[事務管理]現場編 頼まれてないけど、屋根が飛んでます
親切というものは、だいたい褒められます。
お年寄りに席を譲る。
落とし物を拾う。
雨の日に洗濯物を取り込んであげる。
留守宅の屋根が台風で吹き飛びそうなので、勝手に大工を呼んで修理する。
……最後だけ、急に金額が大きい。
親切なのか。
余計なお世話なのか。
それとも、不法侵入なのか。
人助けというものは、不動産が絡んだ瞬間、急に法律の匂いがします。
昭和六十三年、九月。
大型台風が関東に近づいていた日のことでした。
「栞! 窓閉めろ!」
「閉めてます!」
「裏の看板!」
「さっき真壁さんが縛りました!」
「電話帳!」
「電話帳は飛びません!」
「念のためだ!」
何の念だ。
午後三時を過ぎた頃、大槻不動産の事務所では、真壁さんが台風対策と称して、ありとあらゆる物を紐で縛っていました。
立て看板。
植木鉢。
灰皿。
傘立て。
最後には扇風機まで縛ろうとしていました。
「真壁さん」
「なんだ」
「扇風機、室内です」
「風を甘く見るな」
「もう何と戦ってるんですか」
窓の外では雨が斜めに走っています。
ラジオからは、夕方以降さらに風が強まるという予報。
私は伝票を片づけながら、ぼんやり思いました。
こういう日に限って、不動産屋には妙な電話が来る。
雨漏り。
雨樋が外れた。
空き家の窓が割れた。
隣の木が倒れそう。
そして、だいたい最後には、
――誰が金を払うんですか。
という話になる。
人間、自然災害の前では無力です。
でも請求書の前では急に強くなります。
そんなことを考えていた時でした。
事務所のドアが、ばあん、と開きました。
「大槻さん!」
雨合羽を着た男が飛び込んできました。
五十代くらい。
商店街で金物屋を営んでいる、榊原さんです。
「助けてくれ!」
所長が新聞から顔を上げる。
「どうしました」
「向かいの水野さんちだよ! 屋根がめくれた!」
真壁さんが立ち上がった。
「水野さんって、今ハワイじゃなかったか?」
「そうなんだよ!」
榊原さんがずぶ濡れの帽子を脱ぎました。
「夫婦で一週間旅行に行ってる。電話も通じねえ! さっき風で瓦が何枚も飛んで、雨が中に入ってる!」
「雨漏りか」
「それどころじゃねえ。屋根板までめくれかけてる。このまま夜の風が来たら、屋根ごと持ってかれるぞ!」
ああ。
嫌な予感がしました。
こういう時の嫌な予感って、大体当たるんですよね。
「それで?」
所長が聞きます。
榊原さんは少しためらってから言いました。
「……俺が、大工呼んだ」
はい。
来ました。
私は心の中で頭を抱えました。
「応急でブルーシートかけて、めくれた板も止めてもらってる」
「水野さんの許可は?」
「ない」
「連絡は?」
「つかない」
「費用は?」
「俺が立て替えた」
「いくらです」
「今のところ十二万」
十二万円。
昭和六十三年の十二万円。
十八歳事務見習いの私からすると、冗談で立て替える額ではありません。
榊原さんはさらに続けました。
「で、大工が言うには、どうせ足場組んだなら傷んでる所を全部直した方がいいって。瓦も替えて、防水もやって、雨樋もついでに――」
「待ってください」
私は反射的に止めました。
榊原さんがこちらを見る。
「なんだい、栞ちゃん」
「どこまで頼んだんですか?」
「だから、屋根全部――」
「今、止められます?」
「え?」
「止めてください」
自分でも、びっくりするくらい強い声が出ました。
真壁さんが眉を上げる。
所長は黙ったまま私を見ています。
「栞?」
「最初の応急処置はともかく、その先まで勝手にやると危ないです」
「危ないって、屋根がか?」
「法律がです」
榊原さんがぽかんとしました。
真壁さんがぼそっと言う。
「屋根よりそっちが飛んだか」
「飛んでません」
私は机の上に手をつきました。
「水野さんから頼まれてないんですよね?」
「ああ」
「契約もない」
「ないよ」
「でも、水野さんの家を守るために、必要なことをしている」
「そうだ」
頭の奥で、宅建のテキストの文字が浮かびました。
――事務管理。
頼まれていない。
義務もない。
でも、他人のために事務を始める。
典型例。
旅行中の隣家。
台風。
屋根。
教科書、現場再現度が高すぎません?
「これ、たぶん事務管理です」
「ジム?」
榊原さんが首を傾げる。
「筋トレじゃありません」
「誰も言ってねえよ」
真壁さんに突っ込まれました。
「事務管理です。水野さんに頼まれてないけど、水野さんのために屋根を守ろうとしている」
所長がゆっくり頷きました。
「続けろ」
「はい」
私は榊原さんを見る。
「最初に一つ。屋根がこのままだと壊れる、雨が入る、財産に急な危険がある。その危険を避けるための応急処置なら、かなり緊急性があります」
「だろ?」
「だから、何もしないより、ブルーシートを掛けたり、飛びそうな部分を固定したりしたのは、筋が悪くないと思います」
榊原さんの顔が少し緩みました。
「でも」
私は続けます。
「頼まれてない以上、“親切だから何してもいい”にはなりません」
顔が固まった。
「屋根全部新品。雨樋交換。外壁もついで。玄関もこの際」
「玄関は言ってねえよ」
「例えです」
「びっくりした」
「そういうふうに膨らませるのは危ないです」
真壁さんが腕を組む。
「必要な範囲だけってことか」
「はい。少なくとも本人が戻るまで待てる工事は、勝手に広げない方がいいです」
所長が静かに言いました。
「榊原さん。大工に電話できますか」
「あ、ああ」
「応急処置までで止めさせましょう」
榊原さんは受話器を取った。
黒電話のダイヤルを回す。
こういう緊急時に黒電話、遅い。
令和のスマホなら三秒なのに、昭和は連絡するだけで妙な緊張感があります。
「もしもし、熊谷さんか! 俺だ! 榊原!」
少しして、彼が電話口で叫びました。
「全部直すのは待ってくれ! とりあえず雨入らんようにして、飛ばんように固定だけ!」
受話器を置いた榊原さんが、ほっと息を吐く。
「……止めた」
「それでいいと思います」
「でもよ」
榊原さんは不安そうにこちらを見る。
「水野が帰ってきて、『勝手なことしやがって』って言ったらどうなる?」
そこですよね。
人助けした結果、怒られる。
世の中には割とあります。
冷蔵庫のプリンを善意で捨てたら賞味期限が明日だった、みたいな小型事務管理なら友情で済みます。
屋根は友情で済みません。
「まず、連絡を続けましょう」
私は言いました。
「事務管理を始めたら、本人に知らせる必要があります。今すぐつながらなくても、連絡を取ろうとした記録は残した方がいいです」
「ホテルは分かる」
「電話しましょう」
「国際電話だぞ」
「十二万円より安いです」
「そりゃそうだ」
真壁さんが吹き出した。
榊原さんは、水野さんの旅行会社から聞いていたというホテル名を持っていました。
そこからが大変でした。
海外。
時差。
ホテル。
英語。
昭和。
私は十八歳女子事務員。
役満です。
「栞、英語できるか」
真壁さんが聞きました。
「受験英語なら」
「十分だ」
「十分じゃないです」
でも、やるしかありません。
交換手を通し、ホテルにつないでもらい、しどろもどろになりながら事情を伝える。
「ミスター・ミズノ……ルーフ……ブロークン……タイフーン……」
横で真壁さんが小声で言いました。
「屋根ってルーフでいいのか」
「黙ってください、語彙が逃げます」
しばらく待たされたあと、電話口から聞き慣れた日本語が飛び込んできました。
『もしもし!? 榊原さん!?』
「水野さん!」
榊原さんが電話を奪う勢いで受け取りました。
「悪い! 勝手に屋根いじった!」
『ええ!?』
説明。
沈黙。
そして。
『……家、大丈夫なのか?』
「とりあえず雨は止めた。これ以上は待たせてる」
『助かった……』
榊原さんの顔が、見る見る緩んでいきました。
『屋根板が弱ってたのは知ってたんだ。でも旅行前でな……まさか台風がこんなに』
「勝手に大工呼んじまって、十二万くらいかかってる」
『払う! そりゃ払うよ!』
「いや、その」
榊原さんがちらっと私を見る。
私は口元だけで、
――必要な費用。
と伝えました。
「応急に必要だった分だけでいい。全部直すのは止めたから」
『そうしてくれ。帰ったら相談する』
電話が終わる。
事務所の全員が、少しだけ息を吐きました。
「……よかった」
榊原さんが呟いた。
「怒られなかった」
「普通は感謝しますよ」
真壁さんが言う。
「台風の中、人んちの屋根守ったんだから」
「でもなあ。勝手にやったからよ」
榊原さんは頭を掻きました。
その顔を見て、私は少しだけ笑いました。
「親切って、難しいですね」
「お前が言うと法律の話に聞こえるな」
「法律の話です」
「だろうな」
ところが。
話はそこで終わりませんでした。
翌朝。
台風一過。
青空。
道路には折れた枝。
大槻不動産の前には、真壁さんが昨日縛った扇風機。
まだ縛られていました。
「これ、いつほどくんですか」
「余震みたいな風が来るかもしれん」
「風に余震はありません」
そんな会話をしていた午前十時。
今度は水野さんの弟だという男が怒鳴り込んできました。
「勝手に人の家をいじったって、本当ですか!」
ああ。
第三者登場。
しかも怒っている。
法律問題って、人が増えるほど面倒になるよう設計されてるんでしょうか。
「兄貴はまだ海外でしょう! 留守中に勝手に工事して、十二万請求!? そんなの払う必要ないでしょう!」
榊原さんの顔が真っ赤になります。
「俺は金目当てじゃねえよ!」
「じゃあタダでやればいいだろ!」
「大工代だ!」
「勝手に呼んだのはあんただ!」
空気が一気に張り詰めました。
真壁さんが二人の間に入ります。
「まあまあ。怒鳴っても瓦は戻りませんから」
うまい。
そこへ所長が奥から出てきました。
「水野さんの弟さんですね」
「はい」
「お兄さんとは昨夜連絡が取れています」
「え?」
「事情を説明したうえで、応急処置は認めてもらっています。帰国後に正式な修理を検討することにもなっています」
弟さんは、一瞬口を閉じた。
「でも……十二万も」
私は伝票を手に取りました。
「内訳、あります」
ブルーシート。
木材。
釘。
職人二人。
高所作業。
緊急出張。
雨の中の作業。
私は一項目ずつ指しました。
「榊原さん自身の“手間賃”は入ってません」
「え?」
「榊原さん、昨日ずっと現場にいたんですよね」
「まあな」
「大工を呼んで、雨の中でシート押さえて、うちまで走ってきて、水野さんに連絡して。それに対する報酬は、一円も請求してません」
弟さんの表情が少し変わる。
「……じゃあ、この十二万は」
「実際に屋根を守るために必要になった費用です」
私は言いました。
「頼まれていない以上、榊原さんが好き勝手に商売できるわけじゃありません。でも、本当に水野さんのために必要だった費用まで、全部『勝手にやったから知らない』で済ませるのも違うと思います」
所長が続けます。
「逆に言えば、榊原さんも“やってやったんだから報酬をくれ”とは言えない」
「……そうなんですか」
「事務管理は、原則として報酬を請求する制度じゃありません」
榊原さんが私を見た。
「え、俺、報酬もらえねえの?」
「欲しかったんですか」
「いや、別に」
「じゃあいいじゃないですか」
「そうだけど、改めて言われると損した気分になるな」
「人助けを時給換算しないでください」
真壁さんが笑いました。
弟さんも、少しだけ口元を緩めた。
空気がほどける。
私は続けました。
「あと一つ。昨日、榊原さんが“屋根全部直す”ところまで進めていたら、話はもっと揉めていたと思います」
「なんで?」
「本人が頼んでいないからです」
私は答える。
「緊急だからって、何をやってもいいわけじゃない。本人のために、その状況で必要なことを、ちゃんと注意してやらなきゃいけない」
榊原さんが頭を掻いた。
「……俺、危なかったな」
「かなり」
「栞ちゃん、止め方が容赦ねえな」
「屋根より請求書の方が飛びそうでしたから」
真壁さんが吹き出しました。
弟さんは伝票をしばらく見ていました。
そして、ぽつりと言いました。
「……兄貴の家、親父が建てた家なんです」
皆、黙りました。
「兄貴、ずっと直しながら住んでて。屋根も古いの分かってたんです。でも、金かかるから先延ばしにしてて」
「そうだったんですか」
「昨日、もし何もしなかったら……」
弟さんは外を見ました。
青空の向こうに、水野家の屋根が見えます。
青いシートが掛かっている。
見栄えは悪い。
でも、家は立っている。
「もっとひどくなってたんでしょうね」
「たぶんな」
榊原さんが言いました。
「夜中の風、すごかったから」
弟さんは少し黙り、それから頭を下げました。
「……すみませんでした」
「いや」
榊原さんも困ったように頭を掻く。
「勝手にやった俺も悪い」
「悪いというか」
私は口を挟みました。
「やり方を間違えると危なかった、ですね」
「細かいなあ」
「法律ですから」
「またそれか」
「便利ですよ、この言葉」
所長が小さく笑いました。
二日後。
水野さん夫婦が帰国しました。
お土産のマカダミアナッツを抱えて。
「榊原!」
水野さんは商店街の真ん中で、榊原さんの肩を叩きました。
「本当にありがとう!」
「痛えよ!」
「家帰って驚いたよ。天井に染みはあるけど、それだけだ。あのままなら二階全部やられてたって大工が言ってた」
「まあ……無事ならいい」
「十二万、払うから」
「ああ」
「それと、これ」
水野さんが紙袋を差し出す。
「ハワイの酒」
「いらねえよ」
「受け取れ!」
「報酬はもらえねえらしいぞ」
榊原さんが私を指差しました。
「栞ちゃんが言ってた」
水野さんが目を丸くする。
私は慌てました。
「いや、お土産まで法律で取り上げませんよ!」
「そうなのか?」
「常識の範囲でお願いします!」
所長が後ろからぼそりと言いました。
「栞。そこは贈与だ」
「今、論点増やさないでください!」
真壁さんが腹を抱えて笑っています。
なんなんですか、この事務所。
その日の夕方。
私は机でノートを開いていました。
事務管理。
頼まれたわけでもない。
義務があるわけでもない。
それでも、人のために動く。
ただし。
善意だから万能、ではない。
本人の意思を尊重する。
必要な範囲でやる。
できるだけ早く知らせる。
ちゃんと注意して管理する。
使った必要な費用は返してもらえることがある。
でも、勝手に働いたからといって、当然に給料まで請求できるわけじゃない。
「難しい顔してるな」
真壁さんが缶コーヒーを置きました。
「事務管理って、法律にしては人情っぽいなと思って」
「人情?」
「はい」
私はノートを閉じました。
「頼まれてないことは、普通ならやらなくていいじゃないですか」
「まあな」
「でも、目の前で人の財産が危ない。本人はいない。連絡もつかない」
「うん」
「そこで『頼まれてませんので』って放っておくのも、なんか違う」
真壁さんが少し笑いました。
「そういう時のためにある法律か」
「たぶん」
所長が新聞を畳みました。
「法律は、人の親切を禁止したいわけじゃない」
私は振り返る。
「ただし、親切を理由に他人の人生へ入り込みすぎることも許したくない」
「……あ」
「だから線を引く」
所長は窓の外を見ました。
「助けていい。しかし、好き勝手していいわけじゃない」
私は、なんだかその言葉が気に入りました。
親切には、距離がいる。
近づかなければ助けられない。
でも、近づきすぎれば、その人の領域を奪ってしまう。
法律は、その微妙な間に細い線を引いている。
「所長」
「なんだ」
「ちょっといいこと言いましたね」
「“ちょっと”はいらん」
「栞、お前ほんと怖いものないな」
「台風よりはありません」
「昨日、電話帳守ってただろ」
「守ってません」
その時、事務所のドアが開きました。
榊原さんでした。
手には大きな紙袋。
「水野からもらった土産、多すぎるから分けに来たぞ!」
机の上に、チョコレートとナッツと派手なシャツが並びます。
「なんでシャツまで」
「着ろって」
「誰がですか」
「真壁」
「絶対嫌だ」
極彩色のハイビスカス柄。
怖い顔の真壁さんが着たら、南国の取り立て屋です。
私は笑いました。
昭和六十三年。
台風の後の夕空は、妙に澄んでいました。
昨日まで、事務管理なんてテキストの中の地味な言葉だった。
頼まれていないのに、人のために何かをする。
通知義務。
善管注意義務。
費用償還。
報酬なし。
緊急事務管理。
文字にすると、いかにも試験問題です。
でも実際には。
雨の中で屋根を押さえた人がいる。
遠い外国で家を心配した人がいる。
怒鳴り込んできたけれど、最後には頭を下げた弟がいる。
そして、一枚のブルーシートの下に、誰かが守ろうとした暮らしがある。
法律というのは、冷たい線を引くものだと思っていました。
でも、今日みたいな日は少し違って見える。
その線は、親切を止めるためじゃない。
親切が、ちゃんと親切のままでいられるように引かれているのかもしれない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが、例のハイビスカスシャツを私の机に置きました。
「やる」
「いりません」
「遠慮するな」
「本人の意思を尊重してください」
「事務管理かよ」
「今日学びましたから」
所長が吹き出した。
榊原さんも笑った。
私はハイビスカスシャツを真壁さんへ押し返しました。
人のために何かをする時は。
まず、相手のことを考える。
それでも迷ったら。
とりあえず――。
屋根全部を勝手に新品にするのだけは、やめておこうと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




