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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権

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72/162

[損害賠償請求]法理編 栞とお勉強

挿絵(By みてみん)

 夕方の事務所で、私はノートを開きました。


 今日の事件を、もう一度最初から思い返してみる。


 坂本さんは、中古住宅を買った。


 約束では、六月十二日に代金を支払い、その日に建物の引渡しを受けることになっていた。


 ところが。


 売主の森下さんが退去できなかった。


 その結果、


 ホテル代。


 引っ越し業者の追加費用。


 家具の保管料。


 交通費。


 コインランドリー代。


 いろいろな出費が発生した。


「……三百万円」


 私は思わず呟きました。


「まだ言ってんのか」


 後ろから真壁さんの声がします。


「言ってません。思い出してただけです」


「お前、あの数字よっぽど気に入ったな」


「実損三十万円台から、精神力だけで三百万円まで伸ばしたところに感動したんです」


「感動すんな」


「人間の可能性を感じました」


「嫌な方向の可能性だな」


 私はノートの一番上に書きました。


 損害賠償請求


「で」


 真壁さんが机に腰を預けます。


「結局、損害賠償って何なんだ?」


「簡単に言えば」


 私は鉛筆を走らせました。


 損害賠償

 =相手の行為によって生じた損害を、お金などで埋めてもらうこと。


「今日みたいな話か」


「そうです」


「約束の日に家を渡さなかった。それでホテル代が出た。だから払え、と」


「はい」


「じゃあ、車で人をはねた場合も同じか?」


「それも損害賠償です」


「契約してなくても?」


「そこが最初の大事なところです」


 私は大きく二つに分けました。


 損害賠償請求が問題になる代表例


 ① 債務不履行

 ② 不法行為


「二種類あるのか」


「大きく分ければ、宅建ではまずこの二つを区別します」


「今日の森下さんは?」


「債務不履行です」


「なんで?」


「約束があったからです」


 私は今日の売買契約を簡単な図にしました。


 売主・森下さん

    ↓

 六月十二日に建物を引き渡す義務

    ↓

 履行しなかった

    ↓

 債務不履行


「なるほど」


「契約によって負っている義務を果たさなかったんです」


「じゃあ交通事故は?」


「普通、被害者と加害者の間に『はねない契約』なんてありませんよね」


「そんな契約書見たことねえよ」


「なので、そういう場合は不法行為です」


 私はもう一つ書きました。


 車を運転していたAが、

 前方不注意でBをはねた。


 AとBの間に契約はない。


 しかし、

 Aの故意・過失による違法な行為でBに損害が生じた。


  ↓


 不法行為による損害賠償


「つまり」


 真壁さんが言いました。


「約束を破ったら債務不履行」


「はい」


「人に迷惑かけたら不法行為」


「かなり雑ですが、入口としてはそれでいいです」


「雑って言うな」


「ただし、不法行為は単なる『迷惑』では足りません」


「ほう」


「違法な権利侵害などがあって、故意または過失があり、損害が発生して、その行為と損害との間につながりが必要です」


「急に条件が増えたな」


「民法は、怒った人全員に三百万円を配る制度ではありませんから」


「今日の教訓を引っ張るな」


     ◇


 私は次の見出しを書きました。


 債務不履行による損害賠償


「今日はこちらですね」


「森下さんの件だな」


「はい」


 民法上、債務者が約束どおり履行しなかったり、履行不能になった場合、債権者は、それによって生じた損害の賠償を請求できます。


 ただし。


 どんな事情でも債務者が賠償責任を負うわけではない。


 その不履行が、契約その他の債務発生原因や取引上の社会通念に照らして、債務者の責めに帰することができない事由による場合には、原則として損害賠償責任を負いません。


「たとえば?」


「今日の建物が、引渡し前日に巨大隕石で消滅したとか」


「例が極端だな」


「覚えやすさ重視です」


「売主が隕石まで責任取らされたら可哀想だな」


「そういう話です」


 私は今日の事案に戻しました。


「でも森下さんは違います」


「退去が間に合わなかった」


「しかも、遅れる可能性を事前に知っていた」


「だから責任がある、と」


「はい」


 そして。


 もう一つ重要なのが、


 何を、どこまで賠償するのか。


 です。


 私はノートに書きました。


 債務不履行による損害賠償の範囲


 ① 通常生ずべき損害

 ② 特別の事情による損害


「また二つか」


「法律、二つに分けるの好きなんですよ」


「作った奴、整理好きだったんだろうな」


「宅建受験生にはありがたいような、ありがたくないような」


 まず。


 通常生ずべき損害。


 これは、約束を破れば普通こういう損害が出るよね、という損害です。


 たとえば。


 六月十二日に家を引き渡す約束だった。


 でも、渡さなかった。


 買主は住む家がない。


 ホテルに泊まる。


 そのホテル代。


「これは分かるな」


「ですよね」


「引っ越しの再手配代も?」


「かなり分かりやすいです」


「家具の保管代も?」


「同じです」


 私はまとめました。


 通常生ずべき損害

 →原則として賠償の対象になる。


「じゃあ特別の事情って何だ?」


「普通なら発生しないけど、その人特有の事情があって発生した損害です」


「たとえば?」


「その家を六月十三日から映画撮影に貸す予定で、一日百万円の使用料を受け取る契約をしていたとか」


「また極端だな」


「でも分かりやすいでしょう?」


「まあ」


「普通の住宅の引渡しが一日遅れたからって、百万円の撮影収入を失うとは普通は分かりません」


「そりゃそうだ」


「だから、そういう特別な事情による損害まで請求するには、相手がその事情を予見していた、または予見できたことが必要です」


 私は赤線を引きました。


 通常損害

 →予見の有無を問わず賠償対象になり得る。


 特別損害

 →特別事情を予見し、または予見できた場合に賠償対象になり得る。


「これ、試験で出そうだな」


「実際、引っかけやすいところです」


「『通常損害でも予見してないと駄目』とか?」


「はい。それは誤りです」


 真壁さんが得意そうに頷きました。


「じゃあ俺、もう一点取れるな」


「本試験、一問四肢です」


「急に夢壊すな」


     ◇


「で、今日の坂本さんの三百万は?」


 真壁さんがまた言いました。


「しつこいですね」


「そこが一番面白いだろ」


「二百万円の精神的苦痛や迷惑料については、単に本人がそう思ったというだけで、当然その金額が損害になるわけではありません」


「じゃあ請求書に書いた者勝ちじゃない」


「そんな制度だったら不動産屋が三日で滅びます」


「確かにな」


「損害賠償では、損害が発生していることや、不履行との因果関係が問題になります」


 私は今日の数字を書きました。


 引渡し遅延

  ↓

 ホテル宿泊

  ↓

 ホテル代発生


「これはつながる」


「はい」


 次。


 引渡し遅延

  ↓

 家具を家へ運べない

  ↓

 保管料発生


「これもつながる」


「はい」


 では。


 引渡し遅延

  ↓

 とても腹が立った

  ↓

 三百万円


「……」


「……」


「線が細いな」


「ほぼ切れてます」


 真壁さんが吹き出しました。


「お前、それ本人の前で言わなくてよかったな」


「私にも生存本能があります」


     ◇


 私はページをめくりました。


 過失相殺


「今日、所長が途中で言っていた話です」


「家具の保管料か」


「はい」


「坂本さんにも、損害を広げた責任があるかもしれないって話だな」


「そうです」


 損害が発生したとき。


 加害者や債務者だけが百パーセント原因とは限りません。


 被害を受けた側にも、損害の発生や拡大について落ち度があることがあります。


「交通事故みたいなもんだな」


「分かりやすいのはそれです」


 たとえば。


 Aの車とBの車が衝突。


 Aの不注意が八割。


 Bの不注意が二割。


 損害が百万円。


 その場合に、被害者側の過失も考慮して賠償額を調整する。


 これが、


 過失相殺。


「八対二だから八十万円?」


「単純化すれば、そんな感じです」


「なるほど」


「ただし」


 私は大きく線を引きました。


「ここ、宅建でかなり大事です」


「何が?」


「不法行為と債務不履行で、条文の言い方が違います」


「またか」


「またです」


 私は左右に分けました。


 不法行為の場合


 被害者に過失があったとき

 →裁判所は、その過失を考慮して損害賠償額を定めることが「できる」。


 債務不履行の場合


 債権者に過失があったとき

 →裁判所は、その過失を考慮して、損害賠償の責任・額を定める。


「……何が違う?」


「言葉を見てください」


「できる?」


「そうです」


 私は不法行為の方を丸で囲みました。


 不法行為

 →過失相殺は裁判所の裁量。


「つまり?」


「被害者に過失があっても、必ず過失相殺しなければならないわけではありません」


「へえ」


「一方、債務不履行では」


 私は反対側を指しました。


 債務不履行

 →債権者に過失があれば、それを考慮して責任・額を定める。


「こっちは考慮しないといけない」


「そうです」


「覚え方は?」


「不法行為は『できる』。債務不履行は『考慮する』」


「もっと簡単に」


 私は考えました。


 不法行為 → 任意

 債務不履行→ 義務


「おお」


「ただし試験用の整理です。実際の事案では、過失の認定や割合は当然もっと複雑です」


「でも宅建ならこれか」


「はい」


 そして今日の事案。


 坂本さんは朝、真壁さんから、


「引渡しが遅れるかもしれない」


 とは聞いていた。


 それでも家具を運んだ。


「だから坂本さんにも過失がある?」


「そこは簡単ではありません」


「なんで?」


「情報が曖昧だったからです」


「俺も、引渡し不能とは言い切れなかった」


「そうです」


 売主は、


「昼までには出られる」


 と言っていた。


 その状態で、買主が予定どおり引っ越しを進めたからといって、直ちに大きな過失があるとは言いにくい。


「じゃあ結局、事情を見る」


「はい」


「法律なのに曖昧だな」


「法律だから事情を見るんです」


「どういう意味だ?」


「数字だけで決められるなら、裁判官じゃなくて電卓で足ります」


「……たまに上手いこと言うな」


「たまに余計です」


     ◇


 私は次のページへ進みました。


 不法行為による損害賠償請求権の消滅時効


「時効までやるのか」


「やります」


「今日の話から離れてきたぞ」


「今日のテーマが損害賠償なので、ここは逃げません」


「受験生みたいなこと言うな」


 受験生でしたから。


 前世で。


 私は書きました。


 不法行為・物損


 ① 被害者または法定代理人が

   損害および加害者を知った時から3年


 または


 ② 不法行為の時から20年


「三年と二十年?」


「はい」


「どっちか長い方?」


「違います」


 私は即答しました。


「どちらかの期間が完成すれば、時効消滅の問題になります」


「じゃあ、事故に遭って犯人も分かってるのに三年間何もしなかったら?」


「原則、三年の方が問題になります」


「二十年あるじゃないか」


「二十年は『絶対二十年間請求できる』という意味ではありません」


「なるほど」


「二本の時計が動いてると思ってください」


 私はノートに時計を二つ描きました。


 時計A

 損害+加害者を知る

   ↓

   3年


 時計B

 不法行為

   ↓

   20年


「先に時間切れになった方でアウト?」


「ざっくり言えば、そう覚えると分かりやすいです」


「じゃあ『損害を知った時』って、どの時点?」


「実際に損害の発生を認識した時です」


「なんとなく損してそう、じゃなく?」


「はい」


 私は例を書きました。


 知らない間に所有物を壊されていた。


 壊された日には気づかなかった。


 一か月後に初めて壊れていることを知り、加害者も分かった。


 この場合。


 三年の起算点として問題になるのは、原則として損害と加害者を知った時。


「でも二十年は?」


「不法行為の時から進みます」


「二十年の方は知らなくても進む?」


「そうです」


「怖いな」


「だから二本立てなんです」


     ◇


「じゃあ、人が怪我した場合は?」


「そこが次です」


 私は赤鉛筆を取りました。


 不法行為による生命・身体侵害


 ① 損害および加害者を知った時から5年


 ② 不法行為の時から20年


「三年が五年になった」


「そうです」


「二十年は同じ」


「はい」


「なんで人間だけ長いんだ?」


「生命や身体の被害は重大ですし、治療が長引くこともありますから、物損より手厚く保護されています」


「なるほど」


 私は横に並べました。


 不法行為


 物損

  知った時から3年

  不法行為時から20年


 人損

  知った時から5年

  不法行為時から20年


「これは覚えやすいな」


「3、5、20です」


「三、五、二十」


「人なら五年」


「物なら三年」


「はい」


 真壁さんが少し嬉しそうに言いました。


「俺、また一点取れそうだ」


「一問四肢です」


「二回言うな」


     ◇


 そこへ所長が奥から出てきました。


「栞」


「はい」


「時効をまとめているのか」


「はい。今、不法行為まで」


「なら、債務不履行の方も書いておけ」


「ですよね」


 私は少し姿勢を正しました。


 ここが、混同しやすい。


 普通の債権の消滅時効は、


 債権者が権利を行使できることを知った時から五年。


 または、


 権利を行使できる時から十年。


「じゃあ債務不履行の損害賠償も基本はそれか」


「はい」


「不法行為の三年とは違うんだな」


「違います」


 私は書きました。


 一般の債権


 ① 権利を行使できることを知った時から5年

 ② 権利を行使できる時から10年


「でも」


 所長が言いました。


「生命・身体を侵害した場合は?」


「長くなります」


 私はその下に書きました。


 債務不履行などによる生命・身体侵害の損害賠償請求権


 ① 権利を行使できることを知った時から5年

 ② 権利を行使できる時から20年


「ここ、すごく紛らわしいですね」


「だから分けて覚えるんだ」


 所長は私の鉛筆を取りました。


「まず原因を確認する」


「原因?」


「不法行為なのか」


 一行。


「債務不履行なのか」


 二行。


「その次に」


「物損か、人損か」


「そうだ」


 私は思わず頷きました。


 なるほど。


 最初から数字だけ暗記するから混乱する。


 先に分類する。


 ① 何を根拠に請求する?


   不法行為?

   債務不履行?


 ② 何が侵害された?


   物?

   生命・身体?


「これなら整理できます」


 真壁さんもノートを覗き込みました。


「俺にも見せろ」


「近いです」


「いいだろ」


「顔が怖いんですよ」


「生まれつきだ」


     ◇


 私は大きく表にしました。


 【不法行為】


 物損


 主観的起算点

 →損害および加害者を知った時から3年


 客観的起算点

 →不法行為の時から20年


 生命・身体侵害


 主観的起算点

 →損害および加害者を知った時から5年


 客観的起算点

 →不法行為の時から20年


 【債務不履行などの債権】


 通常


 主観的起算点

 →権利を行使できることを知った時から5年


 客観的起算点

 →権利を行使できる時から10年


 生命・身体侵害


 主観的起算点

 →権利を行使できることを知った時から5年


 客観的起算点

 →権利を行使できる時から20年


「うわ」


 真壁さんが顔をしかめました。


「数字だけ見ると嫌になるな」


「だから人の顔を乗せるんです」


「顔?」


「たとえば交通事故」


 私はAとBを書きました。


 AがBを車ではねた。


 契約なし。


 だから不法行為。


 身体侵害。


 だから、


 知った時から五年。


 不法行為時から二十年。


「なるほど」


「次」


 建物売買契約。


 売主の債務不履行で、買主が財産的損害を受けた。


 これは債権。


 通常なら、


 知った時から五年。


 権利行使可能時から十年。


「じゃあ数字を先に覚えるんじゃなくて、事件を分類する」


「そうです」


「それ、試験全般で使えそうだな」


 所長が言いました。


「使えるぞ」


 私は顔を上げました。


「法律問題はな」


 所長は腕を組みました。


「数字だけ覚えると、問題文でひっくり返される」


「はい」


「誰が」


「はい」


「誰に」


「はい」


「何を根拠に」


「はい」


「何を請求しているか」


 私はノートにそのまま書きました。


 誰が

 誰に

 何を根拠に

 何を請求しているか


「まず、これを整理しろ」


「なるほど……」


「そうすれば、三年だ五年だ二十年だという数字は、あとから付いてくる」


「所長」


「なんだ」


「もっと早く教えてください」


「聞かれてない」


「教育者に向いてませんね」


「給料からどら焼き代引くぞ」


「申し訳ありませんでした」


 即時撤回。


 十八歳は経済的に弱い。


     ◇


「そういえば」


 真壁さんが言いました。


「不法行為の過失相殺と、債務不履行の過失相殺」


「はい」


「もう一回」


「忘れたんですか」


「確認だ」


「絶対忘れましたよね」


「確認だ」


 私は仕方なく書きました。


 試験超重要


 不法行為


 被害者にも過失あり


  ↓


 裁判所は過失を考慮して

 損害賠償額を定めることが「できる」


  ↓


 任意


 債務不履行


 債権者にも過失あり


  ↓


 裁判所はその過失を考慮して

 責任・損害賠償額を定める


  ↓


 考慮が必要


「不法行為は『できる』」


「はい」


「債務不履行は『考慮する』」


「はい」


「よし」


「今度こそ覚えてくださいよ」


「忘れたらまた聞く」


「損害賠償請求します」


「何の損害だ」


「説明時間」


「時給いくらだよ」


「精神的苦痛込みで三百万」


「坂本さんより悪質じゃねえか」


 所長が新聞の向こうで笑いました。


     ◇


 私は最後に、今日のテーマを一枚にまとめました。


 ――損害賠償請求・最終整理――


 ① 損害賠償請求の代表的な根拠は二つ


 ・債務不履行

 ・不法行為


 ② 債務不履行


 約束した義務を履行しない。


 そのため損害が生じた。


 原則として、債権者は損害賠償を請求できる。


 ただし、債務者の責めに帰することができない事情による場合などは別。


 ③ 損害賠償の範囲


 通常生ずべき損害

 →賠償対象。


 特別事情による損害

 →当事者がその事情を予見し、または予見できた場合に賠償対象。


 ④ 過失相殺


 不法行為

 →裁判所は過失相殺することが「できる」。


 債務不履行

 →債権者の過失を考慮して責任・賠償額を定める。


 ⑤ 不法行為・物損の時効


 損害+加害者を知った時から3年。


 または、


 不法行為の時から20年。


 ⑥ 不法行為・生命身体侵害の時効


 損害+加害者を知った時から5年。


 または、


 不法行為の時から20年。


 ⑦ 一般の債権の時効


 権利を行使できることを知った時から5年。


 または、


 権利を行使できる時から10年。


 ⑧ 債務不履行などによる生命身体侵害


 権利を行使できることを知った時から5年。


 または、


 権利を行使できる時から20年。


 私は、最後に赤鉛筆で囲みました。


 物損か、人損か。


 不法行為か、債務不履行か。


 まずそこを分ける。


「これですね」


 所長が頷きます。


「数字を丸暗記する前にな」


「はい」


 真壁さんが腕を組みました。


「じゃあ問題出してくれ」


「いいですよ」


「来い」


「Aが車を運転中、前方不注意でBの塀を壊しました」


「不法行為」


「何損?」


「物損」


「時効は?」


「損害と加害者を知った時から三年。不法行為から二十年」


「正解」


「どうだ」


「次」


「まだあんのか」


「Aが前方不注意でB本人をはねました」


「不法行為。人損」


「時効」


「知った時から五年。不法行為から二十年」


「正解」


「余裕だな」


「じゃあ」


 私は少し笑いました。


「売主Aが、六月十二日に家を引き渡す約束をしたのに、引き渡さなかった」


「債務不履行」


「買主Bにも損害拡大について過失がありました。裁判所は?」


「……過失相殺できる」


「違います」


「えっ」


「はい、落ちました」


「待て!」


「不法行為と混ざりましたね」


「あっ」


 私はノートを指しました。


「債務不履行では、債権者に過失があれば、それを考慮して責任・損害賠償額を定めるんです」


「くそっ」


「さっき覚えたって言いましたよね」


「問題になると分からなくなるんだよ!」


 私は思わず笑ってしまいました。


「それ」


「何だよ」


「宅建受験生が全員言います」


「お前、妙に実感こもってんな」


「気のせいです」


 前世で何百回言ったか分かりません。


     ◇


 夕方。


 真壁さんが帰ったあと、私は一人でノートを見返しました。


 損害賠償。


 文字だけ見ると、なんだか怖い言葉です。


 裁判。


 請求。


 責任。


 金額。


 誰が悪い。


 いくら払う。


 そんな言葉ばかりが並ぶ。


 でも今日、坂本さんたちを見て少し分かりました。


 損害賠償は、


 人を罰するためだけの制度ではない。


 壊れたものを、


 できるだけ元の状態へ近づけるための制度です。


 壊れた家具なら。


 修理代。


 使えなかった家なら。


 ホテル代。


 余計にかかった引っ越し費用なら。


 その費用。


 時間そのものは戻らない。


 楽しみにしていた引っ越しの日も戻らない。


 だから。


 お金という、不完全だけれど共通の物差しを使って。


 少しだけ帳尻を合わせる。


「……全部は、戻らないんだよな」


 思わず呟きました。


「だから法律があるんだろう」


 所長の声がしました。


「まだいたんですか」


「俺の事務所だ」


「そうでした」


 所長は私のノートを覗きました。


「よくまとまってる」


「本当ですか?」


「ああ」


 ちょっと嬉しい。


「ただし」


「はい」


「一番下にもう一行書いておけ」


「何ですか?」


 所長は言いました。


「損害賠償は、怒った金額を請求する制度じゃない」


 私は思わず笑いました。


「それ、私も書こうと思ってました」


「なら書け」


 私は鉛筆を動かしました。


 損害賠償

 ――怒りの値段ではなく、損害を埋めるための制度。


 その下に、小さく付け足す。


 ※ただし、どら焼きを一個奪われた場合の精神的損害は甚大。


「栞」


「はい」


「そこ消せ」


「法律論ではありません」


「だから消せ」


「表現の自由です」


「勤務時間中だ」


「消します」


 昭和六十三年。


 見知らぬ時代で。


 今日もまた一つ、民法の言葉が人間の顔を持ちました。


 不法行為。


 債務不履行。


 過失相殺。


 時効。


 昨日までなら、試験前日に頭からこぼれ落ちる数字だった。


 でも今なら。


 三年を見れば、壊された物を思い出す。


 五年を見れば、人の身体を思い出す。


 二十年を見れば、法律が長く残した救済の道を思い出す。


 そして、


「損害賠償」


 と聞けば。


 三百万円の請求書より先に。


 千八百円のコインランドリー代を思い出すと思います。


 法律って。


 案外、そういう小さなところを見ています。


 私はノートを閉じました。


 明日もきっと、何か起きる。


 できれば。


 今度は誰も、


「迷惑料三百万円」


 なんて言いませんように。


 ……いや。


 言うんでしょうね。


 不動産屋ですから。

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