[委任契約]現場編 9割終わったところで解約しても、9割引きにはなりません
人に仕事を頼む時、
「ちょっとお願い」
という言葉ほど、ちょっとではないものがあります。
荷物を取って。
電話して。
見てきて。
代わりに話して。
契約してきて。
最後のほうまで行くと、もはや「ちょっと」の顔をした法律行為です。
そして世の中には、
頼む時だけ「お願いだから」と頭を下げ、
用が済みかけると、
「まだ終わってないよね?」
と財布を閉じる人がいます。
――人類、報酬の話になると急に記憶力が落ちる。
昭和六十三年。
大槻不動産に転生してから、私はそんなことを学びつつありました。
「栞。応接にお茶二つ」
「はい」
「濃いめで」
「お客さん、怒ってます?」
「片方は怒ってる」
「もう片方は?」
「泣きそうだ」
「最悪の配合ですね」
「早くしろ」
真壁さんは怖い顔のまま応接室へ戻っていきました。
私は急須を持ちながら、ため息をつく。
不動産屋の応接室で、
怒っている人と泣きそうな人が向かい合っている。
ろくな用件ではありません。
しかも真壁さんが「濃いめ」と言った。
これはお茶ではなく、たぶん精神安定剤の代用品です。
お盆を持って入ると、案の定、テーブルの両側に対照的な二人が座っていました。
一人は五十代くらいの恰幅のいい男。
金の腕時計。
灰色のスーツ。
机の上には革のセカンドバッグ。
昭和の「景気がいい人」を図鑑にしたら、たぶんこの人が載ります。
名前は犬飼勝三さん。
市内に土地や貸家をいくつも持つ地主でした。
その向かいにいるのは、六十歳を少し過ぎたくらいの細身の男性。
古びた背広。
膝の上には、使い込んだ黒い鞄。
こちらは杉浦宗一さん。
犬飼さんとは古い知り合いらしい。
「だからね、大槻さん」
犬飼さんが、所長に向かって大きな声を出しました。
「私は払わないとは言ってないんですよ」
こういう時の、
――払わないとは言ってない。
は、だいたい払わない人の前置きです。
「ただ、仕事が終わってないでしょう?」
ほら来た。
杉浦さんが俯きました。
「でも犬飼さん……あと一歩だったじゃないですか」
「あと一歩は、終わってないってことだよ」
「……」
「契約も結んでない。結果が出てない。だったら報酬も何もないでしょう」
私は犬飼さんの前へ湯飲みを置きながら、耳だけを全力で働かせました。
所長が静かに訊きます。
「最初から説明してもらえますか」
「だから簡単な話ですよ」
犬飼さんは煙草を取り出しました。
灰皿がある。
昭和です。
本当にどこでも吸うな、この時代。
「私が持っている駅南の貸家、知ってますよね」
「ええ」
「あそこを十年以上借りてる高田さんがいるでしょう」
所長が頷く。
「あの家を、今度うちの息子夫婦に使わせることにしたんです」
なるほど。
「それで、高田さんとの賃貸借をどうするか、話し合いが必要になった」
「そうです。私も忙しいし、昔から杉浦さんはこういう話が上手い。それで頼んだんですよ」
犬飼さんは顎で杉浦さんを示しました。
「高田さんと話をして、条件がまとまったら、私の代理で合意書を結んでくれって」
私は少しだけ姿勢を正しました。
――法律行為を任せている。
委任だ。
杉浦さんが小さな声で続けました。
「最初は、高田さんも急に出ていけと言われても困るという話でした」
「そりゃそうだ」
真壁さんが言います。
「十年以上住んでんだ。明日空けろって話にはならんだろ」
「はい。それで何度も話して……」
杉浦さんは鞄から一冊の手帳を出しました。
びっしりと日付が書かれている。
「七月十二日、一回目。十五日、二回目。十八日は高田さんの勤め先が休みだったので、ご自宅で奥さんも一緒に。二十二日に犬飼さんへ途中経過を電話しました」
「そんな細かいことはいいんですよ」
犬飼さんが遮る。
細かいことが大事なんですよ、こういう時は。
民法は、「だいたいやりました」に報酬を付けてくれません。
「それで最終的には?」
所長が訊いた。
「高田さんは、九月末まで待ってもらえるなら退去する、と」
「引越し代は?」
「犬飼さんが十五万円まで出すという話でしたので、それも伝えました」
「敷金の返還は?」
「滞納もないので全額返還。それも確認しました」
真壁さんが眉を上げる。
「ほとんどまとまってるじゃないか」
「はい」
杉浦さんが頷く。
「先週、高田さんから『それでお願いします』と言われました。それで昨日、合意書に判をいただく予定だったんです」
「だった?」
「その朝に……」
杉浦さんの視線が、犬飼さんへ向いた。
犬飼さんが鼻を鳴らしました。
「私がやめさせたんですよ」
「なぜです?」
所長が聞く。
「息子がね、『親父、そんなのに金払うの勿体ないぞ』って」
出ました。
家族会議による突然のコストカット。
「話はもうまとまってるんだから、最後の判子くらい自分で行けばいい。そう言われれば、その通りじゃないですか」
犬飼さんは得意そうに笑った。
「それで杉浦さんには、もう結構です、と」
「……報酬はいくらの約束だったんですか」
私は思わず口を挟みました。
犬飼さんがこちらを見る。
「ん?」
「栞」
真壁さんが低い声で牽制する。
「すみません」
「いや、いい」
所長が止めなかった。
犬飼さんが肩をすくめる。
「三万円ですよ」
「約束していたんですね」
「仕事が終わればね」
「そこ、ちゃんと確認したんですか?」
「もちろんですよ。話をまとめて、合意書まで結んでくれたら三万円」
私は杉浦さんを見る。
「杉浦さんも、その認識ですか?」
「はい」
「じゃあ報酬の約束自体はあった」
「そうです」
犬飼さんが少し苛立った。
「だから完成してないでしょう!」
声が応接室に響きます。
「合意書に判子がない。なら仕事は途中だ。途中の仕事に三万円払えっていうほうがおかしいでしょう」
杉浦さんが唇を噛みました。
「三万円全部とは言ってません」
「じゃあ何なんです」
「せめて、ここまでやった分と……立て替えた費用を」
「あれも払わないって言ってるでしょう」
私は顔を上げた。
「立替費用?」
杉浦さんが鞄から封筒を出しました。
「高田さんのところへ行く電車代とバス代。それと、犬飼さんから頼まれて取り寄せた書類の費用。合計で六千四百八十円です」
「そんなの勝手に使った金でしょう」
犬飼さんが言う。
「勝手では……」
「私は一円一円、使っていいなんて言ってないですよ」
「でも、必要だったので……」
「それは杉浦さんの都合でしょう」
――あ。
私の中で、何かがかちりとはまりました。
昨夜まで――正確には前世で――何十回も見たやつです。
委任。
受任者。
報酬。
費用。
中途終了。
善管注意義務。
報告義務。
単語だけなら、吐きそうになるほど覚えた。
でも目の前で見ると、ずいぶん顔が違います。
これは六百何十条の話ではない。
一人の人が何日も足を運んで、人と人の間に立って、もう少しで仕事を終えるところだった。
そして、その最後だけを依頼者が自分で取って、
「完成してないからゼロ」
と言っている。
それは――。
「所長」
私は言いました。
「これ、本当に全部ゼロになりますか?」
犬飼さんが眉をひそめる。
「何です?」
所長は私を見た。
「どう思う」
来た。
最近、所長は時々これをやります。
十八歳の事務見習いに、突然民法の口頭試験を始める。
教育熱心なのか、人使いが荒いのか。
たぶん両方です。
「まず……」
私はゆっくり言いました。
「犬飼さんは杉浦さんに、代理で合意をまとめて契約する仕事を頼んだ」
「ああ」
「杉浦さんは承諾した」
「はい」
「報酬は三万円と決めた」
犬飼さんが頷く。
「そうですよ」
「だったら、少なくとも『知り合いに頼んだだけだからタダ』ではありません」
「そんなことは言ってない」
「はい。でも、途中で終わったから全部タダとも限りません」
犬飼さんの顔から、少し笑みが消えました。
「何?」
私は心臓が早くなるのを感じました。
こういう時だけは、前世で宅建のテキストを枕にして寝落ちした日々が役に立つ。
ありがとう、過去の私。
落ちた模試の点数も、成仏してくれ。
「杉浦さんが勝手に途中で投げたなら話は別です。でも今回は、犬飼さんが『もうやめてくれ』と言ったんですよね」
「そうですよ。頼んだのは私なんだから、やめさせるのも自由でしょう」
「解除すること自体は、原則としてできます」
「ほら」
「でも」
私は続けました。
「自由にやめられることと、今までやった仕事が消えることは別です」
応接室が静かになった。
真壁さんが、ほんの少し口角を上げました。
たぶん、続きを言えという顔です。
「委任が途中で終わった場合でも、受任者に責任がない形で終わったなら、それまでした仕事の割合に応じた報酬が問題になります」
「割合?」
「はい」
「三万円払えっていうのか」
「全部とは言ってません」
私は杉浦さんの手帳を指差しました。
「でも、交渉はほぼまとまっていた。残っていたのは合意書への署名押印だった」
杉浦さんが驚いたように私を見る。
「途中だからゼロ、ではないと思います」
犬飼さんの眉間に皺が寄りました。
「そんな都合のいい話があるか」
「むしろ逆です」
「何が」
「最後の一歩だけ残したところで仕事を止めさせれば、それまで働いた人に一円も払わなくていい――そっちのほうが都合が良すぎます」
真壁さんが咳払いをしました。
笑いを誤魔化したな。
「嬢ちゃん」
「藤崎です」
「藤崎さん」
「はい」
「仕事ってのは結果でしょう」
「結果だけに報酬を払う約束もあります」
私は言った。
「でも、今回の約束が、本当に『結果が出た場合に限って報酬を払う』という趣旨だったのか。それとも、委任された仕事を最後まで処理したら三万円という通常の報酬だったのか。そこは区別しないといけません」
「同じだろ」
「似てますけど、同じではありません」
法律はこういうところで、急に細かい。
普通の人からすると、
「細けえよ」
で終わる違いです。
でも、その細さが三万円を守る。
「少なくとも今のお話では、犬飼さん自身が途中で止めています。杉浦さんが失敗したから終わったわけではない」
「……」
「だったら、『完成していない』という一言だけで、それまで全部なかったことにはできません」
犬飼さんは、今度は所長を見た。
「大槻さん。あんたもそう思うのか」
所長は腕を組んでいました。
「栞の整理で、大筋は間違っていません」
その一言で、犬飼さんの顔が変わりました。
十八歳の小娘の屁理屈なら押し切れる。
そう思っていた顔から、
あ、これ本当に法律の話なのか、
という顔へ。
人は所長の低い声で、だいたい少し現実に戻ります。
「それと」
所長が続けました。
「費用の話も別です」
「交通費のことですか」
「ええ」
所長は封筒の中の領収書を確認しました。
「委任された事務を処理するために必要な費用なら、受任者に全部かぶせる筋ではありません」
「でも事前に私から金を渡したわけじゃない」
「本来は、必要な費用なら前払いを請求することもできます」
私は心の中で、
所長、出た。
と思いました。
法律テキストが急に人間の声で喋ると、妙に頼もしい。
「今回は杉浦さんが立て替えた。必要な支出なら、償還の問題になります」
「償還?」
「返す、ということです」
私が補足すると、犬飼さんがこちらを睨んだ。
「それくらい分かります」
「失礼しました」
分からない顔してたので。
とは口に出しません。
社会人ですから。
まだ十八歳だけど。
「しかしね」
犬飼さんは引かなかった。
「杉浦さんが本当にちゃんと仕事していたかどうか、私は分からないでしょう」
おや。
方向を変えてきた。
「何度も高田さんのところに行ったって言うけど、私は見てない。勝手に六千円も使って、三万円寄越せって言われても」
「犬飼さん」
杉浦さんが傷ついた顔をした。
「私は、その都度……」
「報告書なんか一度ももらってない!」
犬飼さんが声を上げる。
そこで私は、
――報告。
という文字が頭に浮かびました。
「杉浦さん」
「はい」
「途中経過、報告しました?」
「しました」
「いつ?」
杉浦さんは手帳を開きます。
「七月二十二日。八月三日。八月十七日。それから先週の金曜日」
「電話?」
「二十二日と三日は電話です。十七日は犬飼さんの家へ行きました。先週は喫茶店で」
犬飼さんの目が泳いだ。
真壁さんが見逃しません。
「犬飼さん」
「何だ」
「会ってんじゃねえか」
「会ったけど、あれは世間話もしてただろ」
「高田さんとの話もした?」
「……少しは」
「なら報告は受けてる」
真壁さん、こういう時に言葉が短くて強い。
羨ましい。
私は説明しようとして文章が長くなるタイプです。
「それに」
杉浦さんは鞄から一枚の紙を出しました。
「これ……犬飼さんから頼まれた時に、自分で作った記録です」
手書きでした。
日付。
訪問先。
高田さんの希望。
犬飼さんへ確認した内容。
合意予定額。
敷金返還。
退去予定日。
交通費まで、全部書いてある。
私は思わず言いました。
「すごい」
「忘れるといけないので」
杉浦さんは照れたように笑った。
「会社員だった頃、総務をやってたんです」
なるほど。
几帳面が服を着て歩いているタイプだった。
犬飼さんが黙ります。
所長が紙を読みながら訊いた。
「高田さんに不利なことを無理に飲ませたりは?」
「してません」
「犬飼さんから、もっと強く追い出せと言われたことは?」
杉浦さんが少し迷った。
「……一度」
「おい」
犬飼さんが遮る。
所長の目が上がった。
「一度?」
「七月の終わりに。犬飼さんから、『更新しないと言って脅かせば早い』と」
応接室の温度が二度くらい下がった気がしました。
犬飼さんが苛立つ。
「脅かせなんて言ってない!」
「似たような……」
「言葉のあやだよ!」
杉浦さんは俯きます。
「でも私は、それはしませんでした」
「なぜです?」
「高田さんには高田さんの生活がありますから」
静かな声でした。
「頼まれたのは、話をまとめることです。揉めさせることじゃないと思ったので」
その言葉に、所長がわずかに頷いた。
私は、胸の奥が少し温かくなるのを感じました。
――善管注意義務。
また一つ、教科書の言葉が人の顔になった。
委任された人は、
「頼まれたんだから何でもやればいい」
ではない。
報酬があるから丁寧に。
無報酬だから雑に。
でもない。
任された以上、その立場の人としてきちんと注意して仕事をする。
杉浦さんは、それをやっていた。
しかも、たった三万円のためというより、古い知り合いに頼まれたから。
「犬飼さん」
私は言いました。
「杉浦さん、ちゃんとやってますよ」
「何を根拠に」
「これです」
私は記録を指差した。
「何回訪問したか残してる。何を話したか残してる。途中で報告もしてる。犬飼さんに言われたからって、相手を無茶に追い込むようなこともしなかった」
「……」
「これで『最後の判子がないから全部ゼロ』は、さすがに無理があります」
犬飼さんは黙り込んだ。
私は続けます。
「しかも、高田さんとの条件はもうまとまっていたんですよね」
「はい」
杉浦さんが答える。
「じゃあ確認しましょう」
真壁さんが立ち上がった。
「高田さんに電話する」
「え?」
「今ここで」
犬飼さんが顔を上げる。
「待てよ」
「何で?」
「いや、それは……」
「杉浦さんが仕事したか分からんって言ったの、犬飼さんでしょう」
真壁さんは黒電話へ向かいました。
「なら本人に聞けばいい」
こういう時、この人は迷わない。
数分後。
電話口から戻ってきた真壁さんが、一言。
「全部聞いた」
犬飼さんの顔が引きつる。
「高田さん、九月末退去で納得してる。十五万円の移転費用、敷金全額返還。それで杉浦さんに『何度も間に入ってもらって助かった』ってよ」
杉浦さんが目を伏せた。
「……そうですか」
「それとな」
真壁さんが犬飼さんを見る。
「昨日、杉浦さんが来なくなったから、何かあったのか心配してたぞ」
「……」
「今日、犬飼さん本人から連絡が来るものだと思って待ってるそうだ」
完全に決まった。
私は心の中で、小さくガッツポーズをしました。
法律だけじゃない。
事実が揃った。
杉浦さんは働いた。
記録もある。
報告もした。
相手方との話もまとまった。
最後に仕事を止めたのは依頼者本人。
これで、
「成果ゼロ、だから全部ゼロ」
は、さすがに通らない。
所長が静かに言いました。
「犬飼さん」
「……はい」
「杉浦さんへの依頼をやめること自体はできます」
「……」
「ただし、やめた瞬間に、それまでの仕事まで消えるわけじゃない」
犬飼さんは何も言いません。
「立替費用も精算する。報酬についても、既にした仕事に応じて話し合う。それが筋でしょう」
「でも三万円全部は……」
「杉浦さんも全部とは言っていない」
「……」
「そこは双方で妥当なところを決めればいい」
所長はそこで一度、言葉を切りました。
「ただな」
声が少し低くなった。
「一つだけ、商売人として言わせてもらいます」
犬飼さんが顔を上げる。
「人に任せるというのは、自分の手間をその人に背負ってもらうということです」
所長の声は静かでした。
静かなのに、逃げ道がない。
「最後だけ自分でやれば、そこまでの手間が無料になる。そんな商売をしていたら、次から誰もあなたの仕事を引き受けませんよ」
応接室がしんとしました。
こういう時の所長は、圧がある。
声を荒らげない。
机も叩かない。
ただ正論を椅子に座らせて、逃げ道の前に置く。
怖い。
でも頼もしい。
犬飼さんは、しばらく黙ったあと、大きく息を吐きました。
「……杉浦さん」
「はい」
「悪かった」
杉浦さんが驚いて顔を上げました。
私も驚きました。
謝れる人だったんだ。
失礼。
「息子に言われて……確かに、最後だけなら自分でできると思った」
「……」
「でも、そこまでの話をつけたのは杉浦さんだったな」
犬飼さんは頭を掻いた。
「いくらなら納得する」
「私は……」
杉浦さんが戸惑う。
「三万円全部をくださいとは思ってません」
「じゃあ二万五千でどうだ」
「え」
「それと立て替えた六千四百八十円」
「犬飼さん……」
「いや」
犬飼さんがセカンドバッグを開いた。
「利息まで取られる前に払っとく」
私は思わず吹き出しそうになった。
そこ聞いてたんだ。
人間、金の話だけは覚える。
「所長」
犬飼さんが財布から札を出しながら言う。
「これでいいんでしょう」
「私に聞くことじゃありません」
所長は杉浦さんを見る。
杉浦さんは、少し迷ってから頷きました。
「……はい。十分です」
「じゃあ」
犬飼さんが金を差し出す。
杉浦さんは両手で受け取りました。
その手が、少し震えていた。
たった数万円。
そう言う人もいるかもしれません。
でも、たぶん杉浦さんが本当に欲しかったのは、お金だけじゃなかった。
何度も足を運んだこと。
相手の話を聞いたこと。
犬飼さんへ電話をしたこと。
言われた通りに乱暴な話を進めず、双方が納得できるところを探したこと。
それを、
「途中だからゼロ」
の一言で消されたくなかったのだと思います。
犬飼さんが帰ったあと。
杉浦さんは事務所の入り口で、何度も頭を下げました。
「本当にありがとうございました」
「いえ」
私は笑った。
「でも次からは、最初にもう少し細かく決めておいたほうがいいですよ」
「細かく?」
「報酬はいくらか。いつ払うか。費用は誰が出すか。途中で終わったらどうするか」
杉浦さんが苦笑する。
「古い友人だから、そこまで言うのも水臭いと思ってねえ」
「親しい人ほど決めたほうがいいです」
私は即答しました。
「揉めると、水臭いどころか血なまぐさくなります」
「栞」
後ろから真壁さんの声。
「言い方」
「すみません」
杉浦さんは笑った。
初めてちゃんと笑った顔でした。
「でも、その通りだね」
そして帰り際、少しだけ振り返る。
「高田さんの件は……最後まで私がやったほうがいいのかな」
「え?」
「犬飼さん、ああいう人だから。また余計なことを言いそうで」
なんというか。
人がいい。
受任者としては満点でも、人生の防御力はやや低そうです。
そこへ、事務所の扉が開きました。
「杉浦」
犬飼さんでした。
忘れ物かと思ったら違った。
「……何です」
「やっぱり最後まで頼む」
「え?」
犬飼さんは気まずそうに鼻の下を擦った。
「高田さんに電話しようと思ったけど……何て言えばいいか分からん」
真壁さんが小さく笑う。
「地主先生、交渉は苦手か」
「うるさい」
「で?」
「……杉浦」
犬飼さんが頭を下げた。
今度はさっきより深かった。
「最後の合意書まで、頼めないか」
杉浦さんはしばらく黙っていました。
そして。
「報酬は?」
犬飼さんが顔を上げる。
私は思わず杉浦さんを見た。
おお。
学習した。
「……払うよ」
「費用は?」
「先に渡す」
「途中でやめる時は?」
「その時までの分は払う」
「報告は?」
「ちゃんと聞く」
杉浦さんが笑いました。
「じゃあ、引き受けます」
「……よろしく頼む」
二人は並んで帰っていきました。
なんだ。
結局また委任するんじゃないですか。
しかも、さっきよりずっとまともな条件で。
人間というのは、一度揉めないと契約書を真面目に読まない生き物なのかもしれません。
夕方。
私は机の上にノートを広げていました。
真壁さんが缶コーヒーを一本置く。
「ほら」
「ありがとうございます」
「今日はよく喋ったな」
「私、事務見習いなんですけど」
「最近お前、事務より民法やってる時間のほうが長くないか」
「私もそう思います」
「給料上げてもらえ」
所長の机のほうを見る。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
「上げん」
「即答!」
真壁さんが笑いました。
私は缶コーヒーのプルタブを開ける。
カシュッ、と小さな音がした。
「しかし」
真壁さんが椅子に腰かける。
「今日のあれ、委任っていうんだろ」
「はい」
「人に何か頼んだら、全部委任なのか?」
「そこは違います」
「違うのか」
「法律行為を頼むのが委任です」
「法律行為?」
「たとえば、代理で契約を結んでもらうとか」
「じゃあ荷物運んどいて、は?」
「それは法律行為じゃないので、厳密には準委任の話になります」
「……急に面倒くさくなったな」
「民法ですから」
「なるほど」
納得するところ、そこなんですね。
私はノートの上に、今日の出来事を一行だけ書きました。
――「途中で終わった」と「何もしていない」は、同じではない。
今日の杉浦さんは、合意書に判をもらっていなかった。
だから形だけ見れば、仕事は完成していない。
でも。
何度も足を運んだ。
条件を聞いた。
依頼者へ報告した。
双方の間に立った。
必要な金も立て替えた。
相手を無理に追い込まず、きちんと仕事をした。
その全部が、
「最後まで終わってないから」
で消えてしまうなら、
人は安心して誰かの頼み事なんて引き受けられない。
「栞」
所長が新聞を畳みました。
「今日、何を覚えた」
「人に仕事を頼んで、九割終わったところで解約すれば九割引きになるわけではない」
「言い方が通販みたいだな」
「じゃあ……」
私は少し考えました。
「委任は、頼んだ瞬間より、やめる時に人柄が出る」
所長が一瞬黙った。
真壁さんも黙った。
「……何ですか」
「いや」
真壁さんが缶コーヒーを飲む。
「たまにお前、十八じゃないみたいなこと言うよな」
ぎく。
「き、気のせいです」
「そうか?」
「十八です」
「聞いてない」
危ない。
前世の年齢まで足したら、いろいろ悲しくなるのでやめてください。
窓の外では、夕方の商店街に灯りがつき始めていました。
犬飼さんと杉浦さんは、明日もう一度、高田さんのところへ行くらしい。
今度こそ。
ちゃんと話をして。
ちゃんと報告して。
ちゃんと合意書を交わして。
そして今度こそ、ちゃんと報酬を払う。
それだけのことです。
でも、その「ちゃんと」を積み重ねるために、法律があるのかもしれない。
私はノートを閉じました。
委任。
人に法律行為を任せる契約。
教科書で読むと、なんとも味気ない。
でも今日の私には、少し違って見えました。
人に任せるということは、
仕事だけを渡すことじゃない。
自分の代わりに動いてもらうこと。
自分の代わりに、人と向き合ってもらうこと。
つまり少しだけ、
自分の信用を、その人の手に預けることなのだ。
だったら。
終わり方くらい、きれいでありたい。
「栞」
「はい?」
「明日の朝、犬飼さん来るぞ」
「え」
「杉浦さんとの委任内容、紙にしてくれって」
「……」
「よかったな。事務の仕事だ」
私は机に突っ伏しました。
「法律で人を助けた翌日に、契約書作成が待ってるんですね」
「不動産屋だからな」
「余韻!」
「仕事に余韻なんかあるか」
ひどい。
でも。
少しだけ笑ってしまいました。
昭和六十三年。
どうやらこの時代でも、
人に何かを頼むという行為は、
私が思っていたよりずっと重くて、
そして、少しだけ温かいものらしい。
――ただし。
報酬と経費の話は、最初にしてください。
これはもう、
法律以前に。
人類へのお願いです。
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