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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 時効

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[時効の利益の放棄]法理編 栞とお勉強

挿絵(By みてみん)

 夕方の事務所で、私はノートを開きました。


 今日の事件を、もう一度最初から整理してみる。


 河野さんは、十二年前にお金を借りた。


 その契約書には、こんな条項があった。


 《借主は、本契約に基づく債務について、消滅時効の利益をあらかじめ放棄する》


 丸正商事は、それを根拠に、


 「あなたは最初から時効を使わないと約束した。だから、何年経っても時効は主張できない」


 と言ってきた。


 でも。


 そこが今日の一番大事なところです。


「……“あらかじめ”が駄目なんだよな」


 後ろから声がしました。


 振り返らなくても分かります。


「真壁さん、また勝手に人のノート見てますね」


「見える位置に置いてあるほうが悪い」


「机の上にあるノートは、普通、持ち主のものです」


「不動産屋に普通を期待するな」


「最低ですね、この業界」


「お前もその一員だぞ」


 やめてください。


 まだ見習いです。


 逃げ道を残しておいてください。


 私はノートの一番上に大きく書きました。


 時効の利益は、あらかじめ放棄することができない。


「これが結論です」


「短いな」


「今日のテーマ自体は、かなり短いんです」


「じゃあ楽勝じゃねえか」


「そう思うでしょう?」


 私は赤鉛筆を持ちました。


「でも、宅建って、短い論点ほど一行だけ変えて落としにきます」


「性格悪いな」


「試験問題に人格攻撃しないでください」


「お前が言うな」


 まず、そもそも。


 時効の利益とは何か。


 私はノートに書きます。


 時効の利益

 =時効が完成したことによって得られる法律上の利益。


 消滅時効なら、


 「もう時効が完成しているので、その債務について時効を援用します」


 と言える利益。


 取得時効なら、


 「一定期間占有したので、所有権を取得したと主張する」


 ための利益。


 今日の河野さんの事件では、消滅時効の話でした。


「要するに」


 真壁さんが言います。


「借金が時効になったときに、“もう時効です”って言える権利か」


「ざっくり言えば、そうです」


「じゃあ、その権利を捨てるのが“時効利益の放棄”?」


「はい」


 私は頷きました。


 時効の利益の放棄

 =時効によって得られる利益を受けない、とすること。


 たとえば。


 借金について消滅時効が完成した。


 でも債務者が、


 「時効は使いません」


 「ちゃんと払います」


 とする。


 これが、時効利益の放棄です。


「じゃあ今日の丸正商事の契約書も、同じじゃないのか?」


「そこが違うんです」


 私は鉛筆で線を引きました。


「いつ放棄したか」


「いつ?」


「そうです」


 私はノートを二つに分けました。


 時効完成前

 → 時効利益の放棄はできない


 時効完成後

 → 時効利益の放棄はできる


「これだけ?」


「これが核です」


「なんで完成前は駄目なんだ?」


「前編でも出ましたけど、ここは理由まで分かったほうが覚えやすいです」


 私は書き足します。


 もし完成前の放棄を認めると――

 債権者は、契約の段階で全員に

 「将来、時効を主張しません」

 と約束させればよくなる。


「……ああ」


 真壁さんが頷きました。


「そうしたら時効制度が骨抜きになるな」


「そうです」


「借りる側も、金が必要なら断りにくい」


「そういうことです」


 私はさらに書きました。


 時効利益をあらかじめ放棄できない理由

 → 時効制度そのものを無意味にしないため

 → 弱い立場の当事者が契約時に不当に権利を奪われるのを防ぐため


「つまり」


 真壁さんが私のノートを指差します。


「契約書に“時効は使いません”って書いてあっても?」


「時効完成前なら、効力は認められません」


「実印押してても?」


「駄目です」


「本人が読んで納得してても?」


「それでも駄目です」


「ずいぶん強いな」


「そこが重要です」


 私は丸で囲みました。


 超重要

 時効利益の完成前放棄は、

 当事者が合意していても無効。


「ここ、試験で出ます」


「どういうふうに?」


「たとえば」


 私は問題っぽく書きました。


 賃貸借契約締結時に、

 賃借人が

 「将来、賃料債権について消滅時効の利益を放棄する」

 と約束した。


「で?」


「効力はありません」


「契約書に書いてても?」


「ありません」


「じゃあ答えは?」


「“あらかじめ放棄する旨の約定には法的効力がない”なら、正しいです」


「なるほどな」


 私は横に大きく書きました。


 契約締結時に放棄

 → ダメ。


 真壁さんが笑いました。


「雑だな」


「試験場では雑なくらいが強いんです」


「名言っぽく言うな」


 では。


 完成後なら、なぜ放棄できるのか。


 私は次の欄に進みました。


 時効が完成した後なら、

 すでに時効利益が具体的に発生している。


「つまり?」


「もう手元にある利益だからです」


「なるほど」


「まだ存在していない利益を、未来永劫捨てる約束は駄目。でも、実際に時効が完成して、その利益が生じた後なら、それを使わないと決めることはできる」


「選択の問題になるわけか」


「そうです」


 私は書きます。


 時効完成前

 → 将来の利益を先に捨てさせる

 → 不可


 時効完成後

 → すでに発生した利益を本人が捨てる

 → 可能


「前編で所長が言ってたな」


「何をです?」


「未来の自分まで縛るな、みたいな話」


「言ってましたね」


「お前も似たこと言ってた」


「私は所長ほど格好よく言ってません」


「いや、結構格好つけてたぞ」


「忘れてください」


「無理だ」


 嫌な記憶力だな、この人。


 私は次に、少しだけ注意書きをしました。


 注意

 時効の利益の放棄と、

 時効の援用は別物。


「また似た言葉が出たな」


「民法はこういうの好きなんです」


「嫌な趣味だ」


「だから人格攻撃はやめてください」


 時効が完成しただけでは、当然にすべてが片づくわけではない。


 時効によって利益を受けたい人は、原則として時効を援用する必要があります。


 援用

 =時効による利益を受けます、と主張すること。


 放棄

 =その利益を受けません、とすること。


「正反対だな」


「そうです」


「援用が“使う”で、放棄が“使わない”」


「その覚え方でいいです」


 私はノートに矢印を書きました。


 時効完成

 ↓

 援用する

 → 時効の利益を受ける


 放棄する

 → 時効の利益を受けない


「じゃあ、河野さんは今日の時点では?」


「まだどちらとも決めてません」


「そうだったな」


「まず本当に時効が完成しているのか確認する。そのうえで、援用するかどうかを考える」


「で、完成後なら放棄もできる」


「はい」


 ここで私は、もう一つ大事なところを書きました。


 時効利益を放棄すると、

 その後、その時効を援用することはできない。


「そりゃそうだな」


「はい。“その時効の利益はいりません”と自分で捨てたのに、あとから“やっぱり使います”は基本的にできません」


「都合よすぎるもんな」


「そういうことです」


 ただし。


 ここから少しややこしくなる。


「来たな」


 真壁さんが嫌そうな顔をします。


「何がです」


「お前が“ここからややこしい”って言うとき、大体本当にややこしい」


「成長しましたね」


「嬉しくねえ」


 私は新しい欄を作りました。


 連帯債務者がいる場合。


「連帯債務者?」


「たとえば、AとBが連帯して同じ借金を負っている場合です」


「二人とも債務者」


「そうです」


 そして時効が完成した。


 そのうちAだけが、


 「私は時効の利益を放棄します」


 と言った。


「じゃあBも巻き込まれるのか?」


「いい質問です」


「今日はよく褒めるな」


「このあと落とします」


「やめろ」


 結論。


 連帯債務者の一人が時効利益を放棄しても、

 その効力は原則として他の連帯債務者には及ばない。


「つまりAが放棄しても」


「Bは自分で時効を援用できます」


「へえ」


「時効利益の放棄は、その人自身の判断ですから」


「他人まで勝手に巻き込めない」


「そういうことです」


 私は簡単な図を書きました。


 債権者X

  ↓

 A・Bが連帯債務者


 A

 → 時効利益を放棄


 B

 → それでも時効を援用できる


「これ、試験で狙われそうだな」


「狙われます」


「“一人が放棄したら全員放棄したことになる”は?」


「誤りです」


「逆に“一人が放棄しても他の者は援用できる”なら?」


「正しいです」


 私はそこを赤で囲みました。


 連帯債務者

 一人の放棄

 ≠ 他の者の放棄


「これも雑だな」


「でも覚えやすいでしょう」


「悔しいけどな」


 そこへ所長が奥から出てきました。


「ずいぶん進んだな」


「はい。時効利益の放棄をまとめてました」


「どこまで?」


「完成前は放棄不可。完成後なら放棄可能。連帯債務者の一人が放棄しても、他の連帯債務者には原則として影響しないところまでです」


 所長は私のノートを見ました。


 そして一言。


「悪くない」


「おお」


 私は思わず声を上げました。


「なんだ」


「所長が褒めた」


「褒めてない」


「“悪くない”は所長語でかなり上位ですよ」


 真壁さんが言う。


「黙れ」


 やっぱり上位らしい。


 所長はノートを指しました。


「ただし、試験で一番先に見るべき言葉を書いておけ」


「一番先に見るべき言葉?」


「そうだ」


 所長は私の鉛筆を取りました。


 そしてページの中央に、大きく二つ書きました。


 完成前?

 完成後?


「……あ」


 私は思わず声を出しました。


「時効利益の放棄は、まずこれだ」


 所長が言います。


「誰が放棄したとか、契約書に書いてあるとか、実印を押したとか、その前に」


「時効が完成する前か、後か」


「そうだ」


「完成前なら、そもそも放棄できない」


「完成後なら、放棄できる」


「それだけ先に切れば、かなり楽になりますね」


「民法は時系列を整理すると半分ほど片づく」


 所長はそう言って、鉛筆を机に戻しました。


「残り半分は?」


 真壁さんが聞きます。


「人間関係だ」


「……なるほど」


「で、残りは?」


 私が聞くと、所長は少しだけ笑いました。


「問題文をちゃんと読むことだ」


「それ全部じゃないですか」


「だから落ちるんだ」


「急に受験生へ厳しい!」


 所長は奥へ戻っていきました。


 私はノートを見直します。


 時効の利益の放棄。


 名前だけ見ると難しい。


 でも、考え方は意外と単純です。


 まず。


 時効の利益は、完成前には放棄できない。


 なぜなら。


 将来の時効利益を最初から放棄できるとしたら、債権者は契約時に一律でその放棄を約束させればいい。


 それでは時効制度そのものが意味を失う。


 だから。


 契約書に書いてあっても。


 署名していても。


 実印を押していても。


 本人が納得していても。


 時効完成前の放棄はできない。


 しかし。


 時効完成後なら、すでに生じた利益を本人が放棄することはできる。


 そして。


 連帯債務者の一人が放棄しても、その判断は他の連帯債務者まで当然に縛らない。


 他の連帯債務者は、自分自身で時効を援用できる。


 私は最後に、大きくまとめました。


 【時効利益の放棄 試験用まとめ】


 ① 時効利益は、あらかじめ放棄できない


 ② したがって、契約締結時の

  「将来、時効を主張しません」

  という特約は無効


 ③ 時効完成後なら、時効利益を放棄できる


 ④ 放棄した本人は、その時効利益を受けられない


 ⑤ 連帯債務者の一人が放棄しても、

  他の連帯債務者は時効を援用できる


 その下に、自分用の覚え書きを書きます。


 迷ったら最初に確認。


 「完成前」か。

 「完成後」か。


「栞」


「はい?」


 真壁さんが缶コーヒーを一本、机の上に置きました。


「今日も頭使ったろ」


「珍しいですね。また奢りですか」


「河野さんが置いてった」


「真壁さんのお金じゃないじゃないですか」


「渡す手間を俺が負担した」


「手数料を主張しないでください」


「不動産屋だからな」


「便利な言い訳ですね」


 私は缶を受け取りました。


 まだほんのり冷たい。


 窓の外では、夕方の商店街を自転車が走っていきました。


 昭和六十三年。


 契約書も、電話も、机も、何もかも古い。


 でも、人が困る理由は、たぶん時代が変わってもあまり変わらない。


 目の前のお金が必要で。


 難しい契約書に判子を押して。


 あとになって、その一文にずっと縛られていると思ってしまう。


 でも。


 法律には、


 「そこまで先の自分を縛らなくていい」


 と言ってくれる場面がある。


 今日の条文は、まさにそれでした。


 私はノートを閉じます。


 時効の利益は、あらかじめ放棄できない。


 短い。


 でも、その一文があるだけで。


 十二年前の契約書より、


 今の自分の選択を優先できることがある。


「栞、帰るぞ」


「はい」


「ノート忘れんなよ」


「今日はちゃんと持って帰ります」


「この前忘れたろ」


「あれは保管です」


「一晩?」


「長時間保管です」


「俺の換気と同じ言い訳使うな」


 私は笑いながらノートを鞄にしまいました。


 明日もまた、


 教科書ではたった数行の法律が、


 誰かの人生では、とても大きな意味を持つのだと思います。


 そして、とりあえず今日のところは。


 契約書に、


 《時効の利益をあらかじめ放棄する》


 と書いてあったら。


 私は迷わず、赤鉛筆でこう書きます。


 ――それ、先に捨てられません。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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