[不完全履行]現場編 「細かいな…」「四千万円ですから」。約束は左右対称です
約束というものは、全部破られるより、半分だけ守られるほうが厄介なことがあります。
たとえば。
「昼飯、奢るよ」
と言われて食堂へ連れていかれ、ラーメンだけ出されて、
「餃子は自腹な」
と言われたら、たぶん私は怒ります。
いえ、ラーメンは奢ってもらっています。
約束は一部、果たされています。
でも、こちらが「ラーメンと餃子のセット」を期待していたなら、何かが違う。
まして、それが土地と建物だったら。
ラーメンどころの話ではありません。
[不完全履行]現場編 半分だけ守る約束が、いちばん厄介だ
「藤崎。謄本取ってきてくれ」
「土地ですか、建物ですか」
「両方」
「ですよね」
「なんだ、その返事」
「いえ。最近、土地だけ見て安心するとろくなことがないので」
真壁さんが、ちょっと嫌そうな顔をしました。
「十八の娘が言う台詞じゃねえな」
「十八の娘を不動産屋で働かせてる会社に言われたくありません」
「会社じゃねえ。所長に言え」
「聞こえてるぞ」
奥の机から、大槻所長の低い声が飛んできました。
「すみません」
「俺じゃなく、十八の娘に謝れ」
「なんで俺が」
昭和六十三年。
バブル景気という巨大な鍋の中で、日本中の土地がぐつぐつ煮えていた頃。
私は大槻不動産で、今日も事務見習いをしていました。
前世では宅建試験の受験生。
そして今世では、なぜか昭和の不動産屋。
神様がいるなら一度聞きたい。
なぜ私を、
勉強した知識を強制的に実地研修させるコースへ放り込んだのか。
資格学校より厳しいんですけど。
もっとも、最近は少し慣れてきました。
民法の条文を読むより、お客さんの顔を見るほうが、ずっと分かりやすいこともあります。
困っている人は、眉間に論点を書いて来店してくれるので。
その日の午後も、そうでした。
入口のガラス戸が開き、四十代くらいの男性が飛び込んできました。
「大槻さん!」
顔色が真っ青です。
真壁さんが立ち上がりました。
「沢田さん? どうしました」
沢田正一さん。
町の商店街で文房具屋を営んでいる人でした。
数か月前、大槻不動産の仲介で、駅から少し離れた土地付き中古住宅を買っています。
価格は四千万円。
土地はそれなりに広く、建物は古いものの、奥さんと二人で住むには十分。
将来は一階を改装して、小さな文具店を移す予定だと聞いていました。
「登記が……」
沢田さんが息を切らします。
「建物の名義が、まだ変わってないんです!」
私は持っていた鉛筆を止めました。
真壁さんの顔から笑いが消える。
「……何ですって?」
「司法書士さんに確認したんです。土地は私の名義になってる。でも、建物はまだ売主の河原さん名義のままだって!」
所長が、ゆっくり椅子から立ちました。
「売買代金は?」
「全部払いました。四千万円」
「引渡しは?」
「受けてます。鍵もあります。もう住んでます」
「建物の登記だけ残っている?」
「そうなんです」
私は頭の中で、状況を並べました。
土地付き建物を四千万円で売買。
買主は四千万円全額支払い済み。
売主は土地の所有権移転登記を済ませた。
でも、建物は未登記――ではない。
売主名義のまま。
つまり。
一部は履行済み。
一部は未履行。
うわあ。
嫌な形できれいです。
宅建の問題なら丸をつけたい。
現実なら頭を抱えたい。
「売主さんには連絡しましたか」
私が聞くと、沢田さんは顔をしかめました。
「しました。そしたら……」
「そしたら?」
「『土地の名義は移したんだから、住む分には問題ないでしょう』って」
真壁さんのこめかみに青筋が浮かびました。
「問題あるに決まってんだろ」
「真壁」
所長が一言。
「はい」
真壁さん、着席。
大型犬みたいです。
沢田さんは続けました。
「それで、建物の登記も早くしてくれって言ったら、『今忙しいから、そのうちやる』って……」
「そのうち」
私は思わず復唱しました。
不動産で一番信用できない言葉ランキングがあるなら、「そのうち」はかなり上位です。
「売買契約書を見せてください」
所長が言いました。
沢田さんが鞄から契約書を取り出す。
私と真壁さんも、横から覗き込みました。
売買対象。
土地一筆。
建物一棟。
間違いありません。
代金四千万円。
所有権移転。
引渡し。
必要な登記手続への協力。
きっちり書いてあります。
「……完全に残ってますね」
私が呟くと、真壁さんが横目で見ました。
「何が」
「売主さんの宿題です」
「宿題?」
「土地の分だけ提出して、建物の分を白紙で出してる感じです」
「先生ならどうする」
「再提出です」
「厳しいな」
「土地建物四千万円の宿題ですから」
沢田さんは、不安そうに私たちを見ていました。
「でも……土地の登記はしてもらったんです」
「はい」
「だったら、河原さんの言う通り、ある程度は約束を守ってることになるんでしょうか」
「なります」
私は答えました。
沢田さんの顔が曇る。
私は慌てて続けました。
「でも、“ある程度守ったから残りは守らなくていい”にはなりません」
「え?」
「沢田さんは、土地だけを四千万円で買ったんじゃないですよね」
「もちろんです」
「土地と建物を買った」
「はい」
「なら、土地だけ渡して終わりではありません」
私は契約書を指しました。
「約束した内容全部を、きちんと実現して初めて、売主さんは約束を果たしたことになります」
所長が小さく頷きます。
「不完全履行だな」
沢田さんが聞き返しました。
「ふかんぜん……?」
「約束の一部は果たしている。だが、全部ではない」
所長が言いました。
「土地は移した。しかし建物の移転登記をしていない。履行はしているが、不完全なんです」
沢田さんは、少しだけ安心したような、それでもまだ不安な顔をしました。
「じゃあ……建物の登記をしてもらうよう、強く言っていいんでしょうか」
「当然です」
真壁さんが言いました。
「むしろ、うちから言います」
「でも、河原さん、すごく強い人で……」
その言葉に、沢田さんの肩が落ちました。
なるほど。
法律の問題ではなく、現場の問題がもう一枚ありました。
相手が怖い。
これ、意外と大きいです。
法律上言えることと、人間が実際に言えることは別です。
テキストには、
「買主は履行を請求できる」
と一行で書いてあります。
でも現実では、その一行を口にするために、胃薬がいる人もいます。
「沢田さん」
私は言いました。
「一人で言わなくて大丈夫です」
「え?」
「うちが仲介した取引です。確認します」
真壁さんが、にやっと笑いました。
「そういうことだ」
怖い顔の人が味方になると、急に頼もしい。
不動産業界における真壁さんの顔面、用途地域より有効です。
「藤崎」
所長が私を見ました。
「河原さんに電話しろ」
「私がですか?」
「最初はな」
「最初は?」
「怒ったら真壁に代われ」
「役割分担がおかしくありません?」
「俺は?」
真壁さんが聞く。
「威圧担当」
「おい」
「適材適所です」
「藤崎、お前まで」
少しだけ、沢田さんが笑いました。
よかった。
人間は、困っている時でも笑えます。
そして、笑えるくらいの余裕を取り戻してからのほうが、法律は使いやすい。
河原さんは、電話口でも堂々としていました。
『だから、土地は移したって言ってるでしょう』
「はい。確認しております」
『建物なんか、住めてるんだからいいじゃないですか』
「よくありません」
『……誰だ、あんた』
「大槻不動産の藤崎です」
『子どもか?』
十八歳です。
失礼な。
まあ、昭和基準でもほぼ子どもですけど。
「売買契約の対象は、土地だけではなく建物も含まれています」
『分かってるよ』
「では、建物についても所有権移転登記に必要な手続をお願いします」
『そのうちやる』
「いつでしょうか」
『だから、そのうちだよ』
私は心の中で赤ペンを持ちました。
不動産屋が期限未定の「そのうち」を許すと、だいたい後で泣きます。
「日を決めましょう」
『忙しいんだよ!』
「沢田さんは四千万円を全額支払っています」
一瞬、相手が黙りました。
「河原さんは土地の手続は済ませています。でも、建物についてはまだです」
『だから何だ』
「約束を半分だけ終わらせて、“全部終わった”にはできません」
電話の向こうで、鼻を鳴らす音がした。
『細けえなあ。不動産屋は』
「四千万円ですから」
『……』
「細かくなります」
横で真壁さんが、口元を隠して笑っています。
そこ、笑うところじゃありません。
『建物なんて古いだろ。価値なんか大したことないんだ』
「価値の大小は関係ありません」
『は?』
「契約に含まれている以上、履行する必要があります」
少し声が強くなった。
『じゃあ土地まで返せってのか?』
「今はそんな話をしていません」
私は即答しました。
「まず、残っている建物の移転登記をきちんと済ませてください、とお願いしています」
ここ、大事です。
相手が話を大きくしてきた時、その大きさに付き合う必要はありません。
土地も全部返すのか。
契約全部を無しにするのか。
裁判するのか。
損害賠償なのか。
そうやって論点を煙に巻かれると、人は急に怖くなります。
だから一個ずつ。
今、不完全な部分は何か。
何を完成させればいいのか。
それだけです。
『……来週だ』
河原さんが言いました。
「はい?」
『来週なら動ける』
「何曜日でしょう」
『水曜』
「時間は」
『午後二時』
「司法書士事務所でよろしいですか」
『細けえな、おい!』
「四千万円ですから」
同じ返しをしたら、今度は真壁さんが完全に吹き出しました。
『……分かったよ!』
電話が切れた。
私は受話器を置きました。
「取れました」
「何が」
「水曜午後二時」
「お前、借金取り向いてるぞ」
「褒めてます?」
「半分」
「不完全評価ですね」
「うまいこと言った顔すんな」
所長が奥から静かに言いました。
「まだ終わってないぞ」
「はい」
そうです。
約束を取りつけることと、実際に履行されることも、また別です。
人類は口約束だけで全てを済ませられるほど進化していません。
ところが翌日。
話が、もう一段厄介になりました。
沢田さんから電話が来たのです。
『藤崎さん、大変なんです』
「どうしました?」
『河原さんから電話が来て……』
「はい」
『建物の名義変更をするなら、追加で百万円払えって』
「……はい?」
私は聞き間違えたと思いました。
「百万円?」
『“土地の値段が上がったから、本当はもっと高く売れた。建物の登記までしてほしければ百万円追加しろ”って……』
私は無言になりました。
なるほど。
昨日までは「そのうち」。
今日は「百万円」。
時間経過で条件が育つタイプの売主でした。
全然うれしくない成長です。
「分かりました。払わないでください」
『でも、登記してもらえなかったら……』
「だからこそです」
私は受話器を強く握りました。
「すでに四千万円で土地と建物を売る契約をしています。沢田さんは代金を全部払っている」
『はい』
「その後になって、残りを履行する条件として追加料金を要求するのはおかしいです」
所長がこちらを見ています。
私は目で事情を伝え、受話器を押さえました。
「所長。百万円追加要求です」
大槻所長の眉が、ほんの少し動きました。
この人は怒ると声を荒らげるタイプではありません。
静かになります。
それが一番怖い。
「真壁」
「はい」
「車出せ」
短い。
河原さん宅へ行くことになりました。
河原さんの家は、立派な瓦屋根の一軒家でした。
応接間には大きな壺。
壁には鹿の角。
そして本人も、家具に負けないくらい圧のある人でした。
「百万円くらいで、ガタガタ言うなよ」
座るなりそれです。
景気がいい時代というのは、百万円の感覚まで壊れるのでしょうか。
私ならガタガタどころか、かなり派手に揺れます。
真壁さんが低い声で言いました。
「河原さん。契約は四千万円です」
「知ってるよ」
「沢田さんは払った」
「払ったな」
「土地は移転した」
「そうだ」
「建物が残ってる」
「だから百万円払えばやるって言ってんだよ」
真壁さんが口を開きかけたところで、所長が手を上げました。
「河原さん」
低い。
部屋の空気が一度に重くなる。
「一つだけ確認します」
「何だよ」
「あなたは、四千万円で土地と建物を売る契約をした」
「したよ」
「代金は受け取った」
「ああ」
「なら、あなたが受け取るべき代金は、もう受け取っている」
「……」
「建物の移転登記は、追加の商品ではない」
河原さんの顔が少し固まりました。
所長は契約書をテーブルに置きます。
「まだ終えていない、あなたの債務です」
静かな声でした。
でも、私は鳥肌が立ちました。
こういう時の所長は、本当に強い。
「土地について履行した。それは結構です。しかし、建物について履行していない以上、全部を果たしたことにはならない」
「でも土地はもう――」
「土地を履行したことは、建物を履行しなくてよい理由にはなりません」
ぴたり。
河原さんが黙りました。
その一言で、話が一本になった気がしました。
そうなんです。
不完全履行が厄介なのは、
「やっていない」
ではなく、
「ここまではやった」
と言えてしまうこと。
人は、半分やったことを盾にして、残り半分を小さく見せることがあります。
でも。
土地付き建物を売ったなら。
土地だけでは足りない。
百個の商品を売ったなら。
九十九個では足りない。
一千万円払う約束なら。
九百万円では足りない。
履行は、約束したところまで届いて初めて完成します。
私は契約書を指しました。
「河原さん」
「なんだ」
「もし逆だったら、どう思いますか」
「逆?」
「沢田さんが四千万円のうち、一千万円しか払わなかったら」
「そりゃ駄目だろ」
「ですよね」
「当たり前だ」
「でも沢田さんが、『一千万円は払いましたよ』と言ったら?」
「残り三千万円払えって言うよ」
「同じです」
河原さんが止まりました。
「……何が」
「河原さんは、土地の移転登記をしました」
「そうだ」
「でも、建物の移転登記が残ってます」
「……」
「沢田さんが一部だけ代金を払って、“払ったんだからいいだろ”と言えないのと同じで、売主さんも一部だけ履行して、“やったんだからいいだろ”とは言えません」
真壁さんが横で、小さく息を吐きました。
たぶん、笑いを堪えてます。
私は真面目です。
すごく真面目です。
「約束は、左右対称なんです」
私は言いました。
「買主には全部払えと言う。なら、売主も全部渡す」
河原さんは、契約書を見つめました。
「……建物なんて、もう古いぞ」
「古くてもです」
「取り壊すかもしれない」
「それでもです」
「土地のほうが価値は高い」
「それでもです」
「百万円くらい――」
「四千万円ですから」
また言ってしまった。
真壁さんが横を向きました。
肩が震えています。
笑うな。
河原さんはしばらく黙っていました。
やがて、ふっと息を吐きました。
「……分かったよ」
誰も口を挟まない。
「水曜、司法書士のところへ行けばいいんだろ」
「お願いします」
「追加の百万円は?」
所長が確認する。
「……いらん」
「最初からありません」
真壁さんが言いました。
「うるせえな」
でも、その声にはもう勢いがありませんでした。
帰り際、玄関まで送ってきた河原さんが、私にぼそっと言いました。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「お前、歳いくつだ」
「十八です」
「十八で、ずいぶん口が立つな」
「四千万円ですから」
「それ気に入ってんのか」
「便利なんです」
初めて、河原さんが少し笑いました。
たぶん完全な悪人ではない。
景気の熱に浮かされて、土地の値上がりを見て、惜しくなったのだと思います。
人間というのは、不思議です。
売る前には四千万円で納得していたものが、売った翌日に値上がりすると急に損した気になる。
持っていない利益まで、自分のものだったように感じる。
でも契約は、その揺れる気持ちを固定するためにあります。
水曜日。
河原さんは約束通り、司法書士事務所へ来ました。
必要書類も持って。
判も押して。
建物の所有権移転登記の手続は無事に進みました。
数日後。
沢田さんが大槻不動産にやって来ました。
「確認できました」
その顔は、最初の日とは別人でした。
「土地も建物も、ちゃんと私の名義です」
「よかったですね」
私が言うと、沢田さんは何度も頭を下げました。
「本当にありがとうございました」
「うちは仲介ですから」
真壁さんが言います。
「最後まで片付けるのも仕事です」
かっこいい。
この人、黙ってるとかっこいいんですけどね。
「余計なこと考えてないか」
「考えてません」
「目が失礼だぞ」
沢田さんが笑いました。
「実はね」
「はい?」
「あの家、一階を店にしようと思ってたでしょう」
「聞いてます」
「妻と相談して、名前を決めたんです」
「お店の?」
「ええ」
沢田さんは、少し照れたように紙袋を差し出しました。
中には新しいノートが三冊。
表紙に、小さく店名が印刷されています。
――沢田文具店。
「試作品なんです」
「いいんですか?」
「藤崎さん、ノート使うでしょう」
「かなり使います」
「法律の勉強?」
「主に人間の失敗を整理するために」
「嫌なノートだな」
真壁さんが言いました。
「先輩の発言欄もあります」
「捨てろ」
沢田さんは、声を出して笑いました。
そして言いました。
「建物の名義なんて、最初は“書類の話”だと思ってました」
「はい」
「でも、自分の名前になったのを見た時、ようやく本当に買ったんだなって思えまして」
私は、もらったノートの表紙を撫でました。
紙一枚。
登記簿の文字。
法律を知らない人から見れば、それだけに見える。
でも人は、その文字の先で暮らします。
店を開く。
家族と食卓を囲む。
雨漏りを直す。
壁に時計をかける。
いつか誰かに引き継ぐ。
所有権なんていう冷たい言葉の中には、意外と生活がぎっしり詰まっています。
その日の夕方。
私は新しいノートの一ページ目を開きました。
上に、大きく書きます。
不完全履行。
「また勉強か」
真壁さんがコーヒーを飲みながら言いました。
「はい」
「今日ので覚えただろ」
「覚えたから書くんです」
「どんな意味だった」
私は鉛筆を止めました。
「約束を、途中までしか果たしていないこと」
「雑だな」
「分かりやすさ重視です」
「たとえば?」
「土地と建物を売ったのに、土地の登記だけする」
「うん」
「四千万円払う約束なのに、一千万円しか払わない」
「うん」
「ラーメンと餃子を奢る約束なのに、ラーメンしか奢らない」
「それは根に持ちすぎだろ」
「先輩、今度お願いします」
「なんで俺が」
奥から、所長が言いました。
「真壁」
「はい?」
「給料日前だ。餃子はやめておけ」
「所長まで何の話してるんですか」
私は笑いました。
そして、ノートにもう一行書き足しました。
――一部やったことは、残りをやらなくていい理由にはならない。
たぶん、法律だけの話ではありません。
人との約束もそうです。
少し親切にしたから。
途中まで手伝ったから。
一度謝ったから。
だから、残りはもういいだろう。
そう思いたくなる時はある。
でも、本当に大事なのは、
約束した場所まで、ちゃんと届くこと。
沢田さんの新しい文具店も。
まだ看板すらありません。
棚もない。
商品もない。
今は、ただ土地と建物が揃っただけ。
でも、それでいい。
全部が揃わないと、
次の一歩は始められないこともあるから。
窓の外では、昭和の夕暮れが町を橙色に染めていました。
「栞」
「はい?」
真壁さんが、机の上に百円玉を置きました。
「餃子代」
「足りません」
「一部は払った」
「不完全履行です」
「覚えたての法律を先輩に使うな!」
所長が吹き出しました。
私も笑いました。
沢田さんからもらった真新しいノートの一ページ目。
そこに書いた「不完全履行」という四文字は、
昨日までの私なら、たぶん試験用語にしか見えなかったでしょう。
でも今日からは違います。
土地だけでは足りない。
建物だけでも足りない。
四千万円のうち一千万円でも足りない。
約束は、
半分守ったから立派なのではありません。
最後まで届いて、
ようやく誰かの安心になる。
私は百円玉を真壁さんへ押し返しました。
「餃子、全部奢ってください」
「まだ言うか」
「履行請求です」
「所長、こいつどうにかしてください」
「真壁」
「はい」
「約束したなら払え」
「約束してねえ!」
夕暮れの事務所に、笑い声が響きました。
私は新しいノートを閉じます。
今日もまた一つ。
試験問題だった法律が、
誰かの暮らしになりました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




