[債権と債務]現場編 その請求書、持っていく相手を間違えてます
請求書というものは、金額よりも宛名が大事です。
百万円と書いてあっても、宛名を間違えればただの紙。
逆に千円でも、自分の名前が書いてあればちょっと気になります。
つまり世の中、
「何を請求するか」
と同じくらい、
「誰に請求するか」
が大切なのです。
――ということを、私は昭和六十三年の夏、怒鳴り声とともに学びました。
「だから俺は、この土地に塀を作ったんだよ!」
午前十時。
大槻不動産の事務所に、ドン、と分厚い手のひらが落ちました。
湯飲みが跳ねました。
私の心臓も跳ねました。
お茶まで跳ねました。
「ちょっ、こぼれます!」
「栞、お前が最初にそこかよ」
真壁さんが呆れた声を出します。
「だって熱いんですよ!」
「客が怒鳴り込んできてるんだぞ」
「だからって火傷していい法律はありません」
「そんな法律の話してねえ」
目の前で怒っているのは、五十歳くらいのがっしりした男性でした。
作業着。
日に焼けた腕。
指にはセメントが染み込んでいる。
地元の左官業者、石黒工務店の石黒さんです。
その隣には、困り果てた顔をした細身の男性が座っていました。
こちらは高瀬さん。
三日前、大槻不動産の仲介で中古住宅を購入したばかりの人です。
「いいですか!」
石黒さんが高瀬さんを指さしました。
「この人が買った土地の塀は、俺が作ったんです!」
「はい……それは聞きました」
「代金が八十万円!」
「それも聞きました」
「だったら払ってもらわないと困る!」
「ええっ!?」
高瀬さんが悲鳴を上げた。
「どうして私が!?」
「どうしてって、この塀はあんたのもんだろう!」
石黒さんが窓の外を指さしました。
正確には見えません。
現場はここから車で十五分です。
でも勢いとしては、たぶん塀まで指さしていました。
「俺が金もらってないまま、その家ごとあんたが買ったんだ。だったら今の持ち主が払うのが筋だろう!」
――なるほど。
私はお茶を拭きながら、頭の中で話を整理しました。
この中古住宅。
もともとの所有者は、坂口さんという男性でした。
坂口さんは家を売りに出す前に、古くなったブロック塀を新しくしました。
工事を請け負ったのが石黒さん。
工事代金八十万円。
ところが坂口さんは支払わないまま、家と土地を高瀬さんに売却。
そして現在、坂口さんは町を離れている。
連絡もつきにくい。
そこで石黒さんは考えた。
塀は高瀬さんの土地にある。
高瀬さんが塀を持っている。
だったら高瀬さんに八十万円を払ってもらえばいい。
……気持ちは分かります。
かなり分かります。
八十万円踏み倒されたら、私だって視界が赤くなるでしょう。
でも。
それとこれとは別です。
「石黒さん」
所長が静かな声を出しました。
大槻所長は、声を荒げません。
荒げないのですが、この人が静かになると事務所全体が静かになります。
人間版の重石です。
「工事を頼んだのは誰です?」
「坂口さんですよ」
「契約した相手は?」
「坂口さんです」
「工事代金を払う約束をしたのも?」
「だから坂口さんです。でも――」
「なら」
所長が言いました。
「まず、請求する相手は坂口さんです」
石黒さんの眉が動きました。
「いや、だから! もう家はこの人の物なんですよ!」
「家が誰の物かと、工事代金を誰が払うかは、別の話です」
私はその言葉に、ぴくっと反応しました。
――あ。
これ。
昨日見たやつです。
いや、前世で何百回と見たやつです。
債権。
債務。
物権。
宅建テキストの冒頭あたりで、あまりにも基本すぎて油断して読み飛ばし、そのくせ後半になると全部の前提になって襲ってくるやつ。
民法界の「九九」です。
九九を忘れて連立方程式は解けません。
「所長」
私は思わず口を挟みました。
「これ、債権と物権が混ざってます」
真壁さんがこっちを見る。
「また始まったな」
「何ですか、その言い方」
「お前が急に法律用語を出す時、大抵ろくでもない事件だからな」
「事件が私に合わせて起きてるみたいに言わないでください」
石黒さんが苛立った顔で私を見る。
「お嬢ちゃん、何言ってるんだ?」
「簡単に言うとですね」
私は机に紙を一枚置きました。
そして、丸を三つ書く。
坂口さん。
石黒さん。
高瀬さん。
「石黒さんは、坂口さんに塀を作ってあげました」
「ああ」
「だから石黒さんには、坂口さんから八十万円を払ってもらえる権利があります」
「そうだよ!」
「これが債権です」
私は「石黒→坂口」と矢印を書きました。
「相手に何かをしてもらえる権利」
次に反対向きの矢印を書く。
「そして坂口さんには、石黒さんへ八十万円を払わなければならない義務があります」
「……それが?」
「債務です」
私は紙を指で叩きました。
「債権と債務は、表裏一体なんです」
石黒さんが眉間に皺を寄せる。
「表裏一体?」
「たとえば私が真壁さんに千円貸したら」
「貸してねえぞ」
「例です」
「嫌な例だな」
「私には真壁さんから千円返してもらえる権利がある。これが債権」
「はいはい」
「真壁さんには私へ千円返す義務がある。これが債務」
「勝手に借金持ちにするな」
「例ですってば」
私は続けました。
「つまり、同じ一つの関係を、権利側から見れば債権、義務側から見れば債務なんです」
石黒さんが腕を組みました。
「……じゃあ、俺は金をもらえる」
「はい」
「なら高瀬さんから――」
「そこが違います」
私は紙の「高瀬さん」に、大きなバツを書きました。
「石黒さんの債権は、“坂口さんに八十万円を払ってください”と言える権利です」
「だから、この塀が――」
「塀に対する権利じゃありません」
私は言いました。
「坂口さんという“人”に対する権利です」
事務所が静かになった。
「人に……?」
「はい」
私は紙の矢印を指しました。
「債権は、基本的に特定の相手に対して何かを請求する権利です」
石黒さん。
坂口さん。
その二人の間で結ばれた請負契約。
石黒さんは塀を完成させる。
坂口さんは報酬を払う。
そこに高瀬さんは入っていない。
「だから高瀬さんが後から土地を買っても、石黒さんの工事代金債務まで自動的に引き継ぐわけではありません」
「……そんな」
石黒さんの勢いが少し落ちました。
「だって、俺が作った塀を、この人が使うんだぞ」
「はい」
「だったら一円も払わなくていいってのか?」
「高瀬さんが、石黒さんとの契約に基づいて支払う義務は、少なくともそれだけでは生まれません」
私はできるだけゆっくり言いました。
「納得しにくいと思います。でも、“得をしているように見える人”と、“契約上お金を払う義務がある人”は、同じとは限らないんです」
石黒さんは黙り込んだ。
高瀬さんも、何も言わない。
私も少し胸が痛かった。
法律は、時々、気持ちのいい答えを出してくれません。
でも。
気持ちで相手を入れ替えてしまったら、契約はもっと壊れます。
所長が低く言いました。
「石黒さん。高瀬さんに払わせる話と、坂口さんからどう回収するかは分けましょう」
「……分ける?」
「ええ」
「逃げた坂口を追えっていうのか」
「まず連絡先を確認します。売買の際の資料もあります。こちらからも連絡を取ってみましょう」
「でも、もし払わなかったら?」
所長は少し間を置いた。
「その時は、そのための手続きを考える」
それ以上は軽々しく言わない。
所長は、こういう時に頼もしい。
法律を知っている人ほど、「絶対取れます」とは言わない。
世の中、絶対取れますと言う人ほどだいたい怪しい。
「……分かったよ」
石黒さんはようやく椅子に座った。
「高瀬さん」
「はい」
「怒鳴って悪かったな」
「い、いえ」
「俺も、金が飛んだと思ったら頭に血が上がっちまって」
「八十万円ですからね……」
「そうなんだよ」
二人の間の空気が、少しだけほどける。
よかった。
これで一件落着――。
とは、ならなかった。
電話が鳴った。
黒電話です。
昭和の電話は鳴るだけで緊急事態感がすごい。
ジリリリリリリリ!
「はい、大槻不動産です」
私が出る。
『もしもし! 真壁さんいらっしゃる!?』
女性の声でした。
「少々お待ちください」
受話器を押さえる。
「真壁さん、宮下さんです」
「宮下さん?」
真壁さんの顔が変わった。
「ああ、あの借地の?」
「はい」
受話器を渡す。
「もしもし、真壁です。……はい。はい?」
真壁さんの眉がだんだん寄っていく。
「ちょっと待ってください。今日ですか?」
嫌な予感。
不動産屋で「ちょっと待ってください」が出た時は、だいたい待ってくれない問題が来ています。
「分かりました。すぐ行きます」
電話を切る。
「所長。宮下さんの借地、地主が土地を売ったそうです」
所長の眉がわずかに動いた。
「買った人が?」
「今日来て、『今月中に家を壊して出ていけ』と」
「ええっ?」
私が声を上げる。
真壁さんは上着を取った。
「栞、行くぞ」
「私もですか?」
「債権と物権がどうとか言ってたろ」
「言いましたけど!」
「授業の続きだ」
「現場実習が雑!」
宮下さんの家は、商店街の裏にありました。
築三十年くらいの木造住宅。
小さな庭。
朝顔。
軒先には風鈴。
そして玄関前に、二人の男性が立っていました。
一人は宮下さん。
六十代の女性で、一人暮らし。
もう一人は、スーツ姿の四十代男性。
「大槻不動産さん?」
男性がこちらを見た。
「はい。真壁です」
「ちょうどいい。説明してくださいよ」
男は書類を出した。
「私、この土地を買ったんです」
売買契約書らしい。
「登記も移しました」
男――新しい地主の野々村さんは、苛立った様子で続けます。
「なのに、この人が出ていかない」
「だって、私は三十年以上ここに……」
宮下さんの声が震えていました。
「前の地主さんから借りて、家を建てて……」
「でも土地は私の物になったんです」
野々村さんが言う。
「所有者は私でしょう?」
「それはそうですが」
「なら私の土地に他人の家が建ってるのはおかしい。壊して返してもらう。当然でしょう」
――ああ。
今度は逆だ。
私は思いました。
さっきは、
「物があるから第三者にも請求できる」
と思い込んだ石黒さん。
今度は、
「契約は前の地主とのものだから、新しい地主には関係ない」
と言われかねない宮下さん。
債権は特定の相手にしか主張できない。
原則はそうです。
土地の賃借権だって、もともとは賃貸借契約から生じる債権。
だったら地主が変わったら終わりなのか。
――そんな簡単な話ではありません。
「宮下さん」
私は家を見上げました。
「この建物、宮下さん名義で登記してありますか?」
「え?」
「建物の登記です」
「してあります。主人が建てた時に……」
来た。
頭の中で、過去問の文字が点灯した。
「真壁さん」
「ああ」
真壁さんも分かったらしい。
野々村さんが怪訝そうな顔をします。
「何なんです?」
私は一歩前へ出ました。
「野々村さん。宮下さんは、この土地を借りています」
「前の地主からね」
「はい。土地の賃借権は、基本的には債権です」
「だったら私には関係ないでしょう」
「普通の債権なら、そういう発想になります」
私は宮下さんの家を指しました。
「でも借地には、特別な仕組みがあります」
「特別?」
「借りている土地の上に、自分名義で登記された建物を持っていれば、土地を買った第三者に対しても借地権を主張できる場合があるんです」
野々村さんの表情が止まりました。
「……何?」
「ですから」
私は言いました。
「土地を買ったからといって、宮下さんにいきなり『家を壊して出ていけ』とは言えません」
「いや、でも所有権は私に――」
「あります」
そこは否定しない。
「ですが、所有権を取得したことと、すでに対抗力を備えた借地関係を消せることは別です」
野々村さんは黙った。
真壁さんが横から低い声で言います。
「土地を買うなら、現地を見る。登記を見る。誰が使ってるか調べる。それが不動産取引です」
「仲介会社からは……」
「建物があることは見れば分かりますよね」
「それは……」
「その建物が誰の名義なのか。それを確認せずに、更地のつもりで買ったんですか?」
痛い。
真壁さん、顔が怖いのでこういう時の圧がすごい。
私は法律担当。
真壁さんは天然の尋問担当。
役割分担が完成しつつあります。
「私は……前の所有者から、いずれ退去させられると」
野々村さんが言う。
所長は来ていません。
でも、所長ならたぶんこう言う。
――売主の説明と、法的にできることは別だ。
「その点は、売主さんとの間で確認したほうがいいと思います」
私は言いました。
「ただ、宮下さんに対して今日いきなり退去を迫る話ではありません」
長い沈黙。
風鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
なんだか、さっきまで張りつめていた場にだけ、夏の音が戻ってきました。
やがて野々村さんは、書類を畳みました。
「……分かりました」
「はい」
「一度、売主と仲介会社に確認します」
「それがいいと思います」
帰りかけて、野々村さんは宮下さんに頭を下げました。
「すみません。突然来て」
宮下さんは驚いた顔をして、それから小さく頭を下げました。
「いえ……」
野々村さんが去る。
宮下さんは、しばらくその背中を見ていました。
「……私、ここにいていいの?」
その声が、妙に幼く聞こえました。
「少なくとも」
真壁さんが言いました。
「土地の所有者が変わった。それだけで、今日明日出ていけって話じゃありません」
宮下さんは、ほっと息を吐きました。
「主人と建てた家なの」
玄関の柱を撫でる。
「子供もここで育ってね。今はみんな東京だけど……」
私は家を見上げました。
古い。
決して立派ではない。
でも、家というのは値段だけでは測れません。
柱の傷。
背比べの跡。
建て付けの悪い引き戸。
そういうものまで登記簿には載らない。
「登記しといてよかったわ」
宮下さんが笑いました。
「主人がね、『こういうものはちゃんとしておけ』ってうるさかったの」
「旦那さん、ファインプレーです」
「ふぁいん?」
「あ、いえ」
昭和に通じない。
「殊勲です」
「まあ」
宮下さんが笑った。
事務所へ戻った時には、もう夕方でした。
机の上に、石黒さんの請求書が置いたままになっています。
八十万円。
宛名は坂口さん。
私はそれを見て、今日一日のことを思い返しました。
「分かったか?」
真壁さんが缶コーヒーを開けながら言います。
「何がです?」
「債権と物権」
「……なんとなく」
「なんとなくかよ」
「いえ、かなり」
私はノートを開きました。
「債権って、“人に向かう権利”なんですね」
「人に?」
「はい」
私は矢印を書く。
AからBへ。
「石黒さんの報酬請求権は、坂口さんに向いてる」
「高瀬さんじゃない」
「そうです」
次に、土地の絵を書く。
「でも物権は、物そのものを直接支配する権利」
「所有権とかか」
「はい。所有権、地上権、抵当権とか」
真壁さんが私のノートを見ます。
「じゃあ借地権は?」
「そこが面白いんですよ」
私は少し笑いました。
「普通の土地賃借権は、契約から生まれるから債権です」
「なのに宮下さんは、新しい地主に言えた」
「そう」
「なんでだ?」
「法律が特別に、第三者に対抗できる仕組みを用意してるからです」
私は丸で囲いました。
「借地上に登記された建物を持っていれば、借地権を第三者に対抗できる」
「債権なのに?」
「債権なのに」
「ややこしいな」
「法律は、基本を教えた直後に例外を出してきますから」
「性格悪いな」
「私もそう思います」
そこへ所長が戻ってきました。
「聞こえてるぞ」
「所長の性格じゃありません!」
「法律です!」
私と真壁さんが同時に言った。
所長は呆れた顔で上着を脱ぎました。
「で、宮下さんは?」
「大丈夫です」
「そうか」
それだけ言って、自分の机へ向かう。
でも途中で、私のノートをちらっと見ました。
「栞」
「はい」
「売買契約ならどうなる?」
「え?」
「買主と売主だ」
抜き打ち試験。
この人、油断すると始めるんですよね。
「ええと……」
私は考えました。
「買主には、土地を引き渡してもらう権利があります」
「それは?」
「債権」
「他には?」
「代金を払う義務」
「それは?」
「債務」
「売主は?」
「土地を引き渡す義務がある。債務です。それから、代金を払ってもらう権利がある。これは債権」
所長が頷く。
「つまり?」
私は少し考えて答えました。
「売買契約だと、どっちか一方が債権者で、もう一方が債務者ってわけじゃない」
「ほう」
「一つの契約の中で、お互いが債権も債務も持ってるんですね」
所長の口元が、ほんの少し緩みました。
「そういうことだ」
真壁さんが私を見る。
「じゃあ俺が喫茶店でコーヒー頼んだら?」
「真壁さんにはコーヒーを出してもらう権利があって、代金を払う義務があります」
「店は?」
「コーヒーを出す義務と、代金をもらう権利」
「おお」
「ちなみに飲み逃げしたら別の問題になります」
「しねえよ」
「念のためです」
「俺を何だと思ってる」
「例題に便利な人」
「お前な」
所長が吹き出した。
珍しい。
大槻所長が笑うと、事務所全体がちょっと得した気分になります。
SSRです。
その時、また電話が鳴りました。
「はい、大槻不動産です」
私が取る。
『石黒です』
「あ、石黒さん」
『坂口さんと連絡ついたって?』
「はい。所長が先ほど――」
所長を見る。
頷いた。
「坂口さんと話ができました。明日、こちらへ来るそうです」
電話の向こうで長い息が漏れました。
『……そうか』
「はい」
『嬢ちゃん』
「何です?」
『さっきは悪かったな』
「いえ」
『俺、高瀬さんに払えって言っただろ』
「はい」
『考えたら、あの人、何にも関係なかったんだよな』
「まあ……契約については」
『頭に血が上がってた』
「八十万円ですから」
『お前、そればっかりだな』
「八十万円は大きいです」
『まあな』
石黒さんが笑った。
『でも、分かったよ』
「何がです?」
『金をもらう権利があるってのと、誰からでも金を取れるってのは、違うんだな』
私は少し黙りました。
「はい」
『明日、ちゃんと坂口さんと話してみる』
「そうしてください」
『ありがとな』
電話が切れた。
私は受話器を置きました。
「……ちゃんと分かってくれました」
所長が新聞を広げながら言う。
「分かってもらうのが仕事だからな」
「法律を説明するのも?」
「不動産屋はな」
所長は新聞から目を上げませんでした。
「土地と建物だけ扱ってるんじゃない」
少し間を置いて、
「その向こうにいる人間を扱ってる」
と言いました。
私は、その言葉をノートの端に書きました。
債権。
相手に何かをしてもらえる権利。
債務。
相手に何かをしなければならない義務。
たったそれだけ。
宅建のテキストなら、最初の数ページで終わる話です。
でも今日一日で、その「たったそれだけ」が二つの家を動かしました。
石黒さんには、八十万円を請求する権利があった。
でも、その矢印は高瀬さんには向いていなかった。
宮下さんの土地賃借権は、原則として人と人との契約から生まれる債権だった。
でも、登記された建物があったことで、新しい地主にも対抗できた。
法律の権利というのは、ただ「持っている」だけでは足りない。
誰に向かっているのか。
何に対する権利なのか。
第三者にも言えるのか。
そこまで見ないと、本当の形は分からない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが缶コーヒーを一本投げてよこしました。
慌てて受け取る。
「危ないですよ!」
「取れたろ」
「落としたらどうするんですか」
「俺に新しいのを請求すればいい」
「それは債権ですか?」
「知らん」
「勉強してください」
「お前に言われたくねえ」
所長が新聞の向こうから言いました。
「真壁」
「はい?」
「落としたら、お前が一本買え」
「所長まで!」
「債務だ」
「雑な債務を作らないでくださいよ!」
私は笑ってしまいました。
窓の外では、夕方の商店街を自転車が走っていく。
昭和六十三年。
相変わらず私は、なぜここに転生したのか分かりません。
でも少なくとも。
昨夜まで意味もなく覚えていた、
債権。
債務。
物権。
そんな言葉が、今日はちゃんと人を守る道具になりました。
教科書では、
「AはBに対して――」
としか書いてくれません。
でも現実のAとBには、名前がある。
腹を立てる人がいて。
困る人がいて。
守りたい家がある。
私はノートの最後に、一行だけ書き足しました。
――権利を見たら、まず「その矢印は誰に向いている?」と考える。
「よし」
「何がよしなんだ?」
真壁さんが聞く。
「覚えました」
「債権と債務?」
「はい」
「じゃあ俺の缶コーヒー代百円、返せ」
「何でですか」
「お前にやっただろ」
「贈与です」
「即答すんな!」
「返還債務はありません」
「可愛げもねえ!」
所長がまた笑いました。
私は缶コーヒーを両手で包みながら思いました。
権利と義務は、いつも誰かと誰かの間にある。
だから法律を覚えるということは、難しい言葉を覚えることじゃない。
たぶん。
人と人の間に引かれた、見えない矢印を見つけられるようになることなのだ。
そう考えると。
債権と債務。
民法のいちばん最初に出てくる地味な二文字も――。
案外、悪くありません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




