[取得時効]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
窓際には、森田さんの息子さんにもらった、まだ青い柿。
机の上には、今日使った測量図と古い写真。
そしてノートの一番上に、私は大きく書きました。
取得時効。
「……やっぱり、この制度すごいな」
思わず呟きます。
「何がだ?」
後ろから声がしました。
振り向かなくても分かります。
真壁さんです。
「他人の土地を使い続けたら、自分の土地になることがあるんですよ」
「言い方が犯罪っぽいな」
「ですよね」
私も最初に勉強した時、そう思いました。
他人の土地なのに。
長く使っていたら。
本当に自分のものになる。
字面だけ見ると、かなり強烈です。
「でも、誰でも長く使えばいいわけじゃありません」
「今日の話か」
「はい」
私はノートに書きました。
取得時効が成立するための基本要件
① 所有の意思をもって占有すること
② 平穏かつ公然に占有すること
③ 一定期間、占有を続けること
「まず、この三つです」
「所有の意思ってのが、いちばん分かりにくいな」
「そうなんです」
私は赤鉛筆を持ちました。
所有の意思。
簡単に言えば、
『これは自分のものだ』
というつもりで占有していること。
「じゃあ、森田さんのお父さんは?」
「自分の庭だと思って使ってました」
「だから、所有の意思がある」
「はい」
私は頷きました。
「逆に、借りている人は?」
「自分のものとは思ってない」
「そうです」
私は横に書きます。
賃借人
↓
原則として所有の意思なし
「ここ、試験でかなり大事です」
「二十年借りてても?」
「駄目です」
「三十年」
「駄目です」
「五十年」
「年数で押し切ろうとしないでください」
「だって長いだろ」
「長くても、借りてるものは借りてるんです」
私はノートに太く書きました。
重要!
取得時効では、
『何年占有したか』より先に、
『どんな意思で占有していたか』を見る。
「つまり?」
「賃貸借契約で土地を借りて、毎月きちんと賃料を払っている人がいたとします」
「ああ」
「その人が二十年以上住み続けても、普通は土地の所有権を時効取得できません」
「家賃払ってる時点で、『他人の土地です』って認めてるようなもんだもんな」
「そういうことです」
私は丸をつけました。
まさに今日、所長が言っていた。
年数だけ見るな。
取得時効で最初に見るのは、
自分のものとして占有しているのか。
借り物として占有しているのか。
そこです。
「じゃあ次」
私はページをめくりました。
「平穏かつ公然」
「これは?」
「平穏は、暴力なんかで無理やり占有を奪った状態ではないこと」
「公然は?」
「隠れてこっそり、ではないことです」
「森田さんちは丸見えだったな」
「はい」
物置。
植木鉢。
柿の木。
洗濯物。
子供の自転車。
あれだけ堂々と庭として使っていれば、公然という点はイメージしやすい。
「それから」
私は一つ付け足しました。
建物などを他人に貸していて、自分自身は直接使っていなくても、占有が認められる場合がある。
「これ、間接占有ってやつです」
「本人がそこにいなくても?」
「はい」
「貸してる相手を通じて占有してる?」
「そうです」
私は少し考えて、書きました。
直接占有
自分で使っている
間接占有
他人に貸すなどして、その人を通じて占有している
「つまり、占有って『自分の尻がそこに乗ってるか』だけじゃないんだな」
「表現は雑ですけど、だいたいそうです」
「雑って言うな」
雑です。
でも分かりやすい。
「で、一番有名なのが十年と二十年です」
私は大きく書きました。
取得時効の期間
占有開始時に
善意・無過失
→ 10年
それ以外
→ 20年
「善意ってのは、また法律の意味だな」
「はい」
「性格がいいとかじゃない」
「違います」
善意。
つまり、
自分が所有者ではないことを知らないこと。
「森田さんのお父さんなら?」
「自分の土地だと信じてた」
「だから善意」
「はい」
「無過失は?」
「そう信じたことについて、注意不足がなかったことです」
私は今日の資料を思い出します。
現地には境界のような生垣。
境界杭らしきもの。
売買時の説明。
しかも隣家の先代まで、そこを境界だと思っていた。
「だから今日の件では、善意無過失だった可能性があるわけです」
「じゃあ十年」
「そうです」
真壁さんが首を傾げました。
「でも由美子さんは、途中で『他人の土地かもしれない』って知ったんだろ?」
「そこです」
私は赤鉛筆で星をつけました。
超重要!
10年か20年かは、
占有開始時の善意・無過失で判断する。
「途中で悪意になっても?」
「はい」
「十年のまま?」
「はい」
真壁さんが少し意外そうな顔をしました。
「普通、途中で他人の土地って分かったら、そこから二十年コースになりそうだけどな」
「ならないんです」
「なぜ?」
「民法は、占有を始めた時の状態を基準にしているからです」
私は簡単な例を書きました。
A
善意無過失で占有開始
↓
5年後
他人の土地だと知る
↓
さらに5年
↓
合計10年
→ 取得時効完成
「途中で気づいても、占有開始時が善意無過失なら十年です」
「へえ」
「逆に」
私は別の例を書きます。
占有開始時から
他人の土地だと知っている
↓
20年必要
「これが悪意の場合です」
「有過失も二十年なんだな」
「そうです」
「善意だけど注意不足」
「その場合も十年ではなく二十年です」
「十年は善意だけじゃ駄目」
「善意『かつ』無過失です」
私はそこを二重線で囲みました。
10年
=善意+無過失
どちらか欠ける
=20年
「ここ、試験で絶対引っかけます」
「お前、試験作る側みたいな顔してるぞ」
「散々引っかけられた人間は、罠の位置が分かるんです」
「悲しい特技だな」
前世で得たものです。
「さて」
私はノートをめくりました。
「今日の本丸です」
「相続か」
「はい。占有の承継」
大きく書きます。
占有者が変わっても、
前の人の占有を引き継ぐことができる。
「今日なら?」
「父親から由美子さん」
「そうです」
私は図にしました。
父
8年占有
↓相続
娘
2年占有
8年+2年=10年
「この場合、娘は父親の八年を足せます」
「だから相続して二年しか経ってなくても、十年になる」
「はい」
真壁さんが頷きました。
「高梨さんが一番勘違いしてたとこだな」
「そうです」
相続した瞬間、
占有期間がゼロに戻る。
そんなことはない。
「でも」
私は指を一本立てました。
「引き継ぐのは年数だけじゃありません」
「今日言ってたな」
「はい」
私は書きました。
占有を承継する場合
前主の
① 占有期間
② 占有開始時の状態
も引き継ぐ。
「状態って?」
「善意無過失なのか、悪意なのか、有過失なのか、です」
「なるほど」
「たとえば」
私は例を書きます。
A
悪意で15年占有
↓
B
善意無過失で5年占有
「Bは、自分だけ見れば善意無過失です」
「じゃあ十年?」
「と思いますよね」
「違うのか」
「Aの占有を引き継ぐなら違います」
私は横に書きました。
Aの占有開始時
=悪意
だから
必要期間20年
A15年+B5年
=20年
→時効完成
「Bが善意無過失でも?」
「Aから引き継ぐなら、Aの占有開始時の状態も引き継ぐんです」
「なるほど」
「だからBは五年で完成します」
「十年じゃなくて?」
「合計二十年です。でもB自身は五年でいい」
「ややこしいな」
「めちゃくちゃややこしいです」
私は前世でここを何度も間違えました。
取得時効は、
自分が善意か悪意か、
それだけ見てはいけない。
誰の占有から計算しているのか。
そこを見ないといけません。
「じゃあ、次」
私はさらに書きました。
A
悪意で5年
↓
B
善意無過失で占有
「これ、どうします?」
「Aから足すなら二十年必要だから、Bは十五年」
「正解です」
「でもB自身は善意無過失だから……」
「そこです」
私は赤鉛筆を走らせました。
Bは、
Aの占有を承継せず、
自分の占有開始から10年で
時効完成を主張できる。
「え?」
真壁さんが顔を上げました。
「前の人の期間、使わなくてもいいのか?」
「いいんです」
「選べる?」
「はい」
私は頷きました。
「占有を承継する人は、前主の占有を合わせて主張することもできるし、自分の占有だけで主張することもできます」
「じゃあ、都合のいい方を使える?」
「そういう理解で大丈夫です」
私は図を二つ並べました。
パターン①
A悪意5年
+
B15年
=20年
→完成
パターン②
B自身が善意無過失で占有開始
B単独10年
→完成
「この場合はB単独の十年の方が早い」
「そうです」
「じゃあ、前の五年を捨てる」
「結果的には、そうなります」
「もったいない気がするな」
「時効はポイントカードじゃないので」
「五年分貯まってるのに」
「だからポイントカードじゃありません」
でも、この感覚は大事です。
前主の期間を足せる。
だから必ず足す。
ではない。
足すことで、前主の悪意や有過失まで一緒に引き継ぐ。
その結果、二十年必要になることもある。
「つまり」
私はノートに大きく書きました。
超重要!
占有承継では
『前の人を足した方が早いか』
『自分から10年を数えた方が早いか』
両方考える。
「これ、今日の森田さんなら?」
「父親が善意無過失なら、父親の八年を足した方が早い」
「そうです」
「父親八年+娘二年で十年」
「はい」
「娘自身から数えたらまだ二年」
「だから今日のケースでは承継する意味が大きいんです」
私は満足して丸をつけました。
「ところで」
真壁さんが言いました。
「親父さんが悪意だったら?」
「森田さんのお父さんが?」
「ああ。最初から『ここは隣の土地だけど使っちゃえ』って知ってた場合」
「その場合、父親から承継するなら二十年必要です」
「八年+二年じゃ十年しかない」
「だからまだ完成してません」
「じゃあ娘が善意無過失なら?」
「自分の占有開始から十年、という可能性を考えます」
「やっぱり両方見るんだな」
「そうです」
ここが、取得時効の問題を難しく見せるところ。
でも、順番に整理すればいい。
私はノートの端に、
試験での解き方
と書きました。
① 誰が占有しているか
② 所有の意思があるか
③ 平穏・公然か
④ いつ占有を始めたか
⑤ 占有開始時に善意無過失か
⑥ 前主の占有を承継するか
⑦ 10年か20年か
「この順番です」
「数字は最後なんだな」
「はい」
「いきなり十年二十年を見るな」
「それです」
そこへ所長が戻ってきました。
「まだやってるのか」
「はい。取得時効をまとめてます」
所長が私のノートを覗き込みます。
しばらく無言。
「……どうです?」
「字は前よりマシだ」
「内容を見てください!」
真壁さんが笑います。
所長は椅子を引いて座りました。
「じゃあ一問」
「はい」
「A所有の土地を、BがAから借りて二十五年使った」
「はい」
「Bは時効取得できるか」
「原則できません」
「なぜ」
「所有の意思がないから」
「よし」
即答できた。
ちょっと嬉しい。
「では」
所長が続けます。
「Bが自分の土地だと信じ、しかもそう信じたことに過失なく占有を始めた」
「はい」
「七年目に他人の土地だと知った」
「はい」
「何年で完成する」
「十年です」
「なぜ」
「占有開始時に善意無過失だったから」
「よし」
真壁さんが横から口を挟みます。
「所長、俺にも出してくださいよ」
「じゃあ」
所長が言いました。
「Aが悪意で十五年占有。その後Bが占有を承継して五年」
「Bが善意でも、Aから承継するならAの悪意も引き継ぐ。二十年で完成」
「お」
私が思わず言いました。
「真壁さん、できますね」
「俺を何だと思ってんだ」
「お茶を淹れる営業」
「根に持ってんのか」
所長がもう一問。
「Aが悪意で五年。その後Bが善意無過失で占有開始。Bは何年で取得できる」
真壁さんが考えます。
「Aから承継なら、あと十五年」
「うん」
「でもB自身から数えるなら十年」
「うん」
「だからBは自分から十年を選ぶ」
「正解」
「おお」
真壁さんが胸を張りました。
「宅建受かるか?」
「そこだけなら」
「厳しいな!」
「所長」
私は聞きました。
「取得時効って、結局なんでこんな制度があるんですか?」
「急だな」
「今日、ずっと考えてたんです」
他人の土地を一定期間占有したら、自分のものになる。
初めて聞くと、やっぱり不思議です。
所長は少し考えました。
「長い間続いてきた事実関係を、いつまでも不安定なままにしておくわけにはいかないからだろうな」
「事実関係?」
「何十年も、ある人が自分の土地として使っている」
「はい」
「周囲もそれを前提に生活している」
「はい」
「証拠も時間とともに消える」
確かに。
契約書。
境界の説明。
当時を知る人。
何十年も経てば、全部残っているとは限りません。
「だから一定期間続いた状態を、権利関係にも反映させる」
「なるほど」
「もちろん、勝手に住みつけば何でも取れる、という制度じゃない」
「所有の意思、平穏公然、期間」
「そうだ」
所長は私のノートの一番下を指しました。
「ただ、宅建なら理由を考えすぎるな」
「え」
「試験で点を取るなら、まず型を覚えろ」
「急に現実的ですね」
「資格試験は哲学じゃない」
正しい。
悔しいくらい正しい。
「最後にまとめておけ」
所長が言いました。
「何をです?」
「取得時効で最初に確認すること」
私は少し考えました。
そして書きます。
取得時効で最初に見るもの
年数ではない。
『所有の意思がある占有か』
「これですか?」
「そうだ」
「次は?」
「占有開始時だ」
私は続けました。
10年か20年かは、
占有開始時の善意・無過失で決まる。
「次」
占有者が変わったら、
前主の占有期間と占有開始時の状態を承継できる。
「次」
承継した方が有利とは限らない。
自分の占有開始から数えた方が早い場合もある。
所長が頷きました。
「それでいい」
私は最後に、今日の森田さんの事件を書きました。
父
善意無過失で8年以上占有
↓
娘
相続して約2年占有
↓
父の占有を承継すれば
合計10年以上
↓
他の要件も満たせば
10年の取得時効が成立する可能性
「こういうことですね」
「ああ」
「娘さんが途中で他人の土地かもしれないと知っても?」
「父親の占有開始時が基準なら、それだけで二十年にはならない」
「はい」
私は赤鉛筆で最後の一文を囲みました。
取得時効――
『今どう思っているか』ではなく、
『占有を始めた時、どうだったか』を見る。
そして、その下にもう一行。
前の人の時間を引き継ぐなら、
前の人の事情も一緒についてくる。
「これ、覚えやすいな」
真壁さんが言いました。
「でしょう?」
「親の借金みたいだ」
「急に嫌な例にしないでください」
「良いものだけ相続できないって意味だよ」
「ああ」
それなら確かに似ています。
年数だけ欲しい。
悪意は要りません。
そんな都合のいい承継はできない。
期間を引き継ぐなら、占有の性質も一緒についてくる。
「でも、自分から数え直すことはできる」
「そうです」
「法律、意外と選択肢あるな」
「ありますね」
そこへ目が行きました。
窓際の青い柿。
「まだ青いな」
真壁さんが言います。
「ですね」
「十年待つか」
「腐ります」
「二十年」
「化石になります」
所長が鼻で笑いました。
私は柿を手に取りました。
今日勉強した取得時効は、
十年。
二十年。
数字だけなら、簡単です。
でも本当に大事なのは、その数字に入る前。
誰が。
どんな意思で。
どうやって。
いつから。
占有していたのか。
そして途中で人が変わったなら、その前の時間をどう扱うのか。
試験問題では、
A。
B。
C。
たった一文字で書かれます。
でも今日の私には、
Aは、庭に柿を植えた父親。
Bは、その家を継いだ娘。
そして土地には、古い物置と、生垣と、十年分の暮らしがある。
そう思えば。
取得時効は、もう数字だけの問題ではありません。
「よし」
私はノートを閉じました。
「覚えました」
真壁さんが笑います。
「本当か?」
「はい」
「じゃあ十年後に聞く」
「忘れてたら?」
「二十年後」
「時効期間で復習させないでください」
所長が新聞を広げました。
「明日になったら忘れてるだろ」
「所長まで!」
夕方の事務所に笑い声が響きました。
窓際には、まだ青い柿。
熟すには、少し時間が必要です。
でも、時間というものは不思議です。
ただ過ぎるだけではない。
人の暮らしを積み重ね、
事実を固め、
そして時には――
権利まで変えてしまう。
私はノートの表紙に、最後に小さく書き足しました。
取得時効。
時間を数える前に、
まず、占有を見る。
これだけは、忘れないようにしよう。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




