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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権

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75/160

[契約解除]現場編 解除したら全部戻ると思うな

挿絵(By みてみん)

 人間には、ときどき「言った瞬間に世界が変わる言葉」があります。


 「別れます」


 「辞めます」


 「もう二度と来ません」


 そして、不動産取引でかなり強そうに聞こえる言葉が、


 「契約を解除します」


 です。


 なんとなく、最終兵器っぽい。


 言えば契約が消える。


 土地も戻る。


 お金も戻る。


 全部なかったことになる。


 人生の巻き戻しボタン。


 ――そんな便利なボタンだったら、民法はあんなに分厚くなってません。


「解除したんだから、土地を返してもらってください!」


 朝九時十二分。


 大槻不動産の事務所に、その最終兵器を連呼する男性が飛び込んできました。


 五十代半ば。紺の背広。額には汗。右手には茶封筒。


 怒っている人というより、怒ることで不安を押さえ込んでいる人の顔でした。


「三か月ですよ! 三か月!」


 ばん、と応接机に封筒を置く。


「代金を払わない! 何度電話しても『待ってくれ』ばかり! だから昨日、もう契約は解除すると言ってやったんです!」


 私はお茶を出しながら、そっと真壁さんを見ました。


 真壁さんも私を見る。


 嫌な予感がするとき、人は言葉を交わさなくても分かり合えます。


 これが恋なら素敵なんでしょうけど、不動産屋の場合はだいたい事故の共有です。


 男性の名前は、三宅信夫さん。


 駅から少し離れた場所に、亡くなった父親から相続した土地を持っていた。


 そこを三か月前、知人の紹介で藤堂商事という会社に売却したそうです。


 売買代金は三千万円。


 手付金として三百万円。


 残りの二千七百万円は、所有権移転登記と引渡しの後、十日以内に支払う。


 ……嫌な契約です。


 普通なら決済日に代金と登記を同時にやるところを、知人だからと先に登記を移してしまった。


 そして案の定、金が来ない。


 人類はなぜ、「知り合いだから大丈夫」という言葉を、契約書より上位に置きたがるんでしょう。


「昨日、藤堂の社長に電話したんです」


 三宅さんは息を荒くした。


「『もう待てない。契約は解除だ』って。向こうも何も言わなかった。だから解除は成立してるでしょう?」


 所長の大槻さんが静かに聞きました。


「三宅さん。その前に、期限を切って支払いを求めましたか」


「……え?」


「たとえば『一週間以内に残代金を払ってください。払わなければ解除します』というように」


「いや」


 三宅さんは首を振った。


「何度も払えとは言いましたよ」


「いつまでに、と期限は?」


「そこまでは……」


 私は心の中で頭を抱えました。


 来ました。


 解除界の第一関門。


 催告です。


 三宅さんは怪訝そうに私たちを見回した。


「でも、三か月も払ってないんですよ? 十分じゃないですか」


 気持ちは分かります。


 三か月。


 しかも二千七百万円。


 私なら三日で胃が痛い。


 でも法律は、「腹が立った日数」と「解除できる条件」を別々に数えます。


「栞」


 所長が短く呼びました。


「はい」


「説明してみろ」


 突然の指名。


 出た。


 大槻ゼミ、実務編。


 この人、客の前でも容赦がありません。


「ええと……」


 私は三宅さんの向かいに腰を下ろしました。


「契約を解除するには、原則として、まず相手に履行するよう催告する必要があります」


「さいこく?」


「簡単に言えば、最後通告です」


 私は指を一本立てた。


「『この日までに払ってください』」


 もう一本。


「『それでも払わなければ解除します』」


「……それをやってから?」


「原則は、そうです」


 三宅さんの顔が曇る。


「じゃあ昨日の解除は無効なんですか」


「そこは事情を確認しないと断定できません」


 私は答えました。


「相手が『絶対に払わない』とはっきり拒絶していたり、もう履行できない状態だったりすれば、催告しなくても解除できる場合があります。でも、単に遅れているというだけなら、まず催告するのが基本です」


 三宅さんは苛立ったように机を叩いた。


「そんな悠長な!」


「悠長じゃありません」


 所長が静かに割って入った。


 声は大きくない。


 でも、大槻さんが低い声を出すと、なぜか部屋の空気が一段下がります。


「解除は強い権利です。相手との契約関係を一方的に終わらせる。だからこそ、法律は手順を要求するんです」


 三宅さんが黙った。


 所長は続けます。


「ただし、まだ間に合います」


「……え?」


「今日、正式に催告しましょう」


 真壁さんがすぐに立ち上がった。


「内容証明にするか?」


「そうしろ。支払期限を切る」


「三宅さん」


 私は尋ねました。


「藤堂商事は、今もその土地を持ってるんですよね?」


「当然でしょう。売ったばかりなんだから」


「念のため、登記を確認しましょう」


 三宅さんは一瞬、きょとんとした。


「登記?」


「はい」


「そんなもの、必要ですか?」


 必要です。


 ものすごく。


 不動産屋にとって登記簿は、健康診断より怖い現実を見せてくれる紙です。


     ◇


 一時間後。


 法務局から戻ってきた真壁さんは、事務所に入るなり言いました。


「栞」


「はい」


「お前の嫌な予感、当たりだ」


「当たってほしくなかったです」


 三宅さんが立ち上がる。


「何ですか」


 真壁さんは登記簿謄本を机に置きました。


「藤堂商事、もう売ってます」


「……は?」


「二週間前に」


 事務所が静まり返った。


 私は謄本を覗き込む。


 所有者。


 藤堂商事。


 その次。


 売買。


 所有権移転。


 買主――株式会社東亜開発。


 登記済み。


 ああ。


 これは、嫌なやつだ。


 三宅さんの顔から血の気が引いていきました。


「何ですか、それ」


「藤堂商事が、東亜開発に転売しています」


「そんな馬鹿な!」


 三宅さんは紙を奪うように取った。


「私は金をもらってないんですよ!」


「はい」


「だったら解除すれば土地は戻ってくるんでしょう!?」


 私は答えられなかった。


 いや、答えは知っている。


 知っているからこそ、言いづらかった。


 三宅さんは、私の顔を見た。


「戻りますよね?」


 その問いが、さっきよりずっと弱かった。


 私は息を吸った。


「……相手が藤堂商事だけなら、解除して原状回復を求めることになります」


「なら――」


「でも、もう第三者がいます」


 三宅さんの動きが止まった。


「東亜開発です」


「第三者がいたら、何なんですか」


「登記まで持っています」


 私はゆっくり言いました。


「解除だけで、必ず土地を取り戻せるとは限りません」


「……」


「え?」


 三宅さんの口から、乾いた声が出た。


 真壁さんが椅子を引いて座ります。


「三宅さん。ここからは、ちょっと話が厄介になります」


「厄介って……」


「不動産だからです」


 身も蓋もない。


 でも、正しい。


 三宅さんは混乱したように首を振った。


「いや、待ってください。藤堂が悪いんでしょう? 金も払わず勝手に転売したんだ。そんなもの無効でしょう!」


 そこです。


 人間の感覚では、そこ。


 悪い人から買ったら駄目。


 そう思いたい。


 でも不動産取引では、相手が「事情を知っていたか」だけでは決まらない場面があります。


「東亜開発が、代金未払いのことを知っていた可能性はあります」


 私は言った。


「じゃあ悪意じゃないですか!」


「法律でいう悪意、ですね」


「だったら!」


「それでも、登記を備えていることが重要になります」


 三宅さんが私を凝視する。


「知ってて買ってても?」


「はい」


「そんなのおかしいでしょう!」


 叫び声が事務所に響いた。


 私は何も言えなかった。


 その感情は、正しいと思う。


 金を払わない買主。


 それを知っていたかもしれない転売先。


 なのに自分の土地が戻らないかもしれない。


 そりゃ、納得できません。


 法律というのは、ときどき正義より順番を重視します。


 それが必要なのも分かる。


 でも、当事者になったら簡単には飲み込めない。


「三宅さん」


 所長が言いました。


「まだ終わってません」


 三宅さんが顔を上げた。


「土地を取り戻せるかどうかだけが、戦いじゃない」


「……どういう意味ですか」


「藤堂商事への請求があります」


 所長は登記簿を指で叩いた。


「残代金の請求。適法に解除するなら、解除後の原状回復。そして損害が出ているなら、損害賠償」


 三宅さんは呆然とした。


「解除したら……損害賠償はできないんじゃ?」


「逆です」


 私は思わず口を挟んだ。


 三宅さんが私を見る。


「解除したからって、それまでに生じた損害まで消えるわけじゃありません」


「……請求できる?」


「できます」


 私は頷いた。


「解除と損害賠償は、両立します」


 真壁さんが腕を組んだ。


「つまり、土地一本に絞って泣き寝入りする必要はねえってことだ」


「でも……」


 三宅さんは謄本を握ったまま、ぽつりと言った。


「あの土地は、親父の土地なんです」


 空気が変わった。


「子供のころ、あそこで野球してました」


 さっきまで怒鳴っていた声が、急に静かになる。


「親父が死んで、ずっと空き地のままで。固定資産税だけ払ってるのも馬鹿らしくて……だから売ろうと思った。でも」


 三宅さんは笑おうとして、失敗した。


「金だけの話じゃなかったんだなって、今さら思いますよ」


 私は胸が詰まりました。


 人は、失いそうになって初めて値段じゃない価値に気づく。


 不動産は特にそうです。


 坪単価の後ろに、だいたい誰かの夏休みが埋まっている。


 そのとき、電話が鳴りました。


 真壁さんが取る。


「はい、大槻不動産――はい。……え?」


 顔が険しくなる。


「分かりました。少々お待ちください」


 受話器を手で塞いで、こちらを見る。


「藤堂商事だ」


 三宅さんが立ち上がった。


「代われ!」


「待ってください」


 私は止めた。


「栞?」


「今、怒鳴ったら駄目です」


「でも!」


「相手から話させましょう」


 三宅さんの唇が震える。


 私は所長を見る。


 所長が一度だけ頷いた。


 真壁さんは受話器を耳に戻した。


「社長さん。ちょうど三宅さんもこちらに来ています。……ええ。代金の件です」


 しばらく聞く。


 そして眉間の皺が深くなった。


「それ、本気で言ってます?」


 三宅さんがこちらを見る。


「何て?」


 真壁さんは受話器を押さえた。


「『東亜開発に売れたら払うつもりだった。もう少し待ってくれ』だと」


「売れてるじゃないか!」


 三宅さんが叫んだ。


「二週間前に!」


 電話口にも聞こえたらしい。


 真壁さんが再び耳を当てる。


「……はい。……はい?」


 今度は真壁さんが、ゆっくり私を見る。


 その顔。


 なんか出た。


「どうしたんです?」


「東亜開発から、まだ代金を全部もらってないらしい」


「え」


 三宅さんも止まる。


 真壁さんは続けた。


「しかも……東亜開発との契約、残代金の決済が明後日だ」


 私は立ち上がりました。


「明後日?」


「ああ」


 頭が回る。


 藤堂商事から東亜開発への所有権移転登記はもう済んでいる。


 ただ、決済は未了。


 しかも藤堂は、三宅さんへの残代金を東亜開発からの金で払おうとしている。


 要するに。


 他人の土地を信用払いで買い、転売して、その転売代金で最初の代金を払うつもりだった。


 資金繰りを、人の土地でやるな。


「真壁さん」


「おう」


「東亜開発に会えますか」


 三宅さんが振り返った。


「何をするんです?」


「確認します」


「何を?」


「本当に全部知ってるのか」


 私は登記簿を指差しました。


「登記がある以上、簡単な話ではありません。でも、取引全体がどうなっているかは、まだ確認する価値があります」


 所長が立ち上がった。


「俺も行こう」


「所長も?」


「三千万の土地だ。見習い一人に背負わせる額じゃない」


「真壁さんは?」


「俺もいるぞ」


「じゃあ私、いらなくないですか」


「お茶係」


「現場に急須持っていきませんよ!」


 三宅さんが、ほんの少しだけ笑った。


 その一瞬でよかった。


 さっきまで崩れそうだった顔に、少しだけ人間らしい色が戻った。


     ◇


 東亜開発は、駅前の雑居ビルの三階にありました。


 応接室に通された私たちの前に現れたのは、四十歳前後の男性でした。


 東亜開発の代表、久世さん。


 意外にも派手さはない。


 眼鏡。


 紺のスーツ。


 机の上に資料をきっちり揃えるタイプ。


「藤堂商事から買った土地の件ですね」


 久世さんは言いました。


「はい」


 所長が答える。


「元所有者の三宅さんです」


 三宅さんが頭を下げた。


 久世さんも返した。


「事情は、ある程度聞いています」


 三宅さんの肩が動く。


「知ってたんですか」


「藤堂商事が三宅さんへの残代金をまだ払っていないことですね」


「……はい」


「知っています」


 空気が張った。


 三宅さんが拳を握る。


 でも、私はその続きを待った。


 久世さんは資料を一枚出した。


「だから、うちは残代金の支払いを止めています」


「え?」


 三宅さんが顔を上げた。


「藤堂商事からは、今週中に権利関係を整理するから決済してほしいと言われています」


「権利関係を……」


「ですが、元売主への代金が未払いのままでは、揉めるのは目に見えています」


 久世さんは淡々と言った。


「登記を先に受けたのは、こちらも融資の都合があったからです。ただ、このまま進めるつもりはありません」


 三宅さんは混乱していた。


「じゃあ……土地を返してくれるんですか」


 久世さんが黙る。


 そこは簡単じゃない。


 当然だ。


 相手には相手の契約がある。


 私は口を挟まずに待った。


「三宅さん」


 久世さんはゆっくり言いました。


「こちらも、もう設計費や調査費を使っています」


「……」


「ただし、藤堂商事を間に置いたまま決済するのは危険だと考えています」


 所長がわずかに身を乗り出した。


「つまり?」


「三者で整理したい」


 久世さんは言った。


「藤堂商事への残代金を、そのまま払うつもりはありません」


 私は目を瞬いた。


「もし三宅さんが了承するなら」


 久世さんは続けた。


「こちらが支払う残代金の中から、藤堂商事が三宅さんに支払うべき金額を直接精算する形を検討できます」


 三宅さんが固まった。


「私に……直接?」


「法律関係は専門家を入れて整理する必要があります。藤堂商事の同意も要るでしょう。ただ、少なくとも、あの会社に全額渡して『あとで三宅さんに払ってください』という形にはしません」


 真壁さんが小さく息を吐いた。


 所長は無表情のまま尋ねる。


「土地そのものを戻す選択肢は?」


「それも協議には応じます。ただ、こちらも既に動いています」


「でしょうね」


 私は思わず言ってしまった。


 全員がこっちを見る。


 しまった。


 十八歳事務見習い、重役会議に雑に参戦。


「すみません」


「いや」


 久世さんが少し笑った。


「正しいですよ」


 私は咳払いした。


「……三宅さん」


「はい」


「解除って、言えば全部元どおりになる魔法じゃないんです」


 三宅さんが私を見る。


「相手が一人なら、まだ戻す話は単純です。でも、第三者が入って、登記が動いて、さらにお金も動き始めると、法律関係は一気に複雑になります」


「……はい」


「だから」


 私は三宅さんの前の登記簿を指差した。


「今いちばん大事なのは、『解除したんだから土地を返せ』だけに固執することじゃないと思います」


 三宅さんは黙った。


「土地を取り戻すのか」


「……」


「売買を最終的に成立させて、代金を確実に受け取るのか」


「……」


「これまでの遅延で出た損害を請求するのか」


 私は一つずつ言った。


「全部、分けて考えましょう」


 三宅さんは長い間、黙っていました。


 やがて、久世さんに聞いた。


「……あなたたちは、あの土地を何に使うつもりなんです」


「小さな分譲住宅地です」


「家が建つ?」


「四棟です」


 三宅さんは窓の外を見た。


「親父がね」


 ぽつりと言う。


「昔、あそこに家を何軒か建てたら、子供が増えて賑やかになるなって言ってたんですよ」


 久世さんが目を細めた。


「そうですか」


「まあ、本人は死ぬまで何もしませんでしたけど」


 少し笑う。


 私も笑った。


 昭和のお父さん、計画だけ壮大問題。


 時代を超えて普遍です。


 三宅さんは、ゆっくり息を吐いた。


「……土地が戻ることだけが、正解じゃないのかもしれませんね」


 所長が言った。


「それを決めるのは三宅さんです」


「はい」


「法律は、選択肢を整理する道具です。決めるのは人間だ」


 三宅さんは頷いた。


     ◇


 その後の処理は、派手ではありませんでした。


 むしろ、地味の極みです。


 内容証明。


 支払期限。


 藤堂商事への催告。


 東亜開発との協議。


 司法書士。


 弁護士。


 銀行。


 契約書。


 覚書。


 電話。


 電話。


 電話。


 ファクス。


 昭和なのでメールがない。


 これだけは本当に令和へ帰りたくなりました。


「栞! 東亜からファクス!」


「はい!」


「藤堂から電話!」


「出たくありません!」


「仕事だ!」


「人権!」


「十八の事務員が何言ってんだ!」


 それでも、一つずつ整理していくと、絡まっていた糸は少しずつほどけました。


 藤堂商事は、こちらが正式な催告を出し、さらに東亜開発が残代金の支払いを止めたことで、ようやく態度を変えました。


 結局、三宅さんは土地そのものを取り戻すより、売買を成立させる道を選びました。


 東亜開発から支払われる代金の一部を使って、藤堂商事から三宅さんへの残代金を確実に精算する。


 遅延によって生じた損害については、別途藤堂商事と協議する。


 もちろん、細かな法的処理は専門家を交えて詰めた。


 そして決済の日。


 銀行の応接室で、三宅さんの通帳に数字が印字された。


 二千七百万円。


 三宅さんは、しばらくその数字を見ていました。


「……入った」


「はい」


「本当に入った」


「はい」


「三か月待ったぞ」


「長かったですね」


 私は言いました。


 三宅さんは笑った。


「藤崎さん」


「はい?」


「昨日まで、契約解除って言えば全部終わると思ってました」


「分かります」


「テレビドラマだと、言った瞬間に相手が『そんな!』ってなりますからね」


「現実はその後、書類が二十枚くらい来ます」


「夢がないなあ」


「不動産ですから」


 横で真壁さんが吹き出した。


「お前、それ便利な言葉にしてねえか?」


「してません」


「困ったら全部『不動産ですから』で済ませてるだろ」


「だいたい済みます」


「済まねえよ」


 所長が最後の書類を確認しながら言った。


「まあ、今回は勉強になっただろう」


 三宅さんが頷く。


「ええ」


「契約を解除するときは、まず手順を確認すること」


「はい」


「解除した後も、相手が何を持っていて、誰に何が移っているか確認すること」


「はい」


「そして」


 所長は三宅さんを見る。


「怒っているときほど、自分が何を取り戻したいのか考えることです」


 三宅さんは少し驚いた顔をした。


 それから、小さく笑った。


「土地じゃなくて、ちゃんと終わらせることだったのかもしれません」


 所長は頷いた。


     ◇


 それから二か月ほど経ったころ。


 三宅さんが、事務所にふらりと現れました。


 手には紙袋。


「どうしたんですか?」


「近くまで来たから」


 袋の中には、たい焼きが十個入っていた。


「また多いですね」


「所長さんと真壁さんと藤崎さんで食べてください」


「三人ですよ?」


「余ったら持って帰ればいい」


 昭和の差し入れは、やはり物量で来る。


「それと」


 三宅さんは一枚の写真を出しました。


 更地だった土地。


 そこに基礎工事が始まっている。


「工事、始まったんですか」


「ええ」


「見に行ったんです?」


「まあね」


 三宅さんは少し照れた。


「親父が言ってたみたいに、本当に家が四軒建つらしい」


「そうですか」


「子供がいる家族も入るって」


 三宅さんは写真を見ながら笑った。


「だったら、悪くないかなって」


 私は何も言わずに頷いた。


 土地は戻らなかった。


 契約も、最終的には解除しなかった。


 でも三宅さんは、払われるはずだったお金を受け取った。


 損害についても整理した。


 そして、思い出の土地は誰かの新しい暮らしになる。


 それは、「全部元どおり」とは違う。


 でも。


 元どおりにすることだけが、問題を解決する方法じゃない。


「栞」


 真壁さんがたい焼きを一つ取った。


「頭から食うか、尻尾から食うか」


「頭です」


「即答だな」


「解除と同じです」


「どこがだよ」


「中途半端にかじると、あんこが漏れます」


「全然違う」


 所長が新聞を読みながら言った。


「栞」


「はい?」


「それを法律の例えに使うな」


「はい」


 三宅さんが笑った。


 私も笑った。


 窓の外には、昭和六十三年の夕方。


 車の音。


 自転車のベル。


 商店街の放送。


 今日もどこかで、契約が結ばれて。


 きっとどこかで、解除されています。


 私は机の上に置かれた宅建のテキストを見ました。


 契約解除。


 昨日までなら、頭の中では一行でした。


 履行がなければ、催告して解除。


 解除したら、原状回復。


 損害があれば、損害賠償もできる。


 第三者がいれば、登記が重要。


 でも実際は、その一行の中に。


 払われない二千七百万円があり。


 亡くなった父親との思い出があり。


 別の会社の事情があり。


 これから建つ四軒の家がある。


 法律は、時間を巻き戻す魔法じゃない。


 起きてしまったことを、誰と誰の間で、どこまで戻し、どこから先を守るのか。


 その線を引くためのものなのだ。


「栞」


「はい」


「たい焼き、最後の一個だぞ」


 真壁さんが言った。


「私のです」


「なんでだ」


「事務見習いには糖分が必要です」


「俺だって営業で頭使ってる」


「顔が怖いので糖分不要です」


「どういう理屈だ!」


 三宅さんがまた笑った。


 所長まで新聞の向こうで肩を揺らしている。


 私は最後のたい焼きを確保しながら思いました。


 契約解除は、何もかもを消してくれる呪文じゃない。


 でも。


 こじれてしまった関係に、きちんと終わり方を与えることはできる。


 それならきっと――。


 十分、強い制度なのだと思う。


 私はたい焼きの頭をかじった。


 あんこは、漏れなかった。

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