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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権

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[履行不能]現場編 もう売った土地を、もう一度売るな

挿絵(By みてみん)

 世の中には、待てば何とかなる約束があります。


 電車が遅れた。


 注文した本が届かない。


 待ち合わせ相手が来ない。


 腹は立つけれど、十分待てば来るかもしれない。


 では。


 あなたが買った土地を、売主が別の人にも売って、その人が先に登記まで済ませてしまったら。


「もう少し待ってください」


 と言われて、待ちますか。


 私は待ちません。


 というか。


 ――何を待つんですか。


「だから、あと一か月待ってくれって言ってるでしょうが!」


 朝九時十二分。


 大槻不動産の応接机を、男の手のひらが叩きました。


 灰皿が跳ねました。


 湯飲みも跳ねました。


 私の心臓も少し跳ねました。


 お茶だけはこぼれませんでした。


 十八歳事務見習い、藤崎栞。


 本日最初の功績です。


「一か月あれば、何とかしますから!」


 声を張り上げている男は、榊原文雄さん。


 五十歳くらい。地元で小さな資材会社を経営している人です。


 そして向かい側には、三十代半ばの夫婦が座っていました。


 野口隆さんと、妻の恵美さん。


 二人とも怒っているというより、困り果てている顔でした。


 こういう顔のほうが、見ていてつらい。


「でも榊原さん」


 隆さんが言いました。


「先月は『二週間待ってください』でしたよね」


「だから事情が変わったんですよ!」


「その前は、『登記の準備に少しかかる』でした」


「不動産なんだから色々あるんです!」


 便利ですね。


 色々ある。


 説明できない人が使うと、だいたい何も説明していません。


 私は少し離れた事務机で書類を整理するふりをしながら、耳を澄ませました。


 どうやら話はこうでした。


 三か月前。


 野口夫妻は榊原さんから、町外れの土地と古家を買う契約を結んだ。


 売買代金は千八百万円。


 手付金も支払った。


 隆さんは家具職人で、古家を改装して一階を工房、二階を住居にする予定だったらしい。


 ところが決済直前になって、榊原さんから、


「登記関係で少し問題が出た」


 と連絡が入った。


 二週間待ってくれ。


 そして二週間後。


「もう二週間」


 さらにその後。


「あと一か月」


 不動産取引で「あと少し」は、カップ麺の三分ほど信用してはいけない場合があります。


 なぜならカップ麺は、三分後には少なくとも麺になりますが、不動産の「あと少し」は、一か月後に「さらに少し」へ成長するからです。


「榊原さん」


 真壁さんが低い声で言いました。


 顔が怖い人が、本気で低い声を出すと怖い。


 非常に怖い。


 ただし本人に自覚がありません。


「さっきから何とかする、何とかするって、何をどうするんです?」


「それはこっちの事情ですよ」


「土地を引き渡す契約なんだから、買主にも関係あるでしょう」


「だから戻しますって!」


 私は手を止めました。


 ――戻す?


 真壁さんも眉をひそめた。


「何を?」


 榊原さんが黙りました。


「榊原さん」


 大槻所長が静かに呼びました。


 この人は怒鳴りません。


 怒鳴らないのに、怒鳴る人より怖いです。


「何を、戻すんですか」


「……」


「土地ですか」


「……まあ」


 事務所が静かになりました。


 私は嫌な予感がしました。


 かなり具体的な嫌な予感です。


「登記簿、確認していいですか」


 真壁さんが立ち上がった。


「いや、それは……」


「確認します」


 断定形でした。


 十五分後。


 嫌な予感は、書類になって帰ってきました。


 登記簿を見た真壁さんが、ものすごく嫌そうな顔で事務所に戻ってきます。


「所長」


「どうだった」


「移ってます」


「……誰に」


「黒田商事」


 榊原さんが顔をそむけた。


 私は息を止めました。


 土地の所有権移転登記。


 原因、売買。


 日付は一か月前。


 つまり。


 野口夫妻に売ったあとです。


「榊原さん」


 隆さんの声が震えていました。


「……これ、どういうことですか」


「だから説明するって!」


「俺たちに売った土地を、別の会社にも売ったんですか?」


「金が必要だったんですよ!」


 榊原さんが叫んだ。


 とうとう出ました。


 事情ではなく答えが。


「会社の支払いが急にあって……黒田さんが二千三百万出すって言うから……」


「五百万高かったから売ったんですか」


「そういう言い方するなよ!」


 いや。


 どういう言い方をしたら別の意味になるんでしょう。


 私は本気で考えました。


 無理でした。


 千八百万円で売る契約をした。


 でも二千三百万円で買う人が現れた。


 だから、そちらにも売った。


 そして登記まで移した。


 日本語にすると、どう並べても二重譲渡です。


「黒田商事には、もう引き渡したんですか」


 所長が尋ねました。


「登記だけです。まだ建物はそのままです」


「買い戻す話は?」


「してますよ!」


 榊原さんは、そこだけ急に勢いを取り戻しました。


「黒田さんには事情を話して、少し上乗せして買い戻します。だから一か月待ってくれって言ってるんですよ!」


「黒田商事は承諾したんですか」


「……交渉中です」


「いくらで?」


「それはまだ」


「売ると言ってますか」


「だから交渉中だって!」


 ああ。


 それ、戻せるんじゃありません。


 戻したい、です。


 日本語一文字で、不動産一筆くらい違います。


 恵美さんが小さな声で言いました。


「じゃあ……私たち、どうなるんでしょう」


 誰もすぐには答えませんでした。


 彼女は膝の上の鞄を握りしめています。


「主人、今の工房を今月で出ることになってるんです」


「恵美」


「だって……」


 隆さんが止めましたが、恵美さんは続けました。


「大家さんにも話して。機械を移す業者も頼んで。設計士さんにもお願いして。娘も、あそこなら転校しなくていいって……」


 声が細くなる。


「庭に柿の木があるでしょう。娘、あれを楽しみにしてたんです」


 私は窓の外を見ました。


 朝の日差しが、事務所の曇ったガラスを白くしています。


 土地の契約書には、柿の木なんて書いてありません。


 売買代金千八百万円。


 所在。


 地番。


 地積。


 引渡日。


 そんなものしか書かれていない。


 でも人が家を買う時、本当に買っているのは、地番でも平方メートルでもないのかもしれません。


 朝食を食べる場所とか。


 子供が帰ってくる場所とか。


 庭の柿が色づく秋とか。


 契約書に書けないものほど、たくさんぶら下がっています。


「大丈夫ですよ」


 榊原さんが言いました。


 私は思わず彼を見ました。


「だから俺が買い戻します。一か月だけ待ってください。元通りにしますから」


 その言葉に、恵美さんが少しだけ顔を上げました。


 隆さんも迷っています。


 人は困っている時ほど、「元通り」という言葉に弱い。


 分かります。


 壊れる前に戻れるなら、誰だって戻りたい。


 でも。


 私の頭の中で、前世の宅建テキストが猛烈な勢いでページをめくり始めていました。


 履行遅滞。


 履行不能。


 解除。


 損害賠償。


 ――違う。


 これは。


「待っちゃ駄目です」


 口から出ました。


 全員がこちらを見る。


 しまった。


 十八歳のお茶くみ見習い、また出ました。


「栞?」


 真壁さんが眉を上げます。


「どういう意味だ」


 私は立ち上がりました。


「これは、遅れてるんじゃないです」


「え?」


 恵美さんが私を見る。


「榊原さんは、土地を渡すのが遅れているんじゃありません」


 私は登記簿を指しました。


「今のままでは、もう約束どおり渡せないんです」


 榊原さんが顔をしかめた。


「だから買い戻すって言ってるだろ!」


「買い戻せたら、ですよね」


「買い戻すんだよ!」


「黒田商事さん、売ると言ってないんでしょう?」


「それを交渉するんだ!」


「それは野口さん夫妻との契約を履行しているんじゃなくて、履行できる状態に戻すための交渉です」


 榊原さんが詰まりました。


 私は続けます。


「全然違います」


 真壁さんがゆっくり腕を組みました。


 所長は黙っています。


 たぶん、私に続けろという顔です。


「たとえば」


 私は机の上の湯飲みを手に取りました。


「私が真壁さんに、この湯飲みを明日渡す約束をしたとします」


「なんで俺なんだ」


「例です」


「もっといいものにしろ」


「では羊羹も付けます」


「続けろ」


 食いつくところ、そこなんですね。


「約束の日に湯飲みが事務所にあって、私が渡すのを忘れてるだけなら、遅れてるだけです」


「まあな」


「でも今日、私がその湯飲みを粉々に割ったら?」


「怒る」


「そこじゃないです」


「分かってる」


「もう同じ湯飲みは渡せません」


 私は榊原さんを見る。


「土地も今、それに近い状態です」


「土地は割れてねえだろ」


「もっと悪いです」


 私は言いました。


「他人の名義になってます」


 しん、とした。


 真壁さんが口元を押さえています。


 笑わないでください。


 私は真面目です。


「黒田商事が登記を備えた以上、少なくとも榊原さんが今すぐ野口さんに所有権移転登記をして、約束どおり引き渡すことはできません」


「だから戻す!」


「いつですか」


「一か月」


「なぜ一か月ですか」


「それくらいあれば交渉が……」


「黒田商事が売らないと言ったら?」


「……」


「二千五百万なら売ると言ったら?」


「……」


「三千万なら?」


「それは……」


「会社が別の人に売ったら?」


「おい!」


「全部、野口さんにはどうにもできない話です」


 私は一度息を吸いました。


「野口さん夫妻が待てば解決する問題じゃありません」


 そこが、いちばん大事でした。


 待てば、債務者が履行する。


 そういう話なら、待つ意味があります。


 でもこれは違う。


 榊原さん自身が、自分で土地を別の人へ売って、登記まで移してしまった。


 約束を果たせない状態を、自分で作った。


「それを一か月待てっていうのは」


 私は言いました。


「野口さん夫妻に、榊原さんの失敗を直すための時間まで負担してもらうってことです」


 隆さんが、はっとしたように私を見ました。


 榊原さんが机を叩いた。


「じゃあどうしろってんだ!」


 所長が初めて口を開きました。


「解除だな」


「……え?」


「この契約を終わらせる」


 榊原さんの顔色が変わる。


「待ってくださいよ大槻さん!」


「待てと言う根拠がない」


「普通は催告するでしょう! いつまでに履行しろって!」


 私は目を瞬きました。


 あ。


 知ってる。


 中途半端に知ってる人が、一番元気になるやつです。


「それは」


 私が口を開くより先に、所長が言いました。


「履行を期待できる話ならな」


 低い声でした。


「もう履行できないものについて、“履行してください”と催告して何になる」


「だから買い戻せば!」


「それは別の契約だ」


 所長は榊原さんをまっすぐ見ました。


「あなたと黒田商事との話だ。野口さんには関係ない」


 榊原さんが黙る。


 所長は続けました。


「あなたは野口さんに売った土地を、あとから別の者にも売った。そしてそちらに登記まで移した」


 一つずつ。


 逃げ道を塞ぐように。


「その結果、野口さんへの債務を履行できなくした」


「……」


「それを、“戻せるかもしれないから待て”では筋が通らん」


 真壁さんが椅子にもたれました。


「しかも、自分でやったことだしな」


「真壁!」


「違います?」


「……」


「違わないでしょう」


 怖い顔で正論を言わないでください。


 逃げ場所がありません。


 隆さんがおそるおそる尋ねました。


「所長さん。契約を解除したら……それで終わりなんですか」


「いいえ」


 私は答えました。


「終わりにはしなくていいです」


 榊原さんが、こちらを見る。


「今回のことで実際に損害が出ているなら、その話は別にできます」


「別?」


 恵美さんが聞き返した。


「はい」


 私は指を折りました。


「たとえば、移転する予定だった工房の費用。設計を頼んで支払った費用。代わりの物件を探すために余分な費用がかかるなら、それも内容によっては問題になります」


「ちょっと待て!」


 榊原さんが立ち上がりました。


「解除する上に金まで取るのか!」


「取る、じゃありません」


 私も立ったまま言いました。


「損害があれば、賠償の問題が残るということです」


「契約を解除したらチャラだろ!」


「なりません」


 今度は所長が即答しました。


「解除と損害賠償は別だ」


「そんな馬鹿な!」


 榊原さんの声が裏返った。


 私は心の中で思いました。


 今日一番大きな声ですが、残念ながら声量に比例して法律は変わりません。


「じゃあ俺はどうすりゃいいんだよ!」


 それまで黙っていた真壁さんが、ゆっくり身を起こしました。


「決まってるでしょう」


 怖い。


 やっぱり怖い。


「自分で始末するんですよ」


「……」


「高く売れるから二重に売った。先に登記まで渡した。そのせいで最初の買主に渡せなくなった」


 真壁さんは登記簿を指で叩いた。


「だったら、まず頭下げるところからでしょうが」


 榊原さんの顔が赤くなった。


 でも真壁さんは止まりません。


「“一か月待て”じゃねえよ」


「……」


「待ってください、だろ」


 私は少し驚きました。


 法律の話じゃありません。


 でも、たぶん一番大事な話でした。


「しかも」


 真壁さんが続けます。


「待つかどうか決めるのは、あんたじゃない」


 隆さんが顔を上げる。


「野口さんだ」


 事務所が静かになりました。


 榊原さんは長いこと立ったままでした。


 やがて椅子に座り直しました。


 さっきまであれほど大きかった男が、急に小さく見えました。


「……金が」


 ぽつりと言いました。


「会社の金が、足りなかったんです」


 誰も答えません。


「月末の支払いがあった。銀行も貸してくれなかった。黒田さんが、現金ならすぐ出すって……」


 両手で顔を覆った。


「野口さんには、あとで何とかすりゃいいと思った」


 隆さんの表情が歪みます。


「俺たちなら、後回しにしていいと思ったんですか」


「……すみません」


 初めてでした。


 その日、榊原さんが謝ったのは。


「本当に……すみませんでした」


 恵美さんが、静かに目を伏せました。


 しばらくして隆さんが言いました。


「一か月は待ちません」


 榊原さんが顔を上げる。


「契約は、終わりにしたいです」


「野口さん……」


「もう、あの土地に住むのは無理です」


 言葉は静かでした。


 だから余計に重かった。


「毎日、ここを高く買う人が現れたらまた売られるんじゃないかって考えながら暮らしたくない」


「……」


「信用って、登記簿には載らないんですね」


 その言葉に、私は胸を突かれました。


 本当にそうだ。


 所有権は登記できる。


 抵当権も登記できる。


 でも信用は登記できない。


 なくなった時だけ、ものすごくよく見える。


 所長が頷きました。


「分かりました。契約関係は整理しましょう。支払済みの金銭の返還と、損害についても一つずつ確認します」


「お願いします」


 隆さんが頭を下げた。


 その横で、恵美さんも深く頭を下げました。


 そして二人が帰ろうとした時。


 私は思わず声をかけました。


「あの」


 二人が振り返る。


「工房……もう、場所はないんですよね?」


「ええ」


 隆さんが苦笑しました。


「今月いっぱいです」


 私は真壁さんを見ました。


 真壁さんが嫌そうな顔をしました。


「なんだ、その目は」


「ありますよね」


「何が」


「物件」


「急に雑だな」


「工房にできて、二階に住めて、娘さんが転校しなくてよくて」


「注文が多い」


「あと庭」


「増えたぞ」


「柿の木」


「そこまで指定すんな!」


 隆さん夫妻が、初めて少し笑いました。


 真壁さんは頭を掻きました。


「……まあ、似たのは一軒ある」


「あるんですか!」


「似たのだ。柿は知らん」


「見せてもらえませんか」


 恵美さんが身を乗り出した。


 真壁さんは時計を見ました。


「今から?」


「今から」


 所長が言いました。


「所長まで!」


「どうせ午前の予定は空いてるだろ」


「俺の予定を勝手に空にしないでくださいよ」


「栞も行け」


「はい」


「なんでお前は即答なんだ」


「柿を確認します」


「お前の仕事は植木屋じゃねえ!」


 こうして。


 契約を解除する話をした、その一時間後。


 私たちは別の家を見に行くことになりました。


 その物件は、町の北側にありました。


 築二十五年。


 木造二階建て。


 元は建具職人さんの家だったらしく、一階の奥に広い作業場があります。


 隆さんは入った瞬間、顔つきが変わりました。


「……ここ、機械入るな」


 床を見て。


 入口の幅を測って。


 電気容量を確認して。


 職人の目になっていきます。


 恵美さんは二階へ上がり、


「学校まで歩いて十五分くらい?」


「それくらいですね」


 と私に聞きました。


 そして。


「栞」


 庭から真壁さんの声がしました。


「来てみろ」


「何ですか」


「お前の担当だ」


 庭に出る。


 そこには一本の木がありました。


 葉の間に、まだ青い実がいくつもぶら下がっています。


「……柿」


「柿だ」


 真壁さんが言いました。


「本当にありましたね」


「俺もびっくりだよ」


 恵美さんが後ろから出てきて、しばらく木を見上げていました。


 そして笑いました。


「娘に見せたい」


 その一言で。


 私は、なんだか少し救われた気がしました。


 同じ土地ではありません。


 元通りでもありません。


 失った契約が、なかったことになるわけでもない。


 でも人生は、必ず元の場所へ戻らなければ立て直せないわけではないらしい。


 別の道でもいい。


 ちゃんと、その先へ続いていれば。


 三週間後。


 野口夫妻は、その物件を買うことになりました。


 価格は最初の土地より少し安かった。


 工房の改装費を入れても、何とか予算内。


 榊原さんとの件も、所長が間に入って整理が進み、支払済みの金銭の返還と損害について話し合いがまとまりました。


 そしてある夕方。


「栞ちゃーん!」


 事務所に恵美さんがやってきました。


 紙袋を抱えています。


「これ、娘から」


「え?」


 中を見る。


 柿でした。


 まだ少し固そうな、小ぶりの柿が六つ。


「もう採れたんですか?」


「最初の一個をどうしても大槻不動産に持ってくって」


「最初の一個なのに六個ありますけど」


「娘の最初は、だいたい六個くらいまで含むんです」


「ずいぶん広い最初ですね」


 二人で笑いました。


 奥から真壁さんが出てきます。


「お、柿か」


「真壁さん」


「なんだ」


「一個百円です」


「なんで俺だけ売られるんだ!」


「仲介手数料です」


「高えよ!」


「六個全部なら五百円」


「商売始めるな!」


 所長が新聞の向こうから言いました。


「真壁」


「はい?」


「俺の分も買っとけ」


「所長まで何なんですか!」


 事務所に笑い声が広がりました。


 私は一つ、柿を手に取った。


 まだ少し青みが残っています。


 あの日。


 野口さん夫妻が欲しかった柿の木とは別の木です。


 でも。


 たぶん、それでいい。


 前世で宅建を勉強していた頃、私は「履行不能」という言葉が嫌いでした。


 漢字が四つ並んでいて。


 なんだか人間味がなくて。


 問題文には、


 AがBに売却した。


 BがCに二重譲渡した。


 Cが登記を備えた。


 Aに対する債務が履行不能になった。


 損害賠償を請求できる。


 そんなふうに書いてある。


 A。


 B。


 C。


 たった三文字。


 でも今日なら分かります。


 Aには、工房を持ちたい人がいる。


 その妻がいる。


 柿を楽しみにしている娘がいる。


 Bには、会社の資金繰りに追われて、他人との約束を後回しにした人がいる。


 そして一つの契約が履行できなくなると、その後ろにあった予定まで、まとめて崩れていく。


 だから。


 履行不能になった時に法律が言うのは、たぶん。


 「もう少し待ちなさい」


 だけではありません。


 もう届かない約束なら。


 いつまでも、その約束に縛られなくていい。


 そこで契約を終わらせてもいい。


 失ったものがあるなら、その責任を問うこともできる。


 待つことだけが、誠実さじゃない。


 諦めることと、見切りをつけることも違う。


「栞」


「はい?」


 真壁さんが柿を一つ持っていました。


「これ、渋柿じゃないだろうな」


「食べてみれば分かります」


「お前が先に食え」


「嫌です」


「怪しいじゃねえか!」


「真壁さん」


「なんだ」


「人生には、確認しないほうが幸せなこともあります」


「柿で人生語るな」


 私は笑いました。


 窓の外では、昭和六十三年の夕日が、町を薄い橙色に染めていました。


 土地は戻らなかった。


 最初の契約も戻らなかった。


 でも。


 野口家には、新しい工房ができる。


 その庭には柿の木がある。


 それなら、今日のところは十分です。


 私は机の上の契約書を閉じました。


 約束は、守るためにある。


 もし、自分のせいでもう守れなくなったのなら。


 せめて。


「もう少し待ってくれ」


 なんて言葉で、相手の時間まで奪ってはいけない。


 それが今日、私が覚えた――。


 履行不能という、少し冷たくて。


 でも時には、人を前へ進ませてくれる法律でした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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