[事務管理]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
台風はもう過ぎています。
窓の外には夕焼け。
水野さんの家には、まだ青いブルーシート。
そして事務所の隅には、なぜかハイビスカス柄のシャツ。
真壁さんが絶対に着ないと言い張ったやつです。
「……さて」
私は鉛筆を持ちました。
今日まとめるのは、
事務管理。
昨日までは、正直かなり地味な論点だと思っていました。
代理ほど派手じゃない。
契約ほど身近でもない。
時効みたいに「何年?」と数字で攻めてくるわけでもない。
でも実際に起きてみると、妙に人間くさい。
頼まれていない。
契約もない。
義務もない。
それでも、放っておけないから動く。
そのとき法律はどうするのか。
私はノートの一番上に大きく書きました。
事務管理とは?
「義務がないのに、他人のために事務を始めること」
「ずいぶん雑だな」
後ろから声がしました。
振り返らなくても分かります。
「真壁さん。人のノートを勝手に見ないでください」
「見えるところで書いてる方が悪い」
「その理屈だと、店先の商品は全部持って帰れますよ」
「極端だな」
真壁さんは私の机の横に腰を掛けました。
「で、事務管理って結局なんなんだ?」
「昨日の榊原さんです」
「水野の家の屋根を直したやつか」
「はい」
私は頷きました。
「水野さんから『留守中に屋根が壊れたら直してくれ』と頼まれていたわけじゃない」
「契約もしてない」
「そうです」
「なのに勝手に大工を呼んだ」
「“勝手に”って言うと悪そうですけど、まあそうです」
私はノートに書き足しました。
A――榊原さん(管理者)
B――水野さん(本人)
「事務管理では、実際に事務をする人を管理者、事務をしてもらう人を本人と呼びます」
「本人って、水野のことか」
「はい」
「管理者っていうから、アパートの管理会社かと思った」
「宅建の用語、日常語と意味がずれるの多すぎるんですよね」
「法律家は人を混乱させるのが趣味なのか」
「たぶん違います」
たぶん。
私は次に線を引きました。
【ポイント①】
事務管理は「契約」ではない。
「ここがまず大事です」
「委任とは違うんだな」
「そうです」
私はページの左右に書き分けました。
委任
本人「これをお願いします」
受任者「分かりました」
→ 契約がある。
事務管理
本人「…………」
管理者「大変だ。やっておこう」
→ 契約がない。
「昨日なんて水野さん、ハワイにいたからな」
「そうです」
「本人が何も言ってないのに法律関係ができるのか」
「そこが面白いところなんです」
私は鉛筆を回しました。
「頼まれてないから全部自己責任、では困る場合があります」
「屋根が吹っ飛びそうなのに、『契約してませんので見守ります』じゃ冷たいもんな」
「冷たいというか、雨が入ります」
「現実的だな」
「不動産屋なので」
だから法律は、
他人のために適切に事務を始めた人について、一定のルールを置く。
ただし。
ここからが重要です。
「親切なら何をやってもいい、ではありません」
「昨日も言ってたな」
「はい」
私は赤鉛筆で囲みました。
【ポイント②】
管理者は、本人の意思と利益に適合する方法で管理しなければならない。
「つまり?」
「水野さんの屋根が一部壊れた」
「うん」
「だから雨が入らないよう応急処置する」
「分かる」
「ついでに屋根全部を最高級瓦にする」
「やりすぎだな」
「ついでに外壁も塗る」
「やりすぎだ」
「ついでに庭へ池を作る」
「もうリフォーム業者の暴走だろ」
「そういうことです」
私は笑いました。
「本人が望むだろう方法、本人の利益になる方法で管理しないといけません」
「本人の考えが分からない時は?」
「そこでは本人の利益を基準にします」
「なるほどな」
私は余白に書きました。
事務管理
=親切のフリーパスではない。
「それ、試験に書いたら点もらえるか?」
「多分もらえません」
「じゃあ書くなよ」
「私のノートです」
そして、ここから試験で狙われるところです。
私は新しい項目を書きました。
【ポイント③】
管理者は、事務管理を始めたら、遅滞なく本人に通知する。
「昨日、必死にハワイへ電話したやつだな」
「はい」
「でも、最初に本人へ連絡して許可もらってからやるんじゃ駄目なのか?」
「待てるなら、それが一番です」
私は頷きました。
「でも昨日は、屋根が飛びそうだった」
「電話してる間に家の中が雨ざらしになる」
「だから先に動くことが許される場合もあります」
「で、動いたあと知らせる」
「そうです」
私は書きます。
原則
事務管理開始
↓
遅滞なく本人へ通知
「ただし」
「まだあるのか」
「本人がすでに知っているなら、通知は不要です」
「そりゃそうだな」
「目の前で榊原さんが屋根にブルーシート掛けてて、水野さんが横で見てるなら、『今からあなたの屋根を管理します』と電話する必要ありません」
「隣にいるのに電話するのか」
「かなり怖い人です」
私はノートに書き足しました。
ただし、本人がすでに知っている場合
→ 通知不要。
「ここは素直だな」
「宅建は、ときどき素直な問題も出します」
「ときどきか」
「油断すると死にます」
「試験の話だよな?」
「もちろんです」
次。
私は大きく星印をつけました。
【ポイント④】
管理者は善管注意義務を負う。
「善管注意義務」
真壁さんが嫌そうな顔をしました。
「また出たな」
「また出ます」
「日本語にしてくれ」
「善良な管理者の注意義務」
「まだ日本語っぽくない」
「その立場の人なら通常要求される程度の注意を払って、ちゃんとやってください、ということです」
真壁さんは腕を組みます。
「普通に注意するだけじゃ駄目なのか」
「自己所有物を扱う程度ではなく、管理者としてきちんと注意しなさい、ということですね」
「事務管理って、頼まれてないのに厳しくないか?」
「そこ、私も最初そう思いました」
頼まれてもいない。
善意でやっている。
それでも原則として善管注意義務を負う。
法律、親切な人にもわりと容赦がない。
しかし。
「昨日みたいな場合には、例外があります」
真壁さんがこちらを見る。
「台風か」
「はい」
私は見出しを変えました。
【ポイント⑤】
緊急事務管理。
「これは重要です」
本人の
身体、
名誉、
財産。
それらに対する急迫の危害を避けるために事務管理をした場合。
「昨日なら、水野さんの財産――つまり家が危なかった」
「屋根が飛びかけてたからな」
「はい」
「で、何が違う?」
私は大きく書きました。
緊急事務管理では、
管理者は
悪意または重大な過失
がない限り、
損害賠償責任を負わない。
「おお」
真壁さんが少し感心しました。
「急に管理者に優しくなったな」
「緊急事態ですから」
私は説明しました。
「人を助けようとして緊急に動いた人に、普通の管理と同じ厳しい責任を負わせたらどうなります?」
「誰も助けなくなるか」
「そうです」
目の前で他人の家が壊れそう。
誰かが倒れている。
急いで動かなければならない。
そんな時に、
失敗したら全部損害賠償です。
と言われたら。
そりゃ、手を出すのが怖くなります。
「だから、緊急時には責任を軽くする」
「多少のミスなら責任を負わない?」
「そういうことです。ただし、悪意や重大な過失まで許されるわけではありません」
「悪意って?」
「わざとです」
「例えば?」
私は少し考えました。
「屋根を守るふりをして、『前から気に入らなかったからもっと壊してやろう』と瓦を投げる」
「それは親切じゃねえ」
「はい」
「重大な過失は?」
「ものすごく不注意だった場合です」
「屋根直すのに火つけるとか?」
「それ、もはや別の事件です」
私は苦笑しました。
整理すると。
通常の事務管理
→ 善管注意義務。
緊急事務管理
→ 悪意・重大な過失がなければ損害賠償責任を負わない。
「この二つ、ごちゃごちゃにしそうだな」
「します」
「断言したな」
「私はしました」
前世で。
何度も。
私は横に大きく書きました。
試験注意!
「緊急」の文字を見落とさない。
「宅建って、本当に一語で答えが変わるな」
「だから問題文を雑に読むと死にます」
「また死んだ」
「比喩です」
次は、お金です。
真壁さんが一番食いつきそうなところ。
案の定。
「で、十二万円は返してもらえるんだろ?」
「はい。そこを整理します」
【ポイント⑥】
管理者は、本人のために有益な費用を支出したときは、
その費用の償還を請求できる。
「償還?」
「返してもらえる、でいいです」
「最初からそう言え」
「法律用語なので我慢してください」
昨日なら、
ブルーシート代。
木材代。
必要な大工作業代。
そういった費用です。
「水野さんの家を守るために実際に必要だった費用なら、榊原さんは返してもらえる」
「だから十二万」
「そうです」
私は書きました。
必要・有益な費用
→ 本人へ償還請求できる。
「じゃあ榊原さんが雨の中ずっと働いてた分は?」
「そこが次です」
私は赤鉛筆で二重線を引きました。
【超重要】
管理者は、原則として報酬を請求できない。
「やっぱりタダ働きか」
「言い方」
「だってそうだろ」
「まあ、そうなんですが」
私は苦笑しました。
事務管理は、委任契約とは違います。
そもそも報酬を払うという約束がない。
だから、
「俺が二時間働いたから時給五千円」
「台風の中だから特別手当」
「屋根守った成功報酬十万円」
などと請求することはできません。
「世知辛いな」
「でも材料費は返してもらえる」
「労働代は駄目」
「そうです」
私は大きく分けました。
費用 → 償還請求できる。
報酬 → 原則請求できない。
「これ、試験に出そうだな」
「ものすごく出しやすいです」
例えば。
管理者Aは、本人Bのために事務管理を行った。
AはBに対して相当額の報酬を請求できる。
「×」
真壁さんが即答しました。
「正解です」
「俺、宅建受かるんじゃね?」
「まだ一問です」
「夢くらい見させろ」
「昭和は土地だけで十分です」
土地神話の時代ですから。
私はさらに書きました。
【ポイント⑦】
費用の前払い請求はできない。
「前払い?」
「例えば昨日、榊原さんが事務所に来てこう言ったとします」
私は真壁さんの方を向きました。
「『今夜台風が来そうだから、水野さんの屋根を直す材料代十二万円を、本人から先にもらってきてくれ』」
「本人ハワイだぞ」
「そこは例えです」
「で、駄目なのか」
「事務管理では、管理者は費用の前払いを請求できません」
私はノートに書きました。
委任
→ 一定の場合、費用の前払い請求が問題になる。
事務管理
→ 前払い請求はできない。
「つまり、まず管理者が出す」
「そうですね。そして本人のために有益だった費用について、あとから償還請求する」
「ちょっと厳しいな」
「頼まれて始めたわけじゃないですから」
「なるほど」
そこへ。
「そこまで書いたなら、人間関係を一回整理しろ」
低い声がしました。
所長です。
いつの間にか後ろに立っていました。
この人、本当に気配が薄い。
「所長。びっくりするから足音してください」
「普通に歩いてる」
「圧だけ先に来るんですよ」
「失礼だな」
所長は私のノートを覗き込みました。
「事務管理で試験問題を解くなら、まず何を見る?」
「契約があるかないか?」
「それも一つ」
所長が頷きます。
「もっと先だ」
私は考えました。
真壁さんも考える。
「……誰が頼んだ?」
「近い」
所長は私の鉛筆を取りました。
そしてノートに書きます。
① 頼まれているか。
② 本人のためにやっているか。
③ 緊急か。
④ 何を請求しているか。
「……あ」
「問題文を見たら、まずこれを拾え」
所長は言いました。
「頼まれているなら、そもそも事務管理ではなく委任など別の法律関係を考える」
「はい」
「頼まれていないなら、本人のためにやったのかを見る」
「自分の利益のためなら違う」
「そうだ」
「それから緊急性」
「緊急なら責任の基準が変わる」
「最後に請求内容」
私は続けました。
「費用なのか、報酬なのか」
「そうだ」
所長が満足そうに頷きました。
「法律問題は、制度名から覚えるな。まず人が何をしたかを見ろ」
それは、以前にも聞いた言葉でした。
人間関係を整理する。
誰が、
誰のために、
何をして、
何を請求しているのか。
その骨組みが見えれば、長い問題文でも少し怖くなくなる。
私はノートに、昨日の事件を当てはめました。
榊原さん。
頼まれていない。
↓
水野さんの家を守るために動いた。
↓
事務管理。
台風で屋根が壊れそう。
↓
財産への急迫の危害。
↓
緊急事務管理。
管理開始後。
↓
水野さんへ遅滞なく連絡。
屋根全部を勝手に直すのではなく、
必要な応急処置に限定。
材料費・大工代。
↓
有益な費用なら償還請求。
榊原さん自身の手間賃。
↓
報酬として当然には請求できない。
「……めちゃくちゃ分かりやすい」
私は思わず呟きました。
「昨日の事件が?」
真壁さんが聞く。
「はい」
私は少し笑いました。
「テキストだけ読んでた時より、ずっと覚えられます」
「屋根一枚でずいぶん賢くなったな」
「屋根を教材扱いしないでください」
「でもそうだろ」
「否定はしません」
私は最後のページに、
試験用まとめ
と書きました。
事務管理――最終整理。
① 事務管理とは
義務がない者が、他人のために事務を始めること。
② 委任との違い
委任には契約がある。
事務管理には契約がない。
③ 本人への通知
管理者は事務管理を始めたら、遅滞なく本人へ通知する。
ただし、本人がすでに知っているなら不要。
④ 管理者の注意義務
原則として善管注意義務を負う。
⑤ 緊急事務管理
本人の身体・名誉・財産に対する急迫の危害を避けるための事務管理。
この場合、
管理者は悪意または重大な過失がなければ、損害賠償責任を負わない。
⑥ 費用
本人のために有益な費用を支出した場合、
その償還を請求できる。
⑦ 報酬
原則として請求できない。
⑧ 前払い
費用の前払い請求はできない。
「おお」
真壁さんがノートを見て言いました。
「これなら俺でも分かる」
「そこを基準に作りました」
「おい」
所長が笑っています。
私はさらに一番下に、大きく書きました。
事務管理のひっかけ対策。
「費用」と「報酬」を分ける。
「通常」と「緊急」を分ける。
「委任」と「事務管理」を分ける。
「結局、また分けるんだな」
真壁さんが言いました。
「法律って、似たものを分ける勉強なんですよ」
「面倒くせえな」
「だから資格になるんです」
「なるほど」
妙に納得されました。
私はノートを閉じようとして。
少しだけ手を止めました。
昨日の榊原さんを思い出す。
暴風雨の中で、水野さんの家を心配して大工を呼んだ。
誰にも頼まれていない。
お金をもらえる保証もない。
下手をすれば、
「余計なことをするな」
と怒られるかもしれない。
それでも動いた。
法律は、そういう善意を無条件に褒めるわけではありません。
むしろ細かく注文をつける。
本人の意思を考えなさい。
利益になるようにしなさい。
ちゃんと注意しなさい。
始めたら知らせなさい。
勝手に報酬を取ってはいけません。
必要以上のことをしてはいけません。
ずいぶん細かい。
でも。
それはたぶん、
善意を疑っているからではない。
親切が暴走した時、一番困るのは、その親切を受ける本人だからです。
私はノートの最後に、一行だけ付け足しました。
事務管理――
「助けてあげたい」と「好きにしていい」は違う。
「栞」
「はい?」
「それ、試験に出るか?」
真壁さんでした。
「出ません」
「じゃあ書くなよ」
「だから私のノートです!」
所長が新聞の向こうで笑いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
真壁さんが受話器を取る。
「はい、大槻不動産――」
数秒後。
真壁さんが妙な顔になりました。
「……栞」
「なんですか?」
「近所のばあさんが入院してる間に、隣の人が庭木を全部剪定したらしい」
私は固まりました。
「本人の許可は?」
「ない」
「費用は?」
「三万円請求してる」
「緊急性は?」
「枝がちょっと道路にはみ出してたらしい」
私は静かにノートを開き直しました。
「……所長」
「なんだ」
「事務管理、もう一周していいですか」
「実地研修だな」
「そんな研修いりません!」
真壁さんが笑う。
所長も笑う。
私はため息をつきながら、また鉛筆を握りました。
昭和六十三年。
不動産屋の仕事は、土地を売ることだけではないらしい。
屋根が飛び。
庭木が伸び。
誰かが余計に世話を焼く。
そしてそのたびに、民法が出てくる。
でも。
昨日まではただの暗記事項だった「事務管理」が、
今はもう、
青いブルーシートと、
雨の匂いと、
榊原さんの困った顔ごと、
頭に残っています。
たぶん私は、もう忘れないでしょう。
事務管理。
頼まれていない親切にも、
ちゃんと法律上の作法がある。
……そしてできれば次は、
台風も、
屋根も、
勝手な庭木の剪定もない、
普通の一日でありますように。
民法はたぶん、
そういう願いを聞いてはくれませんけど。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




