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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権

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[債務不履行]現場編 約束を守っていないのは、どっちですか

挿絵(By みてみん)

 約束というものは、不思議です。


「今度ご飯行こうね」


「落ち着いたら連絡します」


「前向きに検討します」


 このあたりは、守られなくても世間はだいたい流してくれます。


 むしろ最後のやつなんて、守られない前提で使われている節すらあります。


 でも。


「三千万円払います」


「土地を引き渡します」


 ここまで来ると話は別です。


 守らなかった瞬間、名前がつきます。


 ――債務不履行。


 法律というものは、人間関係がこじれた途端、急に難しい名前をつけたがる。


 そして昭和六十三年の不動産屋で働き始めた私は、その言葉が教科書の中だけに生息している生き物ではないことを、嫌というほど思い知らされることになりました。


「違約金、五百万円ですって……?」


 朝九時十二分。


 大槻不動産の応接机を挟んで、佐野正夫さんは真っ青になっていました。


 五十歳くらいの、日に焼けた顔の男性です。


 小さな印刷会社を経営していて、今度、工場兼事務所を建てるために町外れの土地を買う予定だった。


 売買代金は三千万円。


 手付金三百万円はすでに支払い済み。


 残代金二千七百万円の決済日は、昨日。


 ところが佐野さんは、その残代金を払わなかった。


 そこだけ聞けば、まあ、売主が怒るのも分かります。


 約束の日にお金を払わない。


 教科書なら、赤ペンを持った先生が嬉々として、


 【履行遅滞】


 と書き込む場面です。


 ただし。


 不動産の揉め事というのは、だいたい「そこだけ聞けば」が危ない。


「それで今朝、売主の仲介会社から電話が来まして……」


 佐野さんが震える手で、一枚の紙を差し出しました。


 真壁さんが受け取り、眉をひそめる。


「契約解除通知……損害賠償請求……違約金五百万円……」


「払わないなら訴えると」


「ずいぶん元気だな」


 真壁さんの声が低くなりました。


 顔が怖い人が低い声を出すと、それだけで若干の強制執行感があります。


 所長の大槻さんは、黙って書類を読んでいる。


 私はその横から覗き込みました。


 売主は、地元の資産家・久世源一郎さん。


 仲介は東央土地開発。


 決済日は九月十五日。


 買主が残代金を支払わなかったため契約解除。


 さらに契約書の違約金条項に基づき五百万円を請求する。


 文章だけなら、きれいです。


 非常にきれい。


 きれいすぎて、逆に怪しい。


「佐野さん」


 私は聞きました。


「どうして昨日、代金を払わなかったんですか?」


「それが……」


 佐野さんは悔しそうに唇を噛みました。


「払わなかったんじゃないんです」


「はい」


「払えたんです」


「……え?」


「銀行にも用意してありました。二千七百万円。昨日の朝から」


 真壁さんが顔を上げました。


「じゃあ、なんで決済しなかった?」


「土地を渡してくれなかったんです」


 事務所が静かになった。


 私は瞬きをしました。


「詳しくお願いします」


「昨日、銀行に集まったんです。私と売主さんと、東央土地の担当者と、司法書士さんと」


「はい」


「それで司法書士さんが、売主さんに権利証とか印鑑証明とかを出してくださいって言ったら……」


 佐野さんは困った顔をしました。


「持ってきてなかったんです」


「全部?」


「権利証がない、と」


 真壁さんの眉間に一本、深い溝ができました。


「それで?」


「最初は、あとで持ってくるって。でも話を聞いていたら、どうも紛失しているらしくて」


「……ああ」


 私は思わず声を漏らしました。


 昭和六十三年です。


 まだ「登記識別情報」ではなく、権利証の時代。


 もちろん権利証がなければ絶対に所有権移転登記ができない、という単純な話ではありません。


 でも少なくとも、決済当日に「実はなくしました」は、不動産取引においてかなり心臓に悪い告白です。


「司法書士さんも、それじゃ今日すぐ登記できないと言って」


「当然だな」


 真壁さんが言いました。


「それで私は、『ちゃんと移転できる状態にしてもらってから払います』と言ったんです」


 佐野さんは通知書を見つめました。


「そしたら今朝になって、私が約束を破ったって……」


 私は椅子に座り直しました。


 なるほど。


 そういうことか。


 土地を買う。


 買主は代金を払う。


 売主は土地を引き渡し、所有権移転登記に必要な手続に協力する。


 売買契約では、双方に「やること」がある。


 なのに東央土地は、そのうち片方だけを切り取った。


 ――佐野さんは払わなかった。


 それだけを。


「栞」


 所長が初めて口を開きました。


「どう見る」


 最近、所長は時々こうやって私に振ってきます。


 十八歳の事務見習いに突然法律問題を投げるの、教育なのか人体実験なのかまだ判断がついていません。


 私は少し考えて答えました。


「まず、佐野さんが残代金を払っていないこと自体は事実です」


 佐野さんの顔が曇る。


「でも」


 私は続けました。


「それだけで、佐野さんだけが約束を破ったとは言えないと思います」


「……どういうことです?」


「売買契約って、一方通行じゃないからです」


 机の上にあったメモ用紙を引き寄せました。


 左側に、


  買主・佐野さん


 右側に、


  売主・久世さん


 と書く。


「佐野さんは、二千七百万円を払う義務があります」


「はい」


「でも久世さんにも、土地を引き渡して、所有権移転登記に必要な手続をする義務があります」


「……はい」


「両方とも債務です」


 私は二人の名前の間に、矢印を二本引きました。


 片方だけじゃない。


 行って、返ってくる。


「売買って、約束と約束の交換なんです」


 真壁さんが横から覗き込む。


「なるほどな」


「だから売主さんが、自分のほうを履行できる状態にしていないのに」


 私は解除通知を指しました。


「『お前が金を払わなかったから債務不履行だ』だけで押し切るのは、おかしいです」


「……!」


 佐野さんが顔を上げました。


「じゃあ私は、払わなくてもよかったんですか?」


「そこは慎重に言います」


 私は答えました。


「“払わないでいい契約”という意味じゃありません。売主さんがきちんと引渡しや登記手続をするなら、佐野さんも払わなければいけません」


「はい」


「でも売主側が自分の義務を果たそうとしないなら、買主側にも『そちらがやらないなら、こちらもまだやりません』と言える場合があります」


 真壁さんが私を見ました。


「同時履行か」


「はい」


 私は頷きました。


「同時履行の抗弁権です」


 佐野さんが首を傾げる。


「こうべん……?」


「簡単に言うと」


 私はペンを置きました。


「土地を渡してください。そうしたら代金を払います」


「……はい」


「逆に売主さんも、代金を払ってください。そうしたら土地を渡します」


「はい」


「普通の売買は、そういう関係ですよね」


「ええ」


「なのに売主さんが『俺は土地を渡す準備できてないけど、お前だけ先に三千万円払え』と言い出したら」


 佐野さんが苦笑しました。


「それは怖いですね」


「ですよね」


 私は頷きました。


「民法も、そこまで無茶は言いません」


 真壁さんが鼻で笑った。


「民法が言わなくても、不動産屋は言う奴がいるけどな」


「業界の自虐やめてください」


「事実だ」


「なお悪いです」


 でも。


 私はもう一度通知書を見ました。


 まだ一つ、確認しなければならない。


「佐野さん」


「はい?」


「昨日、本当に代金は用意していたんですよね?」


「もちろんです」


「証明できますか?」


「銀行の支店長さんが同席していました。融資分も自己資金も、全部準備できていました」


「売主さんに、『登記手続ができるならすぐ払う』と伝えました?」


「何度も言いました」


「司法書士さんも聞いていました?」


「はい」


 よし。


 かなり強い。


 佐野さんは単に金がなくて逃げたのではない。


 自分は履行できる状態で待っていた。


 一方、売主側に問題が起きた。


 そして、それを理由に決済を留保した。


 なのに翌朝、買主だけを債務不履行扱い。


 これはだいぶ話が見えてきた。


 所長が静かに立ち上がりました。


「真壁」


「はい」


「東央土地に電話しろ」


「今から?」


「今からだ」


「何て?」


 所長は解除通知を机に置いた。


「今日の午後、うちで話をしようと伝えろ」


 それだけだった。


 でも声が静かな分、怖い。


 大槻所長は声を荒らげない。


 怒鳴らない。


 机も叩かない。


 ただ相手が逃げられないように、話を順番に並べる。


 たぶん法律より怖い。


 午後二時。


 東央土地開発からやってきたのは、営業部長の黒田という男でした。


 四十代後半。


 濃紺のスーツ。


 金色の腕時計。


 入ってくるなり、笑顔です。


「いやあ、大槻さん。わざわざこんな話で」


 こんな話。


 五百万円請求されている佐野さんの顔が引きつりました。


 人間、自分が請求する五百万円は「こんな話」になるらしい。


 便利な金銭感覚です。


 黒田さんはソファに座ると、契約書を机に広げました。


「話は単純ですよ」


 来た。


 揉め事で「話は単純」と言う人の話は、だいたい単純ではありません。


「決済日は昨日です。買主さんは残代金を支払わなかった。契約違反です」


「なるほど」


 所長は言いました。


「それで?」


「それでって……債務不履行でしょう」


「どの債務だ」


 黒田さんが少し黙りました。


「……残代金支払債務ですよ」


「売主の債務は?」


「は?」


「この売買契約で、売主は何をする」


 所長は相変わらず静かでした。


 黒田さんは眉を寄せる。


「土地を引き渡しますよ」


「所有権移転登記は?」


「もちろん協力します」


「昨日できたのか」


 止まりました。


 本当に、ぴたりと。


「……それは」


「権利証がなかったそうだな」


「紛失しただけです。あとで手続すれば――」


「昨日できたのか」


「ですから!」


 黒田さんの声が少し大きくなった。


「登記なんて後からでもできます!」


 所長の目が細くなりました。


「なら、あなたは三千万円の不動産決済で、買主に先に全額払わせ、所有権移転登記ができるか分からない状態で帰らせるのか」


「そういう意味では――」


「どういう意味だ」


 所長、圧がすごい。


 私は横で黙ってお茶を置きました。


 これが本当の圧迫面接ならぬ圧迫決済。


 黒田さんは咳払いしました。


「とはいえ、買主さんが払わなかったのは事実でしょう」


「はい」


 私が言いました。


 全員がこちらを見た。


「そこは事実です」


 黒田さんが少し得意そうになる。


「ほら」


「でも」


 私は契約書を指しました。


「“払わなかった”のと、“払わなかったから直ちに債務不履行になる”のは同じじゃないですよね」


「……何?」


「売買では、お互いに債務があります」


 私は紙を一枚出しました。


 午前中に書いた図です。


  売主 → 土地の引渡し・登記手続


  買主 → 代金支払い


「昨日、佐野さんは代金を用意していました」


「結果的に払っていない」


「売主さんが履行の準備をしていなかったからです」


「権利証一枚でしょう」


「その一枚が、不動産取引では軽くないでしょう」


 黒田さんの顔が険しくなった。


「嬢ちゃん、法律ごっこなら学校でやってくれ」


 あ。


 それ言うんだ。


 真壁さんが動きかけました。


 私は足で軽く椅子を蹴って止める。


 大丈夫です。


 こういうの、前世の宅建勉強でも散々やられました。


 問題文のほうがもっと性格悪かったです。


「じゃあ、法律ごっこで一つだけ」


 私は笑いました。


「黒田さん。佐野さんが昨日、何も言わずに二千七百万円を持って帰ったなら、話は違うかもしれません」


「……」


「でも佐野さんは、『所有権移転の手続ができるなら、その場で払う』と伝えています」


「だから何だ」


「銀行の方も司法書士さんも、それを聞いています」


 黒田さんの目がわずかに動きました。


「売主さんは自分の債務を履行できる状態にない。一方、買主さんは代金を用意して、相手が履行するならすぐ支払うと待っていた」


 私は通知書を指先で軽く叩きました。


「それで、買主だけを履行遅滞にして解除するんですか?」


 沈黙。


 いい沈黙です。


 法律で相手を言い負かす時に気持ちいいのは、大声ではありません。


 相手の口から、次の理屈が出てこなくなる瞬間です。


「しかも」


 真壁さんが続けました。


「五百万の違約金まで取る気だったんだろ」


「契約書に書いてある」


「契約書に違約金って書けば、どんな場合でも請求できると思ってるのか?」


「……」


「佐野さんが勝手に払わなかったならともかく、そっちが決済準備を整えられなかったんだろうが」


 黒田さんは腕を組みました。


「では、どうしろというんです」


 所長が答えました。


「簡単だ」


 低い声。


「約束を守れ」


 黒田さんが所長を見る。


「売主側で、所有権移転登記ができる状態を整える。司法書士と協議して必要な手続を済ませる。新しい決済日を決める」


 所長は佐野さんを見る。


「その日に佐野さんは残代金を支払う」


「もちろんです」


「それで終わりだ」


 黒田さんが言いました。


「解除通知は?」


「撤回してもらう」


「違約金は?」


「何の違約に対する金だ」


 また止まった。


 所長、強い。


 怖い顔の真壁さんより静かな所長のほうが怖いの、会社として戦力配分がおかしい。


 黒田さんは契約書を閉じました。


「……売主と相談します」


「相談では困る」


 所長が言う。


「今日中に返事をくれ」


「大槻さん」


「何だ」


「ずいぶん買主寄りですね」


 所長は少しだけ笑いました。


「違う」


 黒田さんが眉を上げる。


「契約寄りだ」


 その一言で、私はちょっとだけ背筋が伸びました。


「売主にも守るべき約束がある。買主にもある。どちらか一方だけを見て仕事をするなら、それは仲介じゃない」


 黒田さんは何も答えませんでした。


 その日の夕方。


 東央土地から電話が来ました。


 解除通知は撤回。


 違約金請求もしない。


 権利証紛失への対応を司法書士と進めたうえで、改めて決済日を設定する。


 佐野さんは電話口で、何度も、


「ありがとうございます」


 と言いました。


 でも、所長は淡々としていました。


「まだ終わってませんよ。決済して、登記が終わるまでが取引です」


 不動産屋版「家に帰るまでが遠足です」である。


 金額が三千万円なので、遠足としてはだいぶ重い。


 一週間後。


 再決済の日。


 私は真壁さんについて銀行へ行きました。


 売主の久世さんは、以前よりずっと小さく見えました。


「佐野さん……申し訳なかった」


 久世さんは頭を下げました。


「権利証が見つからなくて、私も焦ってしまって」


 聞けば、引っ越しの際に古い書類箱を処分してしまい、その中に入っていた可能性が高いらしい。


 悪意があったわけではない。


 ただ焦った。


 そして仲介会社が、


「とにかく買主から先に払わせましょう」


 と押してしまった。


 佐野さんはしばらく黙っていました。


「久世さん」


「はい」


「私だって、払いたくなかったわけじゃありません」


「……ええ」


「この土地、本当に欲しかったんです」


 佐野さんは窓の外を見ました。


「うちは狭い工場でね。機械を一台増やすたびに、人がカニみたいに横歩きしてるんですよ」


 私は吹き出しそうになりました。


 横で真壁さんも口元を押さえています。


「社員にずっと、もう少し広いところに移るって言ってまして」


 佐野さんは笑った。


「だから、昨日今日でやめたい契約じゃなかったんです」


 久世さんの肩から、少し力が抜けた。


「……大事に使ってください」


「もちろんです」


 司法書士さんが必要書類を一つずつ確認する。


 今度は問題なし。


 代金の支払い。


 領収書。


 登記手続。


 鍵と関係書類の引渡し。


 一つずつ。


 約束が、約束どおり交換されていく。


 私はその様子を見ながら、不思議な気持ちになっていました。


 債務。


 債権。


 履行。


 債務不履行。


 教科書で見ると、全部、硬い。


 漢字ばかりで、人間味がない。


 でも実際には、


「お金を払います」


「土地を渡します」


 それだけのことなんです。


 お互いが、相手に何かを約束する。


 その約束が守られるから、人は何千万円というお金を動かせる。


 逆に。


 一つでも欠けると、全部が怖くなる。


 契約というのは、紙ではなく。


 紙に書かれた約束を、お互いが本当に守るという信用の上に立っている。


     ◇


 銀行を出ると、佐野さんが私たちを呼び止めました。


「藤崎さん」


「はい」


「これ」


 渡されたのは、細長い紙袋でした。


「何ですか?」


「うちで刷ったメモ帳です」


「メモ帳?」


「印刷会社ですから」


 中を見ると、大槻不動産の名前が入った立派なメモ帳が何冊も入っています。


「昨日、余った紙で作ったんです」


「こんなの、いただいていいんですか?」


「もちろん」


 佐野さんは笑いました。


「約束を守ってもらったお礼です」


「いえ、私はそんな……」


「それと」


「はい?」


「新しい工場ができたら、看板も見に来てください」


「看板?」


「『佐野印刷』って大きく出しますから」


 少し照れたように笑う。


「約束ですよ」


 私は思わず笑いました。


「それは守ってくださいね」


「もちろん」


「債務不履行は困りますから」


 一瞬、佐野さんがぽかんとして。


 それから声を上げて笑いました。


 帰りの車。


 真壁さんが運転しながら言いました。


「しかし、お前」


「はい」


「よくあそこで言い返したな」


「何をです?」


「法律ごっこ」


「ああ」


 私は助手席でメモ帳をぱらぱらめくりました。


「腹は立ちましたよ」


「だろうな」


「でも、法律って怒ったほうが勝つ競技じゃないので」


「ほう」


「誰が、誰に、何を約束したか」


 私は指を折りました。


「誰が履行したのか」


 二本目。


「誰が履行していないのか」


 三本目。


「履行しないことに正当な理由があるのか」


 四本目。


「それを順番に整理すればいいだけです」


 真壁さんが横目で私を見ました。


「……十八の言う台詞じゃねえな」


「十八にも色々あるんです」


「例えば?」


「前世で宅建の過去問に人格を破壊された十八とか」


「だから意味が分からんって」


「私もです」


 信号が赤になり、車が止まりました。


 真壁さんが缶コーヒーを一本、私の膝に置いた。


「ほら」


「ありがとうございます」


「今日の報酬」


「安くないですか?」


「見習いのくせに報酬交渉すんな」


「資本主義社会ですよ」


「昭和をなめんな」


「昭和のほうが資本主義が元気じゃないですか」


「口が減らねえなあ」


 信号が青になりました。


 車がゆっくり走り出す。


 窓の外には、田んぼの向こうに新しい造成地が見えました。


 これから家が建つ。


 工場が建つ。


 店が建つ。


 その一つ一つの裏で、誰かが誰かに約束している。


 売ります。


 買います。


 貸します。


 払います。


 建てます。


 渡します。


 そして、その約束が守られなかった時。


 法律が出てくる。


 事務所へ戻ると、所長が机で書類を読んでいました。


「終わったか」


「無事に」


「そうか」


 それだけ言って、また書類へ目を落とす。


 私は佐野さんにもらったメモ帳を一冊、所長の机に置きました。


「何だ、これは」


「佐野さんからです」


「もらったのか」


「はい。『約束を守ってもらったお礼』だそうです」


 所長はメモ帳を手に取った。


 表紙には、


 ――大槻不動産


 と、きれいな紺色の文字で刷られている。


「……そうか」


 所長がほんの少し笑いました。


 私は自分の机へ戻り、同じメモ帳の最初のページを開きました。


 そして、今日覚えたことを一行だけ書く。


  債務不履行――約束を守らないこと。


 その下に、


  でも、「守っていないのは誰か」を先に確認する。


 と足しました。


「栞」


 所長が呼びました。


「はい?」


「もう一つ書いておけ」


「何ですか?」


「契約は、片方だけの約束じゃない」


 私は少しだけ目を見開きました。


 それから、二行目に付け足します。


  契約は、片方だけの約束じゃない。


「おお」


 真壁さんが後ろから覗き込みました。


「今日はずいぶん立派なこと書いてるな」


「でしょう?」


「じゃあ、その下にこれも書いとけ」


「何ですか」


「缶コーヒー代、一本百円」


「請求するんですか!?」


「債権だからな」


「そこだけ覚えないでください!」


 所長が吹き出しました。


 真壁さんも笑う。


 私も、結局笑ってしまった。


 窓の外では、夕方の光が事務所のガラスを橙色に染めていました。


 今日の事件では、誰かが完全な悪人だったわけではない。


 売主は焦った。


 仲介会社は強引だった。


 買主は不安になった。


 ほんの少し順番を間違えただけで、三千万円の売買が壊れかけた。


 でも。


 誰が何を約束したのか。


 誰が何をまだ果たしていないのか。


 それを一つずつ並べ直せば、絡まった糸はほどけることがある。


 法律は時々、難しい言葉を使います。


 債権。


 債務。


 履行遅滞。


 履行不能。


 不完全履行。


 損害賠償。


 解除。


 強制執行。


 同時履行の抗弁権。


 初めて見た時は、漢字の暴力だと思いました。


 でも、その真ん中にあるものは案外単純です。


 約束したなら、守る。


 相手だけに守れと言う前に、自分も守る。


 それだけです。


 私はメモ帳を閉じました。


 昭和六十三年。


 土地の値段が上がり、人の欲も焦りも膨らんでいく時代。


 そんな時代だからこそ、約束を順番に並べる人間が必要なのかもしれません。


「栞、帰るぞ」


「はーい」


「戸締まり頼む」


「それ、真壁さんの仕事じゃないんですか?」


「今日はお前」


「聞いてません」


「今言った」


「それは契約じゃありません」


「口約束も契約になるぞ」


「ぐっ……」


 法律知識を業務命令に悪用された。


 私は渋々、窓の鍵を確認しました。


 最後に事務所の照明を落とす。


 真っ暗になった部屋で、佐野さんからもらった白いメモ帳だけが、窓から差す夕暮れの光を少しだけ返していました。


 約束は、目には見えない。


 だから人は、それを契約書に書く。


 でも。


 紙に書いただけでは、まだ足りない。


 最後に必要なのは。


 やっぱり、人がちゃんと守ることなのだと思います。


 ――願わくば明日は、誰も約束を破りませんように。


 ……まあ。


 不動産屋に勤めている限り、それはたぶん無理なんですけどね。

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