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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 意思表示

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[錯誤]現場編 「客の自己責任」では逃がさない。悪徳営業を黙らせる手書きメモ

挿絵(By みてみん)

 勘違いには、かわいいものと、かわいくないものがあります。


 たとえば、「今日って金曜日だと思ってたら木曜日だった」とか、「醤油だと思ってかけたらめんつゆだった」とか。こういうのは、まあ、被害が限定的です。精神にそこそこ傷は負っても、人生までは傾きません。


 でも、不動産の勘違いは、だいたい笑えません。


 面積を読み違える。用途地域を思い込む。建てられると思って買う。値上がりすると信じて借金まで組む。


 そしてその勘違いが、契約のど真ん中に刺さっている時。法律はようやく、重い腰を上げてこう言います。


 ――それ、本当に大事な勘違いなら、取り消せるかもしれませんよ。


 ただし。


 勘違いした本人が、あまりにも雑なら、助けません。


 この“ただし”があるあたり、民法は優しいのか厳しいのか、たまに分からなくなります。


 そして昭和六十三年の大槻不動産にも、この日、とても笑えない勘違いを抱えた人がやってきました。


 昼前のことでした。


 事務所の引き戸が開いて、背筋のしゃんとした女性が入ってきました。年の頃は三十前後。明るいベージュのスーツに、肩までの髪。派手ではないけれど、ちゃんとした人、という印象が一目で伝わってくるタイプです。


 ただし、その表情だけは、ちゃんとしていませんでした。


 青いのです。かなり。


「……失礼します。こちら、大槻不動産さんでよろしいでしょうか」


「はい」


 私が立ち上がると、女性は名刺を差し出しました。


 長谷川恵子はせがわけいこ


 地元の信用金庫に勤める、ご主人の妻。いや名刺にはご本人の名前だけでしたが、話し方と雰囲気で何となく分かる。きっちりしている人です。


「少し、ご相談したいことが……」


 その声が、張り詰めていました。


 私はすぐに応接へ案内し、お茶を出しました。真壁さんは外回り、所長は奥で電話中。つまり、初動は私です。


 やったね。責任重大です。


「どういったご相談でしょうか」


 私が尋ねると、長谷川さんは鞄から契約書を取り出しました。丁寧にクリアファイルに入れられたそれを見た時点で、私は少し身構えました。


 きっちりした人が、きっちりした資料を持って来る時ほど、中身が致命傷だったりします。


「この土地を、先月、主人と一緒に購入しました」


 契約書の表紙には、町外れの分譲予定地の地番。


 ああ、あそこか。


 私は記憶を探りました。大槻不動産で扱った物件ではありません。ただ、最近、別の業者がしきりに「将来性」「発展性」「今が買い時」と煽っていた地域です。


「購入の理由は……」


 長谷川さんは、一瞬ためらってから言いました。


「新駅ができる予定だと聞いたからです」


 ――来た。


 私は内心で静かに頷きました。


 不動産の勘違いにはいろいろありますが、“これから上がる”系は被害が大きい。夢を買わせるからです。しかも夢は、契約書に直接は書かれないことが多い。だから揉める。


「予定、というのは」


「仲介した業者さんから、『このあたりは新駅計画が進んでいる』『今買っておけば絶対に損はない』と」


「書面でですか?」


「いえ……口頭で」


 はい。嫌な予感が濃くなってきました。


「他には?」


「周辺でもそういう噂がありました。主人の知人も“聞いたことがある”と言っていて……」


「正式な都市計画資料などは確認しましたか」


 私がそう聞いた瞬間、長谷川さんの睫毛がぴくりと揺れました。


 つまり、していない。


「……していません」


「業者さんは、資料を見せましたか?」


「いいえ。ただ、“内部では有名な話です”と……」


 うわあ。


 昭和の“内部では有名な話”ほど危ないもの、なかなかないです。


 だいたい3割が噂、3割が願望、残り4割が営業トークでできています。


 所長がちょうど奥から出てきて、こちらを見るなり顔つきを変えました。長谷川さんの雰囲気で、ただ事ではないと分かったのでしょう。


「どうしました」


「購入した土地について、新駅計画を前提に契約されたようなんですが、その計画が実在しない可能性があるそうです」


 私が簡潔に言うと、所長はすぐ応接の向かいに座りました。


「計画がない?」


 長谷川さんは、とうとう言いました。


「昨日、主人が市役所で聞いたんです。そしたら、その地域に新駅計画はありませんって……」


 応接の空気が、重く落ちました。


 私は契約書を見ながら、頭の中で教科書の項目を並べていました。


 ・錯誤は無効ではなく取消し

 ・重要な錯誤であること

 ・表意者に重大な過失がないこと

 ・動機の錯誤は、明示または黙示の表示が必要

 ・善意無過失の第三者には対抗できない


 ここで問題になるのは、たぶん二つです。


 一つ、これは単なる思い込みか。

 二つ、その思い込みは契約の土台として相手に表示されていたか。


 長谷川さんは続けました。


「主人と二人で、駅ができるなら将来資産価値も上がるし、子どもができても通学に便利だろうと……」


 ああ、これはただの投機だけではありません。生活設計も入っています。


「そのことは、仲介業者に伝えましたか?」


「はい。“駅ができるから買うんです、そうでなければ予算的にもこの場所で即決はしません”と、主人がはっきり言いました」


 私は顔を上げました。


「はっきり?」


「ええ。私も横で聞いていました」


 よし。今のは大きい。


 所長も同じことを思ったらしく、ゆっくり頷きました。


「つまり、その新駅計画があることは、買主側の単なる胸の内ではなく、相手にも伝えている」


「はい」


「そして相手は、それを前提に話を進めた」


「……そうです」


 私は思わず、心の中で赤丸をつけました。「動機の錯誤」の“表示”が見えてきたからです。


 不動産の契約って、恐ろしいことに、買う理由のすべてが契約書に書かれるわけではありません。


 でも、ある理由があまりに重要で、しかも相手にも伝わっていたなら、それは単なる個人的妄想では済まない。


 たとえば「今日、なんとなく機嫌がいいから買います」は無理。でも「新駅ができると聞いたから、その利便性を前提に買います」は、場合によっては契約の基礎になります。


 そこが、法の面白いところです。


「業者名は?」


 所長が尋ねると、長谷川さんは名刺を差し出しました。


 東都開発 営業課 佐伯


 ……知らない会社ではありません。というか、駅前で最近やたら大きい広告を打ってるところです。真壁さんが見たら、たぶん「また口だけ景気の会社か」と言うやつです。


「栞」


 所長が私を見る。


「聞き取って整理しろ。時系列と、相手方にどう伝えたかが鍵になる」


「はい」


 私はノートを開きました。


「初めてその土地を見たのは、いつですか」


「先月の五日です」


「その時点で新駅の話は出ましたか?」


「ええ。最初の案内の時から」


「営業の佐伯さんの口から?」


「はい。“今表に出る前の情報ですが、この近辺は将来大きく変わります”と」


 出たよ、“表に出る前”。


 なんでしょうねあの言い回し。不動産営業が使うと、7割くらい危険信号なのに、聞く側はなぜか特別情報っぽく感じてしまう。人間って、限定情報に弱いんです。


「新駅という言葉は、明確に出ましたか」


「はい。“新駅ができれば資産価値は跳ねますよ”と」


「なるほど」


 私は書き込みながら、ちらりと長谷川さんを見ました。


「契約前に、ご自身でも調べようとは思いませんでしたか?」


 聞き方を間違えると責める響きになります。でも、ここは避けて通れません。なぜなら、表意者に重大な過失があると、錯誤取消しは原則できないからです。


 長谷川さんは少しだけ唇を噛みました。


「……思いました。ですが、主人が忙しくて、市役所まで行く時間が取れなくて。私は土地勘もあまりなくて……。それに、佐伯さんが“もう皆さん動いてますよ”“先に押さえないと取られます”と急かしてきて」


 うん。人が雑になる時の典型コンボですね。


 ・時間がない

 ・詳しい相手が断言する

 ・周りも動いてると言われる

 ・早く決めないと損だと煽られる


 これ、投資でも転職でも恋愛でもだいたい事故ります。


 ただし法律的には、同情と要件は別です。急かされたからって、何でも取消しできるわけじゃない。


 所長が慎重に口を開きました。


「ちなみに、価格は相場よりかなり高かったですか」


「……いえ。むしろ、駅ができるなら安いくらいだと説明されました」


「駅ができないとしたら?」


「正直……少し割高です」


 はい。これも大きい。


 つまり、単なる好みや願望ではなく、価格評価そのものが、新駅の存在を前提に組み立てられている。


 私はペン先でノートを軽く叩きました。


「長谷川さん」


「はい」


「もし最初から、新駅計画がないと分かっていたら、この土地は買いましたか?」


 その問いに、長谷川さんは即答しました。


「買いません」


 迷いがない。


「絶対に?」


「ええ。少なくとも、この値段では。いえ、この場所自体を選ばなかったと思います」


 ……よし。


 その時、引き戸が勢いよく開きました。


「ただいま戻り――お、何だこの空気」


 真壁さんです。


 私は顔を上げました。


「新駅ができるはずだった土地が、駅できないらしいです」


「何その地雷原みたいな話」


「錯誤です」


 真壁さんは応接を一瞥し、すぐに仕事の顔になりました。


「業者どこ」


「東都開発の佐伯さん」


「うわぁ。あそこか」


 やっぱり知ってた。


「知ってるんですか?」


 私が聞くと、真壁さんは露骨に嫌そうな顔をしました。


「“上がる予定”“これから来る地域”って言い方で客を煽るのが好きな連中だ。全部が嘘とは言わんが、願望を事実みたいに喋る癖がある」


「最悪じゃないですか」


「不動産屋なんて、だいたいそんなもんだ」


「業界への悪口が広すぎません?」


「お前も業界人だろ」


「まだ見習いです」


「残念ながら片足入ってる」


 嫌な現実です。


 所長が真壁さんに資料を渡しました。


「駅計画がない前提で、錯誤取消しが見えるかどうかだ。どう思う」


「まず“新駅があるから買う”って動機が、相手に出てたかだな」


「出てます」


 私が答えると、真壁さんは少し驚いた顔をしました。


「はっきり?」


「ご主人が“それがなければ即決しない”と伝えていたそうです」


「へえ」


「しかも、価格評価もそれ前提です」


「じゃあ、筋はあるな」


 長谷川さんが、すがるように言いました。


「取り消せますか」


 ここで「できます」と断言したら、たぶん気持ちは楽です。でも法律相談っぽい場面で、勢いだけの断言は危険です。特に錯誤は、“勘違いでした!”で全部ひっくり返せる制度ではないから。


 私は慎重に言いました。


「可能性はあります。ただし、いくつか壁があります」


「壁……」


「はい」


 私は指を折りながら整理しました。


「まず、その勘違いが重要であること。これはかなり満たしそうです。駅ができる前提で場所と価格を選んでいるから」


「はい……」


「次に、その動機が相手に表示されていたこと。これも、ご主人の発言が事実なら見えます」


「ええ」


「問題は三つ目。ご自身たちに重大な過失がなかったかです」


 長谷川さんの顔がこわばりました。


「調べなかったこと、ですか」


「そうです」


 真壁さんが椅子の背にもたれながら言います。


「要するに、“そんな大事なこと、なんで裏取りしなかったの”って言われる可能性はあります」


「……」


「ただ」


 私はすぐに続けました。


「重大な過失って、ただの不注意より重いです。“普通ならあり得ないほど雑だったか”の話です」


 長谷川さんは、黙って聞いています。


「今回、ご自身で全く疑わず妄想だけで飛びついたなら厳しい。でも、相手業者が具体的に新駅計画を示唆し、それを前提に購入理由も伝え、しかも急かされた。そういう事情は、過失の重さを見る上で無視できません」


 所長が頷きました。


「まずは相手の話を聞くべきだな」


「はい」


 私は契約書を見返しました。


「広告や案内資料って残ってますか?」


「あります。チラシと、営業さんの手書きメモも……」


「見せてください」


 長谷川さんが鞄から丁寧に畳んだチラシを出しました。そこには、実にそれっぽい言葉が並んでいました。


 ・未来価値の高い注目エリア

 ・交通利便性向上で期待大

 ・今後の発展を見据えた先行取得に最適


 ……うん。駅ができるとは直接書いていない。


 こういう逃げ道の作り方、腹立つけど上手いです。


「手書きメモは?」


 出てきたメモには、営業の字でこうありました。


 “新駅構想あり”“今後伸びる”


 私は顔を上げました。


「これ、相手が書いたものですか」


「はい。案内中に、その場で」


 所長と真壁さんが同時に身を乗り出しました。


 おぉ、これは強い。


 チラシの曖昧さに対して、手書きメモはだいぶ具体的です。しかも買主に渡されたものなら、営業側がその要素を売り文句にしていたことの補強になる。


 私は内心で、ぱちり、と扇を閉じたい気分になりました。扇は持ってませんが、気持ちとしては完全にそれです。


「長谷川さん、今日このあと時間はありますか」


「はい」


「東都開発へ行きましょう」


「えっ」


「その方が早いです」


 真壁さんが笑いました。


「出たな、現場突撃型の受験生」


「受験生って言わないでください。ややこしいので」


「事実だろ」


「転生前の話です」


「だから意味が分からん」


 でしょうね。


 東都開発の事務所は、駅前の大通り沿いにありました。


 ガラス張り。観葉植物多め。妙に明るい照明。入口の看板だけで、「うちは成長企業です」と言いたがっている感じです。個人的には少し落ち着かない。


 受付の女性に告げると、ほどなくして営業の佐伯さんが出てきました。


 三十代半ば。歯が白い。ネクタイも白っぽい。笑顔の角度まで営業用に訓練されていそうな人です。


「ああ、長谷川様。本日はどうされました?」


「新駅計画の件で、お話があります」


 長谷川さんがそう言った瞬間、佐伯さんの笑顔が、ほんの少しだけ固まりました。


 よし。反応あり。


「新駅……ですか?」


「市役所に確認しました。計画はないそうですね」


「いやあ、“現時点で公式ではない”という意味では?」


 出た。言い換え逃げ切り型営業。


 私はすかさず横から口を挟みました。


「では、公式でない計画を、あたかも見込める前提のように説明したんですか?」


 佐伯さんが初めて、私を真正面から見ました。


「そちらは?」


「大槻不動産です」


「同業さんが、買主様に随分入れ知恵を」


「入れ知恵じゃなくて整理です」


 私はにっこりもせず返しました。


「長谷川さんご夫妻は、“新駅ができるから買う。それがなければ即決しない”とあなたに伝えたそうですね」


「……一般論として将来性の話はしましたが、購入判断はお客様ご自身の責任です」


 はい、来ました。投げる時だけ自己責任論。


「それはもちろんそうです。でも、その前提事情を誤認させる説明をしていたなら別です」


「誤認とは?」


「新駅構想あり、というメモまで渡して」


 私がその紙を出すと、佐伯さんの指先が一瞬止まりました。あ、これ本人の字だ。


「……あくまで周辺の期待感を示したものでして」


「期待感で、この価格ですか?」


 真壁さんが低く言います。


「実需の夫婦に対して、“駅ができるから価値が上がる”と押しておいて、後から期待感ですは、少し虫がよすぎるでしょう」


 佐伯さんは、営業スマイルを崩さないまま、しかし声だけ少し硬くなりました。


「では、何をお求めですか」


 所長はいません。今日はあえて、現場の圧迫感を避けて、真壁さんと私で来ています。たぶんその方が、相手も油断する。


 私は言いました。


「まず事実確認です。あなたは新駅計画をあるものとして説明したのか、それとも単なる噂として紹介しただけなのか」


「将来的な可能性を……」


「長谷川さん」


 私は買主側に向き直りました。


「その時、佐伯さんは“可能性”という言葉でしたか。それとも、“できる”と言いましたか」


 長谷川さんは、しっかり顔を上げました。


「“できます”“決まれば跳ねます”と言っていました。主人が、“本当に駅ができるなら”と言った時も、“その前提で皆さん動いています”と」


 佐伯さんの笑顔が、ついに薄れました。


 私は畳みかけます。


「となると、この売買契約は、長谷川さん側に重要な錯誤があり、その動機は相手にも表示されていた可能性があります」


「錯誤?」


 佐伯さんの顔に、わずかに苛立ちが浮かぶ。


「難しい法律用語を振りかざしても――」


「難しくないです」


 私は遮りました。


「大事な勘違いで契約したなら、取り消せる場合がある、というだけです」


「ですが、お客様が勝手に期待しただけでは?」


「勝手にではありません。あなたが材料を与えて、しかもその動機を知った上で契約を進めています」


 沈黙。


 ここで大事なのは、相手を論破して気持ちよくなることではありません。争点を明確にして、逃げ道を削ることです。


 真壁さんが、珍しく静かな声で言いました。


「佐伯さん。こっちも全部を感情で言ってるわけじゃない。手書きメモ、購入理由の伝達、価格形成、全部合わせると、争いになった時に面倒ですよ」


「……」


「しかも買主側は、あなたの説明を信じた理由を持ってる。単なる地価上昇の夢ならともかく、生活利便性込みだ」


 佐伯さんはしばらく黙っていましたが、やがて営業スマイルを完全にしまって言いました。


「少し、上と相談します」


 はい。


 全面勝利ではありません。でも、“客が勝手に誤解しただけ”の一言で切り捨てる流れは、止められました。


 帰り道、長谷川さんは何度も「すみません」と言いました。


「お二人にここまでしていただいて……」


「まだ途中です」


 私は言います。


「ただ、話は前に進みました」


「私たち、やはり浅はかだったでしょうか」


 その問いは、ちょっと痛い。


 法律論だけで言えば、調べなかった落ち度はある。でも、人は完璧な情報収集機械じゃありません。しかも、相手が“知っている人の顔”で断言してきた時、かなりの人は揺れます。


「浅はか、というより」


 私は少し考えてから言いました。


「急がされたんだと思います」


「急がされた……」


「はい。人は急がされると、確認を飛ばします。しかも“不動産は早い者勝ち”と言われると、なおさら」


 真壁さんが鼻を鳴らしました。


「営業の常套句だな。今決めないと他に取られます、ってやつ」


「でも本当に取られることもありますよね」


「ある」


「最悪ですね」


「だから厄介なんだよ、この業界は」


 長谷川さんが、少しだけ笑いました。ようやく表情が和らいだ気がします。


「……主人に、今日のことをちゃんと話します」


「はい」


「もし取り消せるなら、そうしたいです」


「その意向も大事です」


 錯誤は無効ではありません。取消しです。つまり、勘違いした本人が「やっぱりこの契約をなかったことにしたい」と動く制度。そこが、心裡留保や虚偽表示と違うところです。


 私はその違いが、少し好きでした。法が、「あなたの勘違いだった。だから自分で決めていい」と言っている感じがするから。


 翌々日、東都開発から連絡が来ました。


 所長が電話を受け、しばらく淡々と話し、切ってから私たちを見ました。


「白紙解約の方向で調整したいそうだ」


「おお」


 真壁さんが眉を上げます。


「だいぶ早いですね」


「向こうも争点が見えたんだろう。特に手書きメモが効いたな」


 私は胸の中で小さくガッツポーズしました。


 もちろん、すべてが毎回こんなふうに進むわけじゃありません。争いになれば長いし、相手が徹底抗戦ならもっと揉めます。


 でも今回は、営業側にも“突かれると面倒な点”が見えたのでしょう。


 夕方、長谷川さん夫妻が揃って事務所に来ました。


 ご主人は真面目そうな人で、奥さん以上に肩を落としていました。


「私が、もっとちゃんと確認すべきでした」


 第一声がそれでした。


 いい人なんだろうなと思います。いい人ほど、営業トークに真っ直ぐ引っかかる時があります。


「ご主人」


 私はお茶を置きながら言いました。


「確認すべきだったのは、その通りです」


「……はい」


「でも、確認不足と、相手の説明責任は別です」


 ご主人が顔を上げる。


「駅ができるから買う、と伝えたんですよね」


「ええ。はっきり」


「なら、その点は単なる胸の内ではありません」


 所長も頷きました。


「そこが今回は大きい。夫婦の思い込みだけでなく、取引の前提事情として相手に伝わっていた」


「そうか……」


 ご主人は深く息を吐きました。


「私、てっきり、こういうのは全部“自己責任”で終わるものかと」


「終わる時もあります」


 私は正直に言いました。


「ただ、今回は“ただの願望”で済ませにくい事情がありました」


「それが、錯誤……ですか」


「はい。大事な勘違いです」


 長谷川さんが、少しだけ笑って言いました。


「栞さん、その言い方だと急に分かりやすいですね」


「法律用語をそのまま言うと、たまに人が逃げるので」


「逃げるって」


「難しそう、で思考停止するんです。私も受験勉強中そうでした」


 真壁さんが横で小さく吹きました。


「お前、自分で受験生って言うのはいいんだな」


「文脈によります」


「面倒くさいな」


「否定しません」


 話し合いは、最終的に白紙解約、手付返還の方向でまとまりそうでした。


 完全に誰も傷つかないわけではない。時間も気力も削られたし、夫婦の夢も一度はそこに置かれた。けれど、駅のない土地を駅の夢込みで抱え続けるより、ずっとましです。


 帰り際、長谷川さんは私に言いました。


「今度、土地を買う時は、ちゃんと市役所に行きます」


「ぜひ」


「あと、“内部では有名な話”って言われたら疑います」


「とても大事です」


「それと、“今決めないと”も」


「最高です」


 ご主人が少しだけ気まずそうに頭をかきました。


「……勉強になりました」


「高い授業料になるところでしたけどね」


 私がそう言うと、夫婦は顔を見合わせて苦笑しました。


 窓の外は、もう暗くなっていました。駅前のネオンが遠くでちらついて、ここが確かに、土地神話に浮かされた昭和の終わりなのだと感じさせます。


 たぶん次もまた、誰かが「そんなつもりじゃなかった」と言って駆け込んでくるのでしょう。


 不動産は、そういう“つもり”でできた穴が多すぎます。


 そして私は今日も、その穴の縁にしゃがみ込んで、中をのぞき込みながら考えるのです。


 ――さて。次は誰が、どんな顔で落ちかけてくるんでしょうか。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。


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