[損害賠償請求]現場編 迷惑料は、法律用語ではありません
世の中には、「迷惑をかけられた」という理由だけで、とんでもない金額を請求できると思っている人がいます。
精神的苦痛。
迷惑料。
誠意。
慰謝料。
このあたりの言葉を一つずつ積み上げれば、請求書の金額も一桁ずつ増やしていい――。
そんな独自通貨制度を採用している人が、たまにいます。
もちろん、損害を受けたなら、賠償を求めることはできます。
でも。
法律は、
「むかついたから百万円」
という計算式では動いていません。
そのことを、私は昭和六十三年の六月、身をもって知ることになりました。
◇
「三百万円です」
朝九時十二分。
大槻不動産の応接机に置かれた請求書を見て、私は二度見しました。
三百万円。
ゼロが多い。
お茶を運んできた十八歳の事務見習いが見ても、多い。
「こちらとしては、このくらい請求して当然でしょう」
そう言ったのは、三十代半ばくらいの男性でした。
紺色のスーツ。
整った七三分け。
声は静かですが、その静けさの中に、昨日からずっと怒っています、という圧がある。
隣には奥さんらしい女性が座っていました。
こちらは怒っているというより、疲れきっています。
名前は、
坂本俊夫さん。
坂本美恵子さん。
二人は三日前に、この近所の中古住宅へ引っ越してくる予定でした。
予定でした。
――ここ重要です。
実際には、まだ引っ越せていません。
「まず、ホテル代が十二万円」
坂本さんが指を折ります。
「引っ越し業者のキャンセルと再手配で八万円」
二本目。
「家具の一時保管料が五万円」
三本目。
「会社も二日休みました。休業損害が六万円」
四本目。
「それに、妻と子供が受けた精神的苦痛」
五本目。
「私自身の精神的苦痛」
六本目。
「そして、御社と売主の不誠実な対応に対する迷惑料」
七本目――。
いや待って。
指より請求項目の方が多くなってません?
「合計三百万円です」
どうやってそこまで跳ねた。
私は心の中で電卓を叩きました。
十二。
八。
五。
六。
ここまでで三十一万円。
残り二百六十九万円、ほぼ精神。
精神、強い。
昭和の景気並みに膨らんでいます。
向かいに座る真壁さんが、怖い顔をさらに怖くしていました。
本人はたぶん普通に聞いているだけです。
でも、見た目だけなら、
「今から地下室で話そうか」
くらいの圧があります。
「坂本さん」
真壁さんが低い声で言いました。
「まず、引渡しが遅れたことについては申し訳ありません」
「申し訳ないで済む話じゃないでしょう」
「それは承知しています」
「三日前ですよ? 六月十二日。代金を払って、その日に鍵を受け取る約束だった」
「はい」
「ところが、まだ売主が住んでいる」
坂本さんは机を叩きました。
「こんな話がありますか!」
それは、ない。
そこは坂本さんが正しい。
問題の中古住宅は、売主である森下さんが住んでいた一戸建てでした。
売買契約では、
六月十二日。
残代金の支払いと引換えに、建物を引き渡す。
そう約束していた。
ところが。
十二日になっても、森下さん一家は退去できなかった。
理由は、転居先の新築工事が遅れたから。
森下さんは、
「二、三日なら待ってもらえると思った」
と言ったそうです。
待ってもらえると思った。
不動産取引で最も信用してはいけない日本語ランキングがあるなら、かなり上位です。
「栞」
奥から所長の大槻さんが呼びました。
「はい」
「森下さんは?」
「十分ほど前に電話がありました。今こちらへ向かっているそうです」
「分かった」
所長はそれだけ言って、坂本さんに向き直りました。
「今回、約束の日に建物を引き渡せなかった。その点について売主側に責任があるのは、こちらも争いません」
「なら三百万払ってください」
早い。
金額の橋がない。
岸から岸へ飛んだ。
大槻所長は眉一つ動かしませんでした。
「請求できる損害と、請求したい金額は、同じではありません」
坂本さんの眉が動きました。
「何ですって?」
「一つずつ確認しましょう」
所長が言いました。
「実際に、どんな損害が発生したのか」
私は思わず所長を見ました。
――そう。
そこです。
損害賠償請求。
前世で宅建を勉強していた私は、この言葉を何度も見ました。
債務不履行。
損害賠償。
通常損害。
特別損害。
過失相殺。
消滅時効。
試験問題では、全部きれいに一行ずつ並んでいた。
でも現場では違います。
「精神的苦痛!」
「仕事を休んだ!」
「迷惑料!」
「ホテル!」
「子供が泣いた!」
全部が一つの鍋に放り込まれて出てくる。
そこから、
法律上、何が損害なのか。
何と何に因果関係があるのか。
誰に責任があるのか。
それを分けていく。
たぶん、それが実務です。
そして、こういう整理作業は。
……嫌いじゃない。
「坂本さん」
私は思わず口を開きました。
真壁さんが横目で見ます。
またお前が出るのか、という目。
出ます。
「ホテル代の領収書、ありますか?」
「……ありますよ」
「引っ越し業者の追加費用も?」
「あります」
「家具の保管料も?」
「あります」
「会社を休んだことで、本当に給与が減ったことが分かるものはありますか?」
「え?」
坂本さんが少し詰まりました。
「いや……有給を使ったので」
「では、給与自体は減っていない?」
「そうですけど、休みを二日潰されたんですよ」
「なるほど」
私は頷きました。
怒りは分かる。
でも。
怒りと損害は、同じではない。
「それから」
私は請求書の下の方を指しました。
「精神的苦痛、二百万円」
「何か問題でも?」
「根拠を確認したいです」
「妻も子供も大変だったんですよ!」
「それは分かります」
奥さんが少しだけこちらを見た。
「でも、引渡しが三日遅れたことで生じた不便と、二百万円という金額が、そのまま結びつくわけではありません」
「じゃあ泣き寝入りしろって言うのか!」
「違います」
私はきっぱり言いました。
「むしろ逆です」
坂本さんが黙った。
「請求できるものは、きちんと請求した方がいいです」
私はホテル代の領収書を指しました。
「ホテル代」
次。
「引っ越しの追加費用」
次。
「家具の保管料」
「……」
「こういう、本当に出ていったお金は、引渡しが遅れたことで発生した損害として、とても分かりやすいです」
坂本さんの顔から、少しだけ怒りが引きました。
「だったら、それだけ?」
「まだ分かりません」
「は?」
「他にも本当に損害があるなら、確認します。でも」
私は請求書を軽く叩きました。
「“迷惑だったから、とりあえず高く請求する”と、本当に認められる損害まで胡散臭く見えてしまいます」
真壁さんが、口元だけで笑いました。
「お前、十八の言い方じゃねえな」
「昨日まで民法に年齢を奪われてたので」
「意味分からん」
私もです。
◇
その時、事務所のドアが開きました。
「申し訳ない!」
入ってきたのは五十歳くらいの男性。
売主の森下さんでした。
額に汗。
ワイシャツの脇にも汗。
昭和の夏は、謝罪まで湿度が高い。
「坂本さん、本当にすみません!」
森下さんは入るなり深く頭を下げました。
「今日中には必ず荷物を出します! 新居の方も、ようやく入れるようになりまして」
「今日中?」
坂本さんが立ち上がる。
「十二日に引渡しだったでしょう!」
「はい……」
「こっちはホテルですよ!」
「本当に申し訳ありません」
「申し訳ありませんじゃ――」
「森下さん」
大槻所長が静かに遮りました。
「一つ確認します」
「はい」
「十二日に引渡せない可能性は、いつ分かりました?」
森下さんが止まった。
嫌な止まり方でした。
「……十日くらいには」
事務所が静まり返ります。
私は目を閉じました。
ああ。
それは。
だいぶ前です。
真壁さんのこめかみに、血管が浮きました。
「森下さん」
「はい」
「俺、十一日に電話しましたよね」
「はい……」
「明日の引渡し大丈夫ですかって聞きましたよね」
「……はい」
「大丈夫だって言いましたよね」
「新居の業者が、間に合わせると言ってたもんで……」
「でも十日には遅れる可能性を知ってた」
「……」
「先に言ってくれりゃ、坂本さんだって引っ越しをずらせたでしょうが」
真壁さんの声は低い。
怒鳴っていない。
でも、怒鳴るより怖い。
森下さんは肩を落としました。
「……その通りです」
私は坂本さんを見ました。
坂本さんも、今度は何も言いません。
怒って当然です。
引渡しが遅れたことだけじゃない。
事前に分かっていたのに、知らされなかった。
だから、避けられたはずの出費が発生した。
そこまで来ると、かなり話が見えます。
「森下さん」
私は聞きました。
「坂本さんが六月十二日からここへ住む予定だったことは、当然知っていましたよね?」
「はい」
「引っ越し業者を手配していることも?」
「聞いてました」
「お子さんも一緒に引っ越すことも?」
「はい」
私は頷きました。
ホテル代。
引っ越しの再手配。
家具保管。
これらは、かなり素直につながる。
約束の日に渡さなかった。
そのせいで出費した。
だから賠償する。
損害賠償って、結局そこです。
魔法の罰金ではない。
壊れた分を埋める。
「じゃあ三百万円でいいでしょう!」
坂本さんが言いました。
いや、そこへ戻るのか。
せっかく橋を架けたのに、また川へ飛び込まないでください。
「三百万円は別です」
私が言うと、坂本さんはむっとした。
「君はさっきから売主の味方なのか?」
「違います」
「なら――」
「坂本さんの味方だからです」
自分でも、少し強く言いすぎたと思いました。
でも、続けます。
「本当に請求できるものを、ちゃんと取りたいんです」
坂本さんが黙った。
「三百万円という大きな金額を根拠なくぶつけたら、森下さん側も『そんなの払えるか』となります」
「……」
「そうすると、話し合いそのものが壊れます」
私は一枚の紙を取りました。
「だから、分けます」
鉛筆で線を引く。
一つ目。
ホテル代。
十二万円。
二つ目。
引っ越し業者の追加費用。
八万円。
三つ目。
家具保管料。
五万円。
「ここまでで二十五万円」
「……」
「領収書があって、今回の遅延とのつながりも分かりやすい」
さらに書く。
「ほかに、交通費とか、予定変更で実際に余分に払ったものは?」
奥さんが初めて口を開きました。
「コインランドリー……」
「え?」
「ホテルに洗濯機がなくて。三日で千八百円」
細かい。
でも。
「それも取っておきましょう」
私が言うと、奥さんは少し驚いた顔をしました。
「……そんなのまで?」
「金額の大小じゃないです」
私は言いました。
「本当に今回のせいで余分に払ったなら、それも損害です」
奥さんの表情が、ほんの少し緩みました。
たぶん。
大きな「精神的苦痛二百万円」より。
洗濯代千八百円をちゃんと聞いてもらえた方が、人は救われることがあります。
現実の困りごとは、案外そういうところに宿る。
◇
「ただし」
所長が口を開きました。
「一つ、確認しておきたいことがあります」
坂本さんが顔を上げる。
「何でしょう」
「十二日の朝、真壁から坂本さんへ電話していますね」
「……はい」
「午前八時頃です。森下さんの退去が遅れるかもしれない。引っ越し業者を止められないか、と」
私は真壁さんを見た。
初耳です。
「したんですか?」
「した」
「言ってくださいよ」
「今言っただろ」
「時間差がひどい」
所長は続けます。
「その時、坂本さんは『もうトラックは来ているから、そのまま運ばせる』と答えた」
「それが何です?」
「家具の保管料です」
所長は淡々と言いました。
「引渡せない可能性を知った後でも、家具を運ばせた。その判断が、保管料の発生にどこまで影響したのか」
坂本さんの顔が固まった。
私は心の中で、
――来た。
と思いました。
過失相殺。
ただし、ここでいきなり法律用語をぶつけるのは良くない。
「坂本さん」
私は慎重に言いました。
「もちろん、そもそもの原因は森下さんです」
「そうでしょう」
「はい。でも、損害が大きくなるのを避けられた部分があったかどうかは、別に考える必要があります」
「こっちも悪いと言いたいのか?」
「悪い、という言い方ではなくて」
私は少し考えた。
「火が出た家で、消防車が来るまでずっとカーテンを追加で燃やしたら、その追加分まで全部相手のせいにできるか、みたいな話です」
「例えが物騒だな」
真壁さんが言いました。
「じゃあ水漏れで」
「不動産屋らしくなった」
「褒められてる気がしません」
坂本さんがため息をつきました。
「……でも、あの時点じゃ、本当に引渡しできないとは聞いてませんよ」
真壁さんが頷く。
「そこなんですよ」
「え?」
「俺も『遅れるかもしれない』としか言えなかった。森下さんが昼には出ると言ってたから」
「なら、家具を運ばせたのは仕方ないでしょう」
「そうですね」
私は言いました。
「少なくとも、それだけで坂本さんの責任が大きいとは言いにくいと思います」
所長が私を見る。
「そう思うか」
「はい。情報が曖昧です」
私は森下さんを見ました。
「むしろ、十日の時点で森下さんがきちんと伝えていたら、全部避けられた可能性があります」
森下さんは深く頭を下げた。
「……私の責任です」
その言葉に、坂本さんの肩が少し落ちました。
さっきまでの、
三百万!
迷惑料!
という勢いが、少しずつほどけている。
人って、自分の損害をちゃんと認めてもらえると、金額を叫ばなくてもよくなるのかもしれません。
◇
その後、一時間ほどかけて、費用を全部洗い出しました。
ホテル代。
引っ越しの再手配費。
荷物保管料。
コインランドリー代。
余分な食事代の一部。
ホテルから職場まで増えた交通費。
合計。
三十三万六千八百円。
「これについては」
森下さんが言いました。
「私が払います」
坂本さんが顔を上げました。
「全部?」
「はい」
「……」
「十二日に渡すと約束しました。それを守れなかったのは私です」
森下さんは膝の上で拳を握った。
「しかも、遅れるかもしれないことを早く言わなかった。それで坂本さん一家に余計な出費をさせた」
しばらく沈黙がありました。
「それから」
森下さんは続けました。
「今日中に必ず退去します。清掃はこちらで入れます。鍵の引渡しは明日の朝九時」
真壁さんが確認します。
「本当にできますね?」
「はい」
「次は『できると思った』じゃ済みませんよ」
「分かっています」
真壁さん、地味に刺します。
坂本さんは、机の上の三百万円の請求書を見ました。
そして。
ゆっくり、二つに折りました。
「……三百万は、取り下げます」
奥さんが隣で、小さく息を吐いた。
「ただ」
坂本さんは森下さんを見る。
「金が欲しかったわけじゃないんです」
「はい」
「家を買ったんですよ」
声が少し震えました。
「三十五年のローンで」
あ。
私は初めて、坂本さんの怒りの正体を見た気がしました。
「子供に部屋を作ってやれるって、ずっと楽しみにしてたんです」
奥さんが俯きます。
「十二日は、家族三人で初めてあの家に入る日だった」
「……」
「その日に鍵がもらえないって言われて」
坂本さんは苦く笑いました。
「騙されたんじゃないかと思ったんですよ」
森下さんが、ゆっくり頭を下げました。
「申し訳ありませんでした」
今度の謝罪は。
さっきまでと少し違いました。
金額に対する謝罪ではない。
相手が失った一日への謝罪だった。
◇
「じゃあ」
大槻所長が言いました。
「一つ、提案があります」
全員が所長を見る。
「森下さん」
「はい」
「明日、鍵を渡す時に、坂本さんのご家族を家へ案内してください」
「私が?」
「売主でしょう」
「はい」
「家の癖を全部教えるんです」
所長が指を折ります。
「雨戸の建て付け。給湯器の扱い。庭の水道。物置の鍵。床下収納。近所のゴミ置き場」
「あ……」
「長く住んだ人にしか分からないことがあります」
森下さんは、何度か瞬きをしました。
「分かりました」
「それから」
所長は坂本さんに向き直ります。
「三日遅れましたが、明日を改めて“引渡しの日”にしませんか」
「……」
「壊れた予定は戻せません」
所長は静かに言った。
「でも、新しい家に入る最初の日まで、嫌な記憶にする必要はないでしょう」
うわ。
所長。
たまにそういうこと言う。
普段は、
「契約書のホチキスが斜めだ」
とか言ってる人なのに。
ずるい。
◇
翌朝。
私は真壁さんと一緒に、坂本さんの新居へ行きました。
六月の光の中で見る木造二階建ては、少し古いけれど、きれいな家でした。
玄関前に、坂本さん一家。
森下さん一家。
そして私たち。
森下さんは鍵を坂本さんへ渡しました。
「長い間、私たちが住んだ家です」
坂本さんが受け取る。
「これからは、坂本さんの家です」
少し照れくさい沈黙。
その横から、小学校低学年くらいの男の子が家を見上げました。
「ぼくのへや、二階?」
お母さんが笑います。
「そうよ」
「窓ある?」
「あるわよ」
「でっかい?」
「見てきなさい」
男の子は靴を脱ぎ散らかして、階段を駆け上がっていきました。
数秒後。
「うわああああ!」
上から大声。
一同、ぎょっとする。
「どうした!」
坂本さんが駆け上がろうとした瞬間。
「電車見えるー!」
全員、止まった。
庭の向こうを、ちょうど国鉄の電車が走っていきます。
真壁さんが鼻で笑いました。
「元気だな」
「昨日までホテル暮らしですから」
「お前も昨日まで怒鳴られてただろ」
「私はホテル泊まってません」
「そういう意味じゃねえよ」
森下さんが玄関の柱を撫でました。
「二階の東側の窓、朝日がよく入るんですよ」
坂本さんが振り返る。
「そうなんですか」
「冬は暖かいです。ただ、夏は暑い」
「それは困るな」
「簾を掛ける金具、外に残してあります」
「なるほど」
少しずつ。
会話が普通になっていく。
昨日までは、
債務者。
債権者。
売主。
買主。
損害。
賠償。
そんな名前でしか整理できなかった人たちが。
今はただの、
この家を出ていく人と。
この家に入る人になっていた。
◇
事務所へ戻る車の中。
真壁さんが運転しながら言いました。
「で?」
「何です?」
「昨日の三百万」
「はい」
「法律的にはどうなる」
「それ、後でノートにまとめます」
「今教えろよ」
「嫌です」
「なんでだ」
「一度に全部教えると、真壁さん忘れるから」
「お前、先輩を何だと思ってる」
「短期記憶型営業マン」
「降ろすぞ」
「徒歩で帰るには遠いです」
「計算して言ってるだろ」
「もちろんです」
真壁さんは呆れたように笑いました。
少し走ってから、また聞いてきます。
「でもよ」
「はい」
「損害賠償って、結局なんなんだ?」
私は窓の外を見ました。
田んぼ。
古い商店。
自転車の学生。
昭和六十三年の町。
少し考えて答えます。
「壊れた分を、お金で埋めることじゃないですか」
「壊れた分?」
「はい」
「罰じゃなく?」
「基本的には」
「じゃあ昨日の坂本さんは、最初、森下さんを罰したかったのか」
「たぶん」
「で、最後は?」
私は少し笑いました。
「埋めてもらえたんじゃないですか」
「三十三万六千八百円で?」
「それもありますけど」
違う。
たぶん。
あの人が本当に欲しかったのは。
ホテル代でも。
迷惑料でも。
三百万円でもなかった。
約束の日を軽く扱われたことについて、
「それはあなたにとって大事な日だった」
と認めてもらうことだった。
法律は感情を全部救えません。
条文を読んでも、怒りは消えない。
でも。
何が誰の責任で。
何が本当に生じた損害で。
どこまでを相手に負担させるべきなのか。
それを一つずつ分けることで。
ぐちゃぐちゃになった感情に、出口くらいは作れる。
「真壁さん」
「ん?」
「損害賠償って、意外と優しい制度かもしれません」
「どこがだ。金払わせる制度だろ」
「全部元通りにはできないからです」
「……」
「時間は戻せないし、約束の日も戻せない」
昨日の十二日は戻ってこない。
ホテルで眠った三日間も消えない。
「だから、戻せないものの代わりに、せめて損した分は埋めようっていう制度なんですよ」
真壁さんは、しばらく黙って運転していました。
「お前」
「はい」
「たまに十八歳じゃないこと言うよな」
ぎく。
「気のせいです」
「前世でもあんのか?」
「そんな馬鹿な」
あります。
めちゃくちゃあります。
「まあいい」
真壁さんは前を向いたまま言いました。
「じゃあ俺が約束破ったら、お前も損害賠償請求すんのか」
「内容によります」
「缶コーヒー奢るって言って忘れた」
「履行請求します」
「百円だろ」
「約束は約束です」
「細けえな」
「法律は細かいんです」
「で、精神的苦痛は?」
「五百万円」
「お前が一番ぼったくってんじゃねえか!」
車の中で笑い声が響きました。
◇
その日の夕方。
机に戻ると、小さな紙袋が置いてありました。
「何ですか、これ」
「坂本さんから」
所長が新聞を読みながら答えます。
中には、近所の菓子屋のどら焼きが入っていました。
紙が一枚。
短い字で、
『無事、引っ越せました。ありがとうございました』
と書いてある。
「……所長」
「なんだ」
「こういうのって、受け取っていいんですか」
「どら焼きで買収されるような仕事したのか?」
「してません」
「なら食え」
雑。
でも好きです、その理屈。
私は一つ取って、真壁さんにも渡しました。
「はい」
「俺の分あんの?」
「あります」
「珍しいな」
「何がです?」
「お前、食い物になると権利主張強いから」
「所有権の問題です」
「まだお前のじゃねえ」
所長が新聞の向こうから言いました。
「二人とも」
「はい」
「はい」
「食うなら仕事しろ」
「……はい」
「……はい」
私はどら焼きを一口かじりました。
甘い。
かなり甘い。
昨日まで、損害賠償請求なんて、宅建テキストでは数ページの論点でした。
債務不履行があれば賠償。
不法行為があれば賠償。
過失があれば調整。
時効が来れば消滅。
文字にすると、それだけです。
でも。
今日、その言葉の向こうにあったのは。
ホテルで眠った家族。
捨てられなかった引っ越し荷物。
約束を軽く考えた売主。
怒鳴るしかなくなった買主。
そして。
たった千八百円のコインランドリー代でした。
法律は、大金ばかりを見ているわけじゃない。
本当に失ったものを、一つずつ拾う。
たぶん、それが損害賠償です。
私は引き出しからノートを出しました。
表紙を開く。
新しいページの一番上に、
――損害賠償請求。
と書きました。
そして、その横に小さく付け足す。
迷惑料は、法律用語ではありません。
「栞」
「はい?」
真壁さんが私のノートを覗き込みました。
「何書いてんだ」
「明日の勉強です」
「見せろ」
「嫌です」
「なんでだよ」
「どら焼きもう一個くれたら」
「お前な」
夕方の事務所に、所長のため息が落ちる。
昭和六十三年。
バブルの真ん中。
土地の値段も、人の欲も、何もかもが膨らんでいく時代で。
少なくとも私は。
損害まで、勝手に膨らませない不動産屋でいたいと思いました。
……もっとも。
どら焼きについては。
できれば二個ほしいです。
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