[危険負担]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私は大森さんからもらったノートを開きました。
表紙には、
『DAIMORI PRINTING』
とあります。
「……やっぱり気になるなあ」
「まだ言ってんのか」
真壁さんが後ろから覗き込みました。
「だって大森さんなのに、DAIMORIですよ」
「感謝は細かく検品するなって所長が言っただろ」
「法律の話じゃないですよね、それ」
「人生訓だ」
「ずいぶん局地的な人生訓ですね」
私はため息をついて、ノートの一番上に大きく書きました。
危険負担。
今日の事件を、もう一度整理してみます。
大森さんは、土地と建物を買う契約をした。
契約成立後、引渡し前に落雷で建物が全焼した。
売主の吉岡さんに責任はない。
買主の大森さんにも責任はない。
そして黒沼さんは、
「契約は成立しているんだから、代金は全部払え」
と言った。
でも。
そこが違いました。
「真壁さん」
「ん?」
「今日の話、試験問題にすると一行で済むんですよね」
「どんな?」
「売買契約成立後、引渡し前に、当事者双方の責めに帰すことのできない事由によって建物が滅失した場合、買主は代金の支払いを拒むことができる。正しいか、誤りか」
「……急に頭が痛くなるな」
「でしょう?」
「今日の火事の話のほうが分かりやすい」
「私もそう思います」
私はノートに書きました。
危険負担とは、
「誰も悪くないのに、債務を履行できなくなったとき、その損失を誰が負担するのか」
という問題。
「誰も悪くないのに、ってのが大事なんだな?」
「はい」
私は頷きました。
「危険負担は、基本的に債務者に責任がない場合の話です」
「債務者って?」
「今回なら、建物を引き渡す義務を負っている売主です」
私は簡単な図を書きました。
売主・吉岡さん
建物を引き渡す義務
↓
買主・大森さん
買主・大森さん
代金を支払う義務
↓
売主・吉岡さん
「売買契約では、お互いに債権と債務を持っています」
「建物を渡せ、っていう権利と、代金を払え、っていう権利か」
「そうです」
「で、建物が落雷でなくなった」
「はい」
「売主は渡したくても渡せない」
「その状態を、履行不能と考えます」
私はそこで一度、赤鉛筆を持ちました。
そして大きく囲みます。
重要
危険負担は、
「契約が無効になるか」
という話ではない。
「ここ、かなり重要です」
「なんで?」
「試験問題で、すごく引っかけやすいからです」
私は今日の黒沼さんの顔を思い浮かべました。
「黒沼さんも、『契約は成立している』って何度も言ってましたよね」
「ああ」
「あれ自体は間違ってないんです」
「え?」
真壁さんが眉をひそめました。
「じゃあ黒沼の言ってたこと、正しかったのか?」
「途中までです」
「一番面倒なやつだな」
「はい」
私は頷きました。
「契約が有効に成立していることと、買主が代金を支払わなければならないことは別問題です」
ノートに書きます。
契約は有効
↓
でも建物を引き渡せない
↓
だから買主は、反対給付である代金の支払いを拒める
「反対給付?」
「こちらが建物を渡す。向こうが代金を払う。その反対側の給付です」
「もっと簡単に言え」
「建物をもらえないなら、建物代まで払わなくていい」
「最初からそう言え」
「法理編なので」
「便利な言葉だな、それ」
私は少し笑いました。
◇
まず、基本形です。
契約成立後。
引渡し前。
売主にも買主にも責任がない事情で、目的物が滅失した。
たとえば、
地震。
落雷。
津波。
第三者による放火で、売主にも買主にも責任がない場合。
このとき。
売主は目的物を引き渡せません。
でも、それは売主が悪いわけではない。
「じゃあ売主は損害賠償責任を負うのか?」
「原則として負いません」
「悪くないから?」
「はい」
「でも買主も悪くない」
「そうです」
私は頷きました。
「だから買主は、代金の支払いを拒めます」
大きく書きます。
双方に責任なし
↓
売主は引渡不能
↓
買主は代金支払いを拒絶できる
「拒絶できる、ってのは、代金債務そのものが消えるってことか?」
真壁さんが聞きました。
「そこ、改正民法では注意です」
「お?」
「現在の民法では、危険負担によって反対給付債務が当然に消滅する、という整理ではありません」
「どういうことだ?」
「買主は、反対給付である代金の履行を拒むことができる、という形です」
「似てるようで違うな」
「そうなんです」
私は赤鉛筆で二重線を引きました。
改正民法では、
「代金債務が当然に消滅する」
ではなく、
「買主は代金支払いを拒絶できる」
「昔の問題と答えが変わることがある理由がこれです」
「法律が変わったのか」
「はい」
私はノートの端に書き足しました。
旧民法
危険負担により反対債務が消滅する場面があった
↓
改正民法
反対給付の履行拒絶権として整理
「宅建では、古い過去問を見る時ここに注意ですね」
「昔の問題、そのまま覚えたら危ないな」
「危険負担だけに」
「……」
「……」
「栞」
「はい」
「今のは事故だと思って忘れる」
「ありがとうございます」
優しい。
◇
次。
売主の責任で、建物がなくなった場合。
今日の事件で言えば。
落雷ではなく、吉岡さんが自分で火の始末を怠って建物を全焼させた場合です。
「それなら危険負担じゃないのか?」
「中心になるのは債務不履行です」
「売主が悪いから?」
「はい」
私は書きます。
売主の責めに帰すべき事由で履行不能
↓
売主の債務不履行
「この場合、買主はどうなる?」
「損害賠償請求や契約解除などを検討できます」
「契約は無効になる?」
「なりません」
「そこも大事なんだな」
「ものすごく大事です」
私はノートに大きく書きました。
債務不履行になっても、
契約が当然に「無効」になるわけではない。
「ここ、試験でよくありそうだな」
「あります」
「『売主の責任で建物が焼けたから売買契約は無効である』」
「誤りです」
「即答だな」
「何度も殴られましたから」
「過去問にな」
「はい」
私は遠い目をしました。
前世で何度、
「無効じゃない! 解除だ!」
とノートに書いたことか。
宅建試験は、人の失敗を反復練習させることに関しては非常に教育熱心です。
◇
「じゃあ逆に」
真壁さんが机に肘をつきました。
「買主のせいで燃えた場合は?」
「そこが次です」
私はページをめくりました。
今日、黒沼さんにも説明した場面。
たとえば。
引渡し前なのに買主が勝手に建物を使い、
暖房器具をつけっぱなしにして火災を起こした。
その結果、売主が建物を引き渡せなくなった。
「自分で燃やしたんだから、代金払わなくていいとは言えないよな」
「その通りです」
私は書きます。
買主の責めに帰すべき事由で履行不能
↓
買主は代金支払いを拒絶できない
「つまり、建物がなくなっても?」
「はい」
「金は払う」
「そうです」
「きついな」
「でも、自分の責任で売主に履行させられなくしたわけですから」
「自分で邪魔しておいて、『渡せないなら払わない』はなしってことか」
「その理解でいいです」
私はさらに書き足しました。
超重要
債権者の責めに帰すべき事由によって履行不能になった場合、
債権者は反対給付の履行を拒めない。
「債権者って今回だと買主?」
「建物を受け取る権利については、買主が債権者です」
「頭がこんがらがるな」
「売買契約では、一人の人が債権者でもあり債務者でもあるからです」
「……嫌な仕組みだな」
「仕組みに文句言わないでください」
私はもう一度図にしました。
売主
建物引渡債務の債務者
代金請求権の債権者
買主
代金支払債務の債務者
建物引渡請求権の債権者
「これなら分かる」
「試験問題では、誰の何の債務について話してるのか、そこを整理したほうがいいです」
「また所長の得意なやつだな」
「人間関係を整理しろ、ですね」
新聞を読んでいた所長が、こちらを見ずに言いました。
「聞こえてるぞ」
「悪口じゃないです」
「ならいい」
本当に聞いてたんだ。
◇
私は次に、大きく見出しを書きました。
契約前に、すでに建物が滅失していた場合。
「今日と何が違う?」
「今日の建物は、契約した時点では存在していました」
「ああ」
「契約した後に焼けた」
「そうだな」
「でも、もし契約する前日に、すでに全焼していたら?」
「存在しない建物を売ったことになるな」
「はい」
「じゃあ契約は無効?」
「そこが引っかけです」
真壁さんが嫌そうな顔をしました。
「またか」
「またです」
私はノートに書きました。
契約成立時に目的物が存在しなくても、
それだけで契約が無効になるわけではない。
「存在しない建物でも契約できるのか?」
「できます」
「変な感じだな」
「でも、民法では原始的不能だから契約は無効、という昔の考え方は採られていません」
「原始的不能?」
「契約した時点ですでに履行できない状態です」
「最初から無理だったってことか」
「そうです」
私は続けます。
「現在は、契約時点ですでに目的物が滅失していたとしても、契約自体は有効に成立し得ます」
「で、売主がそれを知らなかったら?」
「売主に帰責事由があるか、契約内容はどうだったかなどを見て、債務不履行の問題として処理します」
「危険負担じゃない?」
「基本的には、契約後に事情が変わって履行不能になった場面とは区別して考えます」
私は大きく線を引きました。
契約前から滅失
→ 契約は直ちに無効ではない
→ 危険負担ではなく、債務不履行の問題を検討
「試験では『建物がない=契約無効』って思わせたいわけか」
「そうです」
「性格悪いな」
「宅建試験ですから」
「お前、試験に恨みあるだろ」
「愛憎半ばです」
「重いな」
◇
そこへ所長が新聞を畳みました。
「栞」
「はい?」
「危険負担を覚えるなら、最初に何を見る?」
私は考えました。
「誰の責任で履行不能になったか、です」
「そうだ」
所長が立ち上がります。
「そこから枝分かれさせろ」
私はノートに三本の線を引きました。
目的物が履行不能になった
↓
①売主の責任
②買主の責任
③どちらの責任でもない
「①は?」
「売主の債務不履行」
「②は?」
「買主は代金支払いを拒めない」
「③は?」
「危険負担。買主は代金支払いを拒める」
「よし」
所長は頷きました。
「じゃあ、契約前から目的物がなかったら?」
「別枠です」
「どうする」
「契約は有効に成立し得る。債務不履行の問題として考える」
「よし」
真壁さんが横から言いました。
「試験官みたいだな、所長」
「仕事だ」
「不動産屋ですよね?」
「似たようなもんだ」
「絶対違います」
私は笑いながら、今の整理を大きくまとめました。
危険負担・整理
①契約後、売主の責任で履行不能
→ 債務不履行
→ 契約が当然に無効になるわけではない
→ 解除・損害賠償などを検討
②契約後、買主の責任で履行不能
→ 買主は代金支払いを拒めない
③契約後、双方に責任なく履行不能
→ 危険負担
→ 買主は代金支払いを拒める
④契約前から履行不能
→ 契約は直ちに無効ではない
→ 債務不履行の問題として処理
「こう見ると、ずいぶん分かりやすいな」
真壁さんが言いました。
「でしょう?」
「でも試験だと、もっと嫌な聞き方するんだろ?」
「します」
「即答か」
「たとえば――」
私はノートを一枚めくりました。
問題。
売買契約成立後、引渡し前に、買主の責めに帰すべき火災によって建物が滅失した。
売主の建物引渡債務と、買主の代金支払債務は、いずれも消滅する。
「誤り」
真壁さんが言いました。
「早い!」
「買主が燃やしたんだろ?」
「そうです」
「だったら代金まで消えるのはおかしい」
「正解です」
「俺、宅建受けようかな」
「やめたほうがいいです」
「なんでだよ」
「地獄ですよ」
「お前、一応勉強勧める立場じゃないのか」
「経験者として止めています」
所長が笑いました。
◇
私はさらに、今日の事件で気になったことを書きました。
「危険負担」と「同時履行の抗弁権」は似て見えるが、別の制度。
「今日、建物を渡してくれないなら代金払わない、って話だったよな?」
「はい」
「それって前にやった同時履行と同じじゃないのか?」
「似ています」
「違う?」
「違います」
私は書きます。
同時履行の抗弁権
→ 相手の債務は履行可能
→ ただ相手がまだ履行していない
危険負担
→ 相手の債務が履行不能
→ もう履行できない
「ああ」
真壁さんが頷きました。
「建物はあるけど売主が鍵を渡さない、なら同時履行」
「そうです」
「建物そのものが燃えてなくなったら危険負担」
「そのイメージです」
「分かりやすいな」
私は少し嬉しくなりました。
前世では、この二つを別々のページで暗記していました。
でも実務の場面に置くと、ずっと簡単です。
建物がある。
でも渡してくれない。
――同時履行。
建物がない。
もう渡せない。
――危険負担。
「栞」
所長が言いました。
「それ、ノートに書いておけ」
「今書きました」
「なら赤で囲め」
「所長、だんだん受験指導の先生みたいになってません?」
「お前が勝手に生徒になってるだけだ」
「理不尽です」
でも赤で囲みました。
悔しいけど、覚えやすい。
◇
最後に、私は今日の事件を一行で書こうとしました。
でも。
「……長くなるな」
「何が?」
「まとめです」
「短く書け」
「簡単に言いますね」
私は少し考えました。
そして書きます。
危険負担。
契約後、誰の責任でもなく目的物を渡せなくなったなら、買主はその代金の支払いを拒める。
「それでいいじゃないか」
真壁さんが言いました。
「でももう一個書きたいです」
「まだあるのか」
「はい」
その下に書き足します。
ただし、
買主自身の責任で渡せなくなったなら、買主は支払いを拒めない。
「なるほど」
「そしてもう一個」
「増えるなあ」
さらに書きます。
売主の責任で渡せなくなったなら、危険負担より債務不履行。
「もう一個」
「まだあるのか!」
最後。
契約前から目的物がなかったとしても、契約が当然に無効になるわけではない。
「……結局四つじゃないか」
「危険負担、周辺論点が多いんですよ」
「名前は短いのにな」
「法律用語あるあるです」
私はペンを置きました。
今日の話は、誰かが悪人だったわけではありませんでした。
売主も悪くない。
買主も悪くない。
雷だって、損害賠償は払ってくれない。
でも損失は現実に残ります。
その時、
「かわいそうだから半分ずつ」
とか、
「契約したんだから全部払え」
とか、
感覚だけで決めるわけにはいかない。
だから法律は、
誰の責任か。
履行できるのか。
反対給付を拒めるのか。
契約そのものはどうなるのか。
一つずつ切り分けます。
冷たいように見えて。
実は、人間同士で永遠に揉めないための整理なのだと思います。
「栞」
「はい?」
真壁さんが机の上に缶コーヒーを置きました。
「今日は甘いやつだ」
「ありがとうございます」
「危険負担で頭使ったからな」
「糖分の危険は誰が負担するんですか」
「お前だ」
「即答!」
所長が新聞の向こうで笑いました。
私は缶コーヒーを開けます。
甘い。
かなり甘い。
でも、今日はそれくらいでちょうどよかった。
危険負担。
誰も悪くない時にこそ必要になるルール。
そして試験では、
「誰の責任か」
を最初に見る。
私はノートの最後に、大きく書きました。
危険負担は、
まず「誰のせい?」から考える。
それから小さく付け足します。
建物が燃えたからといって、
契約まで一緒に燃えるとは限らない。
「栞」
「はい?」
「それ、試験会場で思い出したら笑いそうだな」
「笑っても正解できれば勝ちです」
「違いない」
私はノートを閉じました。
昭和六十三年。
まだまだ知らない法律は多い。
でも、一つずつなら整理できます。
誰が悪い。
誰も悪くない。
渡せる。
もう渡せない。
払う。
払わなくていい。
法律は難しい言葉を使います。
けれど、その奥にある問いは、案外、人間くさい。
今日もまた一つ。
ただの暗記事項だった条文が、誰かの顔を持ちました。
たぶん。
こうして覚えたことは、もう忘れません。
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