[期限]現場編 「今すぐ1600万払え」を退ける盾。カレンダーの数字は伊達じゃない
人間、「いつか」は嫌いです。
いつか返します。
いつかやります。
いつか結婚します。
だいたい信用できません。
でも、「六月三十日に返します」と日付が入った瞬間、ちょっとだけ信用できる感じがします。
法律も似たようなものでした。
いつ起きるか分からないことより、「その日は必ず来る」という事実を好みます。
――もっとも。
その日が来る前に、
「今日払え」
と言ってくる人まで好きになるわけではありません。
◇
「だから! 今すぐ残金を払ってもらわないと困るんですよ!」
朝九時二十分。
大槻不動産の事務所に、怒鳴り声が響いていました。
今日も昭和六十三年は元気です。
コピー機はでかい。
電話は黒い。
男の人のネクタイは細い。
そして不動産屋の声は、だいたい大きい。
「……朝から景気いいですね」
私が湯飲みを並べながら呟くと、真壁さんが小声で返しました。
「景気がいいんじゃない。機嫌が悪いんだ」
「似たようなものかと思いました」
「全然違う」
怒鳴っているのは、五十代くらいの男でした。
名前は川原。
町外れにある古い倉庫と、その敷地を売った人です。
そして怒鳴られているのは、買主の水野夫妻。
夫は小さな印刷工場を営んでいて、奥さんと二人でその倉庫を買い、工場を移転する予定でした。
売買代金は一千八百万円。
契約時に手付金百八十万円。
残代金一千六百二十万円の支払日は――。
「七月三十一日」
私は契約書を見ながら読みました。
今日は六月十日。
まだ一か月以上あります。
なのに川原さんは、机を叩いていました。
「こっちにも事情があるんだよ! 別の借金を返さなきゃならん! どうせ払う金なんだから、今払ってくれたっていいだろう!」
うわあ。
出ました。
人生の三大危険語。
「どうせ」
「ちょっとだけ」
「みんなやってる」
この三つが出たら、一度財布を閉じた方がいいです。
水野さんは困った顔で言いました。
「ですが川原さん、うちは七月末に借入金が下りる予定で……」
「だったら今、別のところから借りればいいじゃないか!」
「そんな簡単に言われても……」
「契約した以上、払う義務があるだろ!」
そこで私は、契約書から顔を上げました。
――確かに、払う義務はある。
でも。
いつ払う義務があるかは、別の話です。
法律というのは、こういうところが妙に几帳面です。
借りたものは返しましょう。
代金は払いましょう。
はい、おっしゃる通り。
でもその横に、
「ただし、いつ?」
と小さく書いてある。
この「いつ」が、今日の主役でした。
「川原さん」
大槻所長が低い声で言いました。
「契約書では、残代金の支払日は七月三十一日ですね」
「だから何だ! 払うことには変わりないだろう!」
「変わります」
私は思わず言っていました。
全員がこっちを見る。
しまった。
また事務見習いがしゃしゃり出ました。
でも、もう遅い。
「払うことと、今払わなければならないことは、別です」
川原さんの眉が吊り上がりました。
「何だ嬢ちゃん」
あ。
嬢ちゃん。
この時代、不動産業界で女が法律の話をすると、大体まず年齢確認から入られます。
「藤崎栞です。嬢ちゃんではありません」
「十八だろ」
「……嬢ちゃん寄りではあります」
真壁さんが横で吹き出しました。
「栞、お前、自分で折れるな」
「事実には勝てません」
所長がこほん、と咳をしました。
笑っている場合ではない。
私は契約書を指差しました。
「ここに『七月三十一日に残代金を支払う』とあります」
「見りゃ分かる!」
「なら、その日までは水野さんには、原則として支払わなくていい時間があります」
「……何だって?」
「期限の利益です」
空気が止まりました。
川原さんは明らかに、
何だその必殺技。
という顔をしています。
安心してください。
私も前世で初めて聞いた時、そう思いました。
期限の利益。
名前だけ聞くと、締切を延ばしてもらえる裏技みたいですが、そうではありません。
「水野さんは七月三十一日まで、残代金を用意すればいいという約束をしているんです」
「でも金を払う義務はある!」
「あります」
「なら今払え!」
「まだ、その時期が来ていません」
「屁理屈だ!」
「法律です」
ぴしゃりと言うと、真壁さんが横で小さく、
「強えなあ」
と呟きました。
聞こえてます。
川原さんは所長を睨みました。
「大槻さん! あんたんとこの見習い、こんなこと言ってるぞ!」
「聞いてます」
「止めないのか!」
「間違っていれば止めます」
所長は静かに答えました。
「今のところ、止める理由はありません」
うわ。
所長から援護射撃が来ました。
威力が戦艦です。
川原さんの勢いが、ほんの少し鈍りました。
私はその隙に、水野さんへ尋ねました。
「残代金の準備は、七月末なら問題ないんですね?」
「はい」
水野さんの奥さんが頷きました。
「銀行にも、その日程で融資をお願いしています。工場の機械を移すのも八月からで……」
「つまり、この支払日は適当に決めた日ではない」
「そうなんです」
水野さんが言いました。
「資金繰りを全部、それに合わせています」
そう。
期限って、ただのカレンダーの数字じゃない。
その日まで払わなくていいから、人はお金を回せる。
その日まで待ってもらえるから、別の支払いができる。
その日から始まるから、準備ができる。
その日で終わるから、次へ進める。
時間そのものに、経済的な価値があるんです。
「でも俺は金が要るんだ!」
川原さんが再び声を荒らげました。
「今月末までに三百万円返さなきゃならん! この土地を売れば払えると思ってたんだ!」
その瞬間。
水野さん夫妻の顔が変わりました。
ああ。
そういう事情か。
ただの強欲ではない。
川原さんも、追い詰められている。
でも。
追い詰められているからといって、他人の期限を勝手に縮めていいことにはならない。
そこは分けなければいけません。
感情と、契約は。
「川原さん」
所長が言いました。
「契約を結んだ時、七月三十一日で納得されたんですよね」
「その時はな!」
「なら、今になってご自分の資金繰りが変わったからといって、水野さんに六月中の支払いを強制するのは難しい」
「じゃあ俺に死ねってのか!」
「誰もそんなことは言ってません」
所長の声は静かでした。
でも静かな方が、怒鳴り声より強いことがあります。
「あなたの借金の期限と、この売買契約の期限は別です」
――それだ。
私は思わず所長を見ました。
今の一言で全部整理された。
川原さんには、六月末までに借金を返さなければならない事情がある。
水野さんには、七月末まで残代金を払わなくていい契約上の地位がある。
期限と期限がぶつかっている。
でも、先に迫っている期限が、後ろの期限を勝手に引っ張っていいわけではない。
カレンダーは一本ですが、契約は別々です。
「だったらどうすりゃいいんだよ……」
川原さんの声が急に小さくなりました。
さっきまで机を叩いていた手が、膝の上に落ちる。
「六月末なんだよ。三百万円。あと二十日しかねえんだ」
事務所が静かになりました。
この人は、この人で怖かったのだ。
たぶん。
期限が。
私は契約書を見ました。
七月三十一日。
確実に来る日。
期限。
でも――期限にはもう一つの顔があります。
期限の利益は、利益を受ける側が放棄することもできる。
つまり、水野さんが自分の意思で、
「早く払ってもいい」
と思うなら、それ自体はあり得る。
もちろん、強制はできない。
しかも、早く払うことで相手側や自分たちに不利益が出ないよう、条件をきちんと整える必要がある。
私は水野夫妻の方を向きました。
「水野さん」
「はい?」
「無理に払う必要はありません」
まず、そこをはっきり言う。
「七月三十一日まで払わなくていい。その前提は変わりません」
夫妻が頷く。
「ただ……もし資金の一部だけ先に用意できる可能性があるなら、別の合意を作る方法はあるかもしれません」
川原さんが顔を上げました。
「何?」
真壁さんもこちらを見る。
「全部一千六百二十万円を今払え、は無理です。でも、たとえば手元資金の範囲で一部を前倒しする。その代わり、引渡しや登記に必要な準備も対応できる範囲で前に進める」
「栞」
真壁さんが低い声で割って入りました。
「それ、水野さんに得がなきゃ駄目だぞ」
「はい」
さすが実務。
そこを忘れちゃいけない。
善意だけで契約をいじると、大体あとで誰かが泣きます。
「だから、水野さんが困るならやらない」
私は言いました。
「それに、銀行融資の日程もあります。勝手に決める話じゃありません」
所長が頷きました。
「まず銀行に確認だな」
真壁さんが電話を引き寄せました。
「俺が担当に聞く。融資実行の一部前倒しができるか、それともつなぎの方法があるか」
「えっ」
川原さんが目を見開いた。
「そんなこと、できるのか?」
「できるかどうかを聞くんだよ」
真壁さんが受話器を持ちながら言いました。
「最初から人の財布を当てにするより、まず自分の借入先と話せ」
「……」
「期限が来る前に困ったんなら、期限が来る前に相談する。それが普通だろ」
顔は怖い。
でも言うことは優しい。
ずるい人だな、この先輩。
◇
一時間後。
話は思わぬところに着地しました。
水野さんの銀行から売買代金全額を早く出すことは難しい。
当然です。
銀行は魔法使いではありません。
しかし、川原さんの借入先へ事情を説明すると、土地売却契約が成立していて、七月末に代金が入ることを資料で示せば、返済期限について相談に応じる余地があるという話になった。
つまり。
川原さんが水野さんの七月三十一日を六月へ引きずり込む必要は、そもそもなかった。
自分の六月末の期限について、債権者と話をすればよかったのです。
「……延ばしてもらえるかもしれないのか」
川原さんが、ぽつりと言いました。
「確約はできない」
所長が答えます。
「だが、少なくとも話し合う余地はあるそうだ」
「そうか……」
川原さんは、長いこと黙っていました。
それから水野夫妻の方を向きました。
「……悪かった」
水野さんが少し驚く。
「俺、金が要るって頭しかなくて……あんたらの事情まで考えてなかった」
「いえ……」
「七月末でいい。契約通りで」
奥さんが、ほっと息を吐きました。
その顔を見て、私まで肩の力が抜ける。
大事件ではありません。
土地を取られたわけでもない。
詐欺師を追い払ったわけでもない。
でも、一千六百二十万円を一か月以上も前倒しで用意しろと言われるのは、普通の人にとって十分に大事件です。
法律には、派手な必殺技はありません。
ただ、
「まだ、その日じゃありません」
と言ってくれることがある。
それだけで助かる人がいます。
◇
昼過ぎ。
川原さんたちが帰ったあと、私は机に突っ伏していました。
「……疲れた」
「お前、今日ほとんど喋ってただけだろ」
真壁さんが缶コーヒーを開けながら言います。
「喋るのが一番疲れるんですよ」
「十八歳の台詞じゃねえな」
「中身はだいぶ使い込まれてますので」
「何の話だ」
「こちらの話です」
私は顔を上げました。
「でも、期限って面白いですね」
「急に勉強モード入るな」
「だって、今日の七月三十一日って、確定期限ですよね」
「……お前、また始まったな」
「日付が決まってるから確定期限」
「はいはい」
「そして残代金を払う期限だから、水野さんにはその日まで払わなくていい利益がある」
「期限の利益な」
「お」
私は目を見開きました。
「覚えましたね?」
「散々言ってたからな」
「成長しましたね、真壁さん」
「お前に育てられた覚えはない」
そこへ所長が帳簿を持って戻ってきました。
「何を騒いでる」
「栞が俺を生徒扱いするんです」
「事実では?」
「所長まで!」
私は笑いました。
そして、ふと思いついて聞きました。
「所長。期限って、日付が決まってなくても期限なんですよね?」
「そうだ」
「例えば……『この人が死んだら土地を返す』とか」
真壁さんが嫌そうな顔をしました。
「昼飯前に死ぬ話するなよ」
「法律の例です」
「もっと明るい例はないのか」
「『次のオリンピックが始まったら』とか?」
「それならまだいい」
所長が苦笑します。
「要するに、いつ来るか決まっていなくても、来ること自体が確実なら期限になり得る」
「条件との違いですね」
「ああ」
私は頭の中で整理しました。
来るかどうか分からない。
それが条件。
来ることは確実。
それが期限。
「雨が降ったら土地を買う」
「条件だな」
「来年一月一日から借りる」
「期限」
「真壁さんが結婚したら祝い金を払う」
「条件」
「……」
「なんで黙る」
「発生が確実かどうか考えてました」
「おい」
「栞」
所長が珍しく口元を緩めました。
「そこは深掘りするな」
「はい」
「所長まで何なんですか!」
真壁さんの声が響く。
さっきまで重かった事務所に、笑い声が戻りました。
◇
数日後。
川原さんがまた事務所にやってきました。
今度は怒鳴りませんでした。
手に、菓子折りを持っていました。
「借入先、七月末まで待ってくれることになったよ」
「本当ですか?」
「ああ」
川原さんは照れくさそうに頭を掻きました。
「契約書見せて、土地の代金が七月末に入るって説明したらな。利息は少しかかるが、それで済んだ」
「よかったですね」
「ああ」
そして、少し間を置いてから言いました。
「期限ってのは……守るもんなんだな」
私は笑いました。
「守るものでもありますし、守ってくれるものでもあります」
「守ってくれる?」
「はい」
「どういう意味だ」
「水野さんにとって七月三十一日は、『そこまでは払わなくていい』って守ってくれる日でした」
「……なるほどな」
「川原さんにとっても、新しく七月末まで待ってもらえたなら、その日までは少し時間ができた」
「そうか」
川原さんは、しばらく黙っていました。
それから、
「時間って、金になるんだな」
と言いました。
不動産を何件も扱ってきたであろう人の言葉にしては、妙に素朴でした。
でも、たぶんその通りです。
一か月。
一週間。
一日。
それだけの時間があれば、金を用意できる人がいる。
仕事を片づけられる人がいる。
家族と相談できる人がいる。
期限とは、単なる締切ではない。
その日まで待ってもらえる権利でもある。
「ところでこれ」
川原さんが菓子折りを差し出しました。
「皆さんで食べてくれ」
「ありがとうございます」
受け取った瞬間、真壁さんが覗き込みました。
「何だ?」
「羊羹ですね」
「お、いいな」
「まだ開けませんよ」
「なんで」
「三時のおやつです」
「今二時五十分だぞ」
「期限前です」
「十分くらいいいだろ!」
「駄目です」
「お前、今日覚えた法律を何にでも使うな!」
私は箱を抱えて逃げました。
「三時になったら開けます」
「俺は期限の利益を放棄する!」
「真壁さんに期限の利益はありません。羊羹の所有者はまだ事務所です」
「細けえ!」
所長が新聞の向こうで笑っていました。
◇
午後三時。
きっかり時間になって、私は羊羹を切りました。
「はい、真壁さん」
「ようやくか」
「期限が到来しました」
「いちいち言うな」
「所長もどうぞ」
「ああ」
三人で羊羹を食べる。
甘い。
お茶が合う。
窓の外では、西日が古い商店街を照らしていました。
私は机の上の契約書を見ました。
七月三十一日。
たった六文字の日付。
でも、その日付が一組の夫婦の資金繰りを守った。
そして結果的には、追い詰められていた売主にも、別の道を探す時間を与えた。
前世では、
期限。
始期。
終期。
確定期限。
不確定期限。
期限の利益。
そんな言葉を、ただ試験に出る順番で覚えていました。
語呂合わせを作って。
線を引いて。
間違えて。
また覚えて。
でも、今なら少し分かります。
法律でいう期限は、人を急かすためだけにあるんじゃない。
時には、
「まだ急がなくていい」
と止めてくれるためにもある。
私は羊羹をもう一切れ取ろうとしました。
その瞬間。
真壁さんの箸とぶつかりました。
「それ俺が狙ってた」
「早い者勝ちです」
「期限は?」
「設定されてません」
「汚えぞ!」
私は羊羹を確保して笑いました。
昭和六十三年。
土地の値段も、人の欲も、何もかもが急いでいるように見える時代。
そんな時代だからこそ。
約束した日くらいは、ちゃんと待ってもいいのかもしれません。
期限は、必ず来ます。
だからこそ――。
来る前まで、勝手に今日にしなくていいのです。
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