[履行不能]法理編 栞とお勉強
夕方。
私は、野口さんの事件で使った登記簿の写しを横に置き、ノートを開きました。
今日の事件を、法律の言葉だけで整理すると、驚くほど短くなります。
野口さん――買主A。
榊原さん――売主B。
黒田商事――第三者C。
BがAに土地を売った。
その後、同じ土地をCにも売った。
Cが先に所有権移転登記を備えた。
その結果、BはAに土地を取得させることができなくなった。
――履行不能。
「……短いなあ」
私は呟きました。
たった五行です。
今日あれだけ揉めたのに。
野口さんの工房も。
奥さんの不安も。
娘さんが楽しみにしていた柿の木も。
法律の問題になると、
A。
B。
C。
で終わります。
「何が短いんだ?」
後ろから声がしました。
「うわっ」
振り返ると、真壁さんがいました。
「人の後ろに音もなく立たないでください」
「普通に歩いてきたぞ」
「顔が怖いから存在感だけ先に来るんですよ」
「どういう悪口だ」
「褒めてません」
「知ってる」
真壁さんが私のノートを覗き込みました。
「今日は何だ」
「履行不能です」
「今日の榊原の件か」
「はい」
私はノートの真ん中に、大きく書きました。
履行不能
=債務の履行ができなくなった状態。
「まず、ここです」
「ずいぶん普通だな」
「法律って、最初は普通なんですよ」
「途中から急に性格悪くなるけどな」
「それは試験問題です」
私はその下に書き足しました。
履行遅滞
=履行できるのに、期限を過ぎても履行しない。
履行不能
=そもそも履行することができない。
「今日、一番大事なのはこの違いです」
私は言いました。
「たとえば、土地を引き渡せる状態なのに、売主がぐずぐずして引き渡さない」
「履行遅滞」
「はい」
「じゃあ、今日みたいに別の奴へ売って、そいつが登記まで取った」
「履行不能です」
「なるほど」
私は赤鉛筆を持ちました。
待てば履行できる → 履行遅滞
待っても履行できない → 履行不能
「試験では、まずここを見ます」
「待てるか、待てないか?」
「そうです」
「ずいぶん人間くさい判断だな」
「法律ですから」
「法律ってもっと冷たいもんだと思ってたぞ」
「今日の所長くらいです」
「聞こえてるぞ」
奥の机から大槻所長の声がしました。
「すみません」
「栞だけ謝るな。真壁もだ」
「俺、何も言ってないでしょう」
「顔で言った」
「顔まで管轄するんですか」
私は笑いを堪えながらノートへ戻りました。
◇
さて。
履行不能になったら、債権者はどうするのか。
ここからが宅建で大事です。
私は大きく二つ書きました。
①契約を解除する。
②損害賠償を請求する。
「二つともできるのか?」
真壁さんが聞きました。
「条件を満たせば、できます」
「解除したら終わりじゃないのか」
「そこ、今日の榊原さんも勘違いしてました」
私は一本線を引きました。
契約解除 ≠ 損害賠償請求ができなくなる
「契約を解除したからといって、損害賠償請求まで消えるわけではありません」
「契約をなかったことにするのに?」
「解除によって契約関係を清算することと、それまでに生じた損害を賠償してもらうことは別問題です」
「なるほどな」
今日の野口さんなら。
土地の売買契約は解除する。
払った金銭は返してもらう。
そのうえで、榊原さんの債務不履行によって損害が生じていれば、損害賠償を求める。
ということです。
「じゃあ、解除する前に一回、『土地を渡してください』って言わなくていいのか?」
「そこです!」
私は思わず机を叩きました。
鉛筆が跳ねた。
「今日の最重要ポイント、その一です」
「一なのか。まだあるのか」
「あります」
私は大きく書きました。
履行不能なら、
催告なしで解除できる。
「催告って?」
「相手に『いついつまでに履行してください』と求めることです」
「履行遅滞なら?」
「原則として催告して、それでも履行されなければ解除します」
「履行不能なら?」
「催告しても意味がありません」
「なんで?」
「できないからです」
「身も蓋もないな」
「でも、これが本質です」
私は今日の事件を書きました。
榊原さん
↓
野口さんに土地を売った。
↓
その土地を黒田商事にも売った。
↓
黒田商事が登記を取得した。
↓
榊原さんは、野口さんに約束どおり土地を取得させられない。
「この状態で」
私は言いました。
「野口さんが榊原さんに『一週間以内に土地をください』って催告しても、意味ないですよね」
「黒田商事の登記が消えるわけじゃないからな」
「そうです」
だから、全部の履行が不能なら、債権者は催告なしに契約を解除できます。
民法五百四十二条の、いわゆる無催告解除です。
「つまり」
真壁さんが指を折りました。
「遅れてるなら――まず待つ機会を与える」
「原則そうです」
「もうできないなら――待たなくていい」
「その理解で大丈夫です」
私は赤鉛筆で囲みました。
超重要
履行不能 → 催告しても無意味
→ 催告なしで解除できる
「覚えやすいな」
「ですよね」
「じゃあ今日みたいに榊原が『一か月待て』って言っても」
「法律上、野口さんが当然に一か月待たなきゃいけないわけではありません」
「なるほど」
私は少し考えて、ノートの余白に書きました。
「待てば何とかなる」は、
債務者が勝手に決めることではない。
「これ、試験に出るか?」
「出ません」
「消しとけ」
「嫌です。今日の教訓です」
「そういうノートだったか?」
◇
次。
少し難しいところです。
「まだあるのか」
「ここからが本番です」
「今まで前座かよ」
私は書きました。
履行不能になったからといって、
必ず損害賠償請求できるわけではない。
「ん?」
真壁さんが眉をひそめました。
「さっき、損害賠償できるって言ったじゃないか」
「条件があります」
「出たよ」
「法律ですから」
債務不履行による損害賠償では、原則として、
債務者に責任を負わせることができる事情が必要になります。
法律の言葉でいうと、
債務者の責めに帰すべき事由。
いわゆる「帰責事由」です。
「難しい言葉を難しい言葉で説明するな」
「要するに」
私は書き換えました。
債務者のせいなのか。
「最初からそれでいいだろ」
「試験では『帰責事由』って出るんです」
「性格悪いな、試験」
「さっき私も言いました」
今日の榊原さんは、分かりやすい。
自分で土地を二重に売った。
しかも、後から買った黒田商事に登記まで移した。
その結果、最初の買主に土地を取得させられなくなった。
「完全に本人のせいだな」
「はい」
だから、損害が生じていれば、損害賠償請求の問題になります。
ところが。
別のケースならどうでしょう。
売買契約成立。
↓
引渡し前。
↓
巨大地震。
↓
建物が倒壊して消滅。
「誰のせいだ」
「誰のせいでもありません」
「じゃあ売主に損害賠償?」
「原則できません」
「履行不能なのに?」
「はい」
私はここを二重丸で囲みました。
重要
「履行不能であること」と
「損害賠償責任を負うこと」は
別に考える。
「ここ、昔の説明だと少し混乱しやすいんです」
私は言いました。
「どういうことだ?」
「『債務者の責任で履行できない場合を履行不能と呼ぶ』みたいに説明されることがあります」
「違うのか」
「現在の民法では、履行不能という状態そのものと、債務者に損害賠償責任があるかは、分けて考えたほうが正確です」
履行することが、契約その他の債務の発生原因や取引上の社会通念に照らして不能なら、
債権者はその履行を請求できません。
これが履行不能。
そして。
その不能について債務者に責任を負わせられる事情があるなら、損害賠償の問題になる。
なければ、原則として損害賠償責任までは負わせられない。
「じゃあ」
真壁さんが言いました。
「地震で家がなくなったケースでも、履行できない状態ではある」
「はい」
「だけど、売主のせいじゃないから、売主に損害賠償までは請求できない」
「そうです」
「で、代金は?」
「そこから危険負担の話になります」
「……出たな。別の奴」
「出ます」
私はページの端に書きました。
債務者の責任ではない履行不能
→ 損害賠償とは別問題
→ 反対給付をどうするかは危険負担を検討
「危険負担って何だった?」
「ざっくり言えば、売主にも買主にも責任がないまま目的物が滅失したような場合に、買主が代金を払わなければならないのか、という問題です」
「地震で家がなくなったのに、代金だけ払えって言われたら困るからな」
「そういうことです」
現在の民法では、債務者の責任ではない原因で履行不能になった場合、債権者は反対給付の履行を拒むことができます。
そして、履行不能なら解除の問題も出てきます。
「……あれ?」
真壁さんが私を見ました。
「債務者のせいじゃなくても解除できるのか?」
「できます」
「昔は違ったのか?」
「改正前民法では、解除には債務者の帰責事由が必要とされていました。でも、今は違います」
私は大きく書きました。
現行民法
解除に、債務者の帰責事由は原則不要。
「ここ、大事です」
「じゃあ地震で建物がなくなっても、買主は解除できる?」
「履行不能なら、原則として解除できます」
「でも損害賠償は?」
「売主に帰責事由がなければ、原則できない」
「おお」
真壁さんが指を立てました。
「分かってきたぞ」
「言ってみてください」
「解除と損害賠償をごっちゃにするな」
「正解です!」
私は勢いよく丸を書きました。
解除
→ 債務者の帰責事由は原則不要。
損害賠償
→ 債務者の帰責事由が問題になる。
「同じ履行不能でも扱いが違うわけだ」
「そうです」
「試験で混ぜてくるな?」
「ものすごく混ぜてきます」
「やっぱり性格悪いな」
「だから宅建なんですよ」
「宅建に謝れ」
◇
そして今回の事件で、もう一つ重要なのが、
二重譲渡です。
私は図を書きました。
A 野口さん
↑
売買①
|
B 榊原さん
|
売買②
↓
C 黒田商事
「Bが同じ土地を、AとCの両方に売った」
「二重譲渡だな」
「はい」
不動産の二重譲渡では、原則として先に登記を備えたほうが優先します。
今回なら、黒田商事Cが先に登記を備えた。
だから野口さんAは、原則としてCに対して、
「自分のほうが先に買ったんだから、この土地は自分のものだ」
とは主張できません。
「先に契約したほうじゃないんだな」
「はい。先に登記を備えたほうです」
「不動産屋らしいルールだ」
「登記、大事ですから」
そして。
Cが登記を備えた結果、BはAに土地を取得させることができなくなる。
そこで、
BのAに対する債務が履行不能となり、
Bに帰責事由があれば、
AはBに対して損害賠償を請求できる。
これが宅建で出題される典型です。
私はノートに順番を書きました。
①BがAに不動産を売る。
②Bが同じ不動産をCにも売る。
③Cが登記を備える。
④AはCに所有権を対抗できない。
⑤BはAに不動産を取得させることができない。
⑥BのAに対する債務が履行不能となる。
⑦Bに帰責事由があるため、Aは損害賠償請求できる。
「なるほど」
真壁さんが言いました。
「いきなり『二重譲渡だから損害賠償』じゃないんだな」
「そうなんです!」
私はそこを強く囲みました。
「本試験では、途中の理屈を飛ばすと別パターンに対応できなくなります」
「つまり?」
「なぜ損害賠償できるのか、順番に追う」
「Cが登記した」
「はい」
「だからAは土地を取れない」
「はい」
「だからBはAへの約束を果たせない」
「はい」
「履行不能」
「はい!」
「Bが自分で二重に売ったんだから、Bの責任」
「そうです!」
「だから損害賠償」
「完璧です!」
私は思わず拍手しました。
「馬鹿にしてんのか」
「本当に感動しました」
「余計腹立つな」
◇
そこへ所長がやってきました。
「ずいぶん進んだな」
「所長」
私はノートを差し出しました。
「履行不能をまとめてました」
所長はしばらく眺めました。
「ふむ」
「どうですか」
「字は相変わらずだな」
「法律を見てください!」
「見ている」
「毎回そこから入るのやめてもらえません?」
所長は小さく笑い、私のノートにペンを入れました。
「最後に、試験用に整理しておけ」
「はい」
所長は四つ書きました。
履行不能を見たら――
① 本当に履行できないのか。
② 解除できるのか。
③ 損害賠償できるのか。
④ 債務者に帰責事由があるのか。
「この順で考えろ」
「……なるほど」
「特に、解除と損害賠償を一緒にするな」
私は頷きました。
所長が続けます。
「解除は、契約から離れるための制度だ」
「はい」
「損害賠償は、債務不履行で生じた損害を埋めるための制度だ」
「目的が違う」
「そういうことだ」
私は改めてノートにまとめました。
【履行不能・試験用まとめ】
①履行不能とは
契約その他の債務の発生原因や取引上の社会通念に照らして、債務の履行ができない状態。
②履行不能なら
全部の履行が不能である場合、債権者は催告することなく契約を解除できる。
③解除と帰責事由
現在の民法では、解除するために債務者の帰責事由は原則として必要ない。
④損害賠償
債務者に帰責事由があれば、債権者は損害賠償を請求できる。
⑤解除+損害賠償
契約を解除しても、損害賠償請求まで妨げられるわけではない。
⑥債務者に帰責事由がない場合
原則として損害賠償責任は負わない。
反対給付については危険負担の問題も検討する。
⑦不動産の二重譲渡
第三者が先に登記を備えた結果、売主が先の買主に不動産を取得させられなくなれば、先の買主との関係で履行不能となり得る。
売主に帰責事由があれば、損害賠償請求の問題となる。
「うん」
真壁さんが頷きました。
「これなら俺でも分かる」
「最後に一行で覚えましょう」
「まだ書くのか」
「書きます」
私はページの一番下に、大きく書きました。
履行不能
――もうできないなら、催告して待つ必要はない。
ただし、
「解除できるか」と
「損害賠償できるか」は
分けて考える。
「これです」
「おお」
真壁さんが珍しく素直に頷いた。
「今回の事件そのままだな」
「はい」
私は今日のことを思い出しました。
榊原さんは、
「一か月待ってくれ」
と言いました。
でも。
法律は、何でも待つことを美徳にはしません。
履行できるなら、履行する機会を与える。
でも。
もう履行できないなら。
いつまでも相手を契約につなぎ止めておく必要はない。
その人は、次へ進んでいい。
野口さんが新しい工房を見つけたように。
「栞」
「はい?」
真壁さんが紙袋を持ち上げました。
「柿、まだ残ってるぞ」
「食べればいいじゃないですか」
「渋かったらどうする」
「履行不能です」
「何がだ」
「甘柿としての履行が不能です」
「じゃあ解除する」
「柿との契約を?」
「損害賠償も請求する」
「誰にですか」
「お前に」
「帰責事由ありませんよ!」
所長が新聞の向こうで笑いました。
「栞」
「はい」
「今のはいい復習になったな」
「なってません!」
「俺は理解したぞ」
「真壁さんまで!」
結局。
真壁さんが恐る恐るかじった柿は、ちゃんと甘かった。
「お」
「どうです?」
「うまい」
「よかったですね」
私は一つ取って、自分でもかじりました。
少し固い。
でも甘い。
今日の法律も、少し似ていました。
履行不能。
名前だけ見ると、冷たくて、救いのない言葉です。
もう履行できない。
約束は果たされない。
そこで終わり。
そんな言葉に見える。
でも本当は。
もう実現しない約束に、人をいつまでも縛りつけないためのルールでもある。
解除していい。
責任があるなら、損害を償ってもらっていい。
そして。
別の契約へ。
別の土地へ。
別の暮らしへ。
進んでもいい。
私はノートを閉じました。
前世ではただの暗記事項だった、
「履行不能」。
今なら、少し違って見えます。
法律は、壊れた約束を必ず元通りにできる魔法ではありません。
でも。
壊れた約束の前で、いつまでも立ち止まらなくていいように。
次へ進むための出口くらいは、用意してくれる。
それが今日、私が覚えた。
履行不能というルールでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




