[同時履行の抗弁権]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
今日の事件を、もう一度、最初から整理してみる。
売主の野々村さんは、
土地建物を引き渡し、所有権移転登記に協力する義務を負っていた。
一方、買主の河合さんは、
売買代金を支払う義務を負っていた。
そして二人は、
「そっちが先だ」
「いや、そっちが先だ」
と揉めた。
私はノートの一番上に、大きく書きました。
同時履行の抗弁権。
「……名前が強そうなんだよなあ」
「何がだ?」
後ろから声がして、私は振り返りました。
真壁さんです。
「同時履行の抗弁権です」
「強そう?」
「はい。なんかこう、必殺技っぽくないですか」
「全然分からん」
「『同時履行の抗弁権!』って叫びながら相手の請求を止める感じです」
「法律を少年漫画にするな」
「でも実際、止めますよ」
「何を」
「相手の請求を」
真壁さんが少し考えました。
「……まあ、そう言われると確かに止めるな」
「でしょう?」
私は満足して、ノートに続きを書きました。
まず、一番最初。
同時履行の抗弁権は、どんな契約でも使えるわけではありません。
基本になるのは、
双方契約。
「双方契約?」
「お互いに債務を負う契約です」
「今日の売買みたいな?」
「そうです」
私はノートに簡単な図を書きました。
買主A
・土地を引き渡してもらう権利
・代金を支払う義務
売主B
・代金を受け取る権利
・土地を引き渡す義務
「つまり?」
「お互いが、相手に何かしてもらう権利を持つ一方で、自分も何かをしなきゃいけない」
「それが双方契約か」
「はい」
「売買は分かりやすいな」
「そうですね」
私は頷きました。
売主は、
物を渡す。
買主は、
お金を払う。
分かりやすい。
ただし法律というのは、分かりやすいところから入って、途中で急に足を引っかけてきます。
「真壁さん」
「なんだ」
「もし買主が、こう言ったらどうします?」
「何て?」
「『土地を先に渡してください。代金はそのあと払います』」
「嫌だな」
「ですよね」
「金をもらってないのに土地だけ渡したくない」
「じゃあ逆に、売主が」
私は続けました。
「『先に代金を全部払ってください。そのあと土地を渡します』」
「それも買主は嫌だろうな」
「そうです」
そこで私は、ノートの中央に線を引きました。
売主の土地引渡債務
⇔
買主の代金支払債務
「この二つを、原則として同時に履行させる」
「それが同時履行?」
「はい」
「じゃあ抗弁権ってのは?」
「相手が履行しないなら、自分も履行を拒める権利です」
私は少しくだけて書きました。
同時履行の抗弁権
=
「そっちがやらないなら、こっちもやりません」
「……今日そのままだな」
「まさに今日です」
「じゃあ河合さんが金を出さない限り、野々村さんは引渡しを断れる?」
「原則として、そうです」
「逆も?」
「もちろんです」
「野々村さんが引渡しや登記協力をしないなら、河合さんも代金支払いを拒めます」
私はその下に、赤鉛筆で大きく書きました。
超重要。
同時履行の抗弁権を主張できる間は、
自分が履行しなくても履行遅滞にならない。
「そこ、試験で出るのか」
「かなり大事です」
「なんで?」
「だって普通なら、期限が来たのに債務を履行しなかったら、履行遅滞になり得ますよね」
「うん」
「でも同時履行の関係なら、相手も履行しない限り、自分だけ先にやらなくていい」
「なるほど」
「だから、『まだやってないじゃないか。遅延損害金を払え』と言われても」
私は指を一本立てました。
「相手が自分の債務を履行していない、または履行の提供もしていないなら」
二本目。
「こちらも履行を拒める」
三本目。
「その拒絶は正当だから、履行遅滞にならない」
真壁さんが頷きました。
「今日、最初に河合さんが『野々村さんが書類を出さないから払わない』と言ってたのは、その理屈か」
「そうです」
「で、野々村さんも『金を払わないから渡さない』と言える」
「はい」
「じゃあ、ずっと睨み合ったままになるじゃないか」
「そこです」
私はペン先でノートを叩きました。
「そこで出てくるのが、履行の提供です」
「今日、所長が言ってたやつだな」
「はい」
私は新しい見出しを書きました。
履行の提供。
簡単にいえば、
自分は債務をきちんと履行できますよ、
という状態を相手に示すこと。
「売主なら?」
「登記書類を揃える。引渡しの準備をする。鍵を用意する」
「買主なら?」
「代金を支払えるようにしておく」
「今日みたいに融資が出ないなら?」
「履行の提供ができていないことになります」
「なるほど」
私は今日の野々村さんと河合さんを書きました。
野々村さん
・必要書類あり
・鍵あり
・引渡し可能
・司法書士の確認も問題なし
河合さん
・残代金の融資実行不可
「この状態になった時点で」
私は説明を続けました。
「野々村さん側は履行の提供をしている。一方、河合さん側はできていない」
「じゃあ河合さんは、もう『そっちが先にやらないから俺もやらない』とは言えない?」
「そうです」
「抗弁権を失う?」
「正確には、相手方が履行の提供をすると、同時履行の抗弁をして履行を拒むことができなくなる」
「ふむ」
私は宅建の問題でよく出る形にしました。
売主A
所有権移転登記手続の履行を提供
↓
買主B
代金支払いをしない
↓
Bは履行遅滞に陥る
↓
遅延損害金が問題になる
「つまり」
真壁さんが腕を組みます。
「自分のカードを出す準備をして、相手に『いつでも出せます』と示したら、相手も出さなきゃいけない」
「そうです」
「お前、昼間も似たようなこと言ってたな」
「法律はカードゲームだったんですね」
「違う」
「でも分かりやすいです」
「否定しづらいのが腹立つな」
私は笑って、次の項目に進みました。
ここからが少しややこしい。
同時履行の関係になるのは、
売買契約の本来の債務だけではありません。
「例えば?」
「契約が解除された後です」
「解除されたら、契約は終わるだろ」
「終わります」
「じゃあ同時履行も終わるんじゃないのか」
「そこが引っかけです」
私は赤鉛筆を持ち直しました。
売買契約が解除される。
すると、当事者は原状回復義務を負います。
「原状回復?」
「元の状態に戻す義務です」
「買主は土地を返す」
「はい」
「売主は金を返す」
「そうです」
私は図を書きます。
解除後
売主
受領済み代金を返還する義務
⇔
買主
目的物を返還する義務
「これも同時履行の関係です」
「へえ」
「たとえ、買主の債務不履行が原因で解除されたとしてもです」
「悪いことした側でも?」
「そこがポイントです」
私は大きく囲みました。
契約解除後の双方の原状回復義務も、
同時履行の関係に立つ。
「例えば買主が残代金を払わなくて解除された」
「うん」
「買主は土地を返さなきゃいけない」
「当然だな」
「でも売主も、すでに受け取った代金を返さなきゃいけない」
「それも同時?」
「はい」
「買主が悪いのに?」
「悪いから先に返せ、とはならないんです」
「法律って、そこは機械的だな」
「私はそこ、結構好きです」
「変わってるな」
「揉めてる人同士の『どっちが悪い』に全部付き合ってたら、制度がぐちゃぐちゃになりますから」
私はノートに書きました。
重要。
解除の原因を作った者でも、
原状回復義務について同時履行の抗弁権を主張できる。
「ここ、試験でいじわるされそうだな」
「まさにされます」
私は問題文っぽく読み上げました。
「買主Bの債務不履行により売買契約が解除された場合、Bは自らの債務不履行で解除されたのだから、目的物返還義務を先に履行しなければならず、売主Aの代金返還義務との同時履行を主張できない」
「正しそうだな」
「誤りです」
「やっぱり引っかけだ」
「はい」
私は満足げに丸を書きました。
そして次。
「今度は逆に、同時履行にならない有名なやつです」
「何だ」
「賃貸借終了後の、建物明渡しと敷金返還」
「……同時じゃないのか?」
「違います」
「家を返すのと敷金返すんだから、同時っぽいだろ」
「私も最初そう思いました」
「じゃあどうなる」
「建物明渡しが先です」
「なんで?」
私は少し姿勢を正しました。
ここは宅建でよく問われる。
「敷金というのは、賃貸借が終わっただけで直ちに全額返還するものじゃありません」
「というと?」
「賃借人が建物を明け渡した後で、未払賃料や修繕費など、敷金から差し引くべきものを精算します」
「なるほど」
「だから、敷金返還債務は、明渡し後に具体的に生じると考える」
「じゃあ」
「はい」
私は書きました。
建物明渡債務
↓
先に履行
↓
その後
敷金返還債務
「同時履行ではない」
「これは覚えないと引っかかるな」
「かなり引っかかります」
「売買だと同時、賃貸の敷金だと明渡しが先」
「そうです」
「ごちゃごちゃするな」
「なので私は、人物を置いて覚えます」
「人物?」
「例えば」
私はノートに書きました。
売買
『金を払うから土地をくれ』
『土地を渡すから金をくれ』
→ 同時。
賃貸借終了
『敷金を返して』
『まず部屋を明け渡して。精算はその後』
→ 同時ではない。
「会話にすると分かりやすいな」
「でしょう」
「お前、本当に宅建で苦労したんだな」
「苦労したから今があります」
「そんな立派な話か?」
「いいことにしておいてください」
私はさらに次を書きました。
そしてもう一つ。
建物買取請求権。
「また知らない言葉が出たな」
「借地の話です」
「ほう」
「借地権者が土地上に建物を持っていて、一定の場合に地主へ建物の買取りを請求できる」
「うん」
「この建物買取請求権を行使すると、建物の所有権は地主へ移転します」
「じゃあ、すぐ建物を渡す?」
「そこです」
私は首を横に振りました。
「地主が代金を払うまで、借地権者は建物の引渡しを拒めます」
「つまり」
「建物の引渡し債務と、代金支払債務が同時履行の関係になる」
「また同時だ」
「はい」
私は今日のまとめとして、表にしました。
同時履行になるもの
・売買契約の代金支払債務と引渡し・登記協力債務
・契約解除後の双方の原状回復義務
・建物買取請求権行使後の建物引渡債務と代金支払債務
同時履行にならない代表例
・賃貸借終了後の建物明渡債務と敷金返還債務
「こう見ると整理できるな」
「はい」
「でも問題文で見たらまた混乱しそうだ」
「なので、まず考えることは一つです」
「何だ」
私はノートの下に大きく書きました。
その二つの債務は、
お互いに対価関係にあるか?
「対価関係?」
「一方をする代わりに、もう一方をする、という関係です」
「売買なら」
「土地を渡す代わりに、お金を払う」
「解除後なら?」
「返してもらう代わりに、こちらも返す」
「建物買取なら?」
「建物を渡す代わりに、代金を払う」
「敷金は?」
「明渡してから精算する。だから、同時交換という関係ではない」
「なるほどな」
そこへ、所長が奥から出てきました。
「また勉強してるのか」
「はい。今日は同時履行です」
「見せてみろ」
私はノートを差し出しました。
所長は黙って数ページめくります。
「……うん」
「どうです?」
「前より字はましになった」
「そこですか!」
「成長は認めてる」
「法律の中身は?」
「悪くない」
「もっと褒めてください」
「調子に乗るな」
真壁さんが横で笑いました。
「所長、こいつ今日ずっと同時履行を饅頭に使ってます」
「余計な報告しないでください」
「何だそれ」
所長が聞くので、私は説明しました。
「真壁さんが二個目の饅頭を取ろうとしたので、私も一個取るまで待ってもらいました」
「それを同時履行と言ったのか」
「はい」
「違うな」
「真壁さんにも言われました」
「二票になったぞ」
「民主主義の暴力です」
「法律以前の問題だ」
所長は少し笑ってから、私のノートを指差しました。
「栞」
「はい」
「最後に一つ、試験で一番大事なところを書いておけ」
「何ですか?」
所長はペンを取りました。
そして、一番下にこう書きました。
相手方が履行の提供をしたか確認する。
「これだ」
私はその文字を見つめました。
「同時履行の抗弁権があるかどうかだけを見ていると、問題を落とす」
「というと?」
「相手がまだ何もしていないなら、こちらは拒める」
「はい」
「だが相手が履行の提供をしたら?」
「こちらは拒めなくなる」
「そして履行しなければ?」
「履行遅滞に陥る可能性がある」
「そういうことだ」
所長は続けました。
「問題文では、必ず時系列を追え」
私ははっとしました。
「時系列……」
「最初は同時履行の関係だった」
「はい」
「その時点では、双方とも相手が履行しなければ拒める」
「はい」
「だが、その後、一方が履行の提供をした」
「そこで関係が変わる」
「そうだ」
私は赤鉛筆で囲みました。
超重要。
同時履行の抗弁権は、
いつまでも使えるわけではない。
相手方が履行の提供をすると、
その抗弁権を理由に履行を拒み続けることはできない。
「なるほど……」
私は今日の事件を思い返しました。
朝の段階では、
野々村さんも、
河合さんも、
相手が先にやれと言い合っていた。
その時点では、まだどちらもきちんと履行の提供をしていない。
だから、どちらか一方だけを履行遅滞だとは言いにくい。
でも司法書士が書類を確認し、
野々村さんが引渡しと登記協力をできる状態を整えた。
その時点で、
河合さんが代金を払えなければ、
もう「そっちもまだだから」は通らない。
私はノートの最後に、今日の内容をまとめました。
同時履行の抗弁権。
① 双方契約で問題になる。
② 相手が履行をしない間は、自分も履行を拒める。
③ その間は、原則として履行遅滞にならない。
④ ただし、相手方が履行の提供をすれば、拒み続けられない。
⑤ その後も履行しなければ、履行遅滞に陥り得る。
⑥ 契約解除後の双方の原状回復義務も、同時履行の関係になる。
⑦ 賃貸借終了時の「建物明渡し」と「敷金返還」は同時履行ではない。明渡しが先。
⑧ 建物買取請求権の場合、建物引渡しと代金支払いは同時履行。
「……結構あるな」
真壁さんが言いました。
「ありますね」
「一言で覚えるなら?」
私は少し考えました。
そして書きました。
同時履行の抗弁権
=
「そっちがやらないなら、こっちもやらない」
ただし、
「そっちはもうやれる状態です」
となったら、
「じゃあこっちもやらなきゃいけない」
「雑だな」
「でも分かりやすいでしょう」
「まあな」
真壁さんが笑いました。
私はページを閉じようとして、ふと止まりました。
今日の事件で、私が一番印象に残ったこと。
それは、条文そのものではありませんでした。
売主は怖かった。
土地を渡したのに、お金が入らなかったらどうしよう。
買主も怖かった。
大金を払ったのに、登記できなかったらどうしよう。
二人とも、相手を完全に信用できなかった。
でも、だからこそ、
同時に履行する。
どちらか一方だけに先に危険を背負わせない。
同時履行の抗弁権という言葉は、なんだか冷たい。
でも、その中身は案外やさしい。
「相手がやらないなら、自分だけ先にやらなくていいですよ」
法律は、そう言っている。
私はその下に、小さく書きました。
同時履行の抗弁権――
信用できないから使う制度ではない。
お互いを同じ場所まで連れてくるための制度。
「栞」
「はい?」
所長が私の机に缶コーヒーを置きました。
「今日は頭使っただろ」
「ありがとうございます」
「真壁」
「はい?」
「饅頭、残ってないのか」
「ないです」
「誰が食った」
真壁さんが私を指差しました。
「こいつです」
「二人で食べました!」
「俺より多く食っただろ!」
「立証してください」
「法律をそういう時だけ使うな!」
所長が呆れたように笑いました。
私は缶コーヒーを両手で包みました。
昭和六十三年。
今日も、条文は数行。
でも、その数行の中には、
土地を渡す人の不安と、
大金を払う人の不安と、
それを同時に着地させる仕組みが詰まっていた。
私はノートを鞄にしまいました。
明日から問題文で、
「代金支払債務と引渡債務は――」
と出てきたら、
もう迷わない。
まず見る。
双方契約か。
同時履行か。
相手方は履行の提供をしたか。
そして、例外ではないか。
これだけ。
「よし」
私は小さく呟きました。
「今度こそ、同時履行は完璧です」
「そうか」
真壁さんが言いました。
「じゃあ明日の昼飯、お前が先に払え」
「嫌です」
「なんでだよ」
「同時履行でお願いします」
「やっぱり分かってねえだろ!」
夕方の事務所に、真壁さんの声が響きました。
私は笑いながら、ノートの端に最後の一言を書き足しました。
※昼飯の割り勘に民法五百三十三条を持ち込まないこと。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




