き。
「丸山建設にも譲渡されてるの、知ってますよね」
私が言うと、相沢の目が細くなりました。
「誰です、お嬢さん」
「大槻不動産の藤崎です」
「事務員さん?」
「見習いです」
「なら、難しい話には入らないほうがいい」
出た。
昭和の「お嬢ちゃんは引っ込んでなさい」。
前世だったらSNSで燃料にできます。
今はありません。
残念です。
「難しい話なら、なおさら確認したほうがいいと思います」
「何を?」
「通知が何時に届いたか」
相沢の表情が、一瞬止まりました。
分かりやすい。
「東亜商事への譲渡通知は、松野精工に午前八時四十分到達」
私は言いました。
「丸山建設への通知は八時五十分」
「だから?」
「だから、優劣は東亜商事が先です」
松野さんが目を見開く。
真壁さんまで、
「おい」
という顔でこちらを見ました。
たぶん私が東亜商事を追い払うと思っていたのでしょう。
でも法律は、味方したい人に合わせて答えを変えてくれません。
そこが、冷たい。
そして、信用できる。
「……分かってるじゃないですか」
相沢が薄く笑いました。
「では支払いを」
「ただし」
私は続けました。
笑みが消える。
「今ここでは払いません」
「何?」
「松野さんは、二重譲渡に巻き込まれています。丸山建設も全額請求してくる可能性がある。だから資料を全部揃えて、支払先を確認したうえで処理します」
「優先はこちらでしょう」
「それを確認するためです」
「確認したじゃないですか」
「あなたの前では、です」
私は言いました。
「でも、丸山建設にも説明が必要です」
相沢が鼻で笑った。
「そんなもの、そちらの勝手でしょう」
そこで。
「いや」
今まで黙っていた大槻所長が口を開きました。
声は大きくない。
なのに、店の空気が一段重くなりました。
「勝手じゃない」
相沢を見る。
「松野さんは、もともと川瀬さんへ一千万円払えば済んだ人だ。それを川瀬さん側の事情で二人から請求されている」
「……」
「払うべきものは払う。ただし、二重払いになるような払い方はさせん」
相沢は少し黙った。
所長は続けます。
「到達時刻の証拠を確認する。通知書の原本も見る。丸山建設にも連絡する。その上で処理する」
「今日中に払っていただけなければ――」
「契約上の支払期日は明日だ」
所長が一言。
相沢が止まる。
「今日払えという根拠は?」
「……」
「ないなら、明日まで待て」
静かでした。
ものすごく静かでした。
こういう人、怒鳴らないほうが怖い。
私は所長の横顔を見ながら思いました。
真壁さんも怖い。
相沢も怖い。
でも所長は、たぶん「怖い」という概念の上位互換です。
相沢はしばらく所長を見ていましたが、やがて名刺を一枚置きました。
「では明日、お願いします」
「確認が終わればな」
「当然です」
踵を返す。
入口まで行ったところで、相沢が振り返りました。
「藤崎さん」
「はい」
「見習いにしては、よく勉強してる」
「あ、ありがとうございます」
「褒めてません」
最近このやり取り多いな。
◇
問題は、丸山建設でした。
その日の午後。
大槻不動産へ、丸山建設の社長本人が来ました。
丸山源蔵、六十二歳。
日に焼けた顔。
太い腕。
見るからに現場一筋。
相沢とは正反対でした。
「うちの通知のほうが先の日付だろ!」
第一声から大音量です。
はい。
宅建過去問、実写版開始。
机には二通の通知書。
丸山建設。
確定日付――八月十七日。
東亜商事。
確定日付――八月十八日。
「見ろ!」
丸山社長が丸太みたいな指で書面を叩きました。
「うちは十七日だ。向こうは十八日だ。どう見てもこっちが先だろ!」
「日付はそうです」
私は言いました。
「じゃあ、うちだ!」
「でも、松野さんに届いたのは東亜商事が先です」
「十七日に出してるんだぞ!」
「はい」
「向こうは十八日!」
「はい」
「なんで十八日が勝つ!」
「郵便が先に着いたからです」
「郵便屋の足の速さで六百万が消えるのか!」
「消えません!」
思わず大きな声が出ました。
丸山社長が黙る。
私も黙る。
……十八歳の事務見習いが、建設会社の社長に怒鳴ってしまいました。
社会人一年目として、たぶん良くない。
でも。
「丸山さんの六百万円が消えるわけじゃありません」
私は言い直しました。
「川瀬さんに請求する権利まで消えるわけではありません。ただ、この一千万円の債権について、東亜商事とどちらが優先するかは別問題なんです」
「……」
「そこをごちゃごちゃにしたら、今度は松野さんが二重払いさせられる」
丸山社長の目が、松野さんへ動きました。
松野さんは俯いていました。
この人に悪いところはありません。
土地を買った。
残金を払うつもりもある。
それなのに、売主が勝手に債権を二人へ譲ったせいで、
こっちに払え。
いや、こっちだ。
間違えたらもう一回払え。
そんな話に巻き込まれている。
「俺は……」
丸山社長が低く言いました。
「工事したんだ」
「はい」
「川瀬さんに頼まれて、職人六人入れて、古い倉庫を解体した。廃材も運んだ。六百万だ」
「はい」
「それを、金がないから待ってくれって言われた」
拳を握る。
「だから、この債権なら確実に一千万入るっていうから受けたんだ」
「……はい」
「俺が馬鹿だったのか?」
誰も答えませんでした。
違う。
少なくとも、そんな簡単な話ではない。
丸山さんも被害者です。
ただ。
被害者が二人いたからといって、一千万円が二千万円に増えるわけではありません。
法律は、そこを無理やり整理しなければならない。
「丸山さん」
私は言いました。
「悪いのは、一つの債権を二人に譲った川瀬さんです」
隅に座っていた川瀬さんが、小さく頭を下げました。
「本当に……申し訳ない」
「謝って六百万出るなら苦労せん!」
「……はい」
また沈黙。
そこで所長が口を開きました。
「川瀬さん」
「はい」
「土地、まだ持ってるな」
「……自宅の裏に一筆」
「評価は?」
「八百万くらいかと」
所長が頷いた。
「なら、逃げずに整理しろ」
「はい?」
「丸山さんの工事代金は、お前の債務だ」
「はい」
「東亜商事への八百万も、お前の債務だ」
「……はい」
「松野さんから入る一千万を二人に配れば済むと思ったんだろうが、権利を丸ごと二人に渡せば、こうなる」
「……」
「自分の財産を出してでも片をつけろ」
川瀬さんの顔が歪みました。
「自宅の裏は、女房が畑を――」
「なら売るな」
「え?」
「東亜商事と丸山さんに頭を下げろ。分割でも、担保でも、方法を考える」
所長は静かに言いました。
「土地を売るのが不動産屋の仕事だと思うな。売らなくて済むなら、そのほうがいいこともある」
私は所長を見ました。
時々この人は、不動産屋としてどうなんだろうと思うことを言います。
でもたぶん。
そういうところが、不動産屋として信用される理由なんでしょう。
「丸山さん」
所長が向き直る。
「今回の債権の優先は、こちらで資料を揃えて説明する。その上で川瀬さんへの六百万をどう回収するか、別に考えさせてください」
丸山さんは黙っていました。
やがて。
「……松野さん」
「はい」
「俺はあんたから二重取りする気はない」
松野さんが顔を上げました。
「払う相手が決まったら、そこへ払え」
「丸山さん……」
「ただし川瀬」
「はい!」
「お前は逃げるな」
「……はい」
「六百万は六百万だ」
「必ず払います」
「口じゃなく払え」
「はい……!」
怖い。
でも正しい。
◇
翌日。
郵便局の受領記録と通知書を確認しました。
東亜商事への債権譲渡通知。
午前八時四十分、松野精工に到達。
丸山建設への通知。
午前八時五十分、到達。
どちらも確定日付のある証書。
十七日付と十八日付。
でも勝負を決めたのは、その数字ではない。
松野さんのもとへ届いた順番でした。
結果を説明すると、松野さんは何度も確認しました。
「本当に東亜商事でいいんですね?」
「はい」
「払ったあと、丸山さんから『こっちにも払え』とは?」
「今回確認した関係では、東亜商事が優先します」
「……一千万円、一回でいいんですね」
「一回です」
その言葉を聞いた瞬間。
松野さんは、椅子に深く座り込みました。
「よかったぁ……」
その声が。
本当に。
体の奥から出たみたいでした。
一千万円を払う人が「よかった」と言うのも妙な話です。
でも二千万円になるかもしれない恐怖から戻ってくれば、一千万円が安く感じえる。
金銭感覚とは恐ろしい。
「栞ちゃん」
「はい」
「昨日、あのまま東亜商事から最初に来た手紙だけ見て、すぐ払ってたらどうなってた?」
「……揉めたでしょうね」
「丸山さんに払ってても?」
「もっと揉めた可能性があります」
「じゃあ、最初に『払うな』って言ってくれたの、大きかったな」
「はい」
「ありがとう」
松野さんは深く頭を下げました。
私は少し困りました。
法律を知っていて、人を助けた。
そう言えば格好いい。
でも実際には。
私はただ、
A。
B。
C。
D。
その位置を整理しただけです。
誰が債務者なのか。
誰が元の債権者なのか。
誰が譲受人なのか。
通知したのは誰なのか。
確定日付があるのか。
いつ届いたのか。
一個ずつ。
絡まった紐をほどくように。
それだけで。
一千万円を二回払わされるかもしれない人の顔から、恐怖が消えた。
法律って。
こういうためにあるのかもしれない。
◇
夕方。
事務所で書類を片づけていると、真壁さんが私の机に缶コーヒーを置きました。
「ほら」
「ありがとうございます」
「今日も頭使ったな」
「かなり」
「俺にはまだ分からん」
「何がです?」
「債権」
真壁さんが椅子を引いて座りました。
「土地なら見えるだろ」
「はい」
「建物も見える」
「はい」
「車も見える」
「はい」
「債権って何も見えねえじゃん」
「まあ……権利ですから」
「それを売るって、気持ち悪くないか?」
「言い方」
「だってそうだろ。松野さんから一千万円もらえる“権利”を、別の人間に渡すんだぞ」
「そうですね」
「しかも二人に渡した」
「それは川瀬さんが悪いです」
「で、郵便が十分快かったほうが勝った」
「雑にまとめると台無しになりますね」
「でも間違ってないだろ?」
「……間違ってはいません」
真壁さんがにやりと笑いました。
「よし。覚えた」
「何を?」
「債権譲渡は郵便競走」
「試験でそのまま書かないでくださいね」
「俺、試験受けねえし」
「ずるい!」
前世の私は、あんなに苦しんだのに。
AがBに債権を有し。
BがCに譲渡し。
さらにDにも譲渡し。
確定日付がどうの。
通知がどうの。
問題文を読むだけで、
「人を増やすな」
と何度思ったことか。
「栞」
所長が奥から呼びました。
「はい?」
「松野さんからだ」
小さな紙包みを渡される。
開けると、羊羹が二本入っていました。
私は固まりました。
「……二本」
「どうした?」
真壁さんが聞く。
「今日の事件のあとに、二本」
「縁起いいじゃねえか」
「一個の羊羹を二人に譲渡しないでくださいね」
「誰がするか」
所長が笑いました。
真壁さんも笑う。
私も、つられて笑いました。
窓の外には、昭和六十三年の夕焼け。
遠くで商店街のスピーカーが鳴っています。
今日、一千万円という大きな金額が動いた。
でも最後に事務所へ残ったのは、二本の羊羹と、少し疲れた笑い声でした。
債権は目に見えない。
だからこそ。
誰が持っているのか。
誰に知らせたのか。
いつ知らせたのか。
そういう目に見える手続が、人を守る。
前世では、ただの暗記事項だった。
通知。
承諾。
確定日付。
到達。
四つ並べただけで眠くなった言葉たち。
でも今日からは違う。
通知には、青ざめた松野さんの顔がある。
確定日付には、二通の内容証明がある。
到達には、午前八時四十分と八時五十分の、たった十分钟がある。
そして、その十分钟の向こう側には。
一千万円を二度払わずに済んだ人がいる。
「栞、羊羹切れ」
「はい」
「四つな」
「所長と真壁さんと私で三人ですよ」
「明日の分だ」
「なるほど」
私は包丁を取り出しました。
それから、ふと思って言います。
「所長」
「なんだ」
「この羊羹、一本は私がもらって、もう一本も私がもらうっていうのは」
「二重譲渡じゃない」
「ただの強欲だ」
真壁さんに即答されました。
……法律以前の問題でした。
昭和六十三年。
土地も建物も、お金も権利も、やたらと景気よく動いていく時代。
その真ん中で。
私は今日も、見えないものを一つずつ整理していく。
たぶん法律というのは。
見えないものに、順番をつけるための知恵なのだ。
そんなことを考えながら。
私は羊羹を、きっちり三等分した。
今度こそ。
誰にも二重譲渡されないように。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




