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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 時効

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43/150

[時効の利益の放棄]現場編 未来の自分まで縛る契約はできない

挿絵(By みてみん)


 契約書には、ときどき、読むだけで性格の悪さが伝わってくる一文があります。


 難しい言葉だからではありません。


 小さい字だからでもありません。


 書いた人の、


 ――ここ、相手は気づかないだろうな。


 という期待が、紙から染み出しているからです。


 そういう一文を見つけたとき、私はだいたい思います。


 性格、出てますよ。


 契約書に。


「栞。ちょっと来い」


 朝一番。


 大槻不動産の事務所で伝票を整理していた私を、真壁さんが手招きしました。


 相変わらず顔が怖い。


 本人は普通に呼んでいるだけなのに、


 ――裏へ来い。


 に見える。


 十八歳の事務見習いに向ける顔ではない。


「なんですか」


「客だ」


「見れば分かります」


「じゃあ察しろ」


「接客をエスパーに頼らないでください」


 真壁さんの前には、五十代くらいの男性が座っていました。


 薄い作業着。


 日に焼けた顔。


 大きな手を膝の上で何度も握っている。


 その横には、古びた封筒と、何枚かの契約書。


「こちら、河野さん。町外れで鉄工所やってる」


「河野です」


「藤崎です」


 私は頭を下げました。


 河野さんは、困り果てた人特有の笑い方をしました。


 笑っているのに、まったく笑えていないやつです。


「実はねえ……昔借りた金のことで」


 お金。


 時効。


 契約書。


 この三つが並んだ瞬間、私の頭の中で警報が鳴りました。


 前世で宅建を勉強していた頃なら、


 うわ、時効。


 でテキストを閉じていた場面です。


 時効の完成猶予。


 更新。


 援用。


 利益の放棄。


 似たような日本語が団体で襲ってくる、民法界の駅前ロータリー。


 でも今は違う。


 目の前に困っている人がいる。


 ページを閉じても、事件は閉じません。


「いくら借りたんです?」


 真壁さんが聞きます。


「三百万円です。十二年くらい前になります」


「誰から?」


「丸正商事っていう金融会社です。工場の機械を入れ替えるときに」


 河野さんは契約書を一枚差し出しました。


「最初の何年かは返してたんですが、仕事が減って……その後、向こうからも長いこと何も言ってこなくなって」


「それが今になって来た?」


「はい」


 河野さんの声が沈みました。


「残りを全部払えって」


「いくら」


「元金と遅延損害金で、四百万円近く」


 私は思わず契約書から顔を上げました。


 増えてる。


 借金って、本当に放っておくと育ちますね。


 観葉植物なら水をやらないと枯れるのに、借金は逆です。


「弁護士さんには?」


 私が聞くと、河野さんは首を振りました。


「まだです。ただ、知り合いから、こんな昔の借金なら時効じゃないかって言われて」


 真壁さんが契約書をめくります。


「で、丸正はなんて?」


「それが……」


 河野さんは別の紙を出しました。


 督促状でした。


 その中の一か所に、赤鉛筆で線が引いてあります。


 私は読みました。


 《貴殿は金銭消費貸借契約締結時に、消滅時効の利益を放棄する旨を承諾しているため、時効を主張することはできません》


 私は二度読みました。


 それから契約書に戻ります。


 ありました。


 裏面。


 細かい約款の真ん中。


 米粒みたいな文字で。


 《借主は、本契約に基づく債務について、消滅時効の利益をあらかじめ放棄する》


「……うわ」


 思わず声が出ました。


「どうした?」


 真壁さんが覗き込む。


「嫌なもの見つけました」


「虫か?」


「契約条項です。虫より質が悪いです」


「契約書を害虫扱いするな」


「この一文はかなり害虫寄りです」


 河野さんが不安そうに私を見ます。


「やっぱり……駄目なんでしょうか」


「いえ」


 私は即答しました。


「むしろ逆です」


「逆?」


「この条項、たぶん効きません」


 河野さんが目を瞬きました。


 真壁さんも眉を上げる。


「栞。どういう意味だ」


 私は契約書を指しました。


「時効の利益って、先に捨てておくことはできないんです」


「先に?」


「はい」


 私は河野さんに向き直りました。


「たとえば時効が完成した後で、『時効を使いません。ちゃんと払います』とすることはあります」


「……はい」


「でも、お金を借りる最初の段階で、『何年経っても時効は使いません』って約束しても、それで時効制度を潰すことはできません」


 河野さんはしばらく黙っていました。


「じゃあ……この契約書に書いてあっても?」


「書いてあってもです」


「判子を押してても?」


「押しててもです」


「読んでなくても?」


「それはこの問題ではあまり関係ありません」


「読んでても?」


「同じです」


 河野さんの目が、だんだん大きくなっていく。


 真壁さんが契約書を持ち上げました。


「待てよ。契約ってのは、合意したら基本は守るもんだろ?」


「そうです」


「じゃあなんで、これは駄目なんだ」


 来た。


 とてもいい質問です。


 前世の宅建テキストなら、赤字でこう書いてあるところ。


 時効の利益は、あらかじめ放棄することができない。


 終わり。


 いや終わるな。


 なぜだ。


 人間は理由が分からないと忘れるんです。


「もし認めたら、貸す側は全員、契約書に書きますよ」


 私は言いました。


「『借主は時効の利益を放棄します』って」


「……ああ」


「そうなったら、時効制度が事実上なくなります」


 真壁さんが少し黙りました。


「なるほどな」


「しかも、お金を借りる時って、借りる側のほうが立場が弱いことも多いでしょう」


 河野さんが小さく頷く。


「金が必要だから借りるんですもんね」


「はい。そこで貸す側から『これに同意しないなら貸さない』と言われたら、借りる人は飲まざるを得ない」


 私は契約書の一文を指で叩きました。


「だから、未来に完成するかもしれない時効の利益を、最初から奪っておくことはできないんです」


 真壁さんが低く笑いました。


「未来の自分の権利まで、借金の担保には取れねえってことか」


「そういうことです」


 いい表現だ。


 先輩、たまに突然うまいこと言うな。


 顔が怖いだけじゃない。


 そのとき。


 事務所の入口のベルが鳴りました。


 カラン。


「河野さん。こちらにいらっしゃいましたか」


 入ってきた男を見て、河野さんの肩が固まりました。


 三十代後半。


 濃紺のスーツ。


 銀縁眼鏡。


 革の鞄。


 笑顔だけは丁寧。


 でも、その丁寧さが、玄関先に置く消火器の営業くらい信用できません。


「丸正商事の長谷川です」


 男は名刺を差し出しました。


 真壁さんが受け取ります。


「大槻不動産、真壁です」


「これはどうも」


 長谷川は河野さんの前に立ちました。


「ご相談されていたんですね」


「……ええ」


「ですが、これはもう契約上、明らかな話です」


 長谷川は鞄から同じ契約書の写しを出しました。


「河野様は、契約締結時に消滅時効の利益を放棄されています」


 出た。


 悪役が証拠品を自分で持ってくる回です。


「したがって、時効の主張はできません」


 長谷川は滑らかに続けました。


「契約は契約です。署名も実印もあります」


「その条項、無効ですよ」


 私が言いました。


 長谷川の口が止まりました。


「……はい?」


「時効の利益は、あらかじめ放棄できません」


 一秒。


 二秒。


 長谷川がゆっくり私を見る。


「失礼ですが、あなたは?」


「事務見習いです」


「……法律家ではないですよね」


「そこはそうです」


 私は頷きました。


「でも、条文は肩書きを見て効いたり効かなかったりしません」


 真壁さんが横で、ぶふっと変な音を出しました。


 笑うなら堂々と笑ってください。


 長谷川の顔から、薄い笑みが消えます。


「しかし、当人が自由意思で合意している」


「それでも駄目です」


「契約自由の原則があります」


「何でも自由なら、民法いりませんよ」


「あなたねえ」


「契約自由にも限界があります」


 私は契約書を開きました。


「そもそも、時効制度があるのに、債権者側が契約書一枚で全部無効化できたらおかしいでしょう」


「……」


「しかもこれ、御社の定型条項ですよね?」


 長谷川の眉がわずかに動いた。


 図星。


「借りる人全員に同じ条項を入れているなら、『本人が特別に望んで時効利益を捨てた』なんて話でもない」


「関係ありません」


「ありますよ」


「ありません」


「効かない条項を根拠に『時効は主張できない』と督促してるんですから」


 長谷川の声が少し強くなりました。


「いいですか。河野さんは借りたんです。借りた金を返すのは当然でしょう」


 その言い方に、河野さんがうつむきました。


 私は少し腹が立ちました。


 こういうときです。


 法律の話をしているのに、急に道徳の話にすり替える人。


 借りたものを返す。


 それ自体は正しい。


 だからといって、


 時効制度を使うな。


 とはならない。


「当然かどうかと、法的に請求できるかどうかは別です」


 私は言いました。


「……何?」


「借りたという事実と、時効が完成しているか。時効を援用できるか。この条項が有効か。それぞれ分けて考えるべきです」


「詭弁ですね」


「整理です」


 私は即答しました。


「法律は、感情の勢いで全部一緒にしないためにあるんです」


 事務所が静かになりました。


 自分で言ってから、ちょっと格好つけすぎた気がする。


 十八歳。


 事務見習い。


 朝から民法で金融会社に説教。


 私の昭和人生、開始早々だいぶ変な方向へ行っています。


 長谷川は河野さんに向き直りました。


「河野さん。本当に時効など主張されるんですか」


 その声音が変わりました。


 柔らかい。


 でも、今度はそこに棘がある。


「昔、困ったときに当社がお貸ししたお金ですよ」


「……」


「それを今さら、法律を使って踏み倒すと?」


 河野さんの顔が強張りました。


 来た。


 法律で勝てないときの、


 人情カード。


 しかも裏面に罪悪感が印刷されているタイプです。


「長谷川さん」


 低い声がしました。


 所長です。


 いつの間にか奥の部屋から出てきていました。


 大槻所長は、普段あまり大きな声を出しません。


 必要ないからです。


 静かな人ほど、本当に怒ると怖い。


「ここはうちの事務所だ」


「……失礼しました」


「河野さんに判断させるなら、事実を全部正確に伝えてからにしてもらおう」


 所長は契約書を手に取ります。


「この時効利益放棄の条項は、少なくとも完成前の放棄として効力を持たない」


 長谷川が黙る。


「そのうえで、実際に消滅時効が完成しているのか。途中で何か時効に影響する事情がなかったか。それを調べる」


 所長は長谷川をまっすぐ見ました。


「それが先だろう」


「……」


「払うかどうかを決めるのは、その後だ」


 完璧です。


 私が勢いで殴った論点を、所長がきれいにファイルへ綴じた。


 こういう人が上司だと安心します。


 静かなホチキス。


 長谷川はしばらく黙っていましたが、やがて契約書を鞄に戻しました。


「では、こちらとしても確認します」


「そうしてください」


「ただし、債務そのものが消えたと決まったわけではありません」


「もちろんです」


 私は言いました。


「時効が完成してるかどうかは、別に確認が必要です」


 長谷川が私を睨む。


「ずいぶん詳しいですね、事務見習いさん」


「受験勉強の副作用です」


「何の?」


「こっちの話です」


 長谷川は最後まで納得していない顔で、事務所を出ていきました。


 カラン。


 扉が閉まる。


 数秒。


 誰も話しませんでした。


 そして。


「……怖かったぁ」


 私は机に突っ伏しました。


「お前、今の態度でそれ言うのか」


 真壁さんが呆れた声を出します。


「足、ずっと震えてました」


「見えなかったぞ」


「机の下ですから」


「便利だな、机」


「人類の偉大な発明です」


 河野さんが。


 ふっと笑いました。


 本当に小さな笑いでした。


 でも、さっきまでとは違う。


 ちゃんと息ができるようになった人の笑いでした。


「藤崎さん」


「はい」


「ありがとうございました」


「まだ解決したわけじゃありませんよ」


「分かってます」


 河野さんは契約書を見つめました。


「でも……俺、あの一文があるから、もう何も言えないと思ってたんです」


 私は黙って聞きました。


「十二年前、金が必要でね。機械が壊れて。このままだと職人を三人、辞めさせなきゃならなかった」


「……はい」


「だから契約書なんて、ほとんど読まずに判子押したんです」


 河野さんは自分の手を見ました。


 大きくて、傷の多い手。


「時効を使うかどうかは、まだ分かりません」


「え?」


「本当にもう払わなくていいとなっても……払える分は払いたいって気持ちもあるんです」


 真壁さんが黙る。


 所長も何も言いません。


「ただ」


 河野さんはゆっくり続けました。


「『お前は昔そう約束したんだから、選ぶ権利はない』って言われるのが……なんか、苦しかった」


 その言葉が胸に残りました。


 選ぶ権利はない。


 ああ。


 たぶん、今日守ったのはお金じゃない。


「選んでいいんですよ」


 私は言いました。


 河野さんが顔を上げます。


「払うか、時効を主張するか。もちろん法律上どうなってるか確認したうえでですけど」


「……はい」


「少なくとも十二年前の河野さんが、今の河野さんの選択まで全部決めてしまうことはできません」


 私は契約書の条項を指しました。


「未来の自分まで縛る約束は、何でも有効になるわけじゃないんです」


 河野さんはしばらく何も言いませんでした。


 そして、深く頭を下げました。


「……ありがとうございます」


 その後、所長の紹介で専門家にも確認してもらうことになりました。


 時効が本当に完成しているのか。


 途中で債務を認めるようなやり取りがなかったか。


 請求や裁判など、時効に影響する事情がなかったか。


 そこは慎重に調べる。


 今日の時点で、


 借金が消えました!


 おしまい!


 とはなりません。


 法律はそんな雑な魔法ではない。


 でも、一つだけはっきりしたことがあります。


 契約を結んだ十二年前に、


 《将来、時効が完成しても、その利益は使いません》


 と書いてあったからといって、


 それだけで永久に時効を封じることはできない。


 それだけでも、河野さんにとっては大きかったようでした。


 夕方。


 河野さんが帰ったあと。


 私は机の上のコピーを見ながら呟きました。


「しかし、よく考えると怖いですよね」


「何が」


 真壁さんが缶コーヒーを開けます。


「契約の最初に、将来の時効まで全部捨てさせられたら」


「まあな」


「借金だけじゃないですよ。賃料とか、いろんな債権で全部そういう条項入れたら」


「貸す側は楽だろうな」


「楽すぎます」


 私は鉛筆をくるくる回しました。


「時効制度がある意味なくなります」


「だから、あらかじめ捨てられねえのか」


「そうです」


「じゃあ完成した後なら?」


 私はぴたりと鉛筆を止めました。


「そこは――」


「そこは?」


「後編です」


「何の後編だよ」


「私の頭の中の話です」


「怖えな、お前の頭」


 所長が奥から声をかけました。


「栞」


「はい」


「今日のこと、忘れないようにノートにまとめておけ」


「分かりました」


「特に一番大事なところ」


「時効の利益は、あらかじめ放棄できない」


「そうだ」


 所長は一拍置いて、


「人間はな」


 と言いました。


「困ってるときほど、先のことまで約束させられやすい」


 私は顔を上げました。


「金を借りるとき。仕事を頼むとき。住む場所を借りるとき。立場が弱いと、目の前を切り抜けるために何でも『はい』と言ってしまうことがある」


「……」


「だから法律が、本人の『はい』だけで全部を済ませない場面もある」


 所長はそれだけ言って、また奥へ戻っていきました。


 真壁さんが缶コーヒーを飲みながら呟きます。


「所長、たまに格好いいこと言うんだよな」


「たまに余計です」


「本人いねえからいいだろ」


「聞こえてるぞ」


 奥から声が飛んできました。


 真壁さんが固まる。


 私は吹き出しました。


 その日の帰り。


 私は事務所の机で、河野さんが置いていった契約書のコピーをもう一度見ました。


 小さな文字。


 たった一行。


 《借主は、消滅時効の利益をあらかじめ放棄する》


 紙の上では、本当に小さい。


 でも、河野さんは十二年間、その一文に縛られていた。


 いや。


 本当は縛られていなかった。


 縛られていると思わされていただけだ。


 法律を知らないというのは、時々、


 ない鎖を、本物だと思って背負うことなのかもしれません。


 私は赤鉛筆で、その条項に一本線を引きました。


 そして余白に大きく書きます。


 時効の利益は、あらかじめ放棄できない。


 未来の自分には、


 未来の自分が決める権利がある。


「栞、帰るぞ」


 真壁さんが入口から呼びました。


「はーい」


「戸締まり忘れんなよ」


「真壁さんこそ、この前裏口開いてましたよ」


「あれは換気だ」


「夜通し?」


「長時間換気だ」


「泥棒に優しい不動産屋ですね」


「うるせえ」


 私は笑いながらノートを閉じました。


 昭和六十三年。


 土地も金も、勢いよく動く時代。


 契約書には、


 今の自分だけじゃなく、


 十年後の自分まで縛ろうとする言葉が書かれていることもある。


 でも。


 判子を押したからといって、


 人は未来の権利まで全部売り渡すわけじゃない。


 今日覚えたのは、


 たぶん、そういう法律でした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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