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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権

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[損害賠償額の予定]現場編 違約金は「別腹」ではありません

挿絵(By みてみん)

 契約書というものは、だいたい揉める前がいちばん薄く見えます。


 署名するときは、


「はい、ここですね」


「ここにも印鑑を」


「では最後に割印を」


 くらいの扱いなのに、いざ揉め始めると、たった一行が日本刀みたいな切れ味を出してきます。


 特に怖いのが――。


 違約金。


 名前からして怖い。


 違反した者に課せられる金。


 もう少しこう、「約束を守れなかった場合の事前精算金」くらい柔らかく言えなかったのでしょうか。


 まあ、柔らかく言っても取られるものは取られるんですけど。


「六百五十万円ですって!?」


 朝九時十三分。


 大槻不動産の事務所に、女性の悲鳴が響きました。


 私は急須を持ったまま、ぴたりと止まった。


 最近、この事務所ではお茶を淹れる前に事件が起きる。


 お願いだから、せめて一杯目くらい飲ませてほしい。


「はい。昨日、先方からそう言われました……」


 応接机の向こうで、小林澄江さんが震えていた。


 四十代半ば。


 商店街で二十年以上、小さな洋裁店を営んでいる女性です。


 今度、駅の反対側にある店舗兼住宅を買い、そこで店を広げる予定だった。


 売主は東洋住宅販売という不動産会社。


 つまり――宅建業者が、自ら売主となる売買です。


 売買代金は一千五百万円。


 ところが融資の予定が狂い、小林さんは残代金を用意できなくなった。


 契約には融資特約がなかった。


 これは痛い。


 買主側の事情で履行できない以上、小林さんにも責任がないとは言えません。


 だから小林さん自身、契約を解除されることも、ある程度のお金を支払わなければならないことも覚悟していた。


 問題は――その額でした。


「契約書には、どう書いてあるんです?」


 真壁さんが聞きました。


 小林さんは鞄から契約書を取り出します。


「これです」


 私は横から覗き込みました。


 特約欄。


 細かい文字。


 昭和の契約書って、どうして重要なことほど字が小さいのでしょう。


 読ませる気があるのか、試しているのか。


 そこには、こうありました。


 買主の責めに帰すべき債務不履行により本契約を解除する場合、買主は売主に対し、損害賠償額として三百万円を支払う。


 さらに違約金として百五十万円を支払う。


「……四百五十万円ですね」


 私が言うと、小林さんが頷きました。


「私もそう思ったんです。でも昨日、東洋住宅の人が来て……」


「六百五十万になった?」


「はい」


 真壁さんの眉間に皺が寄ります。


「残り二百万は何だ」


「実際に損害が出たから、と」


「実際の損害?」


「広告費と、他のお客さんを断った損と、それから……この一か月で相場が変わったとか……」


「ほう」


 真壁さんの声が低くなった。


 怖い。


 この人、怒ると声量が下がるタイプです。


 いちばん怖いやつです。


「それで、三百万円の損害賠償と、百五十万円の違約金と、実際の損害二百万円。合わせて六百五十万円払えと言われました」


「……なるほど」


 所長の大槻さんは、契約書を受け取ると、黙って読み始めました。


 小林さんが両手を膝の上で握ります。


「私が悪いのは分かってます」


 その一言だけで、事務所の空気が変わりました。


「お金の用意ができなかったのは、私ですから。先方にも迷惑をかけました。だから、何も払いたくないなんて言うつもりはないんです」


 小林さんは俯いた。


「でも、六百五十万円なんて……店を畳んでも無理です」


 私は契約書を見つめました。


 一千五百万円の売買。


 損害賠償額の予定、三百万円。


 違約金、百五十万円。


 合計四百五十万円。


 さらに実損二百万円。


 ……ん?


 頭の中で、数字が一列に並びました。


 一千五百万。


 その二割。


 三百万。


「真壁さん」


「なんだ」


「これ、変じゃありません?」


「何がだ?」


「四百五十万円の時点で」


 真壁さんが私を見る。


 私は契約書を指差しました。


「売主、宅建業者ですよね?」


「ああ」


「自ら売主ですよね?」


「ああ」


「買主の小林さんは宅建業者じゃない」


「そうだが――」


 そこで真壁さんも気づいたらしい。


「……二割か」


「はい」


 私は頷きました。


「二割です」


 小林さんが、私たちを交互に見ました。


「二割……?」


「宅建業者が自分で売主になって、一般の人に宅地や建物を売る場合です」


 私は紙の余白に数字を書きました。


 一五〇〇万円 × 二〇% = 三〇〇万円


「契約解除に伴う損害賠償額の予定や違約金は、合わせて売買代金の二割までです」


「……合わせて?」


 小林さんが聞き返した。


「はい。合わせて、です」


 私は契約書の二か所を指で押さえました。


「東洋住宅さんは、損害賠償三百万円。それとは別に違約金百五十万円と書いています」


「はい」


「でも、宅建業法では別々に数えてくれません」


 私は、少しだけ笑いました。


「違約金は別腹じゃありませんから」


 一秒置いて、真壁さんが吹き出しました。


「焼肉の後のアイスみたいに言うな」


「でも、そういうことです」


「法律を食い物で説明するな」


「分かりやすいでしょう?」


「悔しいが分かりやすい」


 所長が契約書から目を上げました。


「栞の言うとおりだ」


 低い声だった。


「この売買なら上限は三百万円。四百五十万円と定めても、二割を超えた部分――つまり百五十万円は無効になる」


 小林さんの目が大きくなりました。


「じゃあ……四百五十万円じゃない?」


「少なくとも、その特約をそのまま四百五十万円全部有効だとは言えません」


「じゃ、じゃあ、残りの二百万円は?」


「そこですよね」


 私は再び契約書を見る。


 ここで、もう一つ。


 昨日まで過去問の中で何度も見た言葉が浮かんでいました。


 損害賠償額の予定。


 契約するときに、


 ――もし債務不履行になったら、損害はこの額として扱いましょう。


 そう先に決めておく仕組みです。


 なぜそんなことをするのか。


 理由は簡単。


 実際の損害なんて、後から正確に計算するのがものすごく面倒だからです。


 広告費はいくら。


 機会損失はいくら。


 相場下落はいくら。


 精神的苦痛はいくら。


 そんなものを延々争うくらいなら、最初に決めてしまう。


 だから便利。


 そして――。


 最初に決めた以上、都合のいいときだけ実損方式へ戻ることもできない。


「所長」


「うん」


「損害賠償額の予定があるなら、東洋住宅さんは、実際の損害がもっと大きかったと言って、予定額を超えて請求することはできませんよね」


 小林さんが顔を上げた。


 真壁さんも私を見る。


 所長だけが、ほんの少し口元を緩めました。


「そのとおりだ」


「つまり……」


 私は紙に書きました。


 東洋住宅の主張


 損害賠償 三〇〇万円


 違約金  一五〇万円


 実損   二〇〇万円


 合計   六五〇万円


 その下に、大きく線を引きます。


「まず四百五十万円の予定額と違約金は、宅建業法で合計三百万円まで」


 百五十万円に線。


「さらに、“実際にはもっと損したから二百万円追加”もできない」


 二百万円にも線。


 残った数字は――。


 三百万円。


「六百五十万円が……」


 小林さんが、呆然と紙を見ました。


「三百万円?」


「はい」


「半分以下……?」


「はい」


 私は答えた。


「ただし」


 小林さんの表情が固まる。


 ここを誤魔化しちゃいけない。


「三百万円については、逆に東洋住宅さんは、“本当に三百万円も損したの?”と細かく証明しなくても請求できる可能性があります」


「え……」


「それが損害賠償額を予定する意味です」


 私は紙の三百万円を丸で囲みました。


「予定額って、債権者だけに不利な仕組みじゃありません。実損が百万円しかなくても、原則として予定した額を請求できる。一方で、実損が五百万円あっても、予定した額を超えて請求することはできない」


 真壁さんが感心したように鼻を鳴らした。


「上にも下にも動かしにくくするわけか」


「そうです」


「じゃあ、“損してないから一円も払わない”も通らん」


「そういうことです」


 小林さんはしばらく黙っていた。


 私は少し心配になりました。


 三百万円。


 六百五十万円よりはずっと少ない。


 けれど、決して小さな金額じゃない。


 すると小林さんは、ゆっくり頷きました。


「……それなら、払います」


「小林さん」


「私が約束を守れなかったのは本当ですから」


 声は震えていた。


 それでも、さっきまでとは違った。


「払うべきものは払います。でも……払わなくていいものまで、怖くて払うのは違いますよね」


 私は頷いた。


「はい」


 たぶん、それがいちばん大事です。


 法律って、借金をゼロにする魔法でも、責任を消す呪文でもない。


 払うべきものと。


 払わなくていいもの。


 その境界線を引くためにある。


 その日の午後。


 東洋住宅販売の営業所へ、私たちは向かいました。


 所長、大槻さん。


 営業、真壁さん。


 そしてなぜか事務見習いの私。


「私も行くんですか?」


「お前が見つけたんだろ」


 真壁さんが言う。


「見つけた人が説明しろ」


「十八歳に他社との法律交渉をさせる会社ってどうなんですか」


「昭和だ」


「便利な言葉ですね、昭和」


「何でもそれで片付けるな」


「片付けたの真壁さんです」


 東洋住宅販売は、駅前のビル二階にありました。


 大槻不動産よりずっと大きい。


 応接室には、分厚い灰皿。


 観葉植物。


 革張りのソファ。


 そして、そのソファに座っていたのが営業部長の黒崎という男でした。


 五十歳くらい。


 髪を後ろへ撫でつけ、金色の腕時計をしている。


 お金を持ってる人が、持ってることを腕で説明しているタイプです。


「いやあ、大槻さん」


 黒崎部長は笑った。


「わざわざご足労いただかなくても。小林さんには契約どおり払っていただくだけですよ」


「契約どおり、ですか」


 所長が静かに言った。


「ええ。損害賠償三百万。違約金百五十万。それに実損二百万。こちらも遊びで商売してるわけじゃありませんから」


「合計六百五十万」


「そうです」


 私は心の中で呟いた。


 来た。


 全部載せ定食。


 しかも、ご飯大盛り。


 所長が私に目を向けます。


 ……え。


 私?


 本当に私が言うの?


 十八歳ですよ?


 でも所長の顔は、


 ――言え。


 としか書いてありません。


 この人、無言の圧が日本語より流暢です。


「黒崎さん」


 私は契約書を開きました。


「一つ確認していいですか?」


「ん?」


「この物件、御社が所有している店舗兼住宅ですよね」


「そうだよ」


「御社が売主」


「ああ」


「小林さんは宅建業者ではない」


「それが?」


「では、損害賠償額の予定と違約金を合算して、代金の二割を超える定めはできません」


 黒崎部長の笑顔が、ほんの少し止まりました。


「……何?」


「売買代金は一千五百万円です」


 私は紙を差し出す。


「二割で三百万円」


「そんなことは分かってる」


「では、なぜ四百五十万円なんです?」


「損害賠償は三百万だ」


「はい」


「違約金百五十万は別だ」


 出た。


 私は思わず真壁さんを見た。


 真壁さんが、口元を押さえている。


 絶対笑いを堪えてる。


 仕方ないので私が言いました。


「別腹ではありません」


 黒崎部長の眉が動いた。


「……は?」


「損害賠償額の予定と違約金。合算です」


 横で真壁さんがとうとう咳き込みました。


「おい栞……」


「だって本当にそうなんですから」


 私は黒崎部長に向き直る。


「三百万と百五十万を別々に二割判定するわけじゃありません。足します。合計四百五十万円。そのうち二割を超える百五十万円は無効です」


「小娘が何を――」


「黒崎さん」


 所長が初めて口を挟んだ。


 静かな声だった。


 部屋の温度が二度くらい下がった気がします。


「宅地建物取引業法第三十八条だ」


 黒崎部長が黙る。


 所長は続けた。


「知らんとは言わせんよ」


 強い。


 所長、静かな人って怒ると本当に怖い。


「……だとしても」


 黒崎部長が姿勢を直した。


「実際にこちらは損害を受けている。二百万円は別途請求する」


「それも無理です」


 今度は私が即答した。


「なぜだ」


「御社自身が、損害賠償額を予定しているからです」


「実損が予定額より大きければ請求できるだろう」


「それをやったら、“予定”した意味がありません」


 私は契約書の条項を指しました。


「債務不履行が起きたとき、実際の損害がいくらだったかを一から争わなくて済むように、先に賠償額を決めているんです」


「……」


「御社は、損害が三百万円に届いていなくても予定額を請求できる。その代わり、本当はもっと損したと言って予定額を超えて積み上げることもできない」


 黒崎部長の頬が引きつった。


「こちらは広告も打ってるんだぞ」


「予定額を決めたときに、それも含めて精算する仕組みにしたんでしょう?」


「他の客も断った」


「それも同じです」


「相場まで――」


「同じです」


 私は言いました。


「損を細かく数えなくていい代わりに、後から都合よく足し算もしない。それが損害賠償額の予定です」


 沈黙。


 壁の時計だけが、カチ、カチ、と鳴っています。


 気持ちいい。


 人を論破するのが気持ちいいんじゃありません。


 バラバラに並べられた六百五十万円が、法律の物差しを当てた瞬間、


 三百万円。


 と、一本の線に収まる。


 この感じです。


 ごちゃごちゃした理不尽が整理される。


 私が宅建を勉強していて、唯一ちょっと好きだった瞬間。


 いや、過去問ではこんなに気持ちよくなかったけど。


「それに」


 真壁さんが初めて前へ出た。


「小林さんは三百万について逃げると言ってない」


 黒崎部長を見る。


「自分の責任だから払うと言ってる。なのに、そこへ無効な百五十万と、予定額を超える実損まで積んで六百五十万にするのか」


「……」


「商売ってのは、取れるだけ取ることじゃないだろ」


 黒崎部長の顔から、ようやく笑みが消えました。


 しばらくして。


 彼は煙草を一本取り出した。


 火をつける。


 一口吸ってから、灰皿へ置いた。


「……三百万で処理する」


 小さな声でした。


「書面を出してください」


 所長が言う。


「解除と清算について、これ以上の請求をしないことも入れて」


「分かった」


「今日中に」


「……分かったよ」


 終わった。


 六百五十万円。


 それが三百万円になった。


 魔法じゃない。


 値切ったわけでもない。


 泣き落としでもない。


 契約書に書かれた数字を。


 法律の順番に並べ直しただけだった。


 帰り道。


 真壁さんが自動販売機の前で止まりました。


「栞」


「はい」


 百円玉を入れて、缶コーヒーを二本買う。


 一本が飛んできました。


「わっ」


 慌てて受け取る。


「危ないですよ!」


「取れただろ」


「取れなかったら損害賠償請求しますよ」


「いくらだ」


「予定額を決めましょうか」


「嫌だよ。お前相手だと何書かれるか分からん」


 私は笑いました。


 真壁さんも笑う。


 少し先を歩いていた所長が振り返りました。


「栞」


「はい?」


「一つ忘れるな」


 所長は歩きながら言います。


「今日は小林さんを助けた。だが、三百万円まで消したわけじゃない」


「はい」


「そこを勘違いするなよ」


「分かってます」


 所長は頷いた。


「損害賠償額の予定は、債務者を助ける制度じゃない。債権者を儲けさせる制度でもない」


「じゃあ、何なんです?」


「争いを先に小さくしておくための約束だ」


 私は少しだけ立ち止まりました。


 争いを、先に小さくしておく。


 なるほど。


 その言い方は、妙に腑に落ちた。


 翌朝。


 小林さんが事務所へやってきました。


 昨日とは違って、背筋が伸びていました。


「正式に三百万円で清算できました」


「よかったです」


「本当にありがとうございました」


 小林さんは深く頭を下げた。


 そして、大きな紙袋を机に置きました。


「これ、皆さんで」


「何です?」


「シュークリームです」


 真壁さんがすぐ反応した。


「お、いいですね」


「真壁さん、甘いもの好きなんですか」


「悪いか」


「顔と合わないなと思って」


「余計なお世話だ」


 小林さんが、くすっと笑いました。


「店は……どうするんです?」


 私が聞くと、彼女は少しだけ寂しそうな顔をしました。


「今の店で、もう少し頑張ります」


「そうですか」


「でもね」


 紙袋の持ち手から手を離して、小林さんは笑った。


「六百五十万円払っていたら、本当に店を閉めてました」


「……」


「三百万円だって痛いです。でも、それなら働いて返せる」


 そして、店の入り口を見るような目をして言った。


「だから、まだミシンを踏めます」


 それを聞いたとき。


 私はようやく、昨日やったことの意味が分かった気がしました。


 三百五十万円を減らした。


 数字だけなら、それだけです。


 でも、その三百五十万円の向こう側に、


 一台のミシンがあって。


 一軒の小さな店があって。


 そこに毎日通ってくるお客さんがいる。


 法律の答えって、たぶん数字で終わらない。


「栞ちゃん」


「はい?」


「今度、服を直すことがあったら持ってきて」


「いいんですか?」


「もちろん」


 小林さんが私の制服を見た。


「そのスカート、丈がちょっと合ってないでしょう」


「え」


 私は自分の腰を見る。


 確かに少し長い。


「直してあげる」


「本当ですか!」


「お礼にね」


「それはまずいんじゃないか」


 所長が新聞越しに言いました。


「報酬みたいになる」


「じゃあ、ちゃんと払います」


「それならいい」


「所長、こういうところだけ急に厳密ですね」


「こういうところ“も”だ」


「自分で言います?」


 真壁さんがシュークリームを頬張りながら笑う。


「栞、お前の分なくなるぞ」


「ちょっと! 一人一個でしょう!」


「損害賠償請求するか?」


「します」


「予定額は?」


 私は紙袋を見る。


 残り二個。


 真壁さんを見る。


 そして答えました。


「シュークリーム二個です」


「金銭じゃねえのかよ」


「賠償はお金じゃなくても予定できますから」


 真壁さんが動きを止めた。


「……お前、そういうところだけ妙に勉強してるな」


「昨日まで過去問に殴られてましたので」


「相変わらず意味が分からん」


「私もです」


 所長が新聞の向こうで笑っていました。


 その日の夕方。


 私は机で契約書の写しを眺めました。


 損害賠償額の予定。


 債務不履行が起きたときの損害賠償額を、あらかじめ決めておく。


 実際の損害を一円単位で証明する必要はない。


 その代わり、実際にはもっと損をしたからといって、好き勝手に上乗せもできない。


 そして宅建業者が自ら売主となる宅地・建物の売買では、損害賠償額の予定と違約金を合わせて、代金の二割まで。


 一千五百万円なら、三百万円。


 四百五十万円と書いたからといって、四百五十万円全部が通るわけではない。


 違法な部分まで、契約書のインクが守ってくれるわけじゃないのです。


 契約は約束です。


 だから、守らなければ責任が生じる。


 でも。


 責任があることと、


 相手の言い値を全部払わなければならないことは、


 まったく別の話です。


 私はノートの端に、一行だけ書きました。


 ――「約束を破った弱み」と「何を請求してもいい」は、同じではない。


 窓の外では、夕方の商店街に灯りがつき始めていました。


 どこかで、小林さんもまたミシンを踏んでいるのだろう。


 新しい店は手に入らなかった。


 三百万円も失った。


 だから、これは完全なハッピーエンドじゃありません。


 それでも。


 理不尽に六百五十万円を背負わされて、店までなくす未来は避けられた。


 人の人生って、案外そういうものなのかもしれない。


 全部を取り戻せなくても。


 守れるものを、ちゃんと守る。


「栞ー」


 向こうから真壁さんの声。


「はい?」


「シュークリーム、最後の一個食っていいか?」


「駄目です!」


「まだ食ってないだろ」


「私のです!」


「名前書いてないぞ」


「所有権の問題に発展させますよ!」


「面倒くせえ十八歳だな!」


 私は椅子から立ち上がりました。


 法律は、冷たい数字を扱う。


 でも、その数字の向こうにいる人間まで、冷たくする必要はない。


 昭和六十三年。


 今日も大槻不動産では、


 契約書一枚と、


 シュークリーム一個をめぐって、


 実に平和な紛争が起きていました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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