[同時履行の抗弁権]現場編 右手でお金、左手で鍵。「そっちが先だ」は禁止です
不動産の決済というものは、だいたい雰囲気が重いです。
何千万円というお金が動く。
権利証が出る。
実印が並ぶ。
司法書士さんが難しい顔をする。
銀行員さんが時計を見る。
そして当事者は、人生でもそう何度も押さない種類の判子を押す。
これだけ条件が揃えば、空気が重くなるのも当然です。
ただし。
重い空気の中で、二人の大人が、
「そっちが先だ」
「いや、そっちが先だ」
と、幼稚園児みたいな押し問答を始めることがあります。
――不動産って、本当に人間の格好いいところだけでは成立しません。
「だからな! 金を見せてもらわなきゃ、権利証なんか渡せるか!」
「こっちだって、登記できる保証もないのに三千八百万も払えるか!」
朝九時半。
大槻不動産の応接机を挟んで、売主と買主が怒鳴り合っていました。
私は湯飲みを三つ置きながら、心の中で思いました。
――ああ。
これ、宅建のテキストで見たやつだ。
現実になると、こんなに声がでかいんだ。
売主は野々村源三さん、六十二歳。
駅から徒歩十五分ほどのところにある一戸建てと敷地を売る人です。
買主は河合隆司さん、三十四歳。
妻と小学生の娘さんがいる会社員で、その家を三千八百万円で買う予定でした。
本来なら今日は決済日。
買主が残代金を支払い、売主が土地建物を引き渡し、所有権移転登記のための書類を渡す。
めでたしめでたし。
の、はずだった。
「河合さん、だから銀行で現金の準備ができてるなら、それを先に払えばいいでしょう!」
野々村さんが机を叩いた。
「嫌ですよ! 払ったあとで『権利証がありませんでした』じゃ済まないでしょう!」
「あるって言ってるだろう!」
「じゃあ出してください!」
「払ったら出す!」
「出したら払います!」
無限機関が完成していました。
永久に決済できないやつです。
真壁さんが額を押さえます。
「お二人とも、ちょっと声を落としてください。近所に聞こえます」
「真壁さん!」
河合さんが振り返りました。
「私は約束通り、金を用意してるんですよ!」
「俺だって約束通り、家を空けた!」
野々村さんも負けません。
「なのにこいつが払わない!」
「だから書類を出してくれれば払います!」
私はお茶を配り終えて、そっと真壁さんの隣に座りました。
「……真壁さん」
「なんだ」
「これ、どっちが悪いんですか?」
「今それを俺に聞くな」
「営業の先輩でしょう」
「営業だから困ってんだよ」
なるほど。
実務は、問題文みたいに「AとBは同時履行の関係にある。正しいか」なんて親切には書いてありません。
AもBも大声を出します。
そしてどちらも、自分だけが被害者の顔をします。
そこへ、大槻所長が奥から出てきました。
「何を揉めてる」
声は小さい。
でも、全員が黙りました。
この人、本当に便利です。
音量ではなく圧で静かにする。
「野々村さん」
「……はい」
「河合さん」
「はい」
「順番に話してください」
二人は顔を見合わせました。
さっきまでの勢いはどこへ行った。
まず河合さんが口を開きました。
「私、今日までに残代金を用意しました。銀行も融資実行の準備ができています。ただ、司法書士さんから、売主側の登記書類を確認してから融資を実行すると言われてるんです」
「ふむ」
「だから、書類を確認させてほしい。それだけです」
次に野々村さん。
「私は家を空けて、鍵も持ってきた。権利証も印鑑証明も全部ある。ただね、三千八百万の金が本当に出るのか分からない相手に、先に大事な書類を渡したくないんですよ」
「なるほど」
所長が頷く。
私は心の中で整理しました。
買主は金を払う義務。
売主は物件を引き渡して、所有権移転登記に協力する義務。
売買契約。
双方が、お互いに債務を負っている。
つまり――双方契約。
そして、この二つは普通、同時履行。
私がそう考えたところで、野々村さんが続けました。
「そもそも、昨日から河合さんの銀行の担当が『売主側の書類を先に確認したい』だの何だの言ってる。こっちは売る側ですよ? 金を払うのは向こうでしょう。買主が先に義務を果たすのが筋じゃないですか」
――筋。
不動産トラブルでこの言葉が出ると、だいたい危険です。
法律と筋は、仲がいい時もあります。
でも、別居してる時もあります。
「所長」
私は小さく手を挙げました。
「なんだ」
「これ、先に払うとか、先に渡すとかじゃなくて……」
所長がこちらを見る。
「同時にやる話じゃないですか?」
応接室が静かになりました。
真壁さんが、横から私を見る。
「……続けろ」
私は少し緊張しながら口を開きました。
「売買って、買主だけが義務を負う契約じゃないですよね」
「そりゃそうだ」
「河合さんは代金を払う義務がある。でも野々村さんにも、土地建物を引き渡して、所有権移転登記に協力する義務がある」
「うん」
「だから、どっちか一方だけに『お前が先に全部やれ』とは、普通なら言えないんじゃないですか」
野々村さんが眉をひそめました。
「じゃあ、金をもらってないのに権利証を渡せって?」
「いえ」
「じゃあ何なんだ」
「渡す準備をしてください」
私は言いました。
「河合さんも、払う準備をする。野々村さんも、登記と引渡しに必要なものを出せる状態にする。それで同時にやるんです」
河合さんが首を傾げる。
「同時に?」
「はい」
私は両手を前に出しました。
「右手でお金、左手で鍵。せーので交換する感じです」
「栞」
真壁さんが低い声で言いました。
「三千八百万の決済を、物々交換みたいに説明するな」
「分かりやすいでしょう?」
「分かりやすいのが腹立つな」
所長が小さく笑いました。
「藤崎の言っていることは概ね正しい」
野々村さんが所長を見る。
「でも所長、こっちが先に書類を見せたら――」
「見せることと、先に権利を渡してしまうことは違います」
所長は静かに言いました。
「司法書士が必要書類を確認する。買主側は融資実行の手続きを進める。着金確認と同時に、登記申請に回す。鍵も引き渡す。それが決済です」
「……」
「相手が履行する準備をしているのに、自分だけ『先に全部やれ』と突っぱねれば、今度は自分の側が問題になる」
野々村さんの顔から、少しずつ怒気が引いていきました。
でも。
そこで河合さんが腕を組みました。
「だったら、私は悪くないですよね?」
――あ。
来た。
人は、自分が少し有利になると、急に勝者の顔をします。
「私は代金を用意してるんです。野々村さんが拒んだんだから、今日から遅延損害金を請求できますよね?」
真壁さんが、ちらりと私を見ました。
たぶん顔に出ていたのでしょう。
私の脳内で、宅建の問題集が猛烈な勢いでページをめくっています。
同時履行の抗弁権。
一方が履行を提供しない限り、もう一方は履行を拒める。
そして、拒んでいる間は履行遅滞にならない。
ただし――。
「河合さん」
私は言いました。
「本当に、今日、払える状態なんですか?」
「もちろんです」
「今、この場で?」
「え?」
「野々村さんが必要書類を全部揃えて、司法書士さんが確認して、『登記できます』となったら、その時点で残代金三千八百万を支払えますか?」
「それは……」
河合さんの目が泳いだ。
真壁さんの眉が上がります。
所長は黙ったまま。
私は嫌な予感がしました。
「銀行の融資、今日実行できるんですよね?」
「……たぶん」
たぶん。
三千八百万で聞きたくない日本語ランキング、かなり上位です。
「たぶん?」
真壁さんの声が一段低くなる。
河合さんが気まずそうに視線を落としました。
「実は……昨日、銀行から一本電話があって」
「何の電話です?」
「追加書類が必要だと」
「追加書類?」
「勤務先の在籍確認で……少し確認に時間がかかると」
野々村さんが立ち上がりました。
「ほら見ろ! 払えねえんじゃねえか!」
「でも融資は通ってるんです!」
「今日払えないなら同じだろ!」
「ちょっと待ってください」
私は慌てて間に入りました。
ここで再び「どっちが悪い選手権」を始めたら、一生終わりません。
「河合さん。銀行からは、今日の融資実行は確約されてるんですか?」
「……いえ」
「では、今の時点では、履行できる状態とは言い切れないですね」
「……」
「そして野々村さん」
「なんだ」
「だからといって、今すぐ一方的に契約違反だと言って終わりにできるわけでもありません」
「なんでだよ」
「野々村さんも、まだ書類を出してないからです」
「……」
双方、黙りました。
私は心の中で、そっとガッツポーズをしました。
法律というのは時々、ケンカしている両方に、
――いや、お前もまだやってないぞ。
と言ってくれます。
この公平な冷たさ、私は結構好きです。
「つまりですね」
私は机の真ん中にメモ用紙を置きました。
そこに一本、縦線を引く。
左に「売主」。
右に「買主」。
「今日の決済で必要なのは――」
売主側。
権利証。
印鑑証明。
実印。
鍵。
登記に必要な書類。
買主側。
残代金。
融資実行。
「これを、片方ずつ順番にやるんじゃなくて、双方が履行できる状態まで持っていく」
私は二つの欄の間に矢印を書きました。
「そのうえで、同時に履行する」
河合さんが紙を見つめます。
「じゃあ、今日はどうなるんですか」
真壁さんが所長を見る。
所長は少し考えてから言いました。
「まず銀行に確認する」
「銀行?」
「今日中に融資実行できるのか。できないなら、いつなら確実なのか」
次に野々村さんを見る。
「野々村さんは、登記書類を司法書士に確認してもらう。問題がなければ、いつでも履行できる状態を作る」
「……はい」
「双方が準備できた時点で、決済する」
「じゃあ、今日できなかった責任は?」
河合さんが聞いた。
所長は、そこで少し声を低くしました。
「それは、誰が履行の提供をしたかを見て決めます」
空気が変わりました。
私も思わず所長を見る。
「口で『俺はやるつもりだった』と言うだけじゃ足りない」
所長は言いました。
「本当に、自分の債務を果たせる状態を用意していたのか。それを相手に示したのか。そこが重要だ」
私は胸の中で、ぱちん、と何かが噛み合いました。
――そうだ。
履行の提供。
これです。
同時履行の関係にあるなら、相手が履行の提供をしない限り、こちらも履行を拒める。
でも一方がきちんと履行の提供をしたのに、もう一方が履行しないなら――。
話が変わる。
「所長」
「なんだ」
「司法書士さん、今日来てもらえますか?」
「呼んである」
速い。
さすが所長。
私が今思いついたことを、だいたい三十分前に済ませています。
「銀行にも電話する」
真壁さんが立ち上がりました。
「河合さん、担当者の名前は?」
「杉本です」
「よし」
そこからの一時間は、さっきまでの怒鳴り合いが嘘みたいに実務的でした。
司法書士の先生が来る。
野々村さんの権利証、印鑑証明、委任状その他を確認する。
問題なし。
鍵も持参済み。
建物は空家。
つまり、野々村さん側は、ほぼ履行できる状態にある。
一方、河合さんの銀行。
真壁さんが何度か電話をして、最後に受話器を置きました。
「今日の融資は無理だ」
河合さんが顔を上げた。
「えっ」
「在籍確認が取れてない。早くて明後日」
「そんな……」
「銀行側は昨日の夕方に連絡したと言ってるぞ」
「仕事中で……ちゃんと聞いてなくて」
野々村さんが何か言おうとしました。
でも所長が手で制した。
「河合さん」
「……はい」
「今日の決済日に、売主側は履行できる準備が整っています」
「はい……」
「しかし、あなたは残代金を支払える状態にない」
河合さんの肩が落ちました。
「このままなら、売主側が履行の提供をしたのに、買主側が履行しないという形になります」
「……契約違反ですか」
「少なくとも、さっきのように『野々村さんが先に書類を出さないから、自分は払わない』と言える状態ではなくなります」
河合さんは何も言えませんでした。
私は、その横顔を見ていました。
責めたい気持ちはありません。
家を買うなんて、普通の人には大仕事です。
銀行の電話。
登記。
残代金。
火災保険。
引越し。
人生最大級の事務作業を、仕事しながら同時進行する。
そりゃ、何か一つ抜けることだってあります。
でも。
抜けた時に、「相手が悪い」と思い込むと、ややこしくなる。
「……申し訳ありません」
河合さんが、野々村さんに頭を下げました。
野々村さんは少し驚いた顔をしました。
「銀行の手続き、ちゃんとできてると思ってました」
「……」
「それで、野々村さんが書類を出さないせいだって……」
長い沈黙。
野々村さんが、ふう、と息を吐きました。
「俺も悪かったよ」
「え?」
「権利証なんか見せたら取られるんじゃないかって、変に疑ってた」
「……」
「大金だからな。怖かったんだ」
その言葉に、私は少しだけ胸が柔らかくなりました。
そう。
二人とも、怖かったのだ。
売主は、土地を渡したのに金が入らなかったら怖い。
買主は、金を払ったのに権利を取れなかったら怖い。
だから法律は、
――じゃあ、同時にやりましょう。
と考えた。
なんだ。
すごく人間的な仕組みじゃないですか。
「明後日」
所長が言いました。
「銀行の融資が確実に実行できるなら、決済をやり直しましょう」
野々村さんが頷いた。
「俺は構わん」
河合さんも深く頭を下げる。
「お願いします」
「ただし」
所長が二人を見る。
「次は、お互いに『そっちが先だ』は禁止です」
私は思わず吹き出しました。
真壁さんが横で肩を震わせています。
野々村さんまで、少し笑いました。
「分かりましたよ」
河合さんも苦笑した。
「……はい」
明後日の決済は、驚くほど静かに進みました。
司法書士が書類を確認。
銀行が融資実行。
着金確認。
鍵の引渡し。
登記申請。
三千八百万円の取引が、怒鳴り声一つなく終わった。
あまりに静かすぎて、私は拍子抜けしました。
――法律がちゃんと働くと、ドラマって減るんですね。
いや、いいことなんですけど。
決済が終わると、河合さんの奥さんと娘さんが事務所へやって来ました。
「お父さん、終わった?」
「終わったよ」
「今日からあのおうち?」
「引越しは来週な」
娘さんは嬉しそうに笑いました。
「庭にね、ひまわり植えるの!」
野々村さんが、その声を聞いて振り返ります。
「あの庭は日当たりいいぞ」
女の子が目を輝かせました。
「ほんと?」
「ああ。前はうちの婆さんがトマト作ってた」
「トマトもできる?」
「できるできる」
さっきまで売主と買主だった二人が、今は家の庭の話をしている。
なんだか不思議でした。
土地や建物って、契約の瞬間だけを見ると、金額と書類の塊に見えます。
でも本当は、誰かが出ていく場所であり、誰かがこれから入っていく場所でもある。
売買とは、たぶん、その境目を法律で綺麗につなぐ作業なのだと思います。
河合さん一家が帰ったあと、野々村さんが私のところへ来ました。
「嬢ちゃん」
「栞です」
「知ってるよ」
「じゃあ名前で呼んでください」
「細けえなあ」
野々村さんは笑って、紙袋を机に置きました。
「これ」
「なんですか?」
「饅頭」
「賄賂ですか」
「もう終わった取引に何を頼むんだよ」
「確かに」
「婆さんが昔よく買ってた店のやつだ」
少しだけ遠い目をして、野々村さんが続けました。
「あの家、売るって決めた時はな。もう自分には関係ない家になるんだと思ってた」
「……はい」
「でも、あの子がひまわり植えるって聞いたら、なんか……悪くねえな」
私は何も言わず、紙袋を受け取りました。
「河合さんに言っといてくれ」
「何をです?」
「庭の物置に、古い園芸道具が残ってる。使えるなら使っていいって」
「自分で言えばいいじゃないですか」
「そういうのは恥ずかしいだろ」
「さっきまで三千八百万寄越せって怒鳴ってた人が?」
「それとこれは別だ」
別らしいです。
人間というのは難しい。
野々村さんが帰ったあと、私は机の上の饅頭を見つめていました。
真壁さんが一つ勝手に取ります。
「あっ」
「五個あるだろ」
「人数三人ですよ」
「じゃあ二個ずつ食える奴が二人いる」
「所長と私ですね」
「なんで俺を外した?」
「日頃の行いです」
「お前な」
所長が奥から出てきて、袋を覗き込みました。
「何だ」
「野々村さんからです」
「そうか」
所長は一つ取った。
残り三つ。
真壁さんが素早く二つ目へ手を伸ばす。
私はその手を叩きました。
「同時履行です」
「は?」
「私が一個取るのと同時じゃないと、二個目は認めません」
「使い方が違う」
「でも公平です」
「法律を饅頭配分に使うな」
所長が珍しく声を出して笑いました。
夕方。
私は一人、今日の決済書類を整理していました。
買主には代金を払う義務がある。
売主には、目的物を引き渡し、登記に協力する義務がある。
どちらも相手の履行と結びついている。
だから、一方が何もしないのに、もう一方だけに「先にやれ」と迫るのはおかしい。
相手が履行を提供しない間は、自分も履行を拒むことができる。
しかも、その拒絶は、ただのサボりではない。
正当な拒絶だ。
だから、原則として履行遅滞にもならない。
でも、一方がきちんと履行の提供をしたら、均衡は崩れる。
今日の野々村さんのように、
――私は渡せます。
と準備を整えたのに、
相手が、
――私はまだ払えません。
となれば、もう「そっちが先にやってないから」という言い訳は通らない。
同時履行の抗弁権。
昨日までの私なら、
長い。
覚えにくい。
漢字が多い。
で終わっていました。
でも今なら分かる。
要するに、
――そっちが出さないなら、こっちも出さない。
ただし、
――私は出せますよ。
と片方が手札を机に置いた瞬間、もう片方も出さなければならない。
それだけの話です。
私は窓の外を見ました。
昭和六十三年の夕暮れ。
空は妙に赤くて、駅前では今日も土地の値段が上がったとか、どこそこの坪単価がどうだとか、そんな話が飛び交っていました。
土地が金に見える時代。
家が資産に見える時代。
でも今日、一軒の家は、一人の老人から一組の家族へ渡りました。
庭には、たぶん来年、ひまわりが咲く。
その前に、トマトも植えられるかもしれない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが帰り支度をしながら言いました。
「今日の教訓は?」
「三千八百万の決済日に『たぶん払えます』は禁止」
「まあ、それもそうだ」
「あと、相手が先にやると思い込まない」
「うん」
「あと、饅頭は公平に分ける」
「それは忘れろ」
私は笑いました。
契約は、相手を信用して結ぶものです。
でも法律は、信用だけでは足りない時のためにある。
渡したのに払われなかったらどうしよう。
払ったのに渡してくれなかったらどうしよう。
そんな、人間なら誰でも抱く当たり前の怖さに、
法律はとても地味な答えを用意しています。
同時にやればいい。
たったそれだけ。
でも、その「たったそれだけ」が、大きな取引では、人を守る。
私は机の上の最後の饅頭を見ました。
そして手を伸ばす。
同時に、反対側から真壁さんの手が伸びてきました。
「……」
「……」
しばらく見つめ合う。
「栞」
「はい」
「これは同時履行か?」
「いいえ」
私は饅頭を素早く取った。
「早い者勝ちです」
「おい!」
夕暮れの事務所に、真壁さんの声が響きました。
法律は公平です。
でも、おやつまで公平とは限りません。
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