[損害賠償額の予定]法理編 栞とお勉強
夕方。
私は机の上に、一枚の紙を置きました。
そこには、今日さんざん見た数字が並んでいます。
売買代金 一五〇〇万円
損害賠償額の予定 三〇〇万円
違約金 一五〇万円
追加の実損請求 二〇〇万円
先方の請求合計 六五〇万円
「……数字だけ見ると、強そうなんだよなあ」
「何がだ」
後ろから声がしました。
振り返らなくても分かります。
真壁さんです。
「六百五十万円です」
「そりゃ強いだろ」
「でも法律を当てると、三百万円になりました」
「半分以下だな」
「はい」
私は鉛筆を持ちました。
「だから今日は、どうして六百五十万円が三百万円になったのか、ちゃんと整理しておこうと思います」
「またノートか」
「またノートです」
「お前、仕事よりノート書いてないか?」
「将来への投資です」
「十八歳が言うと妙に腹立つな」
「三十年後くらいに役立つかもしれません」
「ずいぶん先だな」
いえ。
私の場合は、たぶん元いた時代で役立ちます。
説明すると長いので黙っておきました。
私はページの一番上に、大きく書きます。
【損害賠償額の予定】
「まず、そもそもこれが何なのか」
「今日の三百万だろ?」
「そうです。でも、意味からいきます」
私はその下に書きました。
損害賠償額の予定
=債務不履行があった場合に備えて、
『損害賠償は○○円とする』
と、あらかじめ決めておくこと。
「たとえば?」
「土地を三千万円で売買したとします」
「うん」
「買主が約束の日に代金を払わなかった。それで契約が駄目になった」
「ある話だな」
「そのとき売主が実際に受けた損害を、一から全部証明するのって大変でしょう?」
「広告費、金利、値下がり、他の客を断った損……」
「そうです」
私は指を折りました。
「何が損害なのか」
「いくら損したのか」
「その損害は本当に債務不履行が原因なのか」
「全部揉める可能性があります」
「面倒だな」
「ものすごく面倒です」
だから。
先に決めてしまう。
――もし契約違反があったら、損害賠償は三百万円にしましょう。
「これが損害賠償額の予定です」
「なるほどな」
「つまり、未来の揉め事を前払いで整理しておく感じです」
「金は前払いしてないぞ」
「言葉の綾です」
「法律の説明で綾を入れるな」
「真壁さん、細かいですね」
「お前に言われたくない」
私は次の項目を書きました。
【ポイント① 実際の損害額を証明しなくてよい】
「ここが大事です」
「今日も言ってたな」
「はい」
たとえば、損害賠償額を三百万円と予定していたとします。
そして債務者が債務不履行をした。
その場合、債権者は原則として、
実際に三百万円の損害が発生したことまで、
一円単位で証明する必要はありません。
「つまり」
真壁さんが言いました。
「実際には百万円くらいしか損してなくても?」
「予定額が有効なら、原則として三百万円」
「じゃあ、まったく損してないと言われても?」
「損害賠償額の予定として認められるなら、実損額を一から立証して予定額を作るわけではありません」
「債権者には便利だな」
「すごく便利です」
私は赤鉛筆で囲みました。
重要
損害賠償額を予定した場合、
債権者は「実際にいくら損したか」を一から立証する負担を軽くできる。
「だから小林さんも、『東洋住宅は本当に三百万円も損したんですか?』だけでは逃げられなかったわけです」
「なるほど」
「三百万円という数字そのものを、契約時に決めていましたから」
真壁さんが腕を組みました。
「じゃあ逆に、五百万円損したら?」
「そこが次です」
私は大きく書きました。
【ポイント② 実損が予定額を超えても、原則として上乗せできない】
「前編で東洋住宅がやろうとしたことですね」
「三百万に、実損二百万を足したやつか」
「そうです」
仮に。
損害賠償額の予定が三百万円。
実際の損害が五百万円。
だったとしても――。
原則として、
『本当は五百万円損したから、あと二百万円ください』
とはできない。
「なんでだ?」
「それを許したら、予定した意味がなくなるからです」
「ああ」
「少ないときは予定額をもらう。でも多いときは実損をもらう」
「債権者だけいいとこ取りになるな」
「そうなんです」
私はノートに書きました。
実損 一〇〇万円
↓
予定額 三〇〇万円なら
原則 三〇〇万円
実損 五〇〇万円
↓
予定額 三〇〇万円なら
原則 三〇〇万円
「上下を切るわけか」
「そう考えると分かりやすいです」
「三百万の箱に入れる感じだな」
「それです!」
私はぱん、と手を打ちました。
「真壁さん、たまに説明が上手いですね」
「たまには余計だ」
「損害の大小をいちいち争わず、“この箱で処理しましょう”と決める」
「箱の大きさが予定額」
「はい」
私はそこを囲みました。
損害賠償額の予定
=損害額について、あらかじめ「箱の大きさ」を決めておく。
「だから今日の東洋住宅は」
三百万円の箱を自分で作っておきながら、
「実際にはもっと損しました」
と言って、その外側へ二百万円を積み上げようとした。
「それは駄目、と」
「原則として、そうです」
私はページをめくりました。
【ポイント③ 違約金は、原則として損害賠償額の予定と推定される】
「ここも試験に出ます」
「違約金って、罰金みたいなもんじゃないのか?」
「そこが罠です」
私は指を立てました。
「契約書に『違約金』と書いてあるからといって、自動的に損害賠償とは別枠になるわけではありません」
「今日の黒崎みたいに」
「はい」
『損害賠償三百万』
『違約金百五十万』
『違約金は別です』
――とはならない。
「民法では、違約金は損害賠償額の予定と推定されます」
「推定?」
「はい。“絶対そうだ”と決めつけるのではなく、原則としてそう扱う、ということです」
「違約罰として特別に決めていた場合なんかは話が変わる?」
「そういう区別が問題になることはあります。でも宅建試験では、まず」
私は大きく書きました。
違約金
→ 損害賠償額の予定と推定。
「これを覚えるのが先です」
「別腹じゃない」
「はい」
「昨日からそれ気に入ってるだろ」
「覚えやすいので」
私はさらにその横に書きました。
損害賠償三〇〇万円
+
違約金一五〇万円
=
四五〇万円
「少なくとも宅建業法の二割制限を考えるときは、二つを合算します」
「ここで今日の三百万円につながるわけだ」
「そうです」
私は赤鉛筆を持ち直しました。
【ポイント④ 宅建業者が自ら売主なら、20%ルール】
これは民法ではなく。
宅建業法です。
「ここ、混ぜると危ないです」
「どう違う?」
「民法では、当事者が損害賠償額を予定すること自体は認められています」
「うん」
「でも宅建業者が自分で売主になって、宅建業者ではない買主に宅地や建物を売る場合は、買主保護のために特別な上限があります」
私は書きました。
宅建業者 = 売主
一般人 = 買主
この場合、
損害賠償額の予定
+
違約金
↓
売買代金の20%以下
「今日なら?」
「代金一千五百万円ですから――」
真壁さんが暗算する。
「三百万」
「正解」
「俺を馬鹿だと思ってないか」
「思ってませんよ」
「間があったぞ」
私は聞こえなかったことにしました。
一五〇〇万円 × 20%
= 三〇〇万円
「したがって、損害賠償額の予定と違約金を合わせて三百万円まで」
「でも契約書には四百五十万円って書いてあった」
「はい」
「じゃあ契約全部が無効?」
「いいえ」
私はそこに大きく×を書きました。
全部無効ではない。
「ここ、ものすごく大事です」
「超えたら全部駄目じゃないのか?」
「違います」
私は数字を書きます。
代金 一五〇〇万円
20% 三〇〇万円
契約上の定め 四五〇万円
有効 三〇〇万円
超過 一五〇万円 → 無効
「二割を超えた“部分だけ”無効です」
「四百五十万円全部が消えるわけじゃない」
「そうです!」
私は二重丸をつけました。
超重要
20%を超える定めをした場合、
全部無効ではない。
20%を超える部分だけ無効。
「宅建の問題、こういうの好きそうだな」
「大好きですよ」
「お前が?」
「試験がです」
「だろうな」
大嫌いです、こういう引っかけ。
でも嫌いなものほど、過去問では何度も会います。
親戚のおじさんみたいです。
私は整理しました。
たとえば売買代金二〇〇〇万円なら、
20%=四〇〇万円。
損害賠償額の予定 三〇〇万円
違約金 一〇〇万円
→合計四〇〇万円
→有効。
損害賠償額の予定 三〇〇万円
違約金 二〇〇万円
→合計五〇〇万円
→四〇〇万円までは有効。
→超えた一〇〇万円だけ無効。
「分かりやすいな」
「でしょう?」
「じゃあ売主も買主も宅建業者なら?」
「お」
私は真壁さんを見ました。
「いい質問です」
「その言い方、先生みたいで腹立つな」
「20%制限は、宅建業者が自ら売主となって一般の買主を相手にする場合の特別な保護です」
「つまり業者同士なら、この規制は?」
「この宅建業法38条の制限は適用されません」
「なるほど」
私は追加しました。
20%制限を使う前に確認!
①売主は宅建業者か
②宅建業者が「自ら売主」か
③買主は宅建業者ではないか
④宅地または建物の売買か
「問題文を見た瞬間に二割計算しちゃ駄目なんです」
「まず登場人物を見る」
「そうです」
これは心裡留保のときにも所長が言っていました。
法律問題では、数字より先に人間関係を見る。
誰が売主で。
誰が買主で。
誰を保護する規定なのか。
それだけで、問題の半分くらいはほどけます。
そこへ所長がやってきました。
「ずいぶん進んだな」
「所長。今、20%制限まで来ました」
「そうか」
所長は私のノートを覗き込みました。
「なら、民法のほうでも一つ注意を書いておけ」
「何です?」
「裁判所だ」
「あ」
私はペンを止めました。
そうでした。
今回の教材には、もう一つ注意点があります。
【ポイント⑤ 予定額と裁判所――ここは時代に注意】
「栞」
「はい」
「今は昭和六十三年だ」
「……はい」
突然の時代確認。
心に刺さるのでやめてください。
「今の民法では、損害賠償額を予定した場合、裁判所はその額を増減できない旨が条文に書かれている」
「はい」
私は頷きました。
昭和六十三年当時の民法四二〇条には、
損害賠償額を予定した場合、
裁判所はその額を増減することができない、
という趣旨の規定がありました。
「だから原則は?」
「裁判所が『ちょっと高いから半額ね』とか、『損害が大きいから倍ね』と自由に調整する制度ではない」
「そういうことだ」
「ただし――」
「公序良俗だな」
「はい」
私は書きました。
原則
予定額が定められている
↓
裁判所が自由に増減するものではない。
しかし。
たとえば、
三千万円の土地売買について、
違約したら一億円払え。
弱い立場につけ込んで、
到底合理性のない巨額の賠償を定める。
「そんな場合まで絶対有効、というわけじゃありません」
「契約自由にも限界はあるからな」
「はい」
内容があまりにも不当で、公序良俗に反すると評価される場合には、全部または一部が無効となる余地がある。
「つまり、裁判所が好き勝手に値引きするんじゃない」
「そうだ」
所長が頷きました。
「契約条項そのものの効力が問題になる」
「そこ、言い方を間違えると危ないですね」
「ああ」
私は赤字で書きました。
注意!
「高すぎるから裁判所が何となく減額」
ではない。
極端に不当な内容なら、
公序良俗違反などによって、
その全部または一部の効力が否定されることがある。
「それと、もう一つ」
私は自分の記憶を辿りました。
ここは少しややこしい。
「未来では?」
真壁さんが言いました。
「え?」
「お前、たまに未来の話するだろ」
「してません」
「するぞ」
「気のせいです」
危ない。
真壁さん、妙なところだけ勘がいい。
私は咳払いしました。
※栞の未来メモ
現在の民法四二〇条では、かつて存在した
「裁判所は、その額を増減することができない」
という文言は削除されています。
「……何を書いてる?」
「未来への備忘録です」
「また意味不明なことを」
「気にしないでください」
ここは、この物語が昭和六十三年を舞台にしているために生じる注意点です。
宅建試験を現在の法律で受けるなら、現在の条文で覚えなければならない。
ただし、
「損害賠償額の予定だから裁判所が自由自在に好きな額へ直せる」
という意味になったわけではありません。
著しく不合理な予定額については、公序良俗など別の法理も含めて効力が問題になります。
試験勉強では、
古い問題の解説と、
現在の条文を混ぜない。
これ、大事です。
ものすごく大事。
法律は変わります。
過去問の年号は飾りじゃありません。
「栞」
「はい?」
「顔が怖いぞ」
「法改正への恨みを思い出してました」
「十八歳が何言ってんだ」
私は次へ進みました。
【ポイント⑥ 損害賠償額の予定は契約と同時でなくてもよい】
「これは短いです」
「後から決めてもいい?」
「はい」
「契約した日に決めなきゃ駄目、ではない」
「そのとおりです」
私は書きます。
売買契約締結
↓
後日
「もし履行しなかった場合の損害賠償額を○○万円としよう」
↓
可能。
「“予定”っていう言葉から、契約時に決めなきゃいけない気がするんだよな」
「そこを狙ってきます」
「嫌な試験だ」
「本当に」
思わず素で答えました。
【ポイント⑦ 金銭以外でも予定できる】
「これも過去問にあります」
「損害賠償なのに金じゃなくていいのか?」
「できます」
私は例を書きました。
債務不履行があった場合、
金銭ではなく一定の物を給付する旨を、
損害賠償としてあらかじめ定める。
「たとえばシュークリーム二個」
「まだ言ってるのか」
「分かりやすいでしょう」
「賠償として軽すぎる」
「じゃあ高級羊羹」
「食い物から離れろ」
「真壁さんがお腹空いてるからですよ」
「お前だろ」
所長が横から言いました。
「試験なら『損害賠償額の予定は必ず金銭でなければならない』と出されたら?」
「誤りです」
「よし」
なんでしょう。
最近、所長が私を完全に受験生として扱い始めています。
私はさらに一行。
【ポイント⑧ 損害賠償額の予定があっても、履行請求や解除は妨げられない】
「これも大事です」
「予定額を決めたら、解除できなくなるわけじゃない?」
「なりません」
「履行を求めることも?」
「できます」
私は書きました。
損害賠償額を予定した
=
他の権利まで全部捨てた
ではない。
「民法上、損害賠償額の予定は、履行の請求や解除権の行使を妨げません」
「なるほど」
「ここも、『予定額を払えば必ず契約から自由になれる』と勝手に思わないことです」
「違約金払えば何でもキャンセルできる、じゃないんだな」
「そうです」
契約はそんなに単純ではありません。
そして。
私はページの下半分を使って、
今日の事件をもう一度整理しました。
【小林さん事件を試験問題にすると】
売主A
=宅建業者・東洋住宅
買主B
=一般人・小林さん
売買代金
=一五〇〇万円
契約書
・損害賠償額の予定 三〇〇万円
・違約金 一五〇万円
「まず何を見る?」
所長が聞きました。
「Aが宅建業者で、自ら売主か」
「次」
「Bが宅建業者ではないか」
「次」
「代金の20%」
私は計算しました。
一五〇〇万円 × 20%
= 三〇〇万円。
「だから?」
「損害賠償額の予定と違約金の合計四五〇万円のうち、三〇〇万円まで有効。超えた一五〇万円は無効」
「よし」
「そして、さらに実損二〇〇万円を上乗せ?」
「原則としてできません」
「なぜ?」
「損害賠償額をあらかじめ予定しているから」
所長が頷きます。
私は最終的な式を書きました。
六五〇万円
内訳
予定損害賠償 三〇〇万円
違約金 一五〇万円
追加実損 二〇〇万円
↓
①違約金を合算
三〇〇万円+一五〇万円
=四五〇万円
②宅建業法38条
上限=代金の20%
=三〇〇万円
③超過部分
一五〇万円
=無効
④予定額を超える実損二〇〇万円
=原則として追加請求不可
↓
結論
三〇〇万円
「……こう見ると簡単ですね」
私は言いました。
「事件の最中は六百五十万って数字だけで怖かったのに」
「金額が大きいと、人は考える前に怯えるからな」
所長が言いました。
「だから順番に分けるんだ」
「順番?」
「ああ」
所長は私の鉛筆を借りました。
ノートの余白に書きます。
一 誰と誰の契約か。
二 民法上、何を合意したか。
三 宅建業法の特別規制がかかるか。
四 数字を計算する。
「数字は最後だ」
「……なるほど」
「いきなり六百五十万を見るから怖い。制度ごとに切ればいい」
真壁さんもノートを覗き込みます。
「要するに今日の黒崎は、数字をいっぱい並べて圧をかけた」
「まあ、そういう面はありましたね」
「で、栞が一個ずつ消した」
「消したというか、整理したんです」
「同じだろ」
「違います」
私は少し考えてから言いました。
「私たちは、小林さんの責任まで消してません」
「ああ」
「そこが大事だと思います」
三百万円は残った。
小林さん自身も、それを払うと言った。
契約を守れなかった責任は負う。
でも。
相手が宅建業者だからといって。
契約書に印刷されているからといって。
請求されたからといって。
何でも払わなくてはいけないわけではない。
私はノートの最後にまとめました。
【栞の試験直前まとめ】
①損害賠償額の予定とは
債務不履行があった場合の賠償額を、あらかじめ定めておくこと。
②実損額の立証
予定額を請求するために、実際の損害額を一から立証する負担を軽くできる。
③実損が予定額より大きかった場合
原則として、予定額を超えて請求することはできない。
④違約金
原則として損害賠償額の予定と推定される。
⑤宅建業者が自ら売主になる場合
一般の買主との宅地・建物の売買では、
損害賠償額の予定+違約金
≦売買代金の20%。
⑥20%を超えた場合
全部無効ではない。
20%を超える部分だけ無効。
⑦契約と同時に予定する必要
なし。
後から定めてもよい。
⑧金銭以外
損害賠償として予定することもできる。
⑨予定があっても
履行請求や解除権の行使が当然に妨げられるわけではない。
⑩高額すぎる予定額
どんな内容でも絶対有効ではない。
公序良俗違反などによって効力が否定されることがある。
そして最後に、私は赤鉛筆で囲みました。
試験ではまず、
「民法の損害賠償額の予定」
と
「宅建業法の20%制限」
を分けて考える。
「これですね」
「ああ」
所長が頷きました。
「民法だけなら、当事者が賠償額を決める話」
「宅建業法が出てくると?」
「売主が宅建業者なら、買主保護の上限を確認する」
「はい」
「そして――」
真壁さんが口を挟みました。
「違約金は別腹じゃない」
「正解です!」
「そこだけ妙に覚えたな」
「栞が三回も言うからだろ」
所長が呆れたように笑いました。
そのとき。
机の隅に置いてあった紙袋を、真壁さんが見ました。
小林さんからもらったシュークリーム。
最後の一個。
「栞」
「はい」
「これ、昨日から残ってるぞ」
「私のです」
「いつ食うんだ?」
「帰る前に」
「クリーム傷むぞ」
「冷蔵庫に入れてあります」
「半分ずつにしないか?」
「嫌です」
「損害賠償額を予定しよう」
「何の債務不履行ですか」
「俺に半分くれなかった場合」
「そもそも債務がありません」
所長が吹き出した。
「真壁」
「はい?」
「まず債権を発生させろ」
「そこからですか」
「そこからだ」
私はシュークリームを取り上げました。
「法律以前の問題です」
「昨日俺が栞に缶コーヒー奢っただろ」
「贈与です」
「覚えてやがる」
「返す約束はしてません」
「民法を日常生活に持ち込むなよ」
「不動産屋でそれ言います?」
夕方の事務所に笑い声が広がりました。
私はノートを閉じる前に、
もう一行だけ書き足しました。
損害賠償額の予定は、
「違反した人から、取れるだけ取る制度」ではない。
同時に、
「約束を破っても、実損がなければ払わなくていい制度」でもない。
将来起こるかもしれない争いについて、
あらかじめ線を引いておく制度だ。
だからこそ。
その線を引いた側も、
あとになって勝手に線を動かしてはいけない。
今日の東洋住宅は、
三百万円という線を自分で引いた。
そして、
「もっと損したから」
「違約金は別だから」
と、その線を六百五十万円まで動かそうとした。
けれど。
契約には契約のルールがあり。
宅建業者には宅建業者のルールがある。
契約書に書いてある。
だから全部有効。
請求された。
だから全部払う。
そんなに単純なら、
法律なんて必要ありません。
私は最後に、一番大きな字で書きました。
――契約書に数字が書いてあっても、その数字が法律より偉いわけではない。
「栞」
「はい?」
「また字がでかいぞ」
所長です。
「大事なので」
「ノート一ページ使ってるじゃないか」
「試験に出ますから」
「その試験とやらは、ずいぶん怖いんだな」
「ええ」
私は心の底から答えました。
「違約金より怖いです」
真壁さんが笑った。
所長も笑った。
私は最後のシュークリームを守りながら、ノートを閉じました。
昭和六十三年。
損害賠償額の予定。
昨日までは、
数字と矢印ばかりの、なんとも味気ない論点でした。
でも今は違う。
一五〇〇万円。
二〇%。
三〇〇万円。
その数字の向こうには、
店を閉めずに済んだ小林さんがいる。
法律の数字には、
たぶん全部、
誰かの生活がくっついている。
そう思えば。
少しくらい面倒な計算でも、
覚えておく価値はある気がしました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




